靖国神社をめぐる日中合作のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」について、配給・宣伝のアルゴ・ピクチャーズは31日、4月12日から公開を予定していた東京都と大阪市の計4館が上映を自粛したと発表した。既に東京の1館が中止を決めており、映画は当面上映されない事態になった。
「靖国」は中国人の李纓(リ・イン)監督が、10年間にわたり、終戦記念日の靖国神社の様子などを取材した映画。軍服姿で参列する人々や、小泉純一郎前首相の参拝、合祀(ごうし)に反対する台湾や韓国の遺族が抗議する姿を、靖国神社のご神体とされる日本刀を作る刀匠の映像を交えながら紹介していく。
自民党の政治家らが、この映画に政府出資の基金から製作費の一部が出たことを問題視。国会議員を対象にした特別試写会が開かれた。3月18日には、東京・新宿のバルト9が上映取りやめを決定。その後、銀座シネパトス、渋谷Q-AXシネマ、シネマート六本木と大阪市のシネマート心斎橋も中止を決めた。Q-AXシネマでは「特定の団体からの具体的な圧力はないが、お客様の安全を最大限考慮しなければならない」と説明した。
この映画にまつわる騒動を取り上げるのはこれで3度目ですが、なんと言いますか、俄には信じがたいニュースです。前回、取り上げた時点では上映中止を決めたのはまだ1件だったわけですが、これが波及して4月中の上映予定は全滅とか。5月以降も対応検討中とのことで、この様子では日本での劇場公開は皆無となる可能性も現実味を帯びてきました。
「軍による直接的な関与はなかった」と強弁する輩がいるわけですが、過去を語るそれは作り話であるとしても、現代においては成り立つ知れません。すなわち「政府による直接的な関与はなかった」と。おそらくそれは正しい、政府による直接の命令はなかったでしょうし、「特定の団体からの具体的な圧力はない」わけでもあります。そうでにあるにもかかわらず、政府による直接的な弾圧があったのと同じ結果に辿り着いたのはなぜなのでしょうか?
支配する側にとって理想的なのは、武力を以て弾圧を加えなくとも、自ら政府の意を汲んで服従する国民です。反抗するから様々な手段を使って抑え込まなければならない、情報を統制して国民が外の世界に触れることを阻まねばならない、政府の望む結果を得るために何らかの物理的な行使が必要になる、そんな国民はまだまだ理想ではありません。その点で中国人もロシア人もイラク人も北朝鮮人も、支配者にとって好ましい国民ではないわけです。ですが日本人は? 公開されている情報すら知ろうとしない、反抗するものは国民の手によって袋だたきにされる、そして政府が命令しなくとも民間が政府の意を汲んで自ら首を差し出す―――これは一体何なのか?
その政府の強制によって抑圧的な社会が維持されている場合、政府が倒れれば状況は変わる可能性が高い、状況を変えるためには政府を打倒すればよい、そう希望が持てます。実現が難しい場合はあっても、少なくとも道筋は見えます。しかし政府が強制したわけでもないのに、国民の側が率先して抑圧的な社会を維持している場合はどうなのでしょうか? この社会を変えるために、一体何を打倒しなければいけないのでしょうか?
日本ではよく「言われないと動かない」と若者を非難するわけですが、これは要するに「言われる前に動け」という圧力でもあります。言われる前に俺の言いたいことを察して行動しろと、そしてそれが当然だと我々は刷り込まれるわけです。これが社会全体で共有されていると、国から命令される前に動くこと、それが社会人としても正しいこととなるわけでしょうか? コミュニケーション能力溢れる部下が上司の意を汲んでご機嫌取りに励むように、空気を読める映画館運営会社は政府の意を汲んで自ら行動したというわけです。
正直なところ、上映中止が全館に及ぶことまで私は予想していませんでした。多少は日和る映画館もあるだろう、それに追随するところもあるだろう、しかし意に介さず契約通りに上映する映画館だってあるだろうと、そう思っていたわけです。ところが上映中止は全館に及び、発禁にされたのと同じような結果に至りました。当局による不法な弾圧の結果ではなく、民間の自主的な判断によって、です。政府が不当な暴力によって国民に制限を加えているならば、それを国際社会にでも訴えたいところですが、政府が命じる前に民間が異を察して自主的に検閲したと同じ結果をもたらしたのであれば、我々は何を訴えればよいのでしょうか?
4/3追記、
大阪のミニシアター、第七藝術劇場が唯一、上映に踏み切るようです。