みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

法華経信仰及び高山樗牛

2018-02-09 10:00:00 | 法華経と賢治
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 さて理崎氏によれば、賢治の法華経信仰については、緒論に混乱が見られるという。法華経信仰といっても、
 法華経の何をどのように信仰するのか。どんな実践をするのか。こうした立場を明確にしないと誤解が生じる。
             〈45p〉
というのだ。そして、法華経信仰といっても次のような四つの立場、
一、法華経だけを読む。
二、天台大師の法華経理解。
三、様々な経典と並列的に法華経を読む。
四、日蓮の法華経理解。
             〈45p〉
があるのだという。そして同氏はこれらの立場をそれぞれ解説しているのだが、それは割愛させていただいて、しばしば関連して出てくる高山樗牛の事が次に出てきていたのでそれを紹介したい。
 明治期に青年に圧倒的に支持された文豪・高山樗牛は、当初は日蓮が嫌いで姉崎正治と一緒に悪口を言っていた。姉崎は井上哲次郎の弟子で、樗牛の親友であった。樗牛は智学の『宗門の維新』を読んで感動、智学の指導の下に日蓮研究を始め、様々な雑誌で日蓮を顕彰するようになる。…(投稿者略)…姉崎は樗牛死後、宗教学者ではあるが樗牛の志を継いで法華信仰に入った。
             〈50p〉
 そうか、智学は高山樗牛<*1>にさえもこれ程の影響を与え、また樗牛は姉崎にこれ程の影響を与えたのか。ということは、延いては彼等にとって法華経とはこれほどまでにかけがえのないものだったのだ。

 ただし、先にも述べたように、この章「二、大等と法華経」についての私の理解は浅いものであり、よくわからなかったままにひとまずこの章は終え、次回からは次の章に入りたい。

<*1:註> 『広辞苑』によれば、
 文芸評論家。名は林二郎。山形県鶴岡の人。東大卒。雑誌「帝国文学」の創刊。後に「太陽」を主宰。初め日本主義、次にニーチェ主義に、最後に日蓮主義を唱え、文章は華麗明快。著「滝口入道」「菅公伝」「釈迦」「わが袖の記」等。(1871~1902)
とある。ということは、高山は31歳で夭折したということになるのか。賢治より6歳も若くして亡くなっていたのだ。しかも、高山も賢治と同様に肺結核に罹っていたという。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。


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