魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

蓬莱の蛍

2015年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

今年は、蛍が早い。各地で、例年より一月ぐらい早く飛んでいるそうだ。
近頃は、環境も回復し、熱心な保護運動もあって、あちこちで蛍が復活している。
昨夜も、「え、こんな所で」と、思うようなところで、蛍が飛んでいた。

子供の頃は、特に保護運動などしなくても、蛍はどこでもいた。
川はもとより、ちょっとした用水路でも光っていたし、町の大屋根の上を飛んでいく蛍も珍しくなかった。
それでも、町内会でわざわざ蛍見物に行くというので、不思議な気がしたが、近所の子にさそわれ参加した。

貸し切りバスで、日が暮れた郊外の温泉に着くと、さすがに息を呑んだ。
川の流れる温泉街を、牡丹雪のように、音もなく蛍が舞っている。歩いているだけで、身体に当たり、息苦しいほどだ。
子供達は素手で捕まえては虫かごに入れているのだが、どんなに捕っても、蛍が減るようなことはない。
蛍の中にいると、たて、よこ、斜めと飛び交う光に酔い、われを失う。幻想の世界だった。

蛍狩りのもう一つの目的は、温泉に入って帰ることだったから、温泉旅館に入った。
蛍の世界から屋内に入ると、暖房の効いた部屋のように、電気の光がまぶしかった。
友達三人と、まだ誰もいない大浴場に入って、ふざけていると、引き戸が開いて、17、8のお姉さんが入ってきた。
三人とも、あ然として、しゃべらなくなった。

お姉さんは、まったく何も気にしていない様子で、軽く流して、同じ湯船に入ってきた。
この当時、普通にあった混浴だっのだが、三人の小学5年生にとっては初体験だった。
三人とも、真っ直ぐ前を見て、しゃべれない。
とうとう、お姉さんが上がって行ってしまうまで、湯船から出られなかった。
面白いことに、日頃は、色気づいた話を興味津々で話しているクセに、この件については、誰も触れないようにしていた。どう話して良いのか、混乱してしまったのだ。

町の銭湯は、男女に別れているから、混浴が理解できなかったが、温泉場の人や慣れた大人には当たり前のことだった。
その後、高校になって、また別の温泉地だが、中学校長の息子と友達になった。
遊びに行くと、校長の顔パスなのか、何時も大浴場に入れてもらったが、これがまた混浴だった。しかし、この頃は、もう、混浴を理解していたので、まったく平気で入っていた。

男女に別れているものと思っていた小学生には異常事態でも、「そんなもの」と思っている大人には当たり前で、むしろ、混浴は隔たりのない和やかな気持ちになれるものだ。

幕末の日本に来たシュリーマンが、町を歩くと、珍しい毛唐を観るために、銭湯から男女を問わず、裸で出てきて取り囲んだ。シュリーマンは、このことに驚き照れながら、むしろ理解を示していた。

蛍が、各地で復活しているが、あれほどの蛍が復活することがあるのだろうか。
蓬莱の島ジパングの蛍は、開放的な日本人とともに、二度と復活することは無いのかもしれない。

 


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