ドイツLCC航空機墜落は事故から事件へと移った感がある。副機長が機長をコクピットから結果的に締め出し、機種を下げ墜落させたという。フランス警察の発表では、「これは自殺ではない。自殺は一人でするものだ」と述べた。しかし世界でも有数の語彙数を誇る日本語では、こういう場合「無理心中」という言葉を使う。「心中」とは一般的に、志を同じくする男女が行う自殺の一種だ。似て非なるものだが外国の例では「集団自殺」がある。カルト教団などの狂信的集団が、終末思想の具現化として試みられるようだ。
無理心中の場合、被害者の中には死ぬことを了承していない人も混ざっている。まさしく今回の事案では犠牲になった乗客・乗務員のほとんどが、死を望んではいなかったであろう。無理心中はこのように、単なる殺人でもなく、単なる自殺でもない「不条理」を秘めているのである。それゆえ、他の外国語には決して存在しない意味の深さを持っている。
マスコミの発表が正しければ、航空機を墜落させた副機長のボイスレコーダーに残された音声には「呼吸の乱れ」はなかったという。機長がコクピットを離れる前まで、二人で「正常な会話」をし、スムーズに機長を締め出し続け、機長が外から扉を破るために叩く音にも動ぜず、呼吸の乱れもなく平常心でアルプスの山に機を衝突させる。140人以上の人間を道連れに「粛々と目的を達成させる」凄まじさは、無理心中をも凌駕しているようだ。
よっぽど「無駄な時間がある人」向けの映画。コメディともファンタジーともつかぬストーリー展開に辟易。大人のファンタジーにするには、それなりの準備と覚悟が必要だ。
評価 B
選挙の際に所属していた党を掲げて選挙に勝利したのならば、党に不満があっても勝手に別の党に入ったり、新党を作って鞍替えしたりすることは、選んでくれた選挙民に対しては背信行為であり、契約不履行に当たるのではないだろうか。地元「支持者」に一応の説明をすれば済む問題ではないはずだ。日本の選挙制度は無記名投票なのだから、せめて選挙区での獲得投票数を超える選挙民の支持表明がなければならないことになる。どうやってそれを測るかは不可能なので、鞍替えしたければ、まずは国会議員を辞めてから再度選挙に出馬すればいい。こんな簡単なことができないまま、所属する党を出て、うまくいかないから「戻りました」では、普通は居心地が悪いはずだ。
国会議員は普通の精神ではないらしく、復党しても「堂々」としている。
家族の反対にあっても「愛を貫いた」結果、「DV男」だったとか「女たらし」だったと言って実家に戻って来た娘でさえも、肩身の狭さは感じている。世間知らずの娘と「渡らないのは鍋の淵」というセンセイたちとの比較は無理だが、図々しさにも程がある。
これも全て「寄る者」を拒まない党の姿勢に問題がある。拒まないどころか彼らに重要なポストを与え、結果、国際関係を今日までいびつにした経緯がある。最近ではN氏が、内閣の総意とも思えぬ行動で、近隣国とコンタクトを取っているようだ。
「出戻り組」は、外様大名として処したほうがいいのではないか。
これはジョン・ウエインの代表的な痛快西部劇だ。
ストーリーはいたって簡単、勧善懲悪・西部劇版とでも言おうか。「現代版事件もの」と違って、指紋採取やDNA検査や不在証明も一切関係ない。靴に泥が付いていれば「そいつが犯人」というわかりやすさなのだ。しかし痛快西部劇になければならない「必須アミノ酸」は全部揃っている。
とかくジョン・ウエインの出演する映画はわかりやすい。「あとで効いてくる」ような要素は全くと言っていいほどない。
この映画が上映された当時の日本でも、東映の痛快時代劇は多く作られていた。娯楽の少ない時代には、こういう映画が好まれたのだろう。
この作品は「ある場面」でも有名になった。
保安官事務所でディーン・マーチンが横になって歌い、リッキー・ネルソンがギターを弾く「ライフルと愛馬」という曲が流れた場面だ。傍で爺さんがハーモニカを吹き、ジョン・ウエインがコーヒーを飲む。「いやー、映画って本当にいいですねえ」。
この場面はユーチューブでも見ることができる。
「いい映画」とは、どこか心に残るシーンが必ず存在する。このシーンではジョン・ウエインの顔が実にいい。はにかんでいるような顔が印象的だ。ジョン・ウエインは、怒っている顔でもさほど怖くはない。正義感溢れているのだが、何故か憎めない「アホっぽさ」を表現できる名優だ。観客はこの作品のストーリーは忘れてしまっても、ふたりが歌うシーンは覚えていることだろう。
何かにつけて評判になる映画だったが、いまいちのめり込めないものを漂わせている。
主人公の生き方にシンクロできないからだろう。なんでも「刹那的・投げやり」で生きている主人公には、日本人は同調はできない。
ストーリーに「希望の火」がないからだ。
「なんとかなる」という考えは、実は「なんともならない」ということをみんな知っているからだ。制作された年代がアメリカにとっては「ベトナムの悪夢」の真只中という事情もあるからだろう。
評価 B
発明家の父親が家族を連れて未知の土地に移住する。誰の言うことも聞かず、身勝手な男が巻き起こす、わがまま人生に付き合わされる家族は、たまったものではないはずだ。
コミカルに描くわけでもなく、粛々と描くわけでもない。ある人はハリソン・フォードの演技の幅に感心するだろうが、うざい印象しかなかった。なんとなく見てしまった感しか残らない。
評価 B
これはメグ・ライアンのプロモーションフィルムと言ってもいいくらいだ。彼女の仕草・表情・セリフの言い回し等々、魅力の全てが詰まっている。
全体として大したストーリーではない。初対面では気付かなかった相手の魅力が、徐々に気になり出し、十数年の時を経て結婚するという物語。ハッピーエンド物語とも言えるし、「人生、急がば回れ」という教訓とも言える。人は回り道をしなければ「そのものの良さ」には気付かない、ということなのか。結果はわかっているのに、何故か画面から目が離せない。メグ・ライアンというキャラクターは、日本の映画界には絶対いない存在だ。日本では表情豊かに振舞うとわざと臭くなる。演技に「あざとさ」が付きまとうのだ。舞台出身のベテランと言われる女優がこれに当たる。日本では自然さを失った「けれんみ」のある演技が尊ばれる傾向にある。
私は映画では出演者は「好演」すべきで「熱演」は必要ないものだと思っている。「熱演」しようとすれば、演技は不自然となり、あざとい「腐敗臭」が立ち込める。一般的に日本では熱演=あざとい演技、という構図を好むようだ。「芝居がかる」という言葉があるように、歌舞伎の影響が強いのだ。
男性にとってメグ・ライアンの出演した作品は、「こんな女性といたら、どんなに楽しいだろう」と思わずにはいられない魅力に満ちている。
「輝いていたあの頃の思い出が永久に残る、やー映画って本当にいいものですね」
「引きこもり」を英訳するとshut inといい、日本の「hikikomori」とは意味が少し違う。
shut inは「寝たきり状態」をも言うので、起きて・自分の部屋で何らかの「活動」をしている限り、世界基準のshut inではなく、やはり日本独自の「引きこもり」なのである。
日本の引きこもりは推定300万人とも言われている。しかも高齢化の波は彼らを容赦なく襲っている。最近では引きこもり絡みの大量殺人事件まで起きてしまった。漫画本やCDに囲まれて一日を過ごす従来型と違い、ネットが介在するようになり問題は複雑化した。溺れるほどの情報量と、引きこもり人が実際に接する人間の数を比較すると、そのギャップに目がくらむに違いない。莫大な情報量は引きこもり人の「知恵」を簡単に凌駕し、妄想が巨大化、ある時なにかのきっかけで防潮堤を超えることになる。
人との接触が乏しい分、相手の話し方がいちいち気に障る。ネットだとクリック一つで「その場」を去ることもできる。
実際の会話の場には「マウス」がないので、クリック一つで「退場」したりはできない。このように「リアル」な人間関係は実に「面倒くさい」はずだ。
傷つきやすく独りよがりの「繊細な心」の持ち主は、実社会では生きていけない。
文科省も引きこもり年齢を見直すようだが、民間人の問題に敢えて「踏み込む」ことはないだろう。外国でも日本の引きこもりのあまりの多さに興味深々らしい。
ゴジラだと思ってみると見事に裏切られる。
これはガメラだ。ゴジラの相手役もしょぼい。
怪物をいろいろ出さないで、ゴジラ一本にしたほうがいい。ダメな映画って主人公に「華」がない。美男美女が出演してても、「華」がないと結局は面白くない作品になるようだ。
評価 B