光画繚乱

映画と写真、どちらも「光」が関わるので、そしてそれが「錯綜し合う」ということから、ブログタイトルを光画繚乱としました。

ジャーナリストの矜持

2019-05-29 20:56:37 | 私見偏在

 米国のトランプ大統領が来日し、安倍晋三首相とゴルフ外交を楽しんだり、東京・両国国技館で大相撲を観戦した後、六本木の炉端焼き店で会食するなど、日本は精一杯の「おもてなし」で迎えている。
 歓迎ムードが国民全体にも波及する中、ジャーナリストの江川紹子氏は「『国賓』は政府が公式にもてなす元首級の客だが、国民がそれに同調する義務などない」と断言。ツイッターで、明日の国技館、せめて心ある相撲ファンの方による、短くていいから、力強い「Boo??」の一声が出るように祈りたい、などとツイートした。
 これに対してネットでは、「品が無いですね」とか「国賓に対する無礼は国際信義に反しますが、それを煽られる訳ですか?」・「道、剣道、茶道、書道、相撲道 客がブーイングする習慣はありません」・「何故優勝力士への賞品プレゼンターにブーイングしないといけないんですか?」等、批判の声が多数寄せられている。
 「トランプ大統領大相撲観戦」に際してNHK中継の視聴率は26パーセント。裏番組の「笑点」は視聴率を落とした。このことから、いかにトランプ人気が高いかがわかろうというもの。
 江川紹子氏も人を煽らずに、ご自分でブーイングしてみたらどうだろう。ジャーナリストを名乗るには、あまりにも浅はか、かつ幼稚な考えだと思わないのだろうか。「天に向かって唾を吐く」如くジャーナリストの「自傷行為」とも思える愚かさ。
 「左派とはかくのごとし」と、思わずにはいられない。
 


 

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法は善人の味方となるか

2019-05-26 20:47:07 | 私見偏在

 最近の裁判例を見ていると「法は善人の味方になっていない」と感じる時がある。
 元来、法の原点は「掟」であったはず。秩序の乱れやタブーを「べからず集」として地域ごとに編纂し、それを長年踏襲してきたもの。
 どんな民族にも誕生から「食人と近親相姦」の歴史のなかったことはない。しかし、「食人と近親相姦」は民族の存続を危うくすることに気が付いたのだ。そのため、争い事などを裁くずっと前に、この二つの「掟」が最優先に制定されたと考えられる。
 しかし、世の中が複雑になり訴訟の数も多くなると、相反する判例も出てくる。
 また中立を旨とする裁判官も、カルト宗教的イデオロギーに染まっている者もいるという。また現代の裁判官は、狭い「法曹村」しか知らず、一般的な常識に欠ける者も多いらしい。
 そのため、「裁判員制度」を採用したのだが、この頃は断る人も多数出ている。罰則規定があるにも関わらずに。
「裁判員制度」も生半可な存在。「陪審員制度」を採用せず、なぜ中途半端な「裁判員制度」などを取り入れたのだろう。
 もう十年にもなるこの制度、裁判員が一審で有罪にしても、プロの裁判官が二審で減刑か無罪にしてしまう現象が顕著になっている。プロの裁判官にしてみれば「お前ら素人の思うようにはさせない」という自負があるのではないか。
 個人対組織の裁判では、一審で個人に勝たせ、二審・三審は組織の勝ち、という構図になっている。「やっても無駄」という空気が漂っている。
 国民が、単純にカタルシスを感じる判例は無理だろうか。
 

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エスコバル 2014年 119分

2019-05-26 20:44:42 | 映画

20分見ても進展がない。主役の青年の影が薄い。

   評価 B

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ロスト・ボディ 2012年 111分

2019-05-26 19:40:24 | 映画

「死体置き場から死体が消える」、面白い設定ではあるが、テンポが遅い。
 

  評価 B

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続々・存続の危機

2019-05-22 21:24:01 | 私見偏在

 動物行動学研究家でエッセイストの竹内久美子氏は、我々(われわれ)は千数百年間も受け継がれてきた皇室のYを決して手放してはいけない。どの国が、どう逆立ちしても敵(かな)わない、最強のYとその継承の歴史を我(わ)が国は持っている。天皇陛下となられるお方は、男系でなくてはならないのだ、と力説。
 しかし内閣などが、女性天皇説や女系天皇説・女性宮家などを採用したとしても、その男系が危ういことになっているのは周知のとおり。次の世代で皇室のYをお持ちであるのは、皇位継承順位1位の秋篠宮さま、2位の悠仁さまのみである。悠仁さまに、もし男子の誕生がなかったら、この国の歴史も権威もおしまいなのだ、と憂いている。
 皇族の方たちが、真剣に自分たちの将来を考えてきた結果がこの「危機」なのであれば、周囲の取り巻きはいかんともしがたいのではないだろうか。皇室のYを存続・継続するのが大命題ならば、皇族自身が懸命に取り組まなければならない事案。世界でもまれな皇室のYの存続。それを内閣とかが、法をまげて解釈したり、新法を作ったりしていいものだろうか。
 「医学の進歩は日進月歩」と言われ続けて久しい。しかし、皇室のYを持続可能にする「男女産み分け」さえもできないでいる。
 皇室自体もYの存続ができない。そして医学の力をもってしても不可能。できるのは法をまげて解釈したり、新法を作ることだけなら悲しい。そのようなドタバタ劇は見苦しい。
この際、事態の推移を静かに見守ったらどうか。必ずしも断絶とはならないかもしれないからだ。積極的に廃止論を進める団体もある中、自然に消滅しようとするなら、「是非もない」ことではなかろうか。

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続・存続の危機

2019-05-19 20:48:45 | 私見偏在

 動物行動学研究家でエッセイストの竹内久美子氏の意見。
 人間は22対の常染色体と一組の性染色体を持っている。性染色体は女でXXで、男でXYという状態だ。常染色体と、女の性染色体の場合は対になっているので生殖細胞がつくられる際に交差が起きる。染色体のどこかに切れ目が入り遺伝子を交換するのである。
 男の性染色体であるXとYは、女と違い対になっていない。そのため交差が起こらない。よってYは父から息子へまるまる一本、ほとんど変化することなく受け継がれる。
 日本の皇室では少なくとも、千数百年にわたり、ほとんど同じYが受け継がれている。Xや常染色体上の遺伝子は交差などによってばらばらとなるなど、世代を経るごとに変化するのに対し、Y上の遺伝子はしっかりと保存されているのだ。
 天皇の近い血縁に男系の男子が存在しないことがしばしばあった。その際、系図をたどることにより確かに男系である男子、今で言う皇室のYを受け継いでいる男子に皇位を継承させている。
 染色体も遺伝子も何らわかっていない時代に、なぜそんな的確な判断がなされたのか不思議だ。もしかすると父から息子へは特別な何かが伝えられる、と皆が共通して認識していたのかもしれない。
 日本の皇室は千数百年にわたり、ほとんど同じYを継承している。こんな国はどこにもない。
 我々(われわれ)は千数百年間も受け継がれてきた皇室のYを決して手放してはいけない。どの国が、どう逆立ちしても敵(かな)わない、最強のYとその継承の歴史を我(わ)が国は持っている。天皇陛下となられるお方は、男系でなくてはならないのだ。と結んでいる。(続く)

 

 

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皆殺しの流儀 2014年 95分

2019-05-19 20:46:55 | 映画

作りがすごく「雑」。おじいさんたちが大暴れする。設定は面白いがどういうわけかチープ感が漂う。
 

  評価 B

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リベンジ・キラー 2014年 80分

2019-05-19 20:44:00 | 映画

無駄なセリフのオンパレード。ここまで喋り捲る必要性はない。
 

  評価 B

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存続の危機

2019-05-15 20:32:18 | 私見偏在

 前回「修復・復元は意味はあるのか」を載せた。それと関連して天皇制について述べてみたい。
 聖書の中に「天は自ら助くる者を助く」という言葉がある。平たく言えば「自助努力をしない者を誰も助けることはできない」の意。
自助努力をしたかどうかは別として、元号が変わるあたりから、現在の「天皇制が存続の危機に立っている」という記事を頻繁に目にするようになった。
 正論2017年8月号によると「皇室典範は女性皇族は結婚とともに皇族の身分を離れることを定めている。しかし結婚後も皇室に残れるようにしようというのが女性宮家」とし「二千年以上に及ぶ我が国の皇室の歴史において、結婚により民間出身の女子を宮中に入れたことは数多の例がある。今から千六百年以上前から、藤原氏をはじめとする有力氏族は娘を皇室に嫁がせてきた。しかし、民間の男子を皇族にした例は一例もない。民間の男子を皇族にするというのが女性宮家」という説明。「皇室は外部の女子は受入れてきたが、外部の男子を一人も受入れてこなかった。それが男系継承の趣旨。政府与党の女性宮家の拒絶は、女性を排除するのではなく、男性を排除する考えなのである。これは男尊女卑ではなく、むしろ女尊男卑というべき」とある。
これこそが「日本が世界唯一の単一王朝国家だと呼ばれている所以」とし「今上帝まで125代、2700年にわたって万世一系の天皇が存在しているということを指している。世界にこのような体制は存在せず、ローマ帝国でさえ1000年強の歴史」とある。「今のままでは天皇制はいずれ崩壊」するのを防ぐため、女性天皇や女系天皇・女性宮家の検討が行われている。しかし、いずれにも短所があり結論は見られてはいない。(続く)

 

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修復・復元は意味があるのか

2019-05-12 20:57:16 | 私見偏在

 歴史的な名画や建物を修復・復元している光景を目にするとき、その「必要性はあるのか」と思ってしまう。
 修復・復元と言っても、完成した結果が正確なのか確かめようがないからだ。何百年も前の作品。文献があっても、カラー写真もなく建物の形などは修復・復元できたとしても、色彩は想像の域を出ない。また、泰西名画などレントゲン写真では「作者が前の作品を塗りつぶしてその上に制作」した、という説明もあるが、「作者」とは限らない場合もあるという。
 つまり最初に購入した人間が「手を加える」こともあるらしい。直接手を加えた人間がプロの画家だったりすると、話は面倒になる。
作品が最初の作者だけのものなのか、加筆した人間も含まれた作品なのか、何百年も経つとわからなくなる。
 つまり私が言いたいのは、修復・復元する際に忠実に作業を行ったとしても、原画にはなかったモノが加わることもあるということ。
私が聞いた話では、最初は牛が一匹しかいなかった作品に、購入した人が「それじゃあ、寂しい」ということで二匹ほど加筆したという逸話もあるらしい。
 名画であればあるほど、修復作業の際に修復画家が「何かを加えたい」と思う心も理解できる。
 石でできた建造物でさえ、何百年も同じ姿をとどめることはできない。絶世の美人でも寄る年波には勝てない。どんなに高額な化粧品を塗っても、美しさをとどめることはできない。そう考えると修復・復元の意味は複雑だ。「ものみな無常」という観点から考えると、荘厳で豪華絢爛な作品・構造物も「やがて滅び去る」運命にあるのだ。そう認識することから修復・復元の虚しさを考えてみた。

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劇場版・必殺シリーズ

2019-05-12 20:55:01 | 映画

 三作ほど見たが期待外れだった。テレビで評判をとると「即映画で」となるが、『相棒シリーズ』もそうだが、期待外れとなってしまいがちだ。
 なぜだか考えてみた。テレビでは一時間の枠、映画となればそうはいかない。
 例えば6号程度で緊張感がある絵画を、100号にしたようなものだ。画面が大きいからといって単純に引き延ばしてしまっても、どこか間が抜けて見えるだけ。

 

  評価 B
 

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高齢者にはマニュアル車限定で

2019-05-08 20:53:29 | 私見偏在

 高齢者によるオートマ車、ペダル操作のミス。重大な事故が続いている。一律に免許返納を強制する方向に世論が傾きつつあるが、果たしてそれでいいのだろうか。
 都会と違い田舎では、「買い物・通院に不便だから」という切実な老人の訴えも、かき消されるような勢いで、世論は免許返納に舵を切っているように思える。
 「買い物・通院に不便だから」という訴えも、他人を危険にさらすような運転が許されるはずはない。
 「自動運転システム」の普及も今しばらく時間がかかりそうだ。A地点からB地点に移動するだけならそれもいいだろうが、免許を取得した当時の「車を駆る」という情熱を、第三者が勝手に消滅させることが許されるのかと思ってしまう。
 「情熱のある老人」は「マニュアル車限定」という強制は受け入れるはずだ。たとえオートマ車免許の人でも情熱さえあれば、マニュアル車免許を取得して運転できるのだから。
「車を駆る」という原始的欲求は「何物にも代えがたい」と思えば、老人たちにも許容されるはずだ。
 「何かを付加して」今より車の構造を複雑にするよりは、現行法に少し手を加えることで解決されるのだ。
 実際の事故率の比較でも、オートマ車よりマニュアル車のほうが事故率は低いのだ。
 声高に「免許返納」を老人に迫るより、効率的に解決する方法をとるべきだ。

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続・十連休後の五月病

2019-05-05 19:43:46 | 私見偏在

 なぜ「休み明けに憂鬱な気分」に襲われるのか、については諸説がある。休みという緊張感から一時的に解放されるが、終了と同時に再び緊張感のある世界へ戻ることへの恐怖・拒否したい気持ちがごった煮状態となる。しかし、自分ではコントロールできないまま成り行きに任せて以前の状態を受け入れることになる。などと自分勝手に考えてみた。
 「現状維持」を容認しているわけではないので、そこには常に「葛藤」がある。
 「ならばどうする」しかし「どうにもならない」ので、「逃避行動」に出るのではないか。それが五月病なのだろう。
 「逃避行動」から次の行動に出られる人はいいのだが、「逃避行動」をとったことに疑問を感じたり、恥ずべきことだと考えてしまうと、にっちもさっちもいかなくなる。いわゆる「動きの取れない」状態に陥ってしまう。
「五月病」という言葉にも問題がある。この現象は病気などではなく、自分が招いた結果なのだから……。とるべき選択肢をとらなかったことに問題があって、「五月病」だからといって、医者が治せるものではない。
 「病気」という言葉を安易に使うと解決法を間違ってしまうことがある。
 例えば覚せい剤を使用して、抜け出ることができないでいる人を「病気」と言ってしまったり、万引きをやめれない人に病名を付けたりする行為。これは病気などではなく本人の意思の問題なのだ。「やめようと思ってもやめられない」から病気なのではなく、本人の意志の弱さを「病気」と呼んでいるに過ぎない。なので「五月病」は病気などではない。

 

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パスファインダー 2011年 95分

2019-05-05 19:42:06 | 映画

戦場もので、とりとめのない兵士の会話が続くのは大概見る価値がないものが多い。
 

  評価 B

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血のバレンタイン 1981年 90分

2019-05-05 19:38:09 | 映画

進展がとろい。そして定番の無駄なセリフ。
これは途中下車しかない。題名が気に入ってみてしまったが後悔した。
 

  評価 B

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