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中舘武左衛門宛書簡下書〔422a〕

2014-02-21 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
〔422a〕中舘武左衛門宛書簡下書
鈴木 その中舘宛書簡下書とはこのような中身で、
422a
六月二十二日 中舘武左衛門あて 下書

   六月廿二日
  中舘武左衛門様                          宮沢賢治拝
     風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亙りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
 次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て一昨年より昨年は漸く恢復、一肥料工場の嘱託として病後を働き居り候処昨秋再び病み今春癒え尚加養中に御座候。小生の病悩は肉体的に遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる為との事尤も存じ候。然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候。
 尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。    敬具
              <『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)525p~より>
というものだ。
吉田 最初は『御親切なる御手紙を賜り』と慇懃に始まったと思いきや、最後はなんと吃驚『呵々。妄言多謝』ということで、さぞかし賢治は中舘をこっぴどく嘲ってみたかったのだろう。おそらく、中舘からの来簡に対して賢治は腸が煮えくりかえっていたに違いない。
荒木 それはちょっと吉田の言い過ぎじゃないべが。もしかすると下書だからそこまで書いたのであって、実際に出した書簡ではそこまでは書いていなかったかもしれないし…。
鈴木 ちなみに、『宮沢賢治の手紙』の著者米田利昭氏のこの「書簡下書」についての見方は、
   まじめに対応し、真実を吐露した手紙である。
とか、
   こんな相手にではあってもわるびれずに真実を告げている。
というもので…
荒木 「まじめに云々、真実云々…」か。いや、それはそれでまたちょっと良心的過ぎる見方じゃないべが。
吉田 他人の見方などより鈴木、お前はどうなんだ。
鈴木 ……さすがに賢治もそこまでは激昂してはいなかったと思うが。とはいえ、同窓の5年もの先輩に対して『この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝』と言うのもな…。たしかにこの時の賢治はただならぬ状態にあったと思う。
荒木 いや、俺はこの頃認識が変わってきた。賢治だって人の子、たまには自分を見失って激昂することだってあろうと思えるようになってきた。それこそまさに、《創られた賢治から愛すべき賢治に》だべ。
 ところで、その「賢治の世相を見る目」の「世相」とはどんな世相だと米田さんは見てるんだ?
鈴木 それについては、米田氏は
 戦争が始まると、戦死者が何を考えているか知りたいという民衆の願望から、戦死者の霊を呼び寄せるいたこの類が各地にどっと現われ、流行した
という世相と見てる。併せて、
 (賢治は、中舘武左衛門のものも)そのような口よせ、狐つきの類にまぎれては不本意だろうと賢治は風刺した。
              <以上いずれも『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)271p~より>
とも言っている。
中舘武左衛門と賢治の人間関係
荒木 なるほどな。俺は戦争経験はないからあまりよくわからないが、「いたこ」という女性が居たという話や「口よせ」という言葉だけは聞いたことがある。「いたこ」や「口よせ」にはそんな役割もあったんだ。
 それはさておき、この「書簡下書」中の『次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て』という文言からは、昭和3年の夏8月に実家にて病臥する前の年、すなわち昭和2年に『御目にかゝりし』ということになるから、この時二人は相見えているということとなり、これが例の昭和2年1月7日の年賀の挨拶のことを言っていることになるのかな。
 いずれ、さっき鈴木も言っていたように、昭和2年の正月松の内に下根子桜の賢治の許に訪ねて来るような中舘だったのだから、昭和2年当時二人の関係は良好だった。
吉田 ところが先に、書簡〔241a〕の日付は昭和3年7月30日である蓋然性が極めて高いと判断できたから、この皮肉たっぷりの手紙を賢治は同年7月末に実際中舘に出していることにほぼなり、もはや昭和3年の夏には既に二人の関係は悪化していたということになりそうだ。
荒木 もしそうだとすれば、それこそ、『気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ』た昭和3年8月10日の約10日前の賢治は、『ご昇天は何時でもおできでせうから』と盛岡中学の5年先輩を当て擦っていたことになる。ちょっと信じられない。となればこれは昭和3年のものではなくて昭和8年のものだったのかな。
鈴木 いやいやそれもまた好ましいものではないぞ。もしそれが昭和8年のもとなれば、今度は
   昭和2年1月7日  中舘武左衛門下根子桜へ年賀挨拶 
   昭和7年6月22日 中舘宛書簡下書〔422a〕
   昭和8年7月30日 中舘宛書簡〔241a〕
   昭和8年9月21日 宮澤賢治逝去
という流れになり、昭和7年6月22日付書簡下書からは二人の人間関係がかなり悪い状態にあることが判るのに、そのような状態にありながら二人はその後も手紙のやりとりをしていたであろうことになる。そうすると、賢治には中舘に関しての好ましくない精神衛生状態が長期間、それも賢治の死の間際までも続いていたと考えられることになるのだから。
荒木 そうだなそれもまた賢治らしいことではないから困る。それならばやっぱり昭和3年の方がまだましか…。いずれ、どちらにしても俺にとってはしんどいな。
 今まで、賢治は紳士そのものとばかり俺は思ってきたが、『呵々。妄言多謝』だもんな…。
吉田 何も困ることはないだろう。さっきいみじくも荒木は言ったじゃないか、《創られた賢治から愛すべき賢治に》だ、って。
荒木 そうそうそうだった。実は、なんだかんだ言ってもかつての賢治のイメージから俺はいまだに抜け出せないでいるということか。
鈴木 それは無理もない。なんだかんだ言っても、私にも「聖人君子」の宮澤賢治がいつもついて回っている。

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