《創られた賢治から愛すべき賢治に》
高瀬露関連を含む図書等一覧
鈴木 それに関してだが、高瀬露がらみのことが書かれている図書や文献等のうちで現時点で私が把握しているリストは以下のとおりだ。見落としもあると思うので気がつき次第追加訂正したいと思ってはいるが。
そう言って、私は次のような事が記載されている用紙「高瀬露関連を含む図書等一覧」を二人に手渡した。************************** <「高瀬露関連を含む図書等一覧」> *********************************
( 1) 高橋慶吾宛の高瀬露からの「端書」(昭和2年6月9日付)
( 2) 「ダリヤ品評会席上」(昭和2年8月16日)<「クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて」>
( 3) 賢治と露の間で書簡の遣り取り?(昭和4年)
( 4) 関登久也 昭和5年短歌日記』(昭和5年10月4日、6日)
( 5) 〔聖女のさましてちかづけるもの〕(昭和6年10月24日)
( 6) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」(昭和10年頃開催か)
( 7) 『イーハトーヴォ創刊號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和14年11月発行)<「賢治先生」>
( 8) 『イーハトーヴォ第四號』(昭和15年2月発行)<「賢治先生の靈に捧ぐ 露草」>
( 9) 『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)<「面影」「賢治の集ひ 小笠原露」>
(10) 『新女苑』(昭和16年8月号)<「宮澤賢治と女性」藤原嘉藤治>
(11) 『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)<「面影」「返禮」「女人」「宮澤賢治先生を語る會」>
(12) 『續宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和21年10月発行)<座談会「宮澤賢治先生を語る會」>
(13) 『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年3月発行))<「面影」「返禮」「女人」>
(14) 『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池、人文書房、昭和24年1月発行)<「昭和六年七月七日の日記」>
(15) 『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)<「書簡の反古」>
(16) 『宮沢賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社、昭和27年8月)<12 「聖女のさましてちかづけるもの」>
(17) 『四次元44』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)<佐藤勝治「賢治二題」>
(18) 『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)<「羅須地人協会時代(89p)」「風評(伊藤清)」>
(19) 『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月)<「女性」>
(20) 『宮沢賢治『手帳』解説』(小倉豊文著、生活文化社、昭和42年)<39頁、推定取り消し>
(21) 『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭和43年4月)<「4 高瀬露のこと等」>
高瀬露 昭和45年7月23日 帰天(68歳)
(22) 『賢治聞書』(菊池正編、昭和47年8月発行)<伊藤与蔵からの聞書>
(23) 『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)<「やさしい悪魔」>
(24) 『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月発行)<「)<「宮沢清六さんから聞いたこと」>
(25) 『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月発行)<「露宛て新発見書簡下書」「賢治年譜」>
(26) 『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年2月)<「賢治年譜の問題点」(「露の手紙」について)>
(27) 『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年3月)<「二人の女性」>
(28) 『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社、昭和53年12月発行)<手帳複製版解説では一応全面的に取消した>
(29) 『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社、昭和55年9月発行)<「宮沢賢治と木村四姉妹」(高橋文彦)>
(30) 『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年、48p)<父政次郎「白い歯を」など>
(31) 『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社、平成元年9月、197p)<中舘武左衛門宛書簡下書>
(32) 『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫、平成3年10月)<「女性」>
(33) 『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店、平成7年7月)<荻野こゆき証言>
(34) 『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵等共著、河出書房新社、平成8年3月発行)<「賢治をめぐる女性たち-高瀬露を中心に-」>
(35) 『七尾論叢 第11号』(吉田信一編集、七尾短期大学発行、平成8年12月発行)<「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」>
(36) 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房、平成13年12月発行)
(37) 『遠野物語研究 第7号』(遠野物語研究所、平成16年)<「宮沢賢治と遠野二」(佐藤誠輔)>
(38) 『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、平成18年、311p~)<「献身の病理」(「賢治研究2000年」)>
(39) 『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社、平成19年10月発行)<伊藤与蔵「賢治聞書」>
************************** <「高瀬露関連を含む図書等一覧」終わり> ********************************* ( 2) 「ダリヤ品評会席上」(昭和2年8月16日)<「クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて」>
( 3) 賢治と露の間で書簡の遣り取り?(昭和4年)
( 4) 関登久也 昭和5年短歌日記』(昭和5年10月4日、6日)
( 5) 〔聖女のさましてちかづけるもの〕(昭和6年10月24日)
( 6) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」(昭和10年頃開催か)
( 7) 『イーハトーヴォ創刊號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和14年11月発行)<「賢治先生」>
( 8) 『イーハトーヴォ第四號』(昭和15年2月発行)<「賢治先生の靈に捧ぐ 露草」>
( 9) 『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)<「面影」「賢治の集ひ 小笠原露」>
(10) 『新女苑』(昭和16年8月号)<「宮澤賢治と女性」藤原嘉藤治>
(11) 『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)<「面影」「返禮」「女人」「宮澤賢治先生を語る會」>
(12) 『續宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和21年10月発行)<座談会「宮澤賢治先生を語る會」>
(13) 『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年3月発行))<「面影」「返禮」「女人」>
(14) 『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池、人文書房、昭和24年1月発行)<「昭和六年七月七日の日記」>
(15) 『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)<「書簡の反古」>
(16) 『宮沢賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社、昭和27年8月)<12 「聖女のさましてちかづけるもの」>
(17) 『四次元44』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)<佐藤勝治「賢治二題」>
(18) 『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)<「羅須地人協会時代(89p)」「風評(伊藤清)」>
(19) 『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月)<「女性」>
(20) 『宮沢賢治『手帳』解説』(小倉豊文著、生活文化社、昭和42年)<39頁、推定取り消し>
(21) 『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭和43年4月)<「4 高瀬露のこと等」>
高瀬露 昭和45年7月23日 帰天(68歳)
(22) 『賢治聞書』(菊池正編、昭和47年8月発行)<伊藤与蔵からの聞書>
(23) 『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)<「やさしい悪魔」>
(24) 『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月発行)<「)<「宮沢清六さんから聞いたこと」>
(25) 『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月発行)<「露宛て新発見書簡下書」「賢治年譜」>
(26) 『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年2月)<「賢治年譜の問題点」(「露の手紙」について)>
(27) 『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年3月)<「二人の女性」>
(28) 『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社、昭和53年12月発行)<手帳複製版解説では一応全面的に取消した>
(29) 『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社、昭和55年9月発行)<「宮沢賢治と木村四姉妹」(高橋文彦)>
(30) 『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年、48p)<父政次郎「白い歯を」など>
(31) 『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社、平成元年9月、197p)<中舘武左衛門宛書簡下書>
(32) 『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫、平成3年10月)<「女性」>
(33) 『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店、平成7年7月)<荻野こゆき証言>
(34) 『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵等共著、河出書房新社、平成8年3月発行)<「賢治をめぐる女性たち-高瀬露を中心に-」>
(35) 『七尾論叢 第11号』(吉田信一編集、七尾短期大学発行、平成8年12月発行)<「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」>
(36) 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房、平成13年12月発行)
(37) 『遠野物語研究 第7号』(遠野物語研究所、平成16年)<「宮沢賢治と遠野二」(佐藤誠輔)>
(38) 『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、平成18年、311p~)<「献身の病理」(「賢治研究2000年」)>
(39) 『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社、平成19年10月発行)<伊藤与蔵「賢治聞書」>
検証に耐えている<仮説:高瀬露は聖女だった>
荒木 じゃじゃじゃ、結構あるもんだな。
鈴木 それで、今までに私たちが検討をしていなかったもので今すぐ検討を要するものは、
(2) (10) (22)
というところだろう。なおこの時代のものではないが、賢治が下根子桜から撤退した後において問題となるのが、次の
(3) (4) (5) (15) (16) (17) (19) (20) (21) (25) (27) (28) (29) (30) (31)
ということになろうが、これらにつては後程改めて皆でまた考察せねばならないと思う。
では(2)「ダリヤ品評会席上」についてだが、これは以前荒木がこんな詩もあるぞと言って教えてくれたやつだ。
荒木 あっ、そうそう。とかくK宛てのあの「端書」のせいで、昭和2年の6月頃から賢治は露を拒絶し始めたように言われているようだが、同年8月16日付けの詩「ダリヤ品評会席上」の中の連
まことにこの花に対する投票者を検しましても
真しなる労農党の委員諸氏
法科並びに宗教大学の学生諸君から
クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて
云はゞ一千九百二十年代の
新たに来るべき世界に対する
希望の象徴としてこの花を見たのであります
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)192p~より>
で、賢治は「クリスチャンT」という表現を用いて、「そのような露」を詠み込んでいたというやつな。
ちょっと俺には賢治の心理を計りかねるが、かといってこのことが<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例になり得ないことは明らか。問題なし。
鈴木 それでは次は(10)についてだが、元々は『新女苑』(昭和16年8月号)に所収されている「宮澤賢治と女性」からで、藤原嘉藤治は
とそこで証言している。
吉田 嘉藤治は『僕も仲にはいつたりして、手こずつたが、反面、宮澤賢治なる者、果たしてどこら辺迄、その好意を受け入れ、いかに誘惑と戦ふかを興味持つて傍観したりしてゐた』ということで、間に立って困ったことがあったとしても、やや冷やかし半分のところもあったことがこの回想からは窺える。そしてそもそも、あのMがあれだけ悪女扱いをしているのに、嘉藤治の場合はもっと身近にいてしかも親友なのだから、もしそれほどまでに悪女であったとしたならばM以上に彼女の行為に対して憤り、激しく強く詰るはずなのにそのような節はこの証言からは微塵も感じられない。したがって、この嘉藤治の証言は件の仮説の反例とはなり得ない。
鈴木 それでは(22)の、伊藤與蔵からの聞き書き『賢治聞書』からで、
というものもある。
荒木 これなどは逆に、この当時はまだまだ賢治と露の関係は良好であり、露が賢治の許に出入りしていたことは協会員の伊藤忠一も與蔵も知っていたということを教えてくれる。なおかつ、與蔵が「中止になりました」とも言っているということからは、その時期はあの新聞に載った昭和2年2月のことを指していると考えられるから、露が証言している下根子桜に出入りしていた期間「大正15年の夏~昭和2年の夏」を裏付けるものでもある。もちろん、この証言は<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例などにはなり得ない。
吉田 たぶん、賢治の下根子桜時代における関連証言はほぼ以上で尽きると僕も思うので、なあ鈴木、下根子桜時代における<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証結果をこれから荒木にまとめてもらおうじゃないか。
鈴木 そうだな、それはいい。少なくともここまでの検証作業によれば荒木の想いは叶えられていそうだから、やはり最後は荒木でしょう。
「奇矯な賢治」の結論鈴木 それで、今までに私たちが検討をしていなかったもので今すぐ検討を要するものは、
(2) (10) (22)
というところだろう。なおこの時代のものではないが、賢治が下根子桜から撤退した後において問題となるのが、次の
(3) (4) (5) (15) (16) (17) (19) (20) (21) (25) (27) (28) (29) (30) (31)
ということになろうが、これらにつては後程改めて皆でまた考察せねばならないと思う。
では(2)「ダリヤ品評会席上」についてだが、これは以前荒木がこんな詩もあるぞと言って教えてくれたやつだ。
荒木 あっ、そうそう。とかくK宛てのあの「端書」のせいで、昭和2年の6月頃から賢治は露を拒絶し始めたように言われているようだが、同年8月16日付けの詩「ダリヤ品評会席上」の中の連
まことにこの花に対する投票者を検しましても
真しなる労農党の委員諸氏
法科並びに宗教大学の学生諸君から
クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて
云はゞ一千九百二十年代の
新たに来るべき世界に対する
希望の象徴としてこの花を見たのであります
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)192p~より>
で、賢治は「クリスチャンT」という表現を用いて、「そのような露」を詠み込んでいたというやつな。
ちょっと俺には賢治の心理を計りかねるが、かといってこのことが<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例になり得ないことは明らか。問題なし。
鈴木 それでは次は(10)についてだが、元々は『新女苑』(昭和16年8月号)に所収されている「宮澤賢治と女性」からで、藤原嘉藤治は
大正十五年の春、農学校の教師を辞し、自炊生活をし乍ら農民指導をしてゐた頃である。彼のよき理解者、援助者になるつもりの自讃女性が飛び込んで来たことがある。これには宮澤賢治も「あゝ友だちよ、空の雲がたべきれないやうに、きみの好意もたべきれない」といつた風な工合で、ほとほと困つたことがある。僕も仲にはいつたりして、手こずつたが、反面、宮澤賢治なる者、果たしてどこら辺迄、その好意を受け入れ、いかに誘惑と戦ふかを興味持つて傍観したりしてゐたが、女の方でしびれを切らし、他に良縁を求めて結婚してしまつてけりがついた。
<『四次元』第五号第一〇号、昭和28年より>とそこで証言している。
吉田 嘉藤治は『僕も仲にはいつたりして、手こずつたが、反面、宮澤賢治なる者、果たしてどこら辺迄、その好意を受け入れ、いかに誘惑と戦ふかを興味持つて傍観したりしてゐた』ということで、間に立って困ったことがあったとしても、やや冷やかし半分のところもあったことがこの回想からは窺える。そしてそもそも、あのMがあれだけ悪女扱いをしているのに、嘉藤治の場合はもっと身近にいてしかも親友なのだから、もしそれほどまでに悪女であったとしたならばM以上に彼女の行為に対して憤り、激しく強く詰るはずなのにそのような節はこの証言からは微塵も感じられない。したがって、この嘉藤治の証言は件の仮説の反例とはなり得ない。
鈴木 それでは(22)の、伊藤與蔵からの聞き書き『賢治聞書』からで、
伊藤忠一君は自分で新しいフルートを買いましたが、それでも駄目でした。
みんなは途中で投げ出したかたちになりました。
最初の演奏会をやろうという勢いもなくなりとうとう中止になりました。先生のオルガンだけは上手になり伴奏などもつけて、ひけるようになりました。たぶん高瀬露子さんに習ったのだろうとみんなで話していました。
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社)42pより>みんなは途中で投げ出したかたちになりました。
最初の演奏会をやろうという勢いもなくなりとうとう中止になりました。先生のオルガンだけは上手になり伴奏などもつけて、ひけるようになりました。たぶん高瀬露子さんに習ったのだろうとみんなで話していました。
というものもある。
荒木 これなどは逆に、この当時はまだまだ賢治と露の関係は良好であり、露が賢治の許に出入りしていたことは協会員の伊藤忠一も與蔵も知っていたということを教えてくれる。なおかつ、與蔵が「中止になりました」とも言っているということからは、その時期はあの新聞に載った昭和2年2月のことを指していると考えられるから、露が証言している下根子桜に出入りしていた期間「大正15年の夏~昭和2年の夏」を裏付けるものでもある。もちろん、この証言は<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例などにはなり得ない。
吉田 たぶん、賢治の下根子桜時代における関連証言はほぼ以上で尽きると僕も思うので、なあ鈴木、下根子桜時代における<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証結果をこれから荒木にまとめてもらおうじゃないか。
鈴木 そうだな、それはいい。少なくともここまでの検証作業によれば荒木の想いは叶えられていそうだから、やはり最後は荒木でしょう。
荒木 なんか悪いな。でも参ります。
(Ⅰ) さて、今回は「奇矯な賢治」ということに焦点を当てて、<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証作業をここまで行って来た。その結果、俺が抱いていた賢治とは真逆とも思える次のような言動
・(十日位も)「本日不在」の札を門口に貼った。
・顔に灰を塗って露と会った。
・別な部屋に隠れていた。
・私は「癩病」ですと露に言った。
を、賢治は実際に行った、ということはほぼ確かであるということを導けた。
(Ⅱ) 一方で、「悪女伝説」の典拠となっている「昭和六年七月七日の日記」の記載内容は、少なくとも露関連の事柄については検証もせず裏付けもとらずに、当時賢治周辺に広がっていた興味本位の噂話などを単に活字にしたものに過ぎないという可能性が極めて大きいことも知った。換言すれば、「昭和六年七月七日の日記」は「悪女伝説」の源になっているという実態はあるものの実はかなり信憑性が薄く、賢治の伝記研究の資料としては殆ど使えない、ということもほぼ導くことができた。
(Ⅲ) しかも露に関するKの言動には不審な点があるので、Kの証言は単独では使えないということが妥当であろうということも判断できた。
(Ⅳ) 同時に事の顛末は、
賢治と露はある時期まで親密だった。
→昭和2年のおそらく夏から秋にかけて賢治が心変わりした。
→賢治は露に「癩病」ですと詐病して露を拒絶するようになった。
であることもほぼ間違いなさそうだということも判った。
(Ⅴ) その上で、生き残った証言を用いて<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証をしてみた結果、その反例となるものは何一つなかった。
(Ⅵ) したがって、<仮説:露は聖女だった>は棄却する必要はないということになり、
吉田 それから、下根子桜時代以前及び遠野時代においてもこの<仮説:高瀬露は聖女だった>が棄却されることがないことは、前者においては明らかなことだし、後者におけるそれは以前既に僕らが検証できたことだから、残された期間、賢治が下根子桜から撤退した昭和3年8月~露が遠野に異動した昭和7年3月の間を除けば、少なくとも<仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてもいいということになる。
荒木 ああ良がった。嬉しいな、現時点では露は聖女だったと相変わらず言えるなんて。仮説は相変わらず検証に耐えているっ! よし、これで少しは露も喜んでくれるべ。
鈴木 いやぁわからんぞ。残された「昭和3年8月~昭和7年3月の間」にどんでん返しが起こるかもしれんぞ。
荒木 ……
吉田 鈴木も人が悪いな、折角荒木はホット胸をなで下ろしていたというのに。ほにほに。
鈴木 ごめんごめん、つい軽口を叩いてしまった。よしそれじゃそのお詫びと、今まで付き合ってくれた二人に感謝の意を込めて俺が奢るから飲みに行こうか。
(Ⅰ) さて、今回は「奇矯な賢治」ということに焦点を当てて、<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証作業をここまで行って来た。その結果、俺が抱いていた賢治とは真逆とも思える次のような言動
・(十日位も)「本日不在」の札を門口に貼った。
・顔に灰を塗って露と会った。
・別な部屋に隠れていた。
・私は「癩病」ですと露に言った。
を、賢治は実際に行った、ということはほぼ確かであるということを導けた。
(Ⅱ) 一方で、「悪女伝説」の典拠となっている「昭和六年七月七日の日記」の記載内容は、少なくとも露関連の事柄については検証もせず裏付けもとらずに、当時賢治周辺に広がっていた興味本位の噂話などを単に活字にしたものに過ぎないという可能性が極めて大きいことも知った。換言すれば、「昭和六年七月七日の日記」は「悪女伝説」の源になっているという実態はあるものの実はかなり信憑性が薄く、賢治の伝記研究の資料としては殆ど使えない、ということもほぼ導くことができた。
(Ⅲ) しかも露に関するKの言動には不審な点があるので、Kの証言は単独では使えないということが妥当であろうということも判断できた。
(Ⅳ) 同時に事の顛末は、
賢治と露はある時期まで親密だった。
→昭和2年のおそらく夏から秋にかけて賢治が心変わりした。
→賢治は露に「癩病」ですと詐病して露を拒絶するようになった。
であることもほぼ間違いなさそうだということも判った。
(Ⅴ) その上で、生き残った証言を用いて<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証をしてみた結果、その反例となるものは何一つなかった。
(Ⅵ) したがって、<仮説:露は聖女だった>は棄却する必要はないということになり、
下根子桜時代、謂わば「羅須地人協会時代」においても、<仮説:露は聖女だった>は検証に耐えることができた。
となる。吉田 それから、下根子桜時代以前及び遠野時代においてもこの<仮説:高瀬露は聖女だった>が棄却されることがないことは、前者においては明らかなことだし、後者におけるそれは以前既に僕らが検証できたことだから、残された期間、賢治が下根子桜から撤退した昭和3年8月~露が遠野に異動した昭和7年3月の間を除けば、少なくとも<仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてもいいということになる。
荒木 ああ良がった。嬉しいな、現時点では露は聖女だったと相変わらず言えるなんて。仮説は相変わらず検証に耐えているっ! よし、これで少しは露も喜んでくれるべ。
鈴木 いやぁわからんぞ。残された「昭和3年8月~昭和7年3月の間」にどんでん返しが起こるかもしれんぞ。
荒木 ……
吉田 鈴木も人が悪いな、折角荒木はホット胸をなで下ろしていたというのに。ほにほに。
鈴木 ごめんごめん、つい軽口を叩いてしまった。よしそれじゃそのお詫びと、今まで付き合ってくれた二人に感謝の意を込めて俺が奢るから飲みに行こうか。
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