みちのくの山野草

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2985 高瀬露は『大人だった』

2012-11-03 08:00:00 | 賢治渉猟
荒木 それで、露と同僚だった佐藤さんからお訊きできたことで一番印象的だったことはどんなことだった。
鈴木 それはさ、
 私と妻は晩年の露さんと同じ学校に勤めたことがあります。その頃は養護教諭となっていた露さんは、他人の悪口を言わない教師として同僚から一目置かれていました。
とか、上田哲の例の論文〝「宮沢賢治伝」の再検証(二)〟を見ながら、
 このお二方、菊池映一さんも工藤正一さんもよく知っております。露さんはこのように菊池さん<*1>や工藤さん<*2>が証言するような人でした。
ということもなども教えて下さった。また、
 露さんの夫小笠原牧夫氏は当時鍋倉神社の神職だったので、クリスチャンであった露さんは信仰上の悩みもあったと思いますが、露さんのお義母さんは『とてもよい嫁が来てくれた』と言って、露さんのことを大事にしてくれたとのことです。勤めに行く露さんを三つ指ついて送り出したということですよ。
ということも。
吉田 そう言えば、露の夫牧夫は昭和20年に比較的若くして亡くなったはずだから、露はその後小笠原家の家計を女手一人で健気に支えたということかも知れないな。
荒木 そうか、家人からの評判も高かったんだ。
鈴木 だが私にとって一番印象的だったことは、高瀬露はどの様な人だったですかと私が佐藤氏に訊ねたならば、佐藤氏はおもむろに
  『大人でしたね』
としみじみ仰ったことなんだ。
荒木 うむ、どういうことだ?
鈴木 私はこの一言『大人でしたね』で、ある図式が殆ど見えてしまった気がしたのさ。
荒木 なんか、奥歯に物が挟まった物言いだな。
吉田 たしかにな。僕に言わせりゃ、『事実でないことが語り継がれている』と言っただけで他には何ら恨みがましいことを一切言わずに、その上に尊称を用いて賢治のことを短歌に詠んだりしている露はまさしく大人だ。その露の身の処し方は見事と言っていい。それに比べて、押入の中に隠れたりとか、顔に墨を塗って会ったりしたとかということを本当に賢治がしたということであれば、その行為はあまりにも稚気じみている。三十にもなった男がすることじゃない。その二人の間に存在した差の大きさを思い知らされたということだろう。
鈴木 流石にそこまでは言えないけどね。ただ、私は佐藤氏にお会いできてますます確信したね、露は巷間言われているような「悪女」では決してないということを。さらには、「悪女」どころかどちらかというと「聖女」に近かったのではないかとさえ思うようになってきた、少なくとも晩年の露は。
吉田 ところで先ほどからお前妙にニタニタし過ぎだぞ。
と言って吉田は荒木の顔をまじまじと見た。
荒木 実は、俺にも嬉しいことがあったんだよ。
鈴木 何だよ、一体何があったんだ。

<*1註:菊池映一氏の証言より抜粋>
 彼女はわたしだけでなく多くの人々に温かい手を差し伸べていることがいつとはなしに判り感動した。わたしも彼女に大分遅れてカトリック信者になったが、昔の信者の中には、露さんのような信者をよく見かけたが、いまの教会にはいない。露さんは、「右手の為す所左の手之を知るべからず」というキリストの言葉を心に深く体しているような地味で控え目な人だった。また、世話づきで優しい人で見舞の時枕頭台やベットの廻りの片付けなどしてくれた。それとともに誇り高く自分を律するのに厳しい人で、不正やいい加減が大嫌いだが、他人の悪口や批判を決して口にしなかった。
                <『七尾論叢11号』(七尾短期大学)80p~81pより>
<*2註:工藤正一氏の証言より抜粋>
 小笠原先生は、当時養護教諭として勤務しており、児童の健康管理と保健の授業をしていました。仕事ぶりは真面目で熱心な方でした。よく気のつく世話好きな人だったので児童からもしたわれていました。それから人ざわりの良い、物腰の丁寧な人で、意見が違っても逆らわない方だったので同僚や上司、父兄、周囲の人々に好感をもたれていました。
                <『七尾論叢11号』(七尾短期大学)80pより>

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