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 光画繚乱

映画と写真、どちらも「光」が関わるので、そしてそれが「錯綜し合う」ということから、ブログタイトルを光画繚乱としました。

コロナワクチンへの抗議?

2021-06-30 20:40:03 | 私見偏在

 女子スパの記事から
 新型コロナウイルスのワクチン接種が各地で本格的に始まり、ネット上で「反ワクチン勢力」の動きが活発になっているようだ。
 ネット用語でいう「電凸」は深刻だ。先ごろ、若年者への接種を決めた京都、愛知、岡山などで、その自治体の外部からの抗議電話が殺到し、行政の窓口が停止する事態があった。危険性を説く内容のほか「人殺し」の声や「殺す」という脅迫もあったという。SNSで繋がり、電話番号を共有して「行動しましょう」と呼び掛ける人々がいる。
 今回のワクチンをめぐってのデマは様々だ。「不妊になる」・「治験が終わっていない」
「人体実験」や「人口削減のためだ」などの“陰謀論”も広がっている。
 反ワクチンこそ利権まみれで「金になる」。セミナーを主宰したり、著書を出したりすれば、ニッチな需要によって売れてしまう。世論と「逆張り」をして、稼ぐ手法であることは明白だ、とある。
 賢い小学生なら「エビデンスは出ているのですか?」と反対に質問するパターン。日本人はとかく「騙されやすい民族」。オレオレ詐欺の手口を、あんなにテレビで知らせているのに次々と引っかかる。同じことが若者の中にも見られる。学生の30%近い人が「ワクチン接種に慎重」な姿勢が見られる。自由を享受したい若者に似合わない傾向だ。「友達百人」と「暗記教育」と「オカルト志向」の影響なのか、若者のエビデンスが問われる事案だ。「カルトと科学」は相容れない存在なのだが……。
 
 

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「友達百人」の功罪

2021-06-27 20:21:25 | 私見偏在

 以前、小学校入学式・写真撮影のアルバイトをしたことがある。式の終了前に新入学生全員で「友達百人できるかな」の斉唱があった。私は式の撮影をしながら一種の違和感を感じた。この歌の歌詞にあるような「友達百人」は果たして必要なものだろうか。友達が百人もいたら、自分のしたいことのほとんどができない。何かにつけて呼ばれたり、何かの相談を受けたりで、休日の時間が圧倒的に「友達百人」のために費やされることになる。
今現在、引きこもり中の人たちも「友達百人できるかな」を入学式で歌ったはず。しかし、
彼らは孤立も何のその、ひたすら孤独を謳歌している。「友達百人」の呪縛は、スマホの連絡先に一回も通話のしたことのない・するつもりもない名前を入れていること。誰かに見せる「見栄」のためか、寂しさのためか、とにかく「友達百人」の影響は大きい。
 友達が多くいれば明るい人柄。少なければ「暗い」性格、という評価を自分から作っているような気がする。クリエイター的仕事をする人はどっちなのだろう、と思ったりする。
子供のころ読んでいた少年雑誌に「深夜、土蔵の中で執筆する江戸川乱歩先生」とキャプチャーされた写真が載っていた。暗い土蔵の中、机の上に火のついたろうそくを一本ともし、太い万年筆を握った江戸川乱歩先生の写真。深夜・土蔵の中・ろうそく一本、それだけで私には「無理」と思ったものだ。
 「不要不急の外出は避けて」と言いながら、「オリンピックは是非とも開催」とする国の意向も測りかねる。しかし、何としても「路上飲み」や飲食店にこだわる人たちの心情の裏に、「友達百人」の「さわり」を感じるのだが……。

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私の臨死体験

2021-06-23 20:12:36 | 私見偏在

 小学生の時、関節炎の手術をしたことがある。当時入院した病院は、かつて野戦病院として使用された経緯があり、相当古い木造の建物で、子供が入院生活をするには抵抗があった。手術は無事成功した。しかし「大部屋」と呼ばれる病室では大人から子供まで、外科的な手術をした患者・手術を待つ患者がひしめいていた。そんな中、足を切断した患者が夜中に麻酔が切れ、大声をあげて苦しみだした。噂では男の仕事が牛の人ということ。夢の中に牛が出てくるのか、しきりに「あっちへ行け」と手で払う動作を繰り返した。
 子供が泣くのは当たり前だが、大人が夜中にうめき声をあげる姿に、すっかりまいってしまった。その後、声が聞こえなくなったら、その患者は死亡して病室から運ばれていった。そのことが当時子供の私にはショックだったのか、風の強い日、窓の外を見ていて私はけいれんを起こして意識が飛んでしまった。
 どのくらい時間が経ったのか、私は寝ている自分を見下ろしていた。母親や祖母や医者などが私のベッドの周りにいて何か処置をしていた。「私はここにいるのに……」と話しかけても誰も振り向きもしない。ただじっとベッドに寝ている私を見ているだけ。自分に戻った時、二日ほど時間が過ぎていた。この体験を話しても誰も信用しなかった。
 立花隆氏が亡くなった。生前テレビで臨死体験の取材をしていたのを見たことがある。
「知の巨人」と言われた人が臨死体験を取材している、このことで自分の体験が認められたような気がした。
  

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  顔

2021-06-20 19:33:18 | 私見偏在

広告批評の故天野祐吉氏は以前、選挙の「投票の際はポスターの顔を思い浮かべて入れる」と述べていた。ああいう文化人が公約や人柄・経歴を無視して、「顔で選ぶ」という記述を読んで違和感を感じたものだ。しかし、天野氏は江戸時代と現在を比較すると、現代人は「桁違いの人の顔を見ている」と言うのだ。だから選挙の投票時「顔で選んでも問題がない」という内容だった。現代はテレビや映画・ネット・出版物であふれている。天野氏のやり方もあながち間違いでもないだろう。
岡倉天心は人物の眼を見て、その人物の能力とやる気を見定めることができたそうだ。この能力があれば、老舗の不動産会社が何十億も詐欺に会うこともなかっただろうし、私的蓄財の発覚を恐れて、経営者が「箱に入って国外逃亡」することもなかっただろう。また「変な人」を首長にして、その後苦しむ自治体もない。
 こうした「眼」で見ると、日本の大手経営者の顔が妙に気になる。世界に名だたる企業の経営権が外国に渡ったり、渡りそうになる記事に出会うと寂しい限りだ。
 日本の起業家の顔が押しなべて「安穏・安寧」としている。仏ルノーのボロレ前最高経営責任者(CEO)のような「戦う顔」が少ないどころか皆無と言っていい。コロナワクチン接種における種々のドタバタ劇や、オリンピックの最高責任者は誰なのかや、時ここに至ってもオリンピックの観客を入れるのかどうかも決まっていない等々を思うと、日本人の指導者階級の「安穏・安寧」然とした顔が気になる。

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なぜ日本人は、東京五輪を中止できないのか

2021-06-16 20:21:29 | 私見偏在

 週刊現代ネット版より
  冒頭から「国家の威信を地に落としかねない危険なバクチを、日本がなぜここまでして続けようとするのか」とある。
 ニューヨーク・タイムズに「五輪を中止せよ」と掲載され、科学的思考にもとづいて、この危険な茶番を止める時が来た。東京五輪は中止すべき、と論評された。
 ワシントン・ポストは「なぜ日本は、これほどワクチン接種で大失敗を喫しているのか」との記事を掲載し〈世界最高の物流能力で名高い日本が、富裕国クラブであるOECD加盟37ヵ国の中でぶっちぎりの最下位を走っている〉
と酷評。
 さらにノーベル経済学賞受賞者で、ニューヨーク市立大学教授のポール・クルーグマン氏には、国家の威信を地に落としかねない危険なバクチを、日本がなぜここまでして続けようとするのか、と言った。
 IOCのバッハ会長、コーツ副会長らは『緊急事態宣言下であってもなくても開催できる』と公言したのを受けて、元五輪サッカーアメリカ代表選手で、現在は米パシフィック大学教授・政治学者のジュールズ・ボイコフ氏が言う。
 彼らは五輪というスポーツ・ショーを開き、カネ儲けをするためなら、日本の人々を危険に晒しても構わないと考えている。信じられないほど傲慢だ。五輪にはマトモな政治のルールや科学的思考が通用しない」と言った。
 ナポレオンは「人を動かす2つのテコがある、それは恐怖と利益である」と言った。
 これ以上利益を必要としない上級層は、もしかして恐怖に駆られているのではないだろうか。そう考えると「何が何でもオリンピック開催」の謎が解けるような気がするのだが……。

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続編ー没落の足音

2021-06-13 19:55:59 | 私見偏在

  日本では「IQ=知能指数の高さ=頭がいい」とし、学校の成績だけで人員を採用する傾向が強い。しかしEQは「心の知能指数」などと呼ばれ、EQを伸ばしていけば、自分の感情と上手く付き合うことで前向きな行動が起こせたり、相手の状況をくみ取って配慮することができたりするとされている。また必要とされるAQのひとつは「達成指数」や「成就指数」と訳され、もう一方のAQは「逆境指数」と訳され、きつい仕事やストレス、人間関係の悩みなど「逆境」に反応を表すもの。低ければ逃避し、高ければ解決法を模索するもの。またIQやEQに次ぐ新たなビジネス成功のための指標として、今、注目を集めているのがDQ良識指数があるという。
 日本の企業や官庁は、IQの高さだけを異常に評価してきたきらいがある。雇用者側の怠慢を長年にわたって学校が「肩代わり」や補完してきた歴史が、今日の「民間企業の停滞」を招いたともいえる。
 学校の成績重視は「失われた三十年」という認識が徐々に企業側にも出てこないと、日本は発展途上国の仲間入りとなるだろう。
 「没落の足音」は足元から聞こえてくる状態なのでは……。

 

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没落の足音

2021-06-09 20:14:37 | 私見偏在

    The ounerの記事から
  この記事は三菱グループの苦境について述べたものだが、同じページの関連記事のほうに興味を覚えた。「優良企業に息づく創業者たちの経営哲学」という箇所。
 パナソニックの場合の松下幸之助氏の経営哲学。それは「素直な心」である。
 創業者の経営哲学をベースにして練り上げた経営理念・創業理念である素直な心。
 素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心である。
 またエアコンで国内首位のダイキンは社員がやりがいを持って働き、持てる力を最大限発揮できる『場』を提供することが経営者の使命である」と、「人」をコアにした経営を展開している。
 アイリスオーヤマは「失敗から学んだ経営哲学」。他社と叩き合いをするよりも、つねに斬新な商品を開発していく戦略にシフトする。
 日本電産は天才を別にして、頭の良い人とそうでない人の差は、せいぜい2~3倍程度。しかし、やる気のある人とやる気のない人では、意識が全く違い、仕事の成果に100倍の差が生まれる。IQ(知能指数)とEQ(心の知能指数)という言葉に置き換えれば、わが社はこれまで徹底的にEQの高い人を採用してきた、という。
 「没落の足音」というタイトルながら、維持し続ける企業の経営哲学を述べている。経営について興味のなかった者でも、どこか引き付けられる記事だ。(続く) 

 

 

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政権を取る準備

2021-06-06 20:08:55 | 私見偏在

 立憲民主党の枝野幸男代表が5日、日本テレビ系「ウェークアップ」(土曜・午前8時)にリモート生出演した。番組では、枝野氏に「YES」か「NO」かで10秒以内に答える設定で7つの質問を行った。しかし枝野氏は、イエス・ノーの札を上げる形式で行う筈の問答に対して全く応じず、わかりにくい長い説明に終始した。
 ネットでは、ワクチンの認可を急げば安全性に文句を言い、ワクチン接種が始まれば遅いと文句を言うとか、オリンピックの開催か中止かを答えられなかったとか、政権を取った後の準備って何だろう。もしかすると、韓国の要求をそのまま受け入れる準備ができているということかもしれないなど、評価はすこぶる悪い。
 自分たちが政権を攻撃するときは「YESかNOか」を突きつけるのに、立場が変わるとこのありさま。説得力に欠けると言わざるを得ない。「政権を取ったら」ではなく「政権を取る準備」という微妙な表現が悩ましい。
彼らはもはや「政権を取る」よりも「政権を取る取る詐欺」化している状態。世間は取れないと思っているのだが、彼らは丁度受かる見込みのない「司法試験受験生」のよう。一回や二回で受からない試験だから、常に寝言のように言い続けることができる。「からくり」はすでに国民に見破られている。「政権を取る準備」は流行語大賞になれるか。
 
 

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「安全安心」の矛盾

2021-06-02 20:24:06 | 私見偏在

 この頃のテレビ報道では、国でも地方自治体でもリーダーによる「安全安心」の連呼が見られる。「安全安心」は四字熟語ではない。
そもそも、安全と安心は同じ状態を表してはいないし相関関係は薄い。
 航空機を例に「安全」を考える。米国家運輸安全委員会(NTSB)の調査によれば、航空機事故で死亡する確率は0.0009%だという。
自動車や自転車の事故よりも少ない数字。なので一番「安全」と言える。しかし、だから「安心」かと言うとそうではない。「安心」は個人によって受け取り方が違うので広辞苑にあるように「心配・不安がなくて心が安らぐこと」とはならない。なので「安全安心」をひとくくりにすることには無理がある。しかしこの国や地方のリーダーたちは、「安全安心」を四字熟語の標語のようにひとくくりに使ってしまう。日本人の心に響く心地よい四字熟語なのだろう。「安全安心」と言うからには、その「根拠」が必要となる。しかし厳然たる数字で表すことのできる「安全」と、情緒的な「安心」とは相性が悪すぎる。これを一緒に「安全安心」と言ってしまうと、数字と情緒を一緒くたにすることになり、「根拠」は存在しないことになる。
 マスコミも情緒に流されることなく、「安全安心」の根拠を問いただしてほしいものだ。
ところで案外マスコミも、「安全安心」の違いをわかっていないのかな。

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