みちのくの山野草

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賢治と一緒に暮らした男(29)

2011-09-21 08:00:00 | 賢治渉猟
 本日は宮澤賢治の命日だ。この日は例年下根子桜では『賢治祭』が行われているという。しかし、花巻に住むようになってから20年近くなるが一度も見に行ったことはない。忌日に行われる〝祭〟というのにはどうも躊躇いがある。
 さて本論に戻ろう。
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 〝28.『松田甚次郎日記』より〟のつづきである。
(2) 二つ目の懸案事項
 さてこのときの新庄行の最大の目的は次のような懸案事項を解決することであった。それはいままでずっと解明できずにいた、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日にちを解明することであった。もっと正確にいうと松田甚次郎が盛岡高等農林入学後、甚次郎が下根子桜に初めて賢治を訪ねたのはいつで、その後いつ何回ほどそこを訪ねていたのかを知ることが最大の目的であった。
). 日記に書かれていた賢治を訪ねた日にち
 そこで、『新庄ふるさと歴史センター』で見せてもらった大正15年及び昭和2年の「松田甚次郎の日誌」を、前者については3月末から、後者については8月末までしらみつぶしに調べてみた。それも単に日記だけでなくてその日誌に付いていた現金出納帳も目を皿にして付き合わせてみた上で分かったことは
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたと記してあった日にちは昭和2年3月8日と同年8月8日の両日だけであった。
ということであった。これで二つ目の懸案事項が、長年の懸案事項があっけなく解決できつつあった。
). 昭和2年3月8日の日記
 昭和2年3月8日、つまり初めて賢治の許を訪れた日の日記には
 忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ
 reading
 9.for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
 1.戯、其他農村芸術ニツキ、
 2.生活 其他 処世上
  unpple
 2.30.for morioka 運送店
 stobu 定盛先生行
 nignt 斎藤君

 今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の
 誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ.
 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
 吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ盡力スル
 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
 おヽお郷里の方々!地学会、農藝会
 此の中心ニ吾々のなすヲ見よ.
 現代の農村生活ヲ活カスノダ

 晴 関西大地震 花巻行

と記されていた。
). 昭和2年8月8日の日記
 2度目で、それが最後の訪問になった昭和2年8月8日の日記は
  …
 農村青年ノ今後 彼モ力ナル
 ベキヲ与フレバマタ現在モ?大シ
 メルノミナレバトテカヤ
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ!

 花巻宮沢先生へ  歸宅

というものであった。
). 甚次郎が賢治を訪ねた日の確定
 いよいよ結論へと進もう。『松田甚次郎日記』に書かれている訪問日とは、まさしくそのように行動したという日のことであろうから、次のように言える。
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない。
 また、
 松田甚次郎が盛岡高等農林の学生時代に下根子桜に賢治を訪ねたのはたった1回だけであった。
と結論して間違いなかろう。なんとこれで二つ目の懸案事項が解決できてしまった。
 なお、松田甚次郎自身は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)の「宮澤先生と私」の中で
 初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである。
とか、『土に叫ぶ』ので出しで
 その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
とか、かなりの回数そこを訪問しているような書き方をいるが、それはおそらく彼の思い違いか、あるいは思わず筆が滑ったかのどちらかであろう。
). 〝1回だけ〟の持つ意味
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日にちが確定した。それも望ましい形での確定だったから私はその幸運に感謝し安堵した。それはこの事実そのものが分かったこともあるが、それ以上にこの回数が〝1回だけ〟であったことにであった。そして、この〝1回だけ〟であったことは二つの意味で私を驚かせる。
 その一つの意味はもちろん、この〝1回だけ〟が松田甚次郎のその後の人生を決めたからである。初めて会った賢治に如何に松田甚次郎は信服し、魅惑され、一方賢治は松田甚次郎を心酔させたかということであろう。そういえばこの時期賢治は頗る精神が高揚していた時期であったはず<*1>だから、おそらく松田甚次郎は賢治に圧倒され、カリスマ性を感じたに違いない。ただしこちらの意味の方は今回の新庄行においては私にとってそれほど重要なことではなく、もう一つの〝1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだが、そのことについては後ほど述べたい。
<註:*1> この直前次のようなことがあった、あるいはあったと思われることから推測する。
・昭和2年3月4日に下根子桜で集まりを開き交換会や競売等も行っていた。
・昭和2年3月4日〝地人學会〟創立の協議がなされて発足、少なくとも当日6名の加入があった。
・一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕一九二七、三、四、を詠む。
).エピローグ
 とまれこの2度目の新庄行の最大の目的、〝いつ何回ほど松田甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねていたかということを探る〟という目的は達成できた。また、そのことにより千葉恭の下根子桜寄寓期間に関しても大きな情報を得ることができた。再び新庄まで来た甲斐があったし、それも『新庄ふるさと歴史センター』及びセンター長さんのお蔭であると感謝しながら新幹線にとび乗った。

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