神々の暴走 goo.gl/yRfi3M
— 石川 則夫 (@noriostone) 2017年11月29日 - 10:21
日馬富士の暴行事件が連日報道されている。各テレビ局、どれもこれも「決定打」はなく横並び状態。と言うのも、事件に関係した人物たちが一斉に口を閉ざし、有識者・コメンテーターも「また聞き・推測・噂」の域を出ていないからだ。警察の捜査を待つだけとは言え、内在していた相撲協会内部の確執が、ここへきて一気に表面化したということか。
相撲協会も学校教育現場も、ガバナンスが欠如している点で一緒だ。
「つつがなく」を是とするこの二つの組織は、順風しか考慮していないので、逆風には機能しない。「常在戦場」とまではいかなくとも、まったく逆風を考慮していなければ、世間に醜態をさらすことになる。
特に角界においては「横綱は神」なのだ。これは「お客様は神様です」と言った歌手の言葉とも違う。横綱は伊勢神宮で神様への奉納相撲をする。その際、まわしに幣束を付ける。これは神社の鳥居や神事に使う御幣と同じなのだ。ゆえに「横綱は神」なのだ。
なので、神は目下の者に説教する時は飲酒せず、些細なことで激高もしない。まして目下の者を何かを持って殴ることもない。
また神は、行司の裁定がたとえ間違っていても、異議を唱えたり礼を欠く行為もしないはずだ。
「業界で神と呼ばれている男」などと軽いものでは決してない。
相撲は「神事」であるので、横綱には特別な「心・技・体」が備わっている必要があるのだ。
日馬富士の陰に隠れて、白鵬の「待った」事案。「横綱は神」ならば、絶対してはならないこと。「潔し」としない白鵬の抗議は、大相撲にとって、実は日馬富士の事案よりも深刻なのかもしれない。
日馬富士が場所前の巡業中に、幕の内・貴の岩に暴行を加え怪我をさせた事件。連日、テレビで大きく報道されている。
相撲協会・当事者が一切口を開いていないので、昨日放映されたことが今日訂正されるなど、情報が錯綜し盛り上がってきた相撲人気に、水を差す懸念も出てきた。
テレビの視聴者も「また聞き」と「憶測」だけで報道されるのに飽きてきだしたかも。
すべてが相撲協会の「ガバナンス不足」が起因している。
貴の岩の師匠・貴乃花親方は現役時代「ガチンコ力士」と言われ、八百長に引き込まれないように他の部屋の力士との交流は控えていた。それが協会の中で孤立化を深めていたのだろう。
敢えて力士を「ガチンコ」と呼んでいるからには、世間的にも協会側としても「八百長」を容認していることになる。
「ガチンコ」を「融通が利かないヤツ」にしている現状は正しいのか。
相撲人気が回復してくるとまたぞろ出てくる「不祥事」。公益財団法人として、国民・マスコミは決してうやむやにしてはならない。
大相撲は「格闘技」なのかというと「神事」のニュアンスも含んでいる。
八百長が取りざたされると「神事」と言い、「神事」にしては、と疑問を挟むと「格闘技」でもあると言う。一般人から見ると逃げの「口実」に都合よく使われているようで、ピンボケ写真を見ているようだ。
そんな中、22日の取り組み、白鵬対嘉風戦で、白鵬は嘉風にもろ差しを許しそのまま寄り切られた。白鵬は「待った」を口実に勝負の無効を訴え、暫く土俵に上がらなかった。
礼儀を欠く横綱の行為に批判が集まっている。
「神事」か「格闘技」か。「神事」ならば潔く、「格闘技」ならば、わざわざ「ガチンコ」勝負などと言わないほうがいい。
「痛快娯楽アクション」感が感じられ、「イントロ20分」ももたない。
初めから薄っぺらい。せっかく有名俳優使いながら……。
評価 B
『ラストサマー』のリメイク版のような作品。
セックス狂いの若い男女。シリアスな場面での悪ふざけ。意味のないセリフの多さ。スルー作品にありがちな要素が満載。
初めから113分の「長尺ありき」感が漂う。
これはもう見る価値がない。
評価 B
前回は、重大犯罪を起こした犯人の家族の悲惨さを書いた。
誰にでも心の中に「殺したいヤツ」はいるはずだ。でも圧倒的多数の人は実行していない。具体的な実行方法も考えない。実行して自分一人が「責任」をとればいいというわけではないからだ。
実行を具体的に考え始めると、子供や配偶者・家族・親戚・職場のことが頭を過るはずだ。
私が子供のころ、少年雑誌に載った「深夜、土蔵の中で執筆中の江戸川乱歩先生」とキャプチャーのついた写真があった。その写真には暗い書庫のような土蔵の中に、ろうそく一本で執筆作業をしている乱歩がいた。「こんなところで怖い話を書くのか」とえらく感心したことを覚えている。
どんな異常な性癖も、江戸川乱歩や横溝正史のように「作品」にしてしまえば、罪に問われるどころか世間に歓迎される。
アメリカのスティーブンキングのように、全米で映画になった作品が一番多い作家だっている。
霧のかかった沼の水面に、にょっきりと突き出た二本の足。時計が時を告げると、生首がゴロゴロと転がり出てくる。そんな話も「作品」の中なら、読者も視聴者も大歓迎。
ぞくぞくする話なら大人も子供も興味がある。
ホラー映画がヒットするのは、人間の「怖いもの見たさ」が下地となっている。
「作品」の中では、どんな異常な世界でも、いや異常な世界ほど読者や視聴者・観客は喜ぶ。
犯罪が過ったら「作品」にして発表してみてはどうだろう。誰にも迷惑をかけず、世間から「先生」と呼ばれ、小説や映像で「表現」してみてくれないか。きっと評価は得られるはずだ。これなら外へ出る時も、両手で顔を隠すこともない。
ブルーに生まれついて 2015年 97分 goo.gl/2kfxv3
— 石川 則夫 (@noriostone) 2017年11月19日 - 10:49
糾弾される加害者家族 goo.gl/h6AKHR
— 石川 則夫 (@noriostone) 2017年11月19日 - 10:50
神奈川県座間市のアパートで、男女9人の遺体が発見された事件。「クーラーボックスの中に全員の首が保管されていた」とか、「肉と内臓はごみに捨てた」とか、衝撃的・猟奇的内容で世間の耳目を集めている。
加害者本人だけの異常な性癖が、このような事件を起こしたのだろうが、加害者の両親・兄弟・親戚も当然批判の目にさらされる。
「どのようにして異常者が生まれたのか」、幼い頃からの最も近い「取り巻き」にも焦点が集まる。
「NEWSポストセブン」の記事のタイトルは、「十字架背負う加害者家族」とある。
「その後」の加害者家族は、想像を絶する苦労を背負うことになる。ほとんどの加害者家族は転居を余儀なくされ、息をひそめて暮らさざるを得ないようだ。中には自殺に追い込まれたり、すでに決まっていた就職・縁談も取り消されてしまう。
誹謗中傷の電話もひっきりなしにかかってきて、精神的に次第に追い込まれていくことになる。
日常生活も立ちいかなくなり、ささやかな娯楽さえも避けるようになる。生涯喪に服するような生活を余儀なくされる。
「連帯責任」という言葉はなくなってはいないようだ。加害者は被害者よりも法的に保護されてはいるが、加害者家族にはそれがない。
社会的「正義」をかざす人たちが、被害者に同情するふりをして、加害者家族を攻撃する。
これは「弱い者には強く出る」小汚い発想なのだが、攻撃する本人は正義派を気取っているから質が悪い。
これらのことから、加害者が自分の欲望を優先させる前に、なぜ「結末以降」のことに考えが及ばなかったのだろうか。
音楽に従事する人たちは、今も昔も何で「ジャンキー」になってしまうのだろう。
「才能に詰まる」というのが真実なのではないだろうか。奏者も作曲家も、自分の力を極限まで出したいという欲求から、つい薬に手を出すのだろう。薬をやりながら演奏・作曲しても、聴衆も一緒に薬をやりながら聞かない限り、「その良さ」は共有できないはずだ。
まっとうな道を歩むほうが楽なのだが……。
評価 B
当時映画館で見て、その後、テレビでも放映された。かなりのショックを感じたものだが、今回、何十年ぶりに見直すと、ショッキングな内容は同じなのだが、若干薄らいでいるように感じた。世の中の「刺激」が多くなったせいもあるのだろうか。
劇中、なぜあれほどまでして、障害者をかたくなに守ろうとしたのか、やはりわからなかった。当時から変わらない感想、「母ちゃんがあれなら、ああなるのもしょうがない」。
117分ではなく90分以内に収めることができたら、もっと「迫力があっただろうに」と思った。
評価 B