みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第一章 「絶版回収事件」と「252c等の公開」 (テキスト形式)

2024-04-05 16:00:00 | 「賢治年譜」等に異議あり
『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(テキスト形式タイプ)

第一章 「絶版回収事件」と「252c等の公開」
一 はじめに
 なぜだったのだろうか、筑摩書房(以後、筑摩と略称)ともあろう出版社がこのようなことを昭和52年にしてしまったのは。文学全集や個人全集等を出版し続け、良心的で硬派の出版社だと思っていた筑摩が、「賢治の書簡下書252c」のことを「新発見」と称して、プライバシー侵害の虞もある関連下書群を公けにしたのは。しかも、これらの下書群を確と検証することもなしに推定し、さらにそれを基にして推定を繰り返した、人権侵害等の虞もある推定群を公開(以下、この関連下書群の公開のことを「252c等の公開」と略記)したのは。ここ十年ほど、私はこれらの原因や理由が分からず、ずっと悩み続けてきた。
 それがこのコロナ禍、倒産のニュースが流れることが多かったせいか、とある日、「あれっ、そういえば、あの頃筑摩も倒産したような気がする」というおぼろげな記憶が甦った。すかさず、もしかするとそれが一つの大きな原因だったのではなかろうかと直感し、一気に不安になった。

二 「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」
 早速、インターネット上で少しく調べてみたならば、どうやらそのようなことがあったらしいので、筑摩の社史であるという『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)を注文した。手元に届いた同書を、私は慌ただしく瞥見した。不安は的中した。

 一九七八(昭和五三)年に筑摩書房が「倒産」したとき((一))…筆者略…

とあり、やはりあの頃(昭和53年)筑摩はたしかに「倒産」していたからだ。そこで今度は落ち着いて同書を読み直してみた。すると、次のような、

 一九七〇年代の筑摩書房は、目先の現金ほしさに紙型新刊を乱発するなど、必ずしも「良心的出版社」とはいいがたい実態があったし((二))、

とか、

 倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました。なかでも許しがたいのは「紙型再版」です。つまり、同じコンテンツの使い回し。紙型=印刷するときの元版を再利用して、あたかも新しい本であるかのように見せかけ、読者に売りつけようとしました。新世紀に入ると、食品偽装事件があちこちで発覚しましたが、紙型再版も似たようなものです((三))。

という記述があったので私は愕然とした。
 それはもちろん、「「良心的出版社」とはいいがたい実態があった」とか、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」などということを、自社の社史に直截的に書いていたからだ。ただし次に、これらの断定的記述は筑摩ならではの厳しい自戒の念と矜持が書かしめたのだろうということも想像できたので、心はやや落ち着いた。とはいえ、この記述内容は事実であり、これ程までだったのかと、ますます不安も募ってしまった。なお、出版社の内情を知らない私には、「紙型新刊を乱発」とか「紙型再版」とかが「腐りきっていた」ことの事例であるということまでは理解できず、戸惑う点もあった。

三 「初めての絶版回収事件」
 さらに同書には、「初めての絶版回収事件」という項もあった。これはとんでもないことだと直ぐ分かった。表現の自由が尊重される今の時代、「絶版回収」ということは滅多にないはずだからである。そして、これが「腐りきって」いた事例なのかなと直感した。それは、この事件が昭和52年に、まさにその「倒産直前」に起こっていたというからでもある。ちなみに、同項には次のようなことが述べられていた。

 一九七七(昭和五二)年、筑摩書房にとって初めての絶版回収事件が起きる。臼井吉見の長編小説『事故のてんまつ』である。この小説は『展望』の一九七七年五月号(四月刊)に掲載され、五月末に単行本として刊行された。
 作品は、川端康成の自殺を題材にしたモデル小説である。川端康成は一九六八(昭和四三)年に日本人初のノーベル文学賞を受賞したが、七二(昭和四七)年に自殺した。…筆者略…『事故のてんまつ』では、その動機についての臼井の考察が展開されている。
 しかし、小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ、東京地方裁判所に出版差し止めの仮処分申請が出された。筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた。取次や書店に残っている本は回収し、在庫は廃棄処分とした。これを受けて遺族側は申請を取り下げた。
 この件には、ふたつの問題点があった。ひとつは、故人のプライバシー権に関する問題であり、出版差し止め要求で全面に出たのはこれだった。もうひとつは、部落差別に関わる問題だった((四))。

 さて、昭和52年に「絶版回収」されたのであれば、それから40年以上も経ってしまった今、『事故のてんまつ』の入手は困難かとなと思った。実際、それが載った『展望』の昭和52年5月号は入手できなかった。ところが、単行本の方は容易に入手できた。そして実際に同書を読んでみたならば、故人のプライバシー権や名誉毀損、そして差別問題に対する臼井の認識の不足が読み取れたので、これでは川端康成の遺族も憤りを感じたであろうことは私にも想像できた。しかしこの内容であれば、遺族から出版差し止めの仮処分申請が出されるということまでは……と多少違和感もあった。
 そこで、改めて同書を見直してみたならば、臼井はその「あとがき」の中で、

 本にするに当たっては、いたらなかった点に、朱筆を加えた。このことが、作品をいっそうひきしめることにもなると考えたからである((五))。

と述べていた。ということは、『展望』掲載版を単行本化する際に、臼井が大幅に書き変えた箇所があったに違いないと推測できた。
 そのことを確認したかったので関連図書等を探してみたならば、〝「事故のてんまつ」――『展望』五月号と単行本の異同一覧((六))〟という「疏明(そめい)資料」が見つかったので、「朱筆を加えた」箇所等が詳らかになった。ちなみに、それらは15項目ほどあり、これらが「いたらなかった点」であると臼井が認識していた事項ということになるのだろう。そしてそれらの中でも際立っていたのが、単行本においては完全削除されたという、『展望』5月号には載っていた野間宏と安岡章太郎の対談に関する次の部分である。

 野間 ……解放運動が水平社以来の中で、どういう成果を生んできたかというと、現在差別はなくなったと考える人が出るほど大きい成果を生んでいる。
 しかし、差別はきびしくあって、差別語さえ使わなければいいというところにとどまっている。だから、就職の差別も、いぜんとしてある。
…(以下の部分は、川端康成の名誉等に関わることも書かれているから、筆者略)…
 安岡 おかしいね。

対談のなりゆきから察すると、先生が部落とつながりがあるとしか思えない。どう読みかえしても、そうとしか、とりようがない。対談者の間に、暗黙のうち、その了解が通じているらしい話しぶりだ((七))。

 というのは、この「削除部分」の内容を読んだだけでも、臼井が故人となった川端の名誉を毀損し、差別を助長しているということが私にもほぼ分かったからだ。となれば、『展望』に掲載された改稿以前の『事故のてんまつ』を読んだ川端家の遺族が不快感を抱いたのはなおさらのことであったであろう。
 そして、単行本版『事故のてんまつ』を読んで気になっていたことの一つに「資料」もある。それは、同書の「あとがき」の中で、「川端さんの自殺のひきがねになったと思われる資料を入手した」とか「この資料を闇に葬り去るべきでない」と臼井が言うところの「資料」(傍点は筆者)のことである。実は、『事故のてんまつ』を読んでいて、同書に登場する「客観的な事実」の信憑性がどうも危ういのではなかろうかと私は危惧したのだが、それは臼井が言うところのこの「資料」のせいではなかろうかと感じたからだ。
 そしてこのことに関しては、『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)の中に、次のような長谷川泉の主張が載っていることを知った。

 (一)作品の素材と作品形成の過程
「事故のてんまつ」の素材となったのは「鹿沢縫子」の原話である。しかもこの原話は、川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏という伝達の経路を辿っている。臼井氏は「蔦屋」から取材したのであって、「当事者たる川端家の人間たちとモデルの女性」から直接取材したり、情報の提供を受けたものではない((八))。

 やはりそういうことだったのかと合点がいった。臼井が言う「資料」とは長谷川の言うこの「原話」のことかと、腑に落ちたからだ。よって、この「資料」とは、伝聞の伝聞そのまた伝聞(川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏というルートを辿っている)「鹿沢縫子」の原話にすぎないということが否定できず、そのせいで私は信憑性が危ういと感じたようだ。というわけで、臼井の言う「資料」は事実に基づいたものであるという保証はないし、検証されたものでもない。まして、一次資料でもない。そしてそのような「資料」を、

 「事故のてんまつ」が部落問題を安易に作品の肉づけに用いた軽率さは、井上靖氏や安岡章太郎氏らの警告にもかかわらず、しだいに社会問題化した。…筆者略…臼井氏が「資料」を五年間暖めた最大の理由がマスコミ界の「モデルさがし」を恐れるところにあったことが述べられているが、そこには差別問題に対する認識の浅薄さと配慮の不足が露呈されている((九))。

と、長谷川は指摘していて、私はそのことを肯わざるを得ない。
 しかも、この事件についての「総括見解」である〝「事故のてんまつ」をめぐっての報告と御挨拶〟が、『展望』(昭和52年10月号)に掲載され、その中で、

 たとえば作品にかかわる差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず、差別打破のための強く明確な場所に立っていたとは必ずしも申しがたい点がありましたことも、痛切な反省とともに、さらに認識を深めつつあるところであります((十))。

というように、「差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず」と、「株式会社 筑摩書房」の名で「痛切な反省」をしているから、なおさらにである。
 そして、先に引いたように、「小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ、……筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた」ということで、昭和52年8月16日に和解が成立したのだそうだ。ちなみに、その際の「和解条項」の中には、川端の遺族およびモデル側に「ご迷惑をお掛けしたことをお詫び致します」という臼井の謝罪もある。
 ただし、『筑摩書房 それからの四十年』によれば、

 この事件は新聞等でもセンセーショナルに報じられ、結果的に『事故のてんまつ』が三五万部のベストセラーとなったのは、なんとも皮肉なことというべきである。売上率はかぎりなく一〇〇%に近かった。
 これまで筑摩書房がもっていた売り上げ部数の記録は、正確な統計が残っているかぎりで、山崎朋子『サンダカン八番娼館』(一九七二年)の三〇万部だった( (十一))。

ということだから、実質的には「絶版回収」とは言い難い気がして、私からすればあまり後味はよくない。
 畢竟す(ひつきよう )るに、最初は、先に述べたように私は、「「初めての絶版回収事件」という項もあった。……「腐りきって」いた事例なのかなと直感した」のだが、それは直感ではなくて、どうやら、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきっていた」ことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった。

四 「新発見の書簡 252c」等の公開
 さて、奇しくもその同じ昭和52年に筑摩から出版されたものとして『校本宮澤賢治全集第十四巻』もある。
 一般的には、同巻のメインは「宮澤賢治年譜」であるはずだが、巻頭に「補遺」があるので私には唐突さが感じられ、以前から訝っていた。そしてこの度、その頃既に筑摩は経営が傾いてきていたということを知ってしまった私には、このような構成は、筑摩としてはこの「補遺」によって世間の注目を浴び、経営危機に陥っていた同社を建て直そうと考えたからだということが否定できないという見方が、脳裡をよぎった。それは特に、その「補遺」の中で、「新発見の((十二))書簡252c」とセンセーショナルに表現して、関連する賢治の書簡下書群を公にしたことからも窺えた。
 しかしながら、このことに関しては、同巻の「宮澤賢治年譜」担当者でもある堀尾青史が、

 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね( (十三))。

と語り、天沢退二郎も、

 高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである( (十四))。

と述べているから、どうも「新発見」とは言い難い。これでは、露が亡くなるのを待って公表した、ということをはしなくも吐露しているようにも見える。
 しかも同巻は、一般人である女性「高瀬露」の実名を顕わに用いて、「(252cは)内容的に高瀬あてであることが判然としている」と公に断定( (十五))した。その客観的な典拠も明示せずに、全く論理的でもなく、である。そのあげく、「推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか」と前置きして、「困難」なはずのものにも拘わらず、

⑴、高瀬より来信(高瀬が法華を信仰していること、賢治に会いたいこと、を伝える)         
⑵、本書簡(252a)(法華信仰の貫徹を望むとともに、病気で会えないといい、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。」として、愛を断念するようほのめかす。ただし、「すっかり治って物もはき〳〵云へるやうになりましたらお目にかゝります。」とも書く)
⑶、高瀬より来信(南部という人の紹介で、高瀬に結婚の話がもちあがっていること、高瀬としてはその相手は必ずしも望ましくないことを述べ、暗に賢治に対する想いが断ちきれないこと、望まぬ相手と結婚するよりは独身でいたいことをも告げる)

というように想像力豊かに推定し、スキャンダラスな表現も用いながら、以下、延々と推定を繰り返した推定群⑴~⑺を同巻で公にした( (十六))。
 そしてこの時期を境にして、それまでは一部にしか知られていなかった、賢治にまつわる〈悪女伝説〉が〈高瀬露悪女伝説〉に変身して、一気に全国に流布してしまったと言える。よって時系列的には、筑摩がそれを全国に流布させてしまったと世間から言われかねない。
 一方で、私はあることに気付く。それは『事故のてんまつ』の出版と〝「新発見の252c」等の公開〟の二つは次の点で酷似していて、
㈠ 両者とも、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」という、まさに倒産直前の昭和52年になされたことである。
㈡ 両者とも、当事者である川端康成(昭和47年没)、高瀬露(昭和45年没)が亡くなってから、程なくしてなされたことである。
㈢ その基になったのは、ともに事実ではない。前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」である「鹿沢縫子」の原話であり、後者の場合は賢治の書簡下書(所詮手紙の反故であり、相手に届いた書簡そのものではない)を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した推定群⑴~⑺である。
㈣ ともに、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題がある。
㈤ ともに、スキャンダラスな書き方もなされている。
ので、この二つはほぼ同じ構図にあるということに気付く。
 ということは、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった、と先に述べたが、これと酷似した構図がこちらにもあったから、〝「新発見の252c」等の公開〟もまた、一つの「腐りきって」いた事例であったと私は判断せざるを得ない。
 
 ところで、この「新発見の252c」等の一連の書簡下書群に対して矢幡洋は、

 時折、高圧的な賢治が姿をみせる。…筆者略…と露骨な命令口調で言う。
 露宛の下書き書簡群から伝わってくるものは、背筋がひんやりしてくるような冷酷さである。ここにおける、一点張りの拒否と無配慮とは、賢治の手紙の大半の折り目正しさと比べると、かつての嘉内宛のみずからをさらけ出した書簡群と共に、異様さにおいて際立っている( (十七))。

と論じていることを私は知った。実は賢治には(ただしこの引用文中の「露」は高瀬露であるとは言い切れないので、あくまでも「ある女性に対して賢治には」、という意味でなのだが)、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということなどを矢幡は指摘していたのだった。そこで私は、このようなことを指摘している研究者を初めて知って、目を醒まさせられた。
 振り返ってみれば、かなり以前から、これらの書簡下書群に基づけば賢治にはそのような性向があることが導かれることに私は薄々気付いていた。だが、実はかなりのバイアスが私には掛かっていて、これらの書簡下書群に基づいて賢治に対してこのような厳しい言い方を公にすることは許されないのだ、という自己規制が強く働いていたことを覚った。そしてこのバイアスは、女性に対しては厳しく、男性(賢治)に対しては甘く解釈するという男女差別がなさしめるそれでもあるということにも気付かせてもらった。心理学の専門家である矢幡の、この書簡下書群についての冷静で客観的なこの考察に私は反論できなかった。
 のみならず、このような「冷酷さ」は、たしかにあの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあることを同時に覚れた。というのは、次のようなことが言えるからである。
 この〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、『雨ニモマケズ手帳』に書かれているので、実際文字に起こしてみると次のようになる。

  10・24◎
   聖女のさまして
       われにちかづき
            づけるもの
   たくらみ
   悪念すべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   純に弟子の礼とりて
   乞ひて弟子の礼とりて
           れる
   いま名の故に足をもて
   わが墓に
   われに土をば送るとも
   あゝみそなはせ
   わがとり来しは
   わがとりこしやまひ
   やまひとつかれは
      死はさもあれや
   たゞひとすじの
       このみちなり
           なれや
 〈『校本宮澤賢治全集資料第五(復元版宮澤賢治手帳)』(筑摩書房)〉

 よって、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところからは賢治の葛藤や苛立ちが窺える。また、内容的にも然りである。その人を「乞ひて弟子」となったと見下ろしたり、「足をもて/われに土をば送るとも」というように被害妄想的なところもある。一方、自分のことは「たゞひとすじのみち」を歩んできたと高みに置いて、女性のことを当て擦っているところもあったりする。よって、この詩から浮き彫りになってくる賢治は、私の持っていた従来のイメージとは真逆である。まさに、佐藤勝治が「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」(『四次元44』(宮沢賢治友の会)10p~)と表現しているとおりだ。
 さらに、「あゝみそなはせ」とあることからは逆に、賢治はこの相手の女性のことを以前はかなり評価していたということも言えそうだが、そのような女性に対して「悪念」という言葉を賢治が使おうとしたことを知ると、賢治の従来のイメージからはさらに離れていく。
 まさに、矢幡が指摘しているような「冷酷」さがこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあることを私は覚れたのである。となれば、賢治のこの性向はもはや否定できない。
 言い方を変えれば、「252c等の公開」は、賢治に対しても取り返しの付かないことをしてしまったとも言える。というのは、有名人とは雖も、当然賢治にもプライバシー権等があるはずだ。にもかかわらず、その配慮も不十分なままに、同第十四巻が私的書簡下書群を安易に世間に晒してしまったことにより、賢治には従来のイメージを覆す、背筋がぞっとするような冷酷さもあったということを、結果的に世に知らしめてしまったと言えるからである。

五 とんでもない悪女であるという濡れ衣
 さて、『事故のてんまつ』の出版に関わる故人の名誉毀損と差別問題については出版差し止めの仮処分申請が出され、筑摩と遺族側との話し合いの結果、絶版回収ということで和解したし、筑摩は「総括見解」も公にして詫びた。
 一方、これと同じ構図にあった〝「新発見の252c」等の公開〟の方はどうであったかというと、その公開後、〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布してしまったと言える。のみならず、賢治に関して実績のある筑摩が活字にしてしまったからなおのことであろう、件の(くだん  )推定群⑴~⑺は独り歩きしてしまって「事実」となった。その結果、その「事実」に基づいて少なからぬ賢治研究家が、露をとんでもない悪女であるとした論考等を著している実態がある。不公平で極めて残念なことだ。
 ただし、件の(くだん  )「新発見の252c」とか、「判然としている」とかの客観的な典拠がいくら調べても見つからなかったことなどから逆に示唆されて、この〈露悪女伝説〉を検証してみる必要があると判断した。そしてその検証等の結果、露は賢治から感謝されることこそあれ、露が悪女であったことを裏付けるものは何もないことが分かったから、この〈悪女伝説〉は創られたものであるということを実証できた。そこで、露は悪女の濡れ衣を着せられたということがはっきりしたので、私たちは、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(森義真、上田哲、鈴木守共著、ツーワンライフ出版)においてそのことを公にした。
 なお、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルが高瀬露だから露は悪女だと主張する人も中にはいるが、その有力なモデルは他におり、それが露であることの蓋然性は限りなくゼロに近いということを始めとして、露が悪女であることの客観的な根拠は何一つないということを私は実証できたので、露は悪女とは言えないということを『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ社)』でも公にした。
 ところが、なぜ「新発見の252c」とし、はたまた、「判然としている」と断定できたのかというその客観的な典拠を筑摩は我々読者に相変わらず明示してくれない。したがって現段階では、〝「新発見の252c」等の公開〟は結果的に露に「とんでもない悪女である」という濡れ衣を着せてしまった、と私は言わざるを得ない。

六 おわりに
 一方でこの「252c等の公開」によって、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があった、ということも実は公開されてしまったと言える。しかもこのことは、今となっては覆水盆に返らずだ。だから私は、この上、「恩を仇で返す」ような賢治であってはほしくない。
 というのは、巷間、露はとんでもない悪女だとされ続けているわけだから、この実態が続けば、賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが露であったというのに、賢治は露に対して「恩を仇で返した」と歴史から裁かれかねないからだ。しかし、この悪女が濡れ衣であったならば、賢治は露に対して「恩を仇で返した」、と誹られることは避けられるし、しかもそれは濡れ衣であったということを私たちは実証できているから、賢治と露のために筑摩に問う。
 せめて、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定できたのかという、我々読者が納得できるそれらの典拠を情報開示していただけないか、と。願わくば、『事故のてんまつ』の場合と同様に、「252c等の公開」についても「総括見解」を公にしていただけないか、と。
 そしてそもそも、このような実態は理不尽なことかもしれないということに普通は気付くはずだから、それを看過してきたのは一出版社のみの責任ではなく、私たちにも少なからずある。だから今、「あなたたちも看過してきました。とりわけこれは他ならぬ重大な人権問題です。研究者としての矜持は一体どこへ行ったのですか」、と賢治から厳しく問われているのかもしれない。

〈注〉
(一)『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)八五頁   ~
(二)   同 一四六頁
(三)   同 三四八頁~
(四)   同 一〇九頁~
(五)『事故のてんまつ』(臼井吉見著、筑摩書房)二〇四頁
(六)『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)一   〇七頁~
(七)   同 一一〇頁~ 
(八)   同 十一頁
(九)   同 十七頁
(十)『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)一一四   頁~
(十一)  同 一一七頁
(十二)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)二八頁
(十三)『國文學 第23巻2号 2月号』(學燈社、昭和53年)一七七頁
(十四)『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)四一五頁
(十五)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)三十四頁
(十六)  同 二八頁~
(十七)『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)一五四頁~

 なお、この〝第一章 「絶版回収事件」と「252c等の公開」〟は、二〇二一年の第74回岩手芸術祭『県民文芸作品集』の文芸評論部門に応募した作品、〝賢治と露のために問う―「絶版回収事件」と「252c等の公開」―〟を基にして、多少加筆したものである。

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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