みちのくの山野草

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3043 『湯口郷土誌』

2012-12-22 08:00:00 | 花巻周辺
 花巻湯口の鍋倉堰田出身のある人物のことを知りたくて歩き回っていたならば、その人のことはわからなかったが『湯口郷土誌』というものを見ることができた。

 そこに興味ある写真があったので転載させてもらう。
【元寶閑小学校】

ただし、これは高瀬露が勤めた方の校舎(湯口村鍋倉字十地割七番)ではなさそうだ。昭和16年に建てられた校舎・校庭等(湯口村大字鍋倉第十地割字地神)の鳥瞰写真だろう。
【元鶯沢鉱山】

 この鉱山に関しては以前〝「経埋ムベキ山」大森山(追記)〟で少しだけ報告したことがあるが、そこでも投稿したとおり
  鶯沢鉱山沿革の概要
 一、場所花巻市豊沢北向国有林内
 一、明治十九年六月鉛の住人藤井善吉路頭を発見(硫黄)
 一、大正五年三月東京港区当主先代小田良治代鉱業権者となる
   花巻駅西鉛間二十四粁を軌道施設
   西鉛鉱山間六粁索道を加設運輸
   元山分教場、駐在所を設置従業員 一、五〇〇名
   大正五年生産  七、五〇〇トン
   同六年〃〃〃  八、八〇〇トン
   同七年〃〃〃 一〇、六〇〇トン
 一、大正八年五月欧州大戦の余波により休山
 一、昭和十三年第二期計画着手
 一、昭和三十七年三月硫黄の自由化貿易のため採算相整わぬため閉山
  当時従業員六十六名

ということである。
 そして、ここで掘られた硫黄は
【鉛線電車】

            <いずれも『湯口郷土誌』(湯口郷土誌編集委員会)より>
で運ばれたのだろう。
 因みに、賢治は”文語詩稿 一百篇”「硫黄」の中で
   青き朝日にふかぶかと、  小馬うなだれ汗すれば、
   硫黄は歪み鳴りながら、  か黒き貨車に移さるゝ。

             <『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)113pより>
と詠んでいる。多分この時賢治は、鶯沢鉱山から西鉛温泉駅までは馬で運ばれてきた精製硫黄が同駅で電車に移しかえられる様を見ながらかくの如く詠んだのであろう。

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