みちのくの山野草

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1633 加藤完治と戦争責任(その1)

2010-08-13 08:00:02 | Weblog
  《↑1 加藤完治(『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より)》

 高村光太郎が太田村山口の山小屋で7年間に亘って己をいわば「流謫の刑」に処していたのに対して、己の戦争責任の取り方に関してその対極にいた(上 笙一郎の表現を借りれば「己の戦争責任に平然としていた」)と思われる人物の一人に加藤完治がいる。

 昭和2年、あの松田甚次郎は盛岡から新庄鳥越に戻り、賢治の「訓え」にしたがって小作人となり、「鳥越倶楽部」を発足させて農村劇『水涸れ』を上演したのだったが、その翌年の昭和3年、甚次郎はその活動を休止して茨城県友部の日本国民高等学校に入学しそこで1年間を過ごしたという。そこの校長が加藤完治である。そしてそこでの1年間は甚次郎のその後の実践に極めて大きな影響を与ている。
《2 日本国民高等学校》

   <『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より)>

 もちろん、この加藤完治とはあの満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の所長でもある。この訓練所で加藤の薫陶?を受け、加藤の訓辞で送り出された15歳~19歳の青少年は「第二の屯田兵」とか「昭和の白虎隊」と褒めそやされ、「片手に鍬、片手に銃」を合い言葉に満蒙で大地主になることを夢みて渡満したのだがその夢はあえなく破れ、彼の地で味わったのは言葉では言い表せないほどの辛酸であったようだ。
《3 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所》

   <『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より)>

 上 笙一郎は『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書)の中の「3 戦後の加藤完治」でおおよそ次のようなことを述べている。

 加藤によって満蒙に送り出された計86,530名の青少年義勇軍の内の約24,200名(約28%)が満州の荒野や収容所で悲惨極まる最期をとげ、幸い後に帰国できた約62,300名も言語に絶する辛酸を嘗めていたときに、彼らを<鍬の戦士>の美名のもとに送り出した加藤完治は一体どうしていたのであろうか。多くの青少年をそのような運命に追いこんだことについてどれほど深く反省し、いかにその責任を取ろうとしたか。

と。

 この加藤完治とは如何なる人物だったのだろうか。

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