みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『<聖女>高瀬露』の原稿書き始む

2013-12-14 08:30:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》

 さて、拙ブログのカテゴリー〝高瀬露悪女にあらず〟において高瀬露についてここまで調べて来てつくづく思うのだが、調べれば調べるほどそれは巷間伝わっている「悪女伝説」とは違っているということを知った。そしてそれどころか、高瀬露はそれとは全く逆の「聖女」とさえ言えるのではなかろうかとこの頃では思えるようになってきた。
 そこで、これからしばらく『<聖女>高瀬露』というタイトルの原稿を書いてみることにした。

 ついては、まずは高瀬露(改姓後は小笠原露)の次のような短歌を紹介したい。
     賢治先生の靈に捧ぐ 露草
   君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
   ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
   オツペルの虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ
   粉々のこの日雪を身に浴びつ君がの香によひて居り
   ひたむきに吾のぼり行く山道にしるべとなりて師は存すなり
                (昭和十四年十二月二十三日作)

これらの五首は、「宮澤賢治の會」の機関誌『イーハトーヴォ第四號』(昭和15年2月発行)に載ったものだが、作者「露草」氏について
   ○露草氏 曾て賢治に師事せし人、岩手上閉伊にあり。
と同誌では紹介しているから、小笠原露(高瀬露)と断定できる。
 なぜならば、同『イーハトーヴォ第十號』(昭和15年9月発行)には、
     賢治の集ひ 小笠原露
   師の君をしのび来りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
   教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
   いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
   女子のゆくべき道を説きませるみ師の面影忘られなくに

という歌が四首載っているが、この小笠原露について同号は
   ○小笠原露氏 岩手遠野小學奉職、賢治の教へを受く。
と紹介していて先程の紹介内容とほぼ似ているし、そのどちらにも「師」という尊称を用いた詠み方をした歌があり、しかもその作風はよく似ているからである。また、「露草」の〝露〟は小笠原露の〝露〟でもあるからである。
 さらには、同『第四號』の「喜捨芳名」の中には「(上閉伊郡附馬牛村)小笠原露」という記載があり、当時露は上閉伊郡東禅寺尋常小學校の訓導をしていた(「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」(『七尾論叢第11号』)より)からでもある。この「東禅寺」という地名は現在も遠野市附馬牛町にあって、そこは昭和29年までは「附馬牛(つきもうし)村」だったという。
 したがって、先の
   「露草」氏とは小笠原露すなわち高瀬露のことである。
と判断してまず間違いなかろう。

 そして、私がここで特に感じ入ってしまうことは、賢治が亡くなってから6年とか7年が経ち、そしてなおかつ結婚して小笠原姓になってからでさえも、このように賢治に尊称を用い、崇敬した内容の歌を詠んでいる高瀬露の人間性にである。しかもなおかつ、露自身は世間で一部の人たちが自分のことを悪し様に論っていることをおそらく知った上でである。なぜならば、『イーハトーヴォ創刊號』(昭和14年11月24日発行)には、Kが「賢治先生」というタイトルの談話を(同年10月21日に行われた「盛岡賢治の會」例會において」)した際にそのようなことを話したということが活字になって既に載っていたからである。

 そのような女性が、上田哲氏が言うところの〝<悪女>にされた高瀬露〟である。

 続きへ
前へ 

 ”『<聖女>高瀬露』目次”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3688 「種蒔く人」とその運動... | トップ | 3689 S2/2/1付『岩手日報』再... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事