《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
さて、理崎氏は今度は賢治と歎異抄のことなどについて論じていた。
賢治は中学四年の修学旅行時「小生は淋しさに堪へ兼ね申し候。無意識に小生の口に称名起こり申し候……小生すでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と記している。さらに、八分まではこれを会得した、念仏を唱えていると仏が守ってくれているので岩手山に一人で登ってもこわくないのだ、とも述懐している。
〈36p〉流石は賢治と私は思った。この頃賢治は17才ぐらいだろうか、その歳で「すでに道を得」「八分まではこれを会得した」と言っていたというからである。
さらに、賢治の宗教的飛翔などについて理崎氏は論じていて、
この後、賢治は真宗からの飛翔を図っていく。後年、賢治は『農民芸術概論』に於いて、「宗教は疲れて科学によって置換され、然も科学は冷たく暗い」と記している。宗教が疲れた例として…(投稿者略)…などの語とともに「真宗」という記述が見える。
〈38p〉ということである。私個人とすれば、「宗教」と「科学」は同列に語れないとは思うのだが、時代性に鑑みれば、「宗教は疲れて科学によって置換され、然も科学は冷たく暗い」と当時賢治が感じたのも、分からないわけではないような気がした。
そしてここで思い出されたのが、〝BSプレミアム“英雄たちの選択”「本当の幸いを探して 教師・宮沢賢治 希望の教室」〟における赤坂憲雄氏の、
という発言だ。この発言を聴いた時に私は「あれっ、賢治は科学にそれほど信頼を置いていたんだっけ?」と違和感を感じたのだが、それは理崎氏がここで挙げていた「科学は冷たく暗い」<*1>が私の頭の隅にあったからだったに違いないと今になって気付いた。
いずれ、賢治は次第に真宗から離れていき、次第に法華宗に近づいていったということになるのだろう。その理由が現時点では私にはしかとはわからぬが、その大きな理由の一つとして、熱心な浄土真宗信者であった父に対する心情的な反発が、そして青年期特有の反抗心が強くあったことは否めないだろう。
<*1:註>
農民芸術の興隆
……何故われらの芸術がいま起こらねばならないか……
〈『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)10p〉……何故われらの芸術がいま起こらねばならないか……
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
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・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
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