樹木を加工してみた goo.gl/qQtsD8
— 石川 則夫 (@noriostone) 2018年6月29日 - 20:12
遅ればせながら「8050問題」という言葉をネットで知った。
以前にも触れたことはあるが、住宅火災で「二人の遺体発見」など、決まって高齢の親と50歳を過ぎた息子などの場合が多い。
犠牲者たちの人生、「何が原因でそうなってしまったのか」とか「ほかの選択肢はなかったのか」などと考えてしまう。
今「引きこもり」は、若年層だけの問題ではなくなっているらしい。若年で「引きこもり」、その後年月が経った、という経過があるという。60歳以上の「引きこもり」もいて、「8000問題」へと移行していくのも時間の問題なのかもしれない。
国もこの問題に関与しないと、経済面から考えても実にもったいない話だ。
というのも、彼らは働けるのに働いてはいない。すると「納税」もしていないことになる。
老人になって働けなくなると、あとは「生活保護」を受けることになる。
生産活動もしない・納税もしない・最後は国民の血税を使う。
多くの普通に働いている人から見ると、釈然としないものを感じる。
「引きこもり」の人に欠けているものは「恥」という考えだ。一方親たちは「恥」を考えるあまり、息子・娘の「引きこもり」を世間から隠そうとする。隠そうとして家庭内で処理する。心の中で彼らを「働かせたい」と思っても、口に出した結果重大な事件になる可能性がある。
「それを避けるためには、食事を与え続けるしかない」と考えるのだろう。
「引きこもり」の人に、働けるのに働かないのは「恥」だ、という精神を植え付けるのは大仕事だ。
教育評論家たちもスタジオで御託を述べるよりも、自身の持っている知識とスキルで彼らを社会に復帰させてほしいものだ。
ネットの記事、新幹線内の殺人事件は「25年前にもあった」というのを見つけた。
覚せい剤中毒の犯人は、サバイバルナイフを会社員に突き立てたのだという。
被害者遺族は労災の認定を求めたが、当初労働基準監督署は労災を認めなかったという。
さらに加害者は覚せい剤中毒だということで責任能力の有無が争われ、検察と弁護側が対立したらしい。
今回の事件でも「このような犯罪を防ぐ手立てはないのか」という議論が繰り返され、結論は「難しいですね」で終わっている。
毎回「二度とこのような……」という「決意」が示されるが、その「実効性」はないに等しい。
このように暴漢に会ってしまった被害者の仕事や家族構成・学歴・人となりを、いかに掘り下げて紹介してみても意味がない。
それよりも暴力を「防ぐ手立て」を構築することだ。
日本では、最初から意志をもって犯罪を遂行し完結させた者には法的に寛大だが、被害者が犯罪を防ごうとして、正当に防衛行動をとって犯罪者に被害を与えると、途端に厳しく対処されてしまう。いわゆる被害者が一転加害者として「過剰防衛」に問われてしまうのだ。
まったくこれでは、日本で「正義」など存在しないことになる。
この国では「自分の身は自分で守る」ことさえ「違法行為」になる。
全国の精神科病院でつくる日本精神科病院協会の山崎学会長が、協会の機関誌に患者への対応のため「精神科医に拳銃を持たせてくれ」という部下の医師の発言を引用して紹介した。
「欧米の患者はテロ実行犯と同等に扱われるようになってきている」というのがその理由だという。
法治国家の日本が、暴漢に肩入れし善良な市民の犠牲を「見て見ぬふり」ことは許されないはずだ。
久しぶりの本格的なドラマを見た。ある女の鮮烈な半生を描く。
109分のドラマなのに見ごたえがある。
いい作品は「画面の構図」が素晴らしい。
構図がいいと画面に引きずり込まれるからだ。
「泰西名画」を鑑賞した後のように、いつまでも脳裏に棲み続ける。
評価 A
列車の中でも町の中でも、正義感にかられた者が暴漢に立ち向かった場合、平和裏に解決すれば問題はないが、暴漢にけがを負わせたり、最悪の場合死に至らしめた場合、厄介なことが起きる。
この時点で暴漢は単なる暴漢ではなく、立派な事件の「被害者」に格上げされる。正義感に駆られて立ち上がった者は、最後に加害者でしかなくなる。巷ではこのような「不条理」がまかり通るので、正義感は封印せざるを得ない。列車の中でも街中でも、暴力に対して「傍観者」しかいないのは、このような日本独自の「順法精神」が支配しているからである。
緊急不正の暴力行為は「順法精神」のもと「事なかれ主義」に流され、決して阻止されることなく、暴漢の大願は成就される。
日本社会では衆人環視の中、犯罪はスムーズに遂行されるのだ。
女性たちの「男はいないのか」の叫びも、「法整備」の前提がなければ、むなしく響くだけだ。
ならばどうすればいいのか。暴漢の不法行為を増長させるだけの現行法の不備を直すことだ。
武器を持たない緊急不正の暴漢には、「重症を負わせてもいい」とすることと、武器を持った暴漢は「死に至らしめてもいい」という法整備を整えることだ。
現在行われている凶行を、直ちに阻止しなければならないわけで、官憲が現場に到着するまでは、犠牲者を出さない手法を取るべきだと考える。
そのためには、「その場」で働いている人たちが、仕事で使っているそれぞれの「道具」を持って「その場」に集結し、官憲が現着するまで犯罪抑止行動に着手すること以外にない。
順法精神に富むこの民族は、「法の不備」を補完することで「正義」を具現化できるはずだ。
新幹線内で起きた暴漢による死傷事件。加害者親族の、一種「他人事」ともとれるインタビュー映像が流れた。加害者家族の沈痛な表情を見たいわけではないが、肉親と加害者とのあまりにも「ドライな関係」を想像させる。
加害者の成長過程に、どのような汲むべき要素があったにせよ決して許されるものではない。
被害に会った男性は、危害を加えられた女性を助けるため犠牲になってしまった。
非常に立派な行為だが、援軍のいない孤軍奮闘状態のため力尽きた。加勢する「男はいないのか」と男性客をなじってみても意味がない。傍観を決め込んだ男性客にも、それぞれに守るべき家庭と仕事がある。一概に非難はできない。
懐中電灯やドライバーを所持していただけで逮捕される日本は「まとも」な国とは思えない。
450年以上にもわたる「刀狩」の歴史は今も生きているようだ。武器を持ち歩ける国も「まとも」とは言えないが、過剰に反応する警察権力を容認する社会も決して「まとも」ではない。
このような暴漢に会った場合、正当防衛や緊急避難が取りざたされる。しかし正当防衛は、官憲や自衛官のみの、実力行使を正当化するために存在しているのが現状だ。一方の緊急避難が成立する条件は、民間人にはハードルが高すぎる。「犠牲を最小限」という考えはそこにはない。
ならば「二度とこのような……」などと「かなうはずのない夢想」を語るより、「犠牲を最小限」について真剣に考えることだ。
男はなぜ「見て見ぬふり」をするか。それは「過剰防衛」に問われることを恐れるため、二の足を踏まざるを得ない現実があるからだ。
(続く)
話の内容がつかめない。正直「こんな映画」を作る意味が分からない。
映画はエンターテインメントなので、観客を喜ばせなければ意味がない。
「こんな映画」だと誰が喜ぶんだと思ってしまう。
評価 B
フランスものはなかなか物語に入り込めない特殊性がある。入り込むのを拒否するようでもある。ヨーロッパの排他性がそうさせるのか。20分で途中下車してしまった。
評価 B