八丈島のおいしい暮らし

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奥山日出和さん@八丈島を彩る人々(6)

2009年09月20日 14時57分16秒 | インタビュー
明日は敬老の日ですから、本日は島のお元気なお年寄りを代表して、
大賀郷在住の奥山日出和さん(77歳)のインタビューをお届けします。

「よされ会」八丈太鼓の奥山善男くんのお父様、
いろんな会の代表や理事・役員をなさっていて、
カレンダーは予定でぎっしり、月に10日は飲み会に出席されているという、
スーパーお元気なおじいちゃん、かつ、大賀郷の有名人です。


奥山日出和さん 昭和6年12月10日生まれ ご自宅にて

●今年の夏の花火大会には、喜寿のお祝いと結婚50周年のお祝いの
2本の花火を打ち上げられたそうですね。おめでとうございます!

 お宅のお父さんとは1歳違いで、疎開があったものだから、
一緒に中学3年を昔の大賀郷公会堂で勉強しましたよ。
疎開から帰ってきて、そのときにはじめての中学校ができたから、
その頃は三根も一緒で富士中だったけど、島の中学の一期生だったんだよ。

●そうでしたか。島の中学校の一期生なんですね!
 そうそう、その後に中学校が建って、そしたら今度は公会堂が高校になったから、
また公会堂へ通って、高校へ行ったわけさ。
急ごしらえだから、机は長テーブルで、そこに3、4人が腰かけて勉強したんだから。

●おじさんは、疎開はどちらへいらっしゃったんですか?
 おまえ、親父から聞いてないの?そのくらいちゃんと聞いとけよ~

●あ、すみません!( ̄▽ ̄;)!! 聞いたけど、どこだか忘れました。
 疎開は、第一疎開と第二疎開があって、第一疎開は6000人ぐらいが行ったんだから。
最初、6月(昭和19年)に行った人たちは、東京のそこら中へ行ったの。
で、俺らは第二疎開で同じ年の9月頃に、200人ぐらいが板橋の養育院へ行って、
硫黄島の人たちが先に来ていた。そこで行き先を探して、東村山の家政国民学校へ
入ったんだ。軍事工場へ行って働いたり、農家へ行って農業をしたり。
それから、翌年の終戦の年の3月に、第三、第四の疎開があって、
その人たちは軽井沢や長野へ行ったんだ。

●小さくても働いていたんですね。(おじさん10歳の頃)
 当時、八丈島や伊豆七島は乳牛をけっこう養ってたから、
みんなが疎開してしまうと牛乳が東京へ行かなくて、
国の命令で三多摩で乳牛を養えということだった。
そこらの農家は豚は養ったことがあるけど牛は養ったことがないんだから、
しょうがないから豚小屋で雌牛を養うわけだけど、しぼれもしないよ。
俺らは八丈でしぼれるんだから、先生だよ。
朝晩、牛乳をしぼって大変だったけど、食べ物には困らなかった。
農家の先生なんだから。他の人たちは着物を売ったりして大変だったけど、
俺らは食糧には一度も困らなかった。いいもんだね~芸は身を助けるってわけだ。
小さな頃から乳しぼりをして、それが役をしたわけだ。

●おじさんは、なんで乳しぼりができたんですか?
 だって八丈では学校で教えたんだから、俺は小学校2年生から乳をしぼってるよ。
大正時代に国から補助金が出て、ここらの周りには牛小屋がたくさんできた。
うちは左官屋だったから牛は飼わなかったけど、土地が広いから牛の売買をする人に
土地を貸して、牛がいっぱいいたんだよ。俺が小学生になったら、牛飼いのおじさんが
面白がって俺に牛を1頭あげるから飼ってみろといった。
俺は嬉しくてもらったけど、さ~大変だ!それで小学生から乳しぼりだよ。(笑)

●昔は、農事試験場もすぐそこにありましたね。
 そうそう。戦争で男がどんどん出て行くから、小学校の高学年になると、
女の子たちに学校で乳しぼりを教えて、うちにも女の子が乳しぼりを習いに来たよ。


身振り手振りで戦時中の様子を話してくださる日出和さん

●戦争中の島の様子はどんなでしたか?
 兵隊さんがいっぱいいたよ。
終戦間際になるとでたらめで、輸送船がここを通るときに、
「間違えました」と、みんなそこらの海岸へやし上げちゃうんだから。
ここから先へ行くと潜水艦にみんな沈められちゃうから、
サイパン、テニアンと名札の付いた船がみんな八丈へやし上げて、
兵隊から荷物からみんな八丈へ降りるもんだから、島は兵隊は多くなるわ、
荷物は多くなるわで、兵隊は2万も3万も八丈にはいらないんだけど、
八丈島の浜は、そういう輸送船のインチキ突っ込みでいっぱいだったんだよ。

●そうでしたか…
 負けるときになると、人間そうなるんだよ。
ここから先へ行ったら死ぬんだから。

●死にたくないですよね。
 そうだよ。だから、八丈へやし上げて、ここで助かった人がいっぱいいたんだじゃ。
すると、ここ(いなば)は広場だから、輸送するはずだった荷物がいっぱい上がって、
食糧からなにからいっぱいあったんだよ。

●では、食糧には困らなかったんですか?
 いや、だからって、そう簡単に配給はしないよ。
戦争がいつ終わるかわからないんだから、少ーしずつ配給をするんだよ。
終戦になった時に、これならもう少し食べさせればよかったと思ったかもしれないけど、
それまでは締めてかからなきゃいけなんいんだからさ。

●戦後の八丈島はどんなでしたか?
 疎開した人たちが東京で焼け出されたりして、夫婦の片方が八丈だと、
こんどはみんな八丈へ帰ってきたわけだから、八丈の人口はどんどん増えた。
だから、そのときには島中の木を切って、どこもかしこも畑だよ。畑、畑、畑。
三原の山は切らないところはないくらい木を切ったろう。
てっぺんの絶壁のいまでは人も行かないようなところまで木を切ったよ。

●炭を焼いたからですか?
 炭も焼いたけど、塩もなかったから、どんどん木を切って薪を燃して、塩も焼いた。
浜で海水を炊いて塩をこしらえたわけ。八丈富士の大穴の中でも炭を焼いたりしたし。

●それだけ人口が多かったてことなんですね。
 そうそう。その頃は貧しくて食えないといっても、みんながそうなんだから。
みんなが変わらないんだじゃ。いまみたいに食べものがなんでも届く時代じゃないし、
カンモを作って食べたり、へんごを食べたりするのが当たり前の時代でね。

●おじさんとおばさんは、どこで知り合ったんですか?
 それはもっと後の話で、昭和26年に上京して、三鷹で左官屋の修行をしたんだ。
それまで家で働いたり(左官業)青年団をやったりで、高校の夜間部へ行ってたから、
3年半夜間部へ通って、もう少しで卒業というときに、先方の都合で
すぐに行かなきゃいけなくて、あちらの高校へ入れてもらう約束で行ったけど、
高校が入れてくれなかった。こんちくしょうと思ったけど、仕方がないからね。
そこで6年間修業して、島へ帰ってきた。

●あちらではどんな生活でしたか?
 ちょうどテレビがはじまった頃でね。街頭テレビで力道山や相撲をみんなで見た頃。
仕事をサボって見たりした。(笑)力道山が出るなんていうと食堂は人でいっぱいで、
食堂の営業ができないから、券を売るんだよ。後で食べてくれってわけでさ。
その頃にはまだ車はない、バイクはないから、自転車で東京中を走り回って、
後楽園なんかはよく行ったから、いまでも詳しいよ。
あちらでは苦労もしたけど、それが帰って来てからの商売の力になった。
帰ってきてすぐから、ここで店を開いて人を雇って、「奥山左官店」をはじめられた。

●その頃は、仕事がいっぱいあったでしょう?
 うん、いっぱいあった。だから儲かった。
だけど左官屋は下請けだから、元請けばかりに儲けられるのもしゃくだから、
それで建築の方もはじめて、俺も請負をはじめたんだ。
その頃に、見合い写真で結婚して、おっかない奥さんをもらって、
50年間こうして苦労しているわけですよ。(笑)

●なにを仰る!素敵なかわいい奥さんで!ね~おばさん♪
 おばさん:こごんどう話をして、また酒がおいしけだぁよ。(笑)
(お隣でうなずいて話を聞いていらっしゃったおばさんが笑っておられました)


昔を回想される日出和さん

●現在はお仕事は引退されて、いろんな役員をされてますよね?
 青少年対策協議会の第一委員長、老人クラブの会長(=八丈老連の理事)、
大賀郷の振興委員の代表、部落長を40~50年、ごみ処理とか汚泥処理の委員会とか、
いろんな委員会がいっぱいあるんだな~商工会の理事は今年息子に譲ったけど、
飲み会だけは俺が行くの。(笑)大賀郷中学校の後援会長もやってる。
余計なしゃべりをして、「作りましょう」と、俺がいったものだから、
いまでもずーと俺が会長をやってる。口は災いのもとでね。(笑)
飛魚会(病院勤務の方々の懇親会)、交通安全協会と懇話会、
いろいろあるんだな。それで飲み会が年中あるんだよ。

●おじさんは、薬師様も守ってらっしゃるでしょう?
 薬師祭りのときには、ここで前日に8割餅をついて、残り2割を当日に薬師様でつく。
もう何十年だか忘れるくらいやっている。

●薬師祭りは、全部振る舞いご馳走ですが、予算はどこから出てるんですか?
 そこらから拾ってくるんだじゃ~(笑)

●この辺の方々の寄付?
 うん。いまはもらっては歩かない。きただけでやってるけどね。
ほんとは最初は、あそこで働く人のために芋とかおにぎりとか作ってたんだけど、
みんなちょうだいっていうから。(笑)みんな、買うよりタダのが面白いだろう?
薬師様の水は菊池旅館の山から出てる水だけど、昔は東京都にあげてたの。
4~5年前に権利が持ち主に返って、持ち主と話して、いまは権利は薬師様にある。

●おじさんが昔から島を見ていて、最近の八丈島はどう思われますか?
 じいさんばあさんが一緒だと、島言葉を聞くだろうけど、
いまは、じいさんばあさんと暮さないから、島言葉がわからないだろう?
仕方がないんだろうけど、島言葉ってのは、女の子なんかが話すと、とっても
いい味があるんだけどね~可愛くってさ。残念ながら、いまはそういうのがない。
だから、昔の島のかんじがぜんぜん感じられなくなったね。

●そうですね。島言葉でしゃべって島のムードですものね。
 昔は高校生なんかも島言葉でしゃべって、ほんとに可愛かったんだよね。
そういうものが無くなっていくのは、ものすごく残念だぁの。
それと、若い人の働くところがないということですよね。こないだも
「もっと老人ホームを作って、そこで若い人を働かせれば?」と話したのだけどね。
ここは空気はいいし、八丈はいいとこなんだもの、どんどんそういう施設を作って、
都会から老人を呼んだらいいと思うけどね。

●いろいろ聞かせていただき、ありがとうございました。
最後に、おじさんの健康の秘訣はなんですか?

 今年の2月に腰の手術をして人工の骨が入ってるから、温泉へ行ってリハビリしてる。

●腰の調子が悪くても、そんなにいろいろ活動されてる、その気力はどこから?
畑もされてて、自然のおいしいものをずっと食べてるからですか?

 俺はいつも飴玉でもなんでも、そこらに転がしておいて子どもに食べさせろという。
そうするとバイ菌でもなんでも食べて、抵抗する力がつくから、強くなるんだよ。
最近の親は、やれ手を洗え、ここへ落ちても、汚いと食べさせない。
落っことして、かき混ぜて食わせろいうんだよ。
いまの親は、あれもだめ、これもだめ、だから子どもが丈夫に育たないよ。

*薬師堂の湧き水
__
長年生きてきた方の仰ることは説得力があります。
戦時中の話から、興味深いお話が次々飛び出して、話に惹き込まれて、
今回もまた長いインタビュー記事になりました。(これでも半分切ってます)
昔の青年団のお話なども面白いので、ほんとは全部載せたいのですけどね。
日出和おじさん、いいお話をたくさんありがとうございました。
どうぞこれからもお元気で、島の若い者たちにいろいろと教えてくださいね。
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2 コメント

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実に良いですね (まさみ)
2009-09-21 11:19:03
おねいさんのインタビュー、
質問内容が実に良いです!
うまい!

おじさんの話は
笑いながらちょっと泣けました。
なぜかなあ。

生き様が顔に出るとは
良く言ったものです。
おじさんの笑顔を見ていると
私もまた頑張ろうという気になります。
返信する
ありがとうございます (まさみさんへ 海風おねいさん)
2009-09-26 19:57:17
この記事を書いてから1週間経ってしまいました。
遅レスごめんなさい。毎日バタバタとしておりました。

お褒めいただき大変恐縮です。
もっとまとめた方が読みやすいのはわかってるんですが、
おじさんの会話のムードが伝わるようにと考え、
あえてまとめすぎないようにまとめました。
(いや、あまりまとめてません)

長く生きていらした方のお話を聞くのは面白いですね。
面白いので、長すぎるかと思いながら長く載せましたが、
喜んで読んでいただけて嬉しいです。
ありがとうございます。
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