見方と気持ち:唯識のことば1

2017年01月12日 | 仏教・宗教

 去年は、おかげさまで過去の著作のうち2点、『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』『仏教とアドラー心理学――自我から覚りへ』(どちらも佼成出版社)が重版になりました。

 それにちなんで、かなり前に『サングラハ』に連載した「唯識のことば」がいわば休眠状態になっていてもったいない気がしていましたので、少しだけ書き直して、このブログで徐々にみなさんにシェアすることにしました。

 以下、第1回目です。


 どんなことを落ち込み(惛沈)というのか。外的対象(境)に関して心を耐えられなくさせることが本性であり、爽やかさ(軽安)と気づき(ヴィパッサナ)を妨げるのが働きである。ある説では、落ち込みは愚かさ(癡)から派生するものと分類される。(『成唯識論〔じょうゆいしきろん〕巻六より)


 唯識の古典『成唯識論』を読みはじめて四十年あまりになり、何十回となく読んでいると思うのですが、それでも、改めて読むとこんなことも書いてあったのかと思うことがしばしばです。

 亡くなった作家の埴谷雄高さんが「古典は成長する」ということをいっておられましたが、確かにそうだと思います。自分が成長すると、古典から読み取れる内容も成長するのです。

 かつて論理療法を学びはじめたとき、例えばA・エリス『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』(川島書店)を読みながら、二十世紀の心理療法の洞察の基本がすでに千年以上前の唯識の中にはあったんだな、と感心したものです。

 私たちふつうの人間は、なぜ落ち込むのか(うつになるのか)というと、それは、自分の(心の)外で起こっている出来事(外的対象・境〔きょう〕、心の外という意味で自分の体も含まれます)がよくないからだとか、他の人のせいだと思います。

 よくないことやよくない人と出会うと、「こんなひどいこと・人、耐えられない」と思い、心のエネルギーがあれば腹を立てたり(忿・ふん)、そのエネルギーもないと落ち込んだりする(惛沈・こんじん)わけです。

 これはふつうの私たちにとっては、ごく日常的なことで、「自然なこと」あるいは「人間らしいこと」あるいは「仕方のないこと」と考えられています。

 けれども、唯識も論理療法もほんとうはそうではないといっています。

 落ち込みは、愚かさ(癡・ち)―思い込みにまでなった非論理的・非合理的な考え方から生まれるのだというのです。

 論理療法の基本・ABC理論では、ある出来事(Activating event)が必ず同じ結果 (Consequence) を生み出すわけではなく、それをどう捉えるか、その人の信念になっている取り方・ものの見方(Belief system)によって、まるでといっていいくらい違うといいます。

 よくないこと(A)→怒りや落ち込み(C)、ではなく、よくないこと→「こんなことが私に起こるなんて耐えられない」というふうな取り方・思い込み(B)→怒り、落ち込み、絶望など(C)、というつながりになっているというわけです。

 ところが、Bの「耐えられない」というのは非合理的な思い込みであって、ほとんどのよくない出来事は「確かにつらいけれど、絶対に耐えられないほどではない」とものの見方を合理的に変えることで、激しく不愉快な怒りや重苦しくつらい落ち込みが、比較的軽いいら立ちや失望感へと変えられる……というのです。

 「見方を変えれば、気持ちが変わる」というわけです。

 実際に論理療法の技法を使ってやってみると、(努力は必要ですが)確かに軽減されます(拙著『唯識と論理療法』佼成出版社、『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』NHK生活人新書、参照)。

 それに加えて、さらに「すべては(よくないことも)実体ではなく、永遠に変わらないものではない」という智慧のことばを思い出し、超合理的ともいうべき無分別智にアクセスするための禅定をすると、心に気づきと爽やかさが戻ってきます。



唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践
岡野 守也
佼成出版社



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ
岡野 守也
佼成出版社



いやな気分の整理学―論理療法のすすめ (生活人新書)
岡野 守也
日本放送出版協会



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