「愛は自由、罰するのはおかしい」として、ドイツでは近親婚を認める方向へ進むようだ。
離れて育てられた兄と妹が邂逅、互いに惹かれ合った結果、四人の子供を儲けてしまった。
二人の愛を法律で罰するのは不合理、ということで立法化こそしてはいないが、認知する方向で動いているようだ。
ヨーロッパでは「近親相姦」についての法律は、国によりまちまち。
「法があるからやらない」のか「法がなくてもやらない」のか「法が個人の愛に介入できるのか」・「愛の結晶の行方」はどうなるのか、近親婚はいろいろな「ゆゆしい」問題を内包している。
「タブー」という言葉。ポリネシア語で禁忌と訳される。広辞苑には「社会的に厳しく禁止される特定の行為」とある。法律が社会規範として、体系を整える時点までは「掟」が法であった。「してはならないこと」を守ることが、民族の優秀性の指標であったはずだ。
「食人と近親相姦」の歴史は世界のどの民族にもあった。「食人と近親相姦」を繰り返すと、その民族は確実に人口を減らし、その体(てい)は奇形を伴うことが当時から理解されていた。
なので、学術的な裏付けがなくても、タブーとして禁止してきたのだろう。
子供のころ、近所に十姉妹(ジュウシマツ)という鳥を大量に飼っている家があった。大きな鳥かごにたくさんのの鳥、そこで交配が繰り返され羽の短い鳥や、しっぽのない鳥が多く見られ「異様」な光景としていまだに記憶に残っている。
テレビでは特にニュースがない時に備えて、抑えておきたいキーワードがあるらしい。年寄・子供・動物・皇室……。
ニュースの中にこれらが登場した時は、目新しい「ニュースがない」時。
少し前までだと「きんさん・ぎんさん」や「五つ子ちゃん」、「かるがも親子の引っ越し」などがある。最近の皇室報道では、人気のプリンセスの動向が逐一報告されている。
このごろでは、「ゴミ屋敷」が挙げられる。ゴミ屋敷の誕生からその顛末を見せるものではなく、思い出したように取り上げ「かじりかけ」で終わっても何の問題もなく、テレビにとってはすこぶる「都合のいい」存在なのだろう。ゴミ屋敷の成り立ちは、特に特殊な事情もないのかもしれない。
毎日の掃除を少しづつさぼっていたら「こうなった」のではないだろうか。
「日常の些事」の継続をほんの少し「さぼった」結果だとしたら、「ルビコン川を渡る」前に何とかなったことだろう。「もういいや」と思った瞬間は「日常の些事」に翻弄されることなく、「自由を謳歌」する喜びがあったことだろうが、その後はただひたすら「我慢」の連続を強いられることになる。ネズミやゴキブリはもちろん、昆虫図鑑にも載っていなさそうな、得体のしれないうごめくモノ達との同居。鼻は一番「環境に慣れやすい器官」とはいうけれど、鼻は曲がらずとも心は歪曲してしまいそうだ。「なぜこうなったのか」の要因の中に、こうしなければ近所との接触が図れない人もいそうな気がする。
全編に流れる「自堕落と不潔」。このテーマを中心に据えてコメディ化を図る勇気には感服させられるが、私は好きにはなれない。見ていてイラつくのだ。「こんな奴が成功したり幸せになってはいけない」からだ。コメディだから笑う場面があるとしても、「いびつな笑い」でしかない。せめて映画では病的ではない健全な笑いを提供してほしい。
評価 B
話があまりにも奇想天外過ぎて違和感がある。一番多くハリウッド映画化された作家として超有名なスティーブン・キングなのだが、わざわざタイトルに「スティーブン・キングの……」と断っている点で、スルーしたほうがいいようだ。『スチーブン・キングのシャイニング』もゴミだった。超有名な作家のものでも「ヒットは確約されない」という見本。
評価 B
多くの観客を「怖がらせたる・びっくりさせる」のがホラーの目的のはずなのだが、それに徹しきれない作品が多い。
精神科隔離病棟内の物語。と言うと何かおぞましさが付きまとうのだが、この作品ではきれいなお姉さんたちが、音楽に合わせて踊ったりするものだから、すっかりホラー感を忘れてしまう。
ホラー好きの観客は、酸いも甘いも経験済みなのだから、ホラーに徹する描き方をしてもらいたい。
隔離病棟内の物語にしては「絶望感」が足りない。
評価 B
オムニバス映画的手法で語られる「大人」感に満ちた作品だ。
素晴らしい脚本と役者と音楽があれば、こんな映画ができるのだろう。タイトルにあるように、煙草の煙が登場する人物たちを際立たせる。出てくる人がみんなヘビースモーカーなのだ。
自分のたばこ店の店の前を、毎日定点撮影する男。同じ時間にシャッターを切る、几帳面とは言えないタバコ屋の親父が醸す雰囲気と、語るクリスマスのエピソード。
「信じる者が一人でもいれば、その物語は真実に違いない」作者の言葉がいつまでも心に残る。
評価 A
いじめ自殺が報道されるたびに「心の叫び・心のSOS」に気が付かない教育関係者を非難する識者がいる。たいがい、テレビに映された非難される側の校長や教育委員会の面々は、「保身」という最後の砦にどっぷり浸った、だらしのない姿をさらすこととなる。校長も教育委員会も教師同士の「なれ合い所帯」、公務員の身内に甘いのはいつものこと。互いの傷をなめあって「つつがなく」そして「年季明け」を待つ身であることには変わりはない。
こういった土壌では、いつまで経ってもいじめはなくせないし、いじめを苦にした自殺は今後も続くだろう。
だったらどうしたらいいのか。繰り返されるいじめに、泣き寝入りで対処するには体力がもたない。ならば「反撃無罪」を立法化するか。日本では到底無理。だったらこういう考えはどうだろう。いじめによる自殺者を出した学校の校長先生の退職金を、被害者遺族に全額供与しなければならない、という法律を時限立法でもいいから早急に作ったほうがいい。日本の公務員は、責任を取らないような制度の中で暮らしている。専門家という人種に至っては、ああだこうだと言った後に「難しい問題ですね」で締めくくろうとする。
学校の校長は自分の職場全体に責任がある。校長の職は長年「つつがなく」勤め上げた最後の「ご褒美」ではないはずだ。いじめによる自殺者を出したということは、職務怠慢・契約不履行・重大な過失ということになる。
「知らなかった」で済む話ではない。
「いじめを受けた」と親や先生・警察に届けても、通り一遍の「受理手続」しかしてもらえないのが現実だ。親は「先生に相談してみろ」とか「やられたらやりかえせ」ぐらいの答えしかしてやらない。親が、社会的に認識されている職業に就いているほど、「些細なこと」で生活基盤を失うことを望まない。
学校の先生は、商売相手が子供なので、世間では「大した仕事をしている」とは見ていない。教師として「教える技術」はあるにしても、教師自身が「教育者」として行動するには、社会的に「枷(かせ)」が多すぎる。よって問題を「先送り」にして、はぐらかすことしかできない。
一方、警察はいじめを「子供同士のけんか」と考え、暴力とは認識していないので、「刑事事件」として行動はしないことになる。
殺されたりすれば事件なのだが、いじめを苦にしての自殺は、当の本人がもう存在していないので、「一件落着」の要素が大きくなる。
このように、いじめを取り巻く環境は「加害者に有利」に働くことになる。考えたくないことではあるが、この不条理性から出発しなければ、物事の解決策は生まれない。
たとえクラスを替えてもらったり、転校しても社会に出ても、その「先々」でいじめはターゲットを待っているのだ。「憲法9条・外交・不戦の誓い」も、いじめの前には何の意味も持たないのだ。言論人・文化人・教育者よ、もっともらしい能書きを言う前に、弱者の「心のシグナル」にそろそろ反応してくれないか。
娘を守るために奔走するスーパーマン・パパの物語。あまりにも超人過ぎるパパ。娯楽作品として見れば100点。エンターテインメント性は十分すぎるくらい詰まっている作品だ。これはこれで素晴らしいが、二度目はない。
評価 B
サスペンスとしてはA級だ。しかし長すぎる。あまり長いという認識はないのだが、それはセリフ回しが完璧なせいだ。観客を飽きさせないからだ。
とんでもない女の物語。しかしなぜ自分は失踪し、亭主を貶めなければならないのかがわからなかった。何度か見るとわかるかもしれないのだが、あまりの長編にその気が萎えてしまった。
評価 B
このドラマはこれだけで見ると何とかなりそうだが、この前に(1)があることを完全に無視して鑑賞することはできない。
(1)があったから(2)も作られたわけで、どうしても(1)との比較になってしまう。(1)を名乗らずに(2)を作ってほしかった。
評価 B