RC-NET(レイプクライシス・ネットワーク) BLOG.

RC-NET STAFFによる、日常の些細な出来事から、お知らせまでいろいろなぶろぐ。

紹介状発行システム、全貌や如何に!

2010-12-15 06:48:52 | 事務局より
レイプクライシス・サバイバーズネット関西は、2010年度、
レイプクライシス・ネットワークというポータルサイトを作ることを決めた。
そして、それを出来るだけ多くのネットワークで新しく作り出すために、と、レイプクライシス・サバイバーズネット関西を母団体として、
今夏に、レイプクライシス・ネットワークを一つの団体として、独立させた。(ややこしい)


性暴力、レイプを取り巻くインターネット上の環境は劣悪だ。
助けを求めてネット検索をして、性風俗ばかりが検索上位に来てしまう現状は、なかなかに酷い。
最も腹が立ったのは、
レイプクライシス・サバイバーズネット関西という名を使い、AVサイトに誘導するものがあるという事実。
なんてことだー。と、思った。
インターネットは、被害者が助けを求めるために使う、とても有用なものだと思う。
しかし、AV業界にとっても、客を集める優良な手段なんだ。
そして、その中にはこうした、心ない人たちの存在もある。

何が出来るか、と考えたとき、
一番に思いついたのは、ポータルサイトを作ること、だった。
団体間でこぢんまりとサイト運営をするのではなく、性暴力被害に特化したポータルサイトを作ろう。そして、AV業界顔負けのSEO対策をしよう。
そんなところから、この構想は始まった。

しかし、情報を集める、というのは、実は他にもやっている所がある。
とても素晴らしいサイトが沢山あるのだ。
あるけれど、情報に特化すればするほど、
“私は、どうしたらいいのか”が見えてこなくなることがある。

インターネットというのは、まさに顔の見えないコミュニティーだ。
だからこそ、一人の部屋でも多くの情報を得られ、そして、それを、他人事にも見る事が出来る。

対人支援の基本は、やはり会ってこそ出来るものかもしれない。
話をしたからこそ見えてくるものがあるだろう。
しかし、その“会う”までたどり着けない人たちは、一体どうしたらいいのか。
会うために、人はいろんな選択をしなければならない。

まず、誰に会うか。
その人に、話すか否か。
その人を、信じるか、信じないか。

性暴力被害というのは、究極にその人の“選択権”を奪う、と、私は思う。
被害からの道は、それぞれのモノだ。
誰にも強要なんか出来ないし、実際、何がいいかなんてその人にしかわからない。
奪われた選択権があるからこそ、
私はポータルサイト上で、“あなたの選択”を、応援したいと思った。
そして、その選択の結果を、出来るだけ負担の軽いものにしたい、と、そう願った。
情報というのは、存在するだけでは文字という記号でしかない。

そこで考えたのが、

紹介状制度。

10項目のアンケートの結果によって、関係各所への紹介状を発行する、というシステム。
助けを求めようとしても、どうしてもその被害について言葉に出すことが出来ない、という人、周りにサポーターがおらず孤立してしまっている人に向けて、
アンケート結果を紹介状に反映させることで、被害について第一次的には「言葉に出さず」とも、今の自分の状況を表すことができる、というもの。
Yes or Noの形式で、アンケートも出来るだけ簡単に答えられるように設定している。

一人では出来なかったことが、
誰かの承認、賛同を得ることで、勇気を持てた、という経験は誰にでも多かれ少なかれあるんじゃないかと思う。
紹介状はまるで公的なものではないけれど、
しかもリアルな人間関係はそこにはないのだけど、
サポーターとしての、一つの形だと思う。

性暴力被害への対応は、この社会においてまだまだ未熟なものだし、
果たしてこの紹介状があることによって、それを有効活用してくれる機関がどれだけあるのかということはまだまだ未知数だ。
紹介状を出したところで、婦人科でSARTをしてくれる用意のある病院の絶対数からして、あまりに少ないのだ。

しかし、私はRC-NETとして、
このだだっ広いインターネット・ワールドで出来る最大限の支援をしたい。
その一歩がそれであって、
また、この紹介状というものを通して、
たとえばたった一人であろうとも、これがあるなら、行ってみようかな、と思ってくれる人がいたとしたら、
その人のためにどこまでもやろうと思う。

私の時にも、そんなのがあったら病院に行けたかも、警察に行けたかも、
と、思いを向けてくれたサバイバーが何人もいた。
今、そう思ってくれる人がいるのだから、

やっぱりこれは必要なものなんだと思う。

ポータルサイト内の文言や、アンケート内容、アンケート結果の反映について、
ようやく一段落した。
大体のアウトラインは出来上がって、
後はウェブデザイナーとのお仕事になるかと思う。

そんなこんなで、感慨深くてこんなに沢山書いちゃいました。

読んでくれて、ありがとう。

漫画遍歴。表現の自由と条例。

2010-12-15 00:17:28 | スタッフ日記
私は、漫画が好きである。

これはもう隠し通す事が出来ないので、こんなご時世ではあるが表明してしまうことにした。
(別にそんな、言うほどの問題発言性がまるで無いのが、ある意味問題だ)

そんな私は、この度の石原都知事発言に傷ついた当事者の一人でもある。
「ゲイの人たちのパレードを見たけれど、やっぱり人として何か足りない」
であるとか、
「同性愛者がショーアップしてテレビなんかに出過ぎている」
だとか、そういう類の発言についてである。

これには、悲しみなど通り過ぎて、呆れる、としか言いようが無いかもしれない。
でも、悲しみを通り越してはいけないな、とも、思った。
悲しいのだ。
そんなことを言われるとやはり。
それぞれに、それぞれの悩みは抱えて生きて来ていると思う。
人に言われるその前に、大なり小なりの“自己否定感”は持ってきたかもしれない。
それでも、なんというか、それぞれに生きているのだ。
ただそれは、それぞれの心の中の問題であって、決して社会的に見て、という話ではない。

足りない、と言われれば、足りている人間なんてそういないかもしれない。
すでに、都知事もこうして人を悲しみに暮れさせ、怒りを抱えさせ、一気に条例への反対者を増やしてしまった現実から見ても、足りてはいない。
そして、セクシュアルマイノリティーと言われる人々は、そこに関して“他者に迷惑”をかけているわけでもなければ、
生きているだけだ。
人として、日本人としての権利を行使しているだけだ。
生きていて文句を言われている。馬鹿にされている。
これ如何に。

そして、もう一つ思うこと。
都知事発言による悲しみと、都条例に対しての思いは、果たして同一であるか?というところだ。
これは、由々しき問題だ(笑)

石原慎太郎=都条例 ?

ここで、私がずっと思っていたのは、
条例に関しては一貫して「表現の自由が奪われる」という、表現側の反対意見ばかりが目立っていて、
イコールして、それがセクマイに対するヘイトスピーチであり、弾圧である、ということになっていて、
条例の中身、そこに対する思いが、
「PTAの意向である」
ということしか見えてこない、ということだ。

これはおかしい。
石原発言に隠れてしまっているのは、その本拠地である条例が。
私は、石原都知事の発言と条例に関しては、分けて考える必要があると思っている。
日本の首都である東京の首長が、国際的に見てもあり得ないようなヘイトスピーチを行ったのだから、
それに対してはしっかりと国民の意見を伝えて行くべきだ。
しかし、都側としても、なんとしても条例を可決に持って行きたいところではあるだろうと思う。
しかし、“都側”が表立って行ったのは、一部に対するヘイトスピーチ、差別・偏見に満ちあふれた行動に過ぎない。
表現の自由側としては、アニメフェアへの不参加など、益々怒りを爆発させている。
なぜ?
そこまで対話せず、ただただこの条例を可決に持って行こうとしているのか。
都知事も、そして現政権も、なんだか“アニメ”への思いは強そうである。
国会アニメ図書館的なものも作ろうとしていたと記憶している。
ここにきて、なぜ漫画とアニメの規制に固執しているのか。
そこには、きっと何かがあるはずだ。


さてさて、閑話休題。
(閑話、やったのか)

私はこれを機に、自分の漫画遍歴について考えてみた。
アニメに関してはあまり興味がないのだけども、漫画に関しては大分読んできたように思う。
その中で、自分にとってこれは“人生に少なからず影響を及ぼした”と考えているものをあげてみようと思う。


お~い!竜馬 (第1巻) (ヤングサンデーコミックス〈ワイド版〉)
武田 鉄矢,小山 ゆう
小学館


おーい竜馬、
なんともタイムリーな漫画ではあるけど、私は子どもの頃、非常にこの漫画が好きだった。
特に、竜馬の子どもの頃の話が、である。
上士に虐げられ、涙も涸れるような経験を竜馬は何度もする。その中で母も死んでしまうし、友達が些細な事で上士に殺されたり、
みんなが諦めながら、そして悲しみながら、それでも日々を暮らす。
その中で、適応出来なかったのが竜馬だ。
悲しみを悲しみと表現すること。オカシイと思うことをオカシイと言うために策を練ること、
信じ切ること。仲間を持つ事、大切にすること。
漫画の中の竜馬に学んだ事はすごく大きい。
竜馬の悲しみに呼応して涙しながら、沢山の、まなびを得た。

あしたのジョー(8) (講談社漫画文庫)
ちば てつや
講談社


あしたのジョー、
特に8巻からの下りは、バイブルと言ってもいい。
丈と力石の最初で最後の試合。
ここで、丈が放ったパンチの影響で、力石は死んでしまう。
それを聞いた丈は発狂し、その後、力石の亡霊を心に抱え、同様のパンチを打てなくなる。おっちゃん曰く「ハエも殺せねぇパンチ」という名言を生み出しもしたものだ。
そこから、しかし丈は世界チャンプに挑戦するまでに復帰する。
8~10巻あたりでの、丈の回復記は、まさにPTSDからの回復記である。

天使なんかじゃない 完全版 1 (愛蔵版コミックス)
矢沢 あい
集英社


天使なんかじゃない、
ここでは翠と晃の恋愛話が表立つかと思いきや、私が終止注目していたのは、
マミリンである。
社長令嬢(ラブホ・パチンコ屋の多角経営。基本、秘密)として育ったマミリン。
取っ付きにくくて、頭が良くて、友達がいない。
そんなマミリンが、翠との絶対的な友情を築いて行くにしたがって、解放されていく。
マミリンの発言は、いちいち、すごい。
とっておきはやはり、「自分に誠実であれば、胸を張っていられるものなのね」という台詞だ。
天ないは、恋愛ものとしてじゃなく、友情ものとしてみると、本当に感動する。

宇宙兄弟(1) (モーニングKC)
小山 宙哉
講談社


宇宙兄弟、
これは比較的新しい漫画。今もモーニングで連載中である。
ここまで主人公に感情移入出来た漫画は珍しい。子どもの頃、弟と交わした約束“宇宙飛行士になること”を守るために、
そんなのすっかり諦めてグダグダ過ごしていた兄ムッタが、
いろんな葛藤を抱えながら、また夢への道を歩みだす。
兄弟を見守って来た天文学者シャロン博士が宇宙飛行士の試験を諦めようとしているムッタに言う、
「悩むなら なってから悩みなさい」
「今のあなたにとって 一番金ピカなことはなに?」
という言葉は、私にとって、いつも心に留めておきたい言葉。




きりがない。
好きな漫画は多すぎます。
しかし、ざっと20作くらいの漫画を思い出しながら、私は思った。
エロ要素のある漫画、ないな、と。
私にとっては、特段エロ漫画がなくなっても、困らない様であった(残念なような、誇らしいような)。
かといって、それが全ての人に適用されることではないことは百も承知なのだけど。
よく思うのだけれども、クオリティーの問題なのだと思う。
やたら暴力シーンの多い名作one pieceを、私は特には好んで読んではいないけれども(チョッパーの映画は好き)、やっぱり大事なところでは核心をついているし感動もするし、
知る人ぞ知るプリカちゃん(レズビアンカップルの4コマ)なんかも、やってはいるけどほんわかと好きだったし、
モーニングで連載中の「今日なに食べる?」なんか、ゲイカップルの日常(の主に食生活)を描いているわけだけど、
ゲイカップルあるあるから、その当事者たちの普通の日常の楽しみ、葛藤は、実に面白い。
規制の話でよく出てくる漫画としては、デトロイトメタルシティーあたりなのだろうか。
あれについて私は、「男装漫画」とよく思っている。気の弱い男子が、男装すること(ヘビメタになること)でその需要のある場所でのみ男社会の権化的発言を繰り返し、
しかし、現実的には“決して出来ない”ということを知っているし、そんなことは絶対にしない。

私は、エロをわざわざ丁寧に子どもに進呈しなくても子は育つ、と思っている。
ただ、その葛藤は、伝えてもいい、というか、伝える必要があると思っている。

エロをどう伝えるか、は、大人次第だ。
大人不在のなかで、あまりに暴力的なシーンを子どもに与える事は、単純に暴力だと思う。

規制以前に、だ。
子どもが受け取ったその暴力性を解説してくれる大人がこの社会にどれだけいるだろうか、ということだ。
その暴力が人を傷つけるものだということを、教えてくれる人がどれだけいるのか、だ。

今やろうとしていることは、隠すことでしかない。
家庭の問題と言って、その家庭が暴力の拠点だったらどうするのか。
学校が、暴力の拠点だったらどうしたらいいのか。

“性”というものには学びが必要だ。
エロ本を読んで学んだ性がいかに間違ったものであったのか、それを知るのは“数をこなすこと”でしかないと言われてきた間違いを正す機会が今の社会には少ない。

漫画業界が言う“おもしろければウチは載せます”という言葉にも、
都が言う“青少年に悪影響を及ぼす漫画・アニメは規制する”という言葉にも、
本来考えるべき“青少年への影響”に対する愛はないのだ。

もっともっと、性教育へのチャンスは必要だ。
性について、エロについて、子どもが思いを伝えられる場所が必要だ。

私は思う。
大人ばっかりで偉そうに“表現の自由”を語る前に、
当事者たち、子どもに表現の自由を渡してやれ、と。