光画繚乱

映画と写真、どちらも「光」が関わるので、そしてそれが「錯綜し合う」ということから、ブログタイトルを光画繚乱としました。

根が深い危機意識の欠如

2019-10-30 21:03:58 | 私見偏在

日本人の危機意識の欠如が、この頃とみに際立った感がある。今回の豪雨による浸水被害。被災者たちは一様に「自分だけは大丈夫と……」とか「まさかこんなことが起きるなんて」や「50年以上住んでて今回が初めて」などとインタビューに答えていた。
 行政側も「50年に一度程度」の災害がほぼ毎年やってくることに、特別なコメントもない状態。行政の避難「指導」も一般の人にはなじみがなく、どれがどうなのかの区別もわかりにくい。行政にしてみれば、いつものように責任は取りたくないので、どうすれば責任を逃れられるかが一義的な問題となる。そこを見透かして住民も本気を出すことなく過ごしてしまう。
 多くの浸水被害から、ハザードマップの重要性を住民も見直したと思うのだが、そもそもハザードマップの製作は「各自治体が独自」に作ったと思っている節がある。
 地図を作っている「国土地理院製作」を、もっとアピールする必要があるように思える。それほど地方自治体の信用性はないのだ。
 災害は「天災だから」仕方がない、というあきらめが国民に蔓延すると、景気にも悪影響を与える。「天災だから」のあきらめが行政側の怠慢を助長している。その一つが川の水位を計る「水位計」だ。行政が「忙しいから」と言えば壊れたままにしていてもかまわない、という驚くべき姿勢が見られた。(続く)

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ゴールポストの変更

2019-10-27 20:30:43 | 私見偏在

 東京オリンピックのマラソンと競歩がIOCのトーマス・バッハ会長の「鶴の一声」によって、札幌に移すことを「決めた」という。開催まで一年を切った時期にである。「アスリートファーストの猛暑対策」ということらしい。
 この時期になって「ゴールポストの変更」というと、日本人なら「あの国」を思い出す。まさかとは思うが「うさん臭さ」を感じたのは私一人ではないだろう。ロビー活動か買収かは解らないが何らかの「力の気配」を感じさせる。
 2002年のサッカーワールドカップの日韓共同開催の件。サッカーファンならずとも何らかの「力学」を感じたものだ。青い柔道着着用の件や、空手を差し置いて空手から派生したテコンドーが正式種目になったり。長野オリンピックの際の日本勢ジャンプの成績が良ければ、スキー板の長さの変更など「日本つぶし」と思われる露骨な「ゴールポストの変更」は目に余るものがある。
 何らかの「魂胆を持った者たちのよこしまな意図」を感じさせる。スポーツをかくも「悪臭を放つもの」にさせた原因は何なのだろう。
 以前空手の大山倍達氏はテレビで「空手はスポーツになり下がった」と言ったことがある。一般の人たちはスポーツに「神聖」を求めたりしがちだが、大山氏の「なり下がった」発言は、今日のスポーツのなりようを言い当てていたのではないだろうか。

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山猫は眠らない2 狙撃手の掟 2002年 90分

2019-10-27 20:27:00 | 映画

 「息詰まる狙撃戦」は期待できない。ラストに登場する狙撃手も、あまり活躍しないままで終わる。
 狙撃の場面の迫力では『プライベートライアン』や『極大射程』にはかなわない。主役のキャラクターに頼った作りになっている。
 

  評価 B

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もう一度・最終章・先生たちのいじめ

2019-10-23 20:26:45 | 私見偏在

 以前「でもしか先生」という言葉が流行ったことがある。就職を控えた大学生が「先生にでもなろうか」とか「先生にしかなれない」という一種の「嘆き」を表現したものだろうが、胸糞の悪さを感じたものだ。子供の教育という壮大かつやりがいのある職業を前にして、このような言葉が出てくることに驚きを感じる。
 この言葉からは「能力がなくても先生はやれる」とさえ聞こえてくるようだ。そんな人間がいくら集まってもろくな仕事はできまい。
人は「手に職をつける」ということで「職人」を選ぶ場合、金銭が目的とはならない。「職人」は客の喜ぶ顔やありがとうの一言に生きがいを持つ。人材確保法で集ってきた「でもしか先生」たちにこの矜持を求めることは意味がないのだろう。
 「先生たちのいじめ」があった校長、教頭時代も同じ職場にいてもいじめの「現場」を見ていないという。いじめの「下地」を作った前校長も校長室で「執務に励んでいた」ため、やはり「現場」を見ていないらしい。
 これは不可抗力などではなく、「職務怠慢」である。職務の遂行を怠っても給料を満額もらっているとすると債務不履行となり、「詐欺」と言うべき事案。学校という「聖域」に「詐欺」は必要ない。
 また、いじめを行った者たちは、のうのうと「有給休暇」を楽しんでいるようだが、学校関係者は「逃げ得」をさせてはならない。
「悪いことをしたら、みんなの前できちんと謝ろう」と教えてやってほしい。これは単なるいじめなどではない。犯罪であるから。

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最終章・先生たちのいじめ

2019-10-20 19:28:49 | 私見偏在

不祥事のたびに「お偉いさんたち」が記者会見の席で、一斉に頭を下げる光景は「見慣れた風景」・定番となってしまった。頭を下げられても本当の反省を伴っているかは甚だ疑問だ。簡単に頭を下げても「職を辞す」という行為には直結しない。「職にとどまり責任を果たす」と言いながらも、時の経過でさらに窮すると、前言を撤回してさっさとやめてしまう。
 「政治家が悪い見本を見せるから世の中が真似をする」と言った評論家がいたが、まさしくその通り。こういう人間たちに本当の反省を迫るには「罰金」というお仕置きが一番効果がある。
 どの職業でも矜持のある者は簡単には頭を下げないはずだ。今はすたれた言葉だが「武士は食わねど高楊枝」と言われたことがある。矜持を持たない者は頭を下げることをいとわない。何回でも下げることができる。かつてテレビで一斉に頭を下げる光景を思い出すと、矜持を持たない面々が浮かぶ。そのほとんどが「金の亡者」だ。職業意識が希薄で「私たちも労働者の一員ですよ」と言ってのけた先生がいたのを思い出した。自ら教育という聖職を捨て去ることができる。
 記者会見で「認識不足」と自認した校長。認識不足などではなく、校長としての「資質に欠ける」と言ったほうがいい。ガバナンス能力がないのに校長を引き受けたのだから給料は返納すべきだ。頭を下げたり・泣いたりしても許されることはない。
 「鬼の目にも涙」ということわざがあるが、当該校長の苗字は仁王。「仁王の目に涙」は不釣り合いだ。

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ヒート 1995年 171分

2019-10-20 19:24:32 | 映画

アルパチーノの刑事とロバーデニーロのギャングという設定が面白い。市街戦のシーンは伝説的な仕上がりになった。登場人物が多くなかなか整理がつかないが、複数回の鑑賞で解決できる。この作品は複数回鑑賞する価値がある。
 ラスト、ロバーデニーロは「女か仕事」を選ばねばならなくなるが、躊躇の末決定を下す。そこが「男の世界」を感じさせる。
 作品全体が「男臭く」また男の「未練がましさ」が漂う。ギャングの仕事を成功させたい気持ちは、ボニーとクライドを描いた『俺たちに明日はない』や『明日に向かって撃て』
などを思い起こさせる。

   評価 A 

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続々・先生たちのいじめ

2019-10-16 21:18:46 | 私見偏在

「いじめ」はどの社会にもある。学校現場に限ったことではない。警察内部のいじめも新聞種になっている。高じれば署内での自殺にもつながる。
 パワハラやセクハラ・モラハラ・マタハラなど、マスコミは「なんとかハラ」という言葉を乱造しがちだが、オピニオンリーダーとしての解決法は提示できないでいる。なぜなら単なるモラルの問題として「法律」が存在しないのだ。人間として「いかがなものか」などと他人事のように唱えていれば「足る」ことになる。
 法がなければ法を作るしかないが、立法府たる国会の議論はいまだ「モリカケ」問題。根拠のない観念論をまだ国会に持ち込もうとする野党。ある新聞記事を片手に政府に詰め寄る醜態に、国民はそっぽを向いているのがわからないのだろうか。女性議員の♯MeTooなどのパフォーマンスはもういいから、「法の不備」をただす方向に向かってくれないものか。立法府には本来の仕事があるはずだ。
話は前に戻すが、不正行為をした教師たちの「逃げ得」を許さないためには、この事案を「黙認」または「ガバナンスの欠如」をした校長に責任を負わせるしかない。学校内を統括する責任が校長の言う「認識不足」のせいにしてはならない。認識不足イコール校長としての資質欠如なのだから、校長としての報酬の大半は返納しなければならない。職務怠慢や契約不履行を問う必要もある。契約不履行ならば「詐欺」として立件しなければならないはずだ。
 校長としての能力に欠ける人間を校長にした人間・機関にも責任が及ぶと考えるのだが……。(続く)

 

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続・先生たちのいじめ

2019-10-13 20:09:40 | 私見偏在

戦後のベビーブーム時代の先生たちの給料は相当低かった。通勤は列車・バスが主流。中にはオートバイや軽自動車などがあったが、総じておんぼろ車であった。先生たちの駐車場などはあろうはずがなく、生徒の自転車置き場の横にひっそりと置かれていた記憶がある。
 1974年、田中内閣による「人材確保法」による先生たちの給料は一般公務員より高く設定された。今回のおぞましい事案も「人材確保法」が発端である。
 この法案によって先生たちの給料は確保されたが、このあたりから「校内暴力」が全国各地に広がることとなる。1970年代末期から1980年代にかけこの傾向は顕著になる。先生たちの給料が上がると同時に学校が荒れだした、と言っても過言ではない。なぜか、給料が低くても「やりがい」と「熱意」と「誇り」
が当時の先生たちを動かしていた。しかし一旦給料を上げると給料につられて人が集まる。
頭数(あたまかず)が必要な時はこれでもいいのだが、教育者としての矜持に問題が生じることとなる。教育者としての資質がないものも混じることとなり、学校が荒れ当該事案の発生につながる。
 この頃の先生たちの駐車場には、四駆や高級なハイブリット車が並ぶ。高給・毎年同じ授業内容・商売相手は子供・夏休みや冬休みあり、などに魅力を感じて、矜持を持たない人材が確保されても困るのだ。
 行き過ぎた「熱血指導派」から「無気力派」まで「様々な人材」を抱え込んだ教育現場は大変なことは解るが、不適切者を排除する勇気も必要だ。法がなければ作ることだ。「逃げ得」は許されない。(続く)

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ネイビーシールズ・ナチスの金塊を奪還せよ 2018年 105分

2019-10-13 20:03:43 | 映画

イントロ部分だけ迫力があったが中盤からラストがくだらない。あまり見る価値がない。
 

  評価 B
 

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先生たちのいじめ

2019-10-09 20:08:29 | 私見偏在

 神戸市の小学校で起きた「先生たちによる先生へのいじめ」は底知れぬ根が深いものと思われる。事件の内容が非常に幼稚なのに、根の深さは生徒間のいじめと同様なのだ。学校や教育委員会など関係機関の「隠ぺい体質」と公務員の「事なかれ主義」が起因している。さほどのことがなければ退職間際のほぼ二年間は「校長」としての「箔」が約束されている現実。かつてのように5年間も校長を務めた事例は少ない。最後の二年間は誰でも校長になれる制度はありえないはずだ。個人の能力は関係ないため、何らかの事件が起きると記者会見の席でも一様におろおろとした「醜態」をさらすこととなる。たかが「二年間」なので事件が起きないように・事件が起きても嵐の過ぎることを念じていれば済むことになる。彼ら校長にはガバナンスのかけらも感じることができない。
 「ことを大きくしないで、できれば隠ぺいする」・「精査を理由に時間稼ぎ」・「嵐の通過を待つ」だけで「責任逃れ」は成立する。
「地球温暖化」と同様に「医者不足」や「先生は忙しい」などが既成事実のようにワンセットになっているようだ。しかし本当に「先生は忙しい」のだろうか。これほどの悪辣ないじめを集団で行えるほど、時間に余裕があるのではないか。忙しいように見せることが教師としてのステイタスなのか。
 一般社会人たちの商売相手は大人。彼らの「商売相手は子供」なので、おのずと幼稚な考えになりやすい。
 大学まで生徒・学生だった人間が、一夜明けると先生と呼ばれる。この「不自然」を不自然と思わない神経が問題なのだ。(続く)

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最終章・地球温暖化はもはや常識なのか

2019-10-06 19:51:40 | 私見偏在

 ニューヨークで開かれた国連気候行動サミットで演説したスウェーデン人の環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリさん(16)は、1990年・米国議会下院の公聴会で泣いた15才の少女ナイラを連想させる。これらのことから1970年代カンボジアで台頭したクメールルージュを思い出した。指導者ポルポトは知識人をことごとく虐殺し、農業を基にした原始共産主義社会建設を実行した。「子供の目は純粋」だ、として共産主義に疑念を抱く者を子供が指さすことで処刑した。子供に国民の生死をゆだねたのだ。
 多くのマスコミがグレタ・トゥーンベリさんの国連での演説を称賛している。顔をゆがめて世界の指導者を悪しざまにののしる態度がそんなに素晴らしいことなのか。国連の誰一人としてグレタ・トゥーンベリさんに「学校に戻ってもっと科学や気象学の知識を学べ」と言わないのはなぜだろう。16歳の少女の科学知識が世界中の学者よりも優秀だとでも考えているのか。「情にさおさせば流される」の現代版と言えなくもない。
 「少女の純粋な心」を否定する人はいないはずだが、自然科学の分野とオーバーラップさせることには相当の無理がある。宗教と科学、法律と科学、ファンタジーと科学は決して折り合わない。マスコミも科学者も一般人も「冷静」さを取り戻してほしい。科学を感情で丸め込むことを恥と感じてほしいものだ。

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マッドマックス 怒りのデスロード 2015年 121分

2019-10-06 19:40:30 | 映画

アクションシーンの連続。正直、くたびれる。食傷気味を通り越して胃もたれしそう。
 

  評価 B

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続々・地球温暖化はもはや常識なのか

2019-10-03 19:38:12 | 私見偏在

 ネットからの記事。「地球温暖化を防ぐため、人は亡くなった人間を食べれば良い」とスウェーデンの大学教授が地球を救うためカニバリズム(人肉嗜食)を提唱している。
 人間の共食いを推奨するのはストックホルム商科大学のマグナス・ソダールンド教授。「動物の肉や乳製品を常食とすることは、持続可能なものではない」として地球環境保護や食糧危機への取り組みの中で昆虫食を提唱する専門家も多いなか、ソダールンド教授は「亡くなった人の遺体を食べる方が地球には良い」と指摘している。
 もうここまでくれば「常人」の領域ではなくなる。これでは「地球環境カルト」か「地球環境原理主義」と言われるレベルだ。
 こんなとてつもない人たちが登場するだけで、地球温暖化説を疑問視する人が増えていく。地球温暖化を標榜する人たちは、もっと学術的に感情を交えずに学説を展開できないものか。地球温暖化に異議を唱える学者が現れると、なぜ意見を戦わせることなく「名誉棄損」訴訟に訴えるのか。科学者としての矜持はどこへ行ったのか。裁判所が六法全書をもとに、科学の分野に意見を言うことなどできるものなのか。すぐ「名誉棄損」訴訟に踏み切ることは、自説の「根拠が揺らぐ」とでも思っているからなのか。地球温暖化説を唱える学者は、これらの点について「逃げ」ずに答える義務がある。(続く)

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