光画繚乱

映画と写真、どちらも「光」が関わるので、そしてそれが「錯綜し合う」ということから、ブログタイトルを光画繚乱としました。

世界の宗教が自殺をタブーとする理由

2023-07-26 19:53:29 | 私見偏在

 
〇New Sphere紙によると、
 アメリカでは自殺率が上昇しており、過去10年間で30%近くも増加した。特に女性と十代でその傾向が顕著だ。だが、それは何もアメリカに限った話ではない。自殺はどこでも増えており、それは世界の至るところで人々を捉え、その家族にも大きな苦しみを与えている。
 自殺の倫理は、歴史を通じて、今も昔も変わらず世界の宗教にとって重大なテーマだ。
 世界の宗教の多くが、伝統的に自殺を戒めてきた。その理由は、人間の命は原則的に神のものだという信仰に基づいている。
 そして人間は自らが下した選択に対して神から責任を問われるという意味。人間の生死は神に属するものであり、人間が勝手に決めてよいものではない。                   
 イタリアの詩人ダンテは、代表作「神曲」の第一部「地獄」の作中で、自殺を犯した罪人達は地獄の第七階層で樹木としての存在を与えられ、そこで伐採や剪定を受けて血を流して苦しむ、と描写した。
 多くの宗教が伝統的に自殺を禁止してきたのは事実だ。ところが、人生に絶望しての自殺と異なり、コミュニティのため、あるいはより大きな善のために為されるある種の自殺は、場合によっては許容され、賞賛されることすらある、と記事にある。
 この世のほとんどの自殺は一種の「逃げ」なのだ。一般人はとても「殉教」などできるものではない。
 前回の記事では、自殺者の20倍の人間が「自殺未遂」者として載っている。「自殺未遂」
と言えば聞こえがいいが、一昔前まで世間では「死にぞこない」と呼んだ。未遂の結果、体のどこにも異常もなく済めばいいが、重大な後遺症を抱えて生きながらえることになれば、世間からも家族からも「生き地獄」を味わうこととなる。生命を弄んだ「つけ」が回ってくる、とも言える。
 人間は生まれたからには必ず死ぬ。死に急ぐ必要はない。自分の死は「誰か」に任せることだ。逃げるために死を選ぶことは何にもならない。逃げずに死を「誰か」に任せれば気が楽になるはずだ。

 

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自殺未遂50万人の衝撃

2023-07-19 19:26:02 | 私見偏在

 
      日経ビジネスより
 2016年の記事だが、タイトルにあるように衝撃的な内容だった。
 53万5000人―――。これは過去1年以内に自殺未遂を経験した人の数である。
 「自殺未遂者は、自殺者数の10倍程度」というのが、これまでの定説だった。ところが日本財団が行った調査で、20倍近くもいることが明らかになったのである。しかも、そのうち、女性の49%、男性の37.1%が、「4回以上、自殺未遂を経験した」と回答したのだ。
「自殺(自死)は『追い詰められた末の死』であり、『避けることの出来る死(avoidable death)』。つまり、個人の問題ではなく、社会的な問題である」これは世界保健機関(WHO)が、2003年に国際自殺予防学会(IASP)と共同で開催した世界自殺防止会議において出した、メッセージである。
 「自分がいなくとも、仕事って結構、回るんですよね」と言って自殺した人もいたそうだ。この記述に対して「あなたは大切だ」「あなたがそこにいることは、ちゃんと分かっていますよ」という価値あるメッセージを他者から繰り返し受けることが、生きる力をもたらす。
 記事は余裕のあるときだけでもいい。「あなたは大切な人です」という気持ちを、声にしてくださいと締めくくる。
 この記事の内容に関して、かなり前に読んだ別の記事だが、労働組合のある組合員が「俺たちは単なる会社の部品じゃないか」と自虐的に言ったら、ある古参の組合員が「部品を舐めたらいかんよ。機械の部品は一つなくなっても動かない。しかし会社から俺たちがいなくても組織は動く」という内容だったと思う。「自分が重要」とか「あなたは重要」とかの前に「一日三度飯を食えればいい」と思うことも必要なのではないか、と思う。自分を卑下するわけではないが、人間は「生きてさえいればいい」と思ったほうが生きやすいのではないだろうか。
 命は誰のもの?
 New Sphere紙によると、世界の宗教の多くが伝統的に自殺を戒めてきた。その理由は、人間の命は原則的に神のものだという信仰に基づいている。命は自分のものではなく、神のもの、という解釈。「生殺与奪」の権限は神だけにある、という考えは日本人にはなじみが薄い。ただ自殺者の出た家は「穢れ」があるといわれ、世間から疎まれた。このことは五大宗教の教えにも現れている。
 「生きてさえいれば」それでいい、と思ったほうが生きやすいのだが……。

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 安倍氏銃撃事件から1年

2023-07-12 20:17:07 | 私見偏在


     弁護士ドットコムニュースから
 安倍晋三元首相が銃殺された事件から7月8日で1年となる。殺人罪等で起訴された山上徹也被告人の父親の兄である東一郎氏(78歳)は元弁護士だ。大阪で企業法務を中心に扱う法律事務所を経営していたが、病気や妻の死などがあり、68歳で仕事を退いた。
 そんな中で起きた甥っ子の事件。昨夏には「法曹3者で客観的に事実を評価し、適切に量刑を判断してほしい」と話していた。しかし、1月の起訴まで長期間の鑑定留置がされるなど異例の事態が続いたことに、疑問を感じざるをえなかった。今回、実名で法律家としての見解を弁護士ドットコムニュースに寄せた。
 事件を理解するには、まず単純に見る必要がある。しからば本件は「統一教会によって人生を狂わされた男が、教会にエールを送っていた男を射殺」しただけの事。
 射殺した男が、いかに統一教会によって人生を狂わされたのか、射殺された男が、統一教会になぜエールを送っていたかを突き詰めれば足り、その問題の多くは既に調書に作成されてあり、いたずらに公判を引き延ばすべきではない。
 (量刑について)
 被害者1人に対する殺人罪の刑罰は、懲役20年、加算しても30年。または無罪もあり得る。その選択は、裁判員・裁判官が正義感に基づいて行うものであり、法が先行するものではない。刑事事件に通じている友人の弁護士の言によると「本件で懲役25年以上の判決なら弁護人の不出来。裁判員裁判の量刑は20年が判例の相場」だという。
 この文章を読んで「統一教会によって人生を狂わされた男」という箇所に違和感を感じた。そもそもの原因は統一教会にあるのだが、男の人生を直接狂わせたのは男の親である。親が息子の進学の費用も含めて、統一教会に
寄付したことが原因なのだ。2022年4月からは「親権は子供が18歳になるまで」とある。「親権の放棄」によって息子の人生を狂わせた父親の兄弟に弁護士がいるのであれば、なぜ相談に乗ったり、兄弟を戒めなかったのだろうか。親族に弁護士のいる家庭なんか、そんなにあるものではない。法的な相談を含めてアドバイスや金銭的な援助などできなかったのだろうか。あまりにも大きい甥の起こした事件。裁判員裁判の量刑は20年が「判例の相場」などと、どこか「他人事」の響きがする。
 この親族の元弁護士の方、甥を含めた一家の窮状を、情を絡めず「法的な眼」でしか認識していなかったのだろうか。法律家である前に肉親としての情はなかったのか。 

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テレビがあれば契約義務

2023-07-06 06:26:55 | 私見偏在

 
    読売新聞オンラインから
 BS番組をインターネット配信するための設備費用の予算化問題で、ガバナンス(組織統治)のあり方が改めて問われているNHK。それでもなお、稲葉延雄会長は「放送と同様の公共的な役割を果たしていく」とネット事業に前向きだ。時代の要請とはいえ、それらの財源は国民に契約義務を課して徴収する受信料。公共放送のさらなるネット進出が議論される今、「断れない受信料」の仕組みは今後も必要なのか。
 受信料制度は1950年施行の放送法によって導入され、現在はテレビ所有者に契約義務を課している。
 放送法が施行された1950年当時から70年以上が過ぎた今、情報通信や娯楽に関する社会状況は激変している。民放が成長し、報道機関として充実している一方、ネット社会の進展でテレビ局以外でも様々な情報を発信できるようになった。娯楽に関しては、ネットフリックスなどの有料配信サービスが広がり、ユーチューブのように誰もが無料で動画をアップし、多くの人が楽しんでいる。
 そもそも民放も含めた“テレビ離れ”が進んでいる。この点、影響を受けているのは、放送時のリアルタイム視聴であり、見逃し視聴人気などを見れば、放送番組のコンテンツ力は失われていない、との見方もある。とはいえ「誰もが発信者となり、それを見る側が自由に選んで視聴できる」のが、今の大きな潮流と言えそうだ。そんな時代にも「断れない受信料」を続けるべきだろうか?
 「放送法に掲げられているNHKの社会的使命を全ての業務の面で実施していく。単に番組を流すということだけでなく、広くNHKとして公的な仕事をしていく。その全体のコストを賄うために、受信料っていう制度で資金を皆様から頂くというのは合理的とされている。それについては、随分古い規定ではあるけれども、今日的に意義を失ったものではないと考えている」と述べている。
 6月開催のテレビ東京ホールディングス株主総会では、「NHKに受信料を払うことでテレビ離れが進み、民放の収益が悪化していると思うが、この問題をどう考えるか」との質問が出されている、という。
 単純にテレビを見ない人が増えているのに、民放はこの事実から目をそらしている。民放はNHK出身者を歓迎する風潮にある。彼らが国会から、裁判の判決から優遇を受けているからなのか。
 70年以上前に施行された放送法がいまだに生きている。憲法改正も放送法改正も昔のまま。いかに国会は機能していないか。状況の変化に鈍感を装うことはジャーナリズムの死につながることがわからないのだろうか。
 NHKは国会の無能と判決を武器に、さらなる横暴を企てている。スマホに電波を流し、ここからも徴収しようとしている。国民が番組が視聴できるテレビを買わなくなっても、個人のスマホから徴収する。いかに従順な国民でも我慢の限界というものがあるはずだ。

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