魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

外国かぶれ

2007年09月07日 | 新鎖国論

これだけ海外に出るようになると、もういなくなったと思ったが、どうもそうではないらしい。

昔の日本人は、何でも外国が良くて、日本は情けないと思っていた。
「舶来」と聞けば何でもありがたがり、金が無くても、何とか舶来にお近づきになろうと、ライター一つで悦に入り「一点豪華主義」などと言われた。
そんな意識で海外に出ると、何でも日本のことが恥ずかしくなり、さも国際的視野を持ったようなことを言う人が多かった。

・電車でいい大人が漫画を読んでいるのは日本人だけだ
・カラオケ狂いしているのは日本人だけだ。
・ウエストポーチをしているのは日本人だけだ

こんなことを、実際にあちこちの記事で読んだ。
今なら逆に、恥ずかしくて言えないような意見を、原稿料をもらって堂々と書く人がいたのだから時代は変わった。

外国をありがたがるのは、内と外の比較しかできないからだ。双方を公平に並べてみる大局観がないからだが、情報化の現代では事情は変わった・・・はずだ。
近年、日本文化の海外認知はめざましく、日本の恥だったはずのものが、日本の誇りになっている。

すると、こんどは「うぬぼれ」や「排他」が現れ始めた。
日本の真似をする商売に、カンダタよろしく、「ついて来るな!」と言って回る。国際ルールの特許や商標ならまだわかるが、日本食認定の話となると、どういうものかと考えてしまう。

日本食ブームを商機にしようと、ブランド化を図ることは分からないでもない。ブランド商売が得意のラテン系を真似しようということだろうが、知的財産権には間接武力の裏付けがいる。世界征服可能な武力を持つか、虎の威を借りるか・・・。
日本は、虎の威を借りることが得意なのだろうか、苦手なのだろうか。

占い人類学2」で、日本はA型を理想とするAB型の国だと言った。
本音で生きるしかない戦後は、AB型の調子良さで、アメリカの威を借りた。ところが、成功すると、プライドのA型が頭をもたげ始めた。
靖国参拝、国技相撲、男系皇位・・・すべて神道による美的秩序。そして、日本食認定もその線上と考えればわかりやすい。
この、美しい国日本を実現するには、虎の威を借りる情けない日本であってはならない。武力の裏付けが欠かせない・・・ことになる。

グローバリズム、情報化、無国籍化・・・の時代に、形の日本にすがろうとする時代錯誤。これは、舶来コンプレックスの裏返しでなくて何だろう。

日本人、日本的なるものの誇りを保てるとすれば、
「日本精神の自覚と自信」であって、形の日本維持認定ではない。
形が無いからこそ中華料理であり、国を失ってこそユダヤ人であり続けた。この二つは、全く逆方式だが、共通して言えることは「押しつけ」をしないことだ。

新鎖国主義」でも言ったように、日本人が日本人であり続けるには、根本的には鎖国しかない。
「日本沈没」では、「日本人は日本と沈むのが一番ええ」と言った。同感だ。
日本を背景にする限り、来る者を拒まず、押しつけをせずに生きることができる。
韓国の「韓国系認定」*のような、みっともないことはやめてほしい。

*韓国では、海外成功者を韓国系○○人として、おらが村自慢する