なぜ人を殺してはいけないか

2005年11月13日 | いのちの大切さ

 まだ容疑の段階だが静岡の母親毒殺未遂事件、そして11日の町田の女子高校生殺害事件と、若い世代による事件が続いていて、とても悲しくとても残念である。

 昨日、横浜でのカウンセリング研究会の終了後、ご一緒に食事をしていた受講者の中に、おなじ町田の高校に行っているお子さんをお持ちの方がいて、「子供がかなり動揺していますので」と早めに帰っていかれた。

 遠慮しておられたのだろう、食事の時には話題に出されなかった。

 しかし、「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対する納得のできる答えができなければ、根本的な意味での教育はできないのではないでしょうか、という私の話に深くうなづいておられたのは、そのためもあったのだろうと思う。

 そして、「次回、まさにそのテーマでお話しします」と言うと、みなさんが「すごく期待しています」と答えて下さった。

 こうした事件が起こるたびに、教育関係者の方が言われるのは、「2度とこういうことの起らないように、いのちの大切さの教育をしなければならない」ということである。

 そしてジャーナリズムでは、そうしたことをテーマにした報道企画がいろいろ組まれたりする。

 しかしそういうことが問題ないし話題になってから、もう何年が経つのだろうか。

 私はいくつかの大学で年間6~800名の学生を教えているが、毎年行なっているアンケート調査の1項目である「人生には、意味があると思いますか。あるとしたら、どんな意味だと思っていますか?」という問いに、はっきりと「ある。こういう意味だ」と答えることのできる学生は30%を越したことがない。

 それどころか、ほとんどの場合、10%程度にすぎない。

 あえて大学名も公表しておくが、北は青森公立大学(集中講義)、南は四国学院(集中講義)、そして法政大学の文学部と社会学部(通常授業)、武蔵野大学の人間関係学部(通常授業)と、地域もいわゆる大学のランクも様々であるから、統計データとしては、無作為に採ったサンプルに近いと思う。

 こうした調査と私の接しえたかぎりでの情報からすると、どうも日本の教育界――学校教育だけでなく家庭教育でもマスコミの教育的機能の面でも――全体としては、「いのちの大切さ」=「生きる意味・人生の意味」、そしてそこから必然的に導き出される「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対する納得のできる答えは提供されていないのではないだろうか。

 「提供」といったのは、それは大人が次の世代・子どもに提供する責任のあることだと思うからである。*

 それどころか、学生(かつての学生つまり社会人も含め)への聞き取りで、典型的に報告されるのは、大人からは答えはもらえなかったということである。

 小さい時には、「なぜ生きているか? 死んだらどうなるのか?」ということを大人(親や先生)に聞いたら、「そんなこと考えてないで、遊んできなさい」と言われたという。

 そして、中高生くらいでおなじ問いをしたら、「そんな暗いこと考えてないで、将来のために勉強しろ」と言われたという。

 さらに大学生になって大学教師に聞いたら、「そんなことは、自分で考えなさい」と言われたとか、もっとひどいのだと授業で、「生きることには意味がない」とか「意味なんてものは人間が勝手に作り出したことにすぎない」という話を聞かされたという。

 「いのちの大切さの教育」など、どこでも行なわれていなかったのではないだろうか。

 あえて私に言わせてもらうと、これは大人の責任回避である。まったく無責任というほかない。

 「いや、いのちは大切だ、命を大切にしなさい、という話はしてきた」と言われる向きもあるかもしれない。

 しかしただ「大切だ」と言えば、子どもが「そうか、大切なんだ」と納得するのなら話は簡単なのだが、そうではないところに根本的な問題がある。

 「なぜ」という問いに、「~だから」という納得のできる答えをする責任を、大人は問われていながら、それに答える努力を十分できていないのではないだろうか。

 (大人だって教わっていない、というやむを得ない事情もある。)

 ここはブログという媒体なので、自己宣伝だと思われることを恐れずあえて言いたい。

 毎年、私の授業に1年間ついてきてくれた(もちろん残念ながら途中で脱落する学生もいる)学生の例年の平均90%が、「人生には、意味があると思いますか?」という項目に、0から10までのスケールで5以上の自己採点をするのである。

 それどころか、平均25%が「10」と書く。

 そして、コメントの欄に「こういうことをもっとたくさんの人に伝えたい」ないし「たくさんの人に伝えてください。先生、頑張ってください」と書く学生がたくさんいる。

 もっともうれしかったコメントの一つには、「私はこういうことを教わりたかったんだと思う」というのがあった。

 「そう、私はそういうことを教えたかったんだよ」と答えたものである。

 そこで、いろいろ本を書いたり、頼まれた講演はほとんど断らず出かけ、自分の研究所でも講座やワークショップを頻繁に開催し、そしてもっと広く伝えたくて、とうとうブログも始めたというわけである。

 残念ながら、「なぜ」という深い問いに答えるのに、3分というわけにいかないので、長々と書き続けている。

 しかし、要点は2つ、

 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、ちゃんと見さえすれば、事実としてとてもすばらしいものなんだから、落ち込んだり、死んだり、殺したりする必要はないんだよ」ということ、

 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、宇宙の137億年の進化の営みが積み重ねられたすごいものなんだから、それこそ宇宙的・絶対的な意味があるんだよ」というメッセージである。

 このメッセージは、単に情緒的なものであるだけでなく、誰でも確認-合意できる事実と現代科学と臨床心理学と論理の裏づけがしっかりある、と私は思っている。

 だから、実際、多くの学生たちが納得してくれるのだと思う。

 だが、今のところ、なぜか――分析すればわかる理由はあるのだがここでは省略する――日本の教育界にも、父母たちにも、マスコミにもまだ十分理解されていない。

 (私が執筆・監修したサブ・テキスト2冊が東京都内の4つの私立高校で使われている、大学の臨床心理学の授業でコスモス・セラピーを実施して効果を挙げている方が2人いる、といううれしい例外はあるが。)

 そして、だから、多くの子どもたち・若者たちのところに届いていない。

 そして、かなり多数の子どもたち・若者たちが、依然として、落ち込んだり、すねたり、つっぱったり、引きこもったり、病んだり、非行・犯罪に走ったりしている。

 それが、歯がゆく、口惜しく、悲しく、残念でならない。

 私は、自分のやっていることが唯一だとも絶対だとも思っていないし、万能の方法をつかんでいるとも思っていないが、コスモロジー教育-コスモス・セラピーは、そうした問題に対して、事実、相当に有効だということは実証してきたつもりである。

 だから、社会的提案を続けてきたし、これからも粘り強く続けていく覚悟である。

 もちろん、批判や修正-増補の提案はいくらでもお受けしたい。

 もし万一、完璧によりよいものがあれば、私の提案は取り下げてもいい。

 心ある、つまり本当の意味で後の世代への責任を取るつもりのある大人のみなさんに、ぜひ、知るだけでも知ってほしいと思うのである。

 そして、子ども・若者のみなさんには、親や教師やマスコミが教えてくれなくても、その鋭い直観力と判断力を働かせて、まず自分の力で見つけ、そして本当に自分の存在の意味を明らかにしてくれるメッセージなのかどうかを判断してほしいと願っている。

 悲しさや残念さに共感してくださり、提案に賛同して下さる方は、この文章そしてこのブログ全体の文章を自由に使って――コピー、引用、リンク、論評などなど――口コミ、ブログ・コミに、ぜひ参加していただきたいと思う。

 最後に、あまりにも若くして亡くなった古山優亜さんとご家族の方に心からの哀悼の意を表したい。

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コメント (27)
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