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3846 改めて名須川溢男の聞き書きより 

2014-04-13 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 さて、ここまでの考察によって、現段階では
 「賢治と労農党」に関連する名須川の一連の論文の中身は相当程度信頼に足るものであろう。………⑤
と結論してもよさそうだということを知った。

名須川の論文から言えること
 そこで、那須川の論文から改めて「賢治と労農党」に関する聞き書きを抽出して以下に列挙してみると、
◇ 川村尚三談
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『おれがかりてくれる』と言って宮沢町の長屋-三間に一間半ぐらい-をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
◇ 高橋慶吾談
 (労農党の支部事務所について)もっと便利な広い活動のしやすいところを賢治にたのんだ、家賃などもだしてくれた。そして宮古(ママ)(賢治の本家)の長屋をかりることになった。
              <『國文學』昭和50年4月号(學燈社)124p~より>
◇ 照井克二談
 (労農党の支部事務所について)賢治さんは……中心になってくれた人だった……おもてにでないで私たちを精神的、経済的にはげましてくれた。
              <『國文學』昭和50年4月号(學燈社)124p~より>
◇ 煤孫利吉談
 第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗貫(ママ)支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしょうふ(のり)を入れてハケを持って「泉国三郎」と新聞紙に大書したビラを街にはりに歩いたものだった。事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。賢治はあの頃はなにかとめんどうをみてくれたようだった、ただ決しておもてにはでない人だったから知られていなかったし、もしそんなことが世間に知られたら大変なことになっただろう。私は賢治は社会主義か共産主義の考えをもっていたのではないかと思っていた、よく太田(花巻市太田)あたりに行ってはそのようなことを言ったそうだ。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)221p~より>
◇ 小館長右衛門談
 私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。
             <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265pより>
◇ 伊藤秀治談
 労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。
             <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265pより>
となる。

那須川の聞き書きから言えること
 なお一方で、吉見正信氏は
 一九二七年には、賢治の町花巻にも、労農党稗貫(ママ)支部が結成された。賢治はしばしばその支部のメンバーと接し、彼らへの支援を惜しまなかったが、昭和三年二月の第一回普通選挙を闘う、労農党稗貫支部に対して絶大な支援を行っている。それは、謄写版一式を贈り、親類筋の長屋を党の支部事務所として借りてやり、その家賃五ヶ月分にあたる二五円也をカンパしているのである(元・労農党支部書記長煤孫利吉談)。
              <『宮沢賢治と道程』(吉見正信著、八重岳書房)249pより>
というように、「その家賃五ヶ月分にあたる二五円也をカンパ」と具体的に記述しているし、小倉豊文は
 それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯を見せるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に―。
             <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)45p~より>
と、賢治が労農党へのシンパ的行動をしていたことを父政次郎自身も証言していたことを書き残している。
 したがって、これらのことも考え合わせながら改めて前掲の那須川の聞き書き、つまり当時労農党に関係していた人たちの証言を概観してみると、とりわけ“⑤”は相当程度の蓋然性のあるということを知った今の私からすれば、次のようなことは歴史的事実であったと言える。
 ・昭和2年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら、賢治は宮沢町の長屋を借りてくれたし、その事務所の保証人にもなった。
 ・賢治は八重樫賢師を通して毎月事務所の経費を出したし、羅須地人協会にあった机や椅子もそこに貸した。
 ・賢治は労農党のシンパだった。演説会などでは激励のカンパをした。労農党稗和支部に謄写版一式も贈った。
 ・賢治は決して表には出ない人だったし、そんなことが世間に知られたら大変なことになっただろうということから以上のようなことが世に知られていないだけだ。
 それ故に、
 宮澤賢治は少なくとも昭和2年の春頃~昭和3年2月頃までの間、労農党稗和支部の最大の支持者であり、実質的な活動家の一人であった。ただし、当時そのようなことが世間に知られることは大変なことだったので、名須川が一連の論文を発表するまではそのことは公には知られていなかった。
ということだったのだということを私は確信した。

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