光画繚乱

映画と写真、どちらも「光」が関わるので、そしてそれが「錯綜し合う」ということから、ブログタイトルを光画繚乱としました。

「ひきこもり」でなく「こもりびと」

2022-09-28 19:40:37 | 私見偏在

    朝日新聞デジタルの記事
 「ひきこもり」ではなく「こもりびと」――そう独自の呼称をつけ、ひきこもり状態の人を支援している神奈川県大和市が、市民の理解を深め、当事者やその家族が孤立しないよう施策を推進する「こもりびと支援条例」を制定する。市はひきこもりが若年層だけでなく、中高年も含めた幅広い年代にみられるとして、「より温かみのある呼称」を用いた「こもりびと支援窓口」を設置。相談を受けるだけでなく、当事者の集いや講演会を開くなどの取り組みを進めてきた。
 この記事を読んで若干の違和感を感じた。
「行政の常套」というか、いつもの「言葉遊び」を思い出させる。
 「オレオレ詐欺」を「母さん助けて詐欺」と言ったり、「実年」とか「E電・民電」など、もう消えてしまった行政の作った呼称の数々。
 日本語の語彙は70万あるといわれている。世界で一番単語の数が多い言語を我々は使っている。何を今さら新しい呼称にこだわる必要があるのだろうか。それよりも行政は「こもりびと」をどうしたいのだろう。どうにもできないので、せめて「何かをやってる風」のパフォーマンスなのかと思ってしまう。
 この手で行くと若年層の引きこもりを「コモリー」、青年層は「コモラー」、壮年層を「コモリスト」、老人になったら「コモ爺」などと呼ぶ自治体も出てきそうだ。

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日本以外で「晩酌」文化はない

2022-09-21 20:04:54 | 私見偏在

  一橋大学名誉教授の都留康氏の記事から
  「海外ではお酒はパーティなどの『特別な日』に飲むものだが、日本では日常的に家でも飲む。1人で、または配偶者と飲むというのもあまり海外では見かけない」という――。
毎晩1人で酒を飲む」なんてあり得ない…日本の「晩酌文化」が海外から不思議がられている。
自宅で1人または家族とお酒を嗜むことを「晩酌」という。
 日本と海外の飲酒習慣は大きく異なる。「アルコール消費量が多いと言われるロシアでも、お酒はお祝いの日に飲むもので、理由も無くお酒を飲むことはありえない。
 日本人はお酒を飲むのに理由が要らない。1日に飲む量は少なくても、ほぼ毎日のよう
お酒を飲んでいる人も珍しくはありません。休みの日には家で晩酌、ご飯に行ったら“とりあえずビール”。仕事が終わったら仲間と居酒屋で飲んで帰るし、その後コンビニで買って歩き飲みなんて人もいる。日本人の飲み方はとにかく少量を高頻度で、である。
 さらにコロナを避けるため「家飲み」という言葉が頻繁に使われるようになった、とある。
 日本人はお酒を飲むのに理由が要らない、とは言い得て妙。日本人の酒の飲み方を、外国にとやかく言われる筋合いはないのだが、特別な民族のように書かれている。
 「一人酒、手尺酒」などと演歌に出てくるように、日本人は一日の終わりや何らかの理由を掲げては飲んできた。「何か新しい考えが湧き出る」という期待を持って飲むこともありだろう。

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再度、邦画の「外連味」について

2022-09-14 19:51:03 | 私見偏在

 前回、演劇や映画の世界で嫌われているという「外連味」について述べた。しかし、「作られたもの」の多くは「外連味」にあふれている。所詮は「作られたもの」だから「外連味」にあふれている、のは当然なのかもしれない。
 かつて、一時は私も「日本人は欧米人に比べ、顔の作りが扁平なので、演技はおのずとオーバーアクションになりがち」と思っていた。また、日本には歌舞伎の「隈取り」という特殊な化粧法があり、ど派手な「見えを切る」という演技手法もある。その流れが演劇界が嫌ってやまない「外連味」を醸し出しているとしたら事態は複雑だ。それに最近は原作・原案不足のためアニメ・劇画の実写版が幅を利かせている。アニメ・劇画に登場する人物たちは決まって「大げさな振り」を披露する。それに慣れた役者や演出家が「外連味」のある演技を「熱演」として評価している場合がある。なので「好演」だけでとどめることができず「熱演」の域まで行ってしまうのだろう。
 テレビや映画の出演も、舞台出身者を重用する傾向が見られる。今まで述べてきたいろんな要素から、日本人は「臭い芝居」が好きなんだろうと思う。今ネットでたたかれている「わいせつ」役者も映画・コマーシャル・テレビと引っ張りだこ「だった」。私は「臭すぎて」嫌いだったが……。
 俳優・女優を「銀幕のスター」と称していた時代があった。そのころの俳優・女優は「スター」だった。「スター」とは星。星には手が届かない。タレントが「隣のミヨちゃん」
的な存在になってから、彼らが安っぽくなったような気がする。今は俳優・女優の名前の前に「ベテラン俳優・超ベテラン・大物女優」など、修飾語が付くようになった。「名前だけだと通用しない」世界なのか。「外連味」のない「普通の演技」は所詮日本では無理なのだろうか。 

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外連味を嫌いながらも寄り添う邦画たち

2022-09-07 19:41:52 | 私見偏在

 外連味(けれんみ)とは、俗受けを狙ったいやらしさ・はったり・ごまかしと広辞苑に記されている。
 映画や芝居で最も嫌われる外連味という言葉。観客に「外連味がある」と言われただけで、その作品としての価値は失せてしまう。
しかし最近は、外連味のある作品が好まれるようだ。
 戦争ものや合戦もの以外でも、やたらと「絶叫」シーンが多い。日本人特有の「恥と外聞」をかなぐり捨てて「これでもか」と外連味のてんこ盛り。
 また、役者は顔の筋トレが必修科目なのかとにかく顔面の演技がど派手だ。映画評論家などは役者の「熱演」を評価したいようだが、
「好演」ぐらいでいいのではないかと思う。
「熱演」はオーバーワーク、「好演」はグッドジョップ。
 最近、セクハラを超えて強制わいせつともいえる事案で話題に上っている役者がいる。一部擁護する論者もいるが、このご時世、許されるものではない。彼もテレビ・映画・コマーシャルと大活躍。テレビで見ない日はないくらい人気者だった。しかし外連味という概念から見れば、彼の演技は「臭い」の一言。
しかし大衆は彼の外連味のある「熱演」が好きだということになる。
 ハリウッド映画と比較すると、邦画の仰々しい演技が目立ちすぎる。ゴッドファーザーの冒頭部分でも、マーロンブランドは静かに葬儀屋の娘の仕返しを静かに訊く。これから起きるであろう凄惨なシーンも、顔面の筋トレの成果を披露すれば、すべて作品は台無しになる。静かにしかも着実にクライマックスに近づいている感触に、観客の期待は高まることになるのだが……。

 

 

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