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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」:「物」がもはや「物」でなく「力」になった!「超感性的な世界」が「悟性」の対象だ!

2024-05-12 17:27:40 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」(109-110頁)
★ヘーゲル『精神現象学』における「悟性」の段階の表題は、(A)「意識」「Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界」である。(109頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」の目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」;2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」;3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」3「現代(あるいは絶対知)」

(19)「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない!「物」がもはや「物」でなく「力」になった!
★まず表題に「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという相互転換を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)

☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)

《参考》「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる:「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階へ!単なる「このもの」から 「物」という概念への移行!(98-99頁)
☆「普遍者における個別者」しかないのであって「単なる個別者」はない。すなわち①「意識」(対象意識)自身は最初は「このもの」を掴む。②「意識」は「このもの」が「対象の真理」だと思っていたのに、③じつは「このもの」はなく、それは「マイヌング(私念)」で、④「普遍者におけるこのもの」しかないんだということになる。(98頁)
☆「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
☆「意識」自身が「対象の自分自身(※意識)に対する『現象』」と「対象自体」との区別を知っている。即ち「真理の規準」を持っている。だから「真理の規準」を外からもってくる必要はない。かくて真に(Whar)とらえる(nehmung)ところの「知覚」(Wahrnehmung)に移っていくことができる。(98-99頁)

(19)-2 「物」とはじつは「力」なのだというヘーゲルの考え方は「近代的な考え方」特に「近代科学の考え方」(「物」や「実体」を「力」に還元する)である!この「近代的な考え方」は哲学史的には「ライプニッツの単子(モナド)論」に反映している!
★「物」とはじつは「力」なのだというヘーゲルの考え方は歴史的なことをまじえて言うと、「常識的な考え方」または「古代的な考え方」において「物」があるとか「実体」があるとかいうのは、一般に「近代的な考え方」特に「近代科学の考え方」では「力」に還元され、そしてこのことは哲学史的には「ライプニッツの単子(モナド)論」に反映している。この立場がここではヘーゲルによってとられようとしている。(110頁)

《参考》ライプニッツは「実体」の本質を「力」であるとした!
☆ライプニッツは「延長と不可入性」を「実体」の本質とする考えを批判し、代わって「力」概念が言及される。
☆「力」は「運動」の原因であり、「実体」一般に内在する。
☆ライプニッツの「実体」は「力」である。
☆力本説(リキホンセツ):一切の存在の根源にあるものは「力」であって、それによって生成・運動・状態などが成立するとする立場。ライプニッツが代表的。
☆ライプニッツは、「現象」の基礎 に想定される「実体」の本性を構成する「力」を 「原始的力」と呼んだ。
☆ライプニッツにとって「実体」とは「究極 的主語」、すなわち「個体的実体」を意味する。

★「物」的でない「制約されない普遍性」、またいいかえれば「力」、これはもう「知覚」されるものでない。まして「感覚」されるものでもない。これをつかむものは「悟性」的なものだ。この意味で「悟性」という能力が必要なので、「力と悟性」という表題ができた。(110頁)

(19)-3 「感性」的のものを媒介として「悟性」は「無制約的普遍性」(「力」「内なるもの」)をつかむ!もちろん「現象」(※「感性」的のもの)それ自身が、「悟性」の対象ではなく、「超感性的」のもの、「超感性的な世界」が「悟性」の対象だ!   
★ヘーゲル『精神現象学』における「悟性」の段階の表題は、(A)「意識」「Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界」である。さて次に「現象と超感覚的世界」とはどういう意味か?(110頁)
☆「物」的でない「制約されない普遍性」(「力」)は、「感性」的なものでなく、したがって「知覚」できないので、「悟性」によってとらえるほかない。(110頁)
☆しかし「物」的でない「制約されない普遍性」(「力」)は、「感性」的のものと全然切り離すのでなく、「感性」的のものを媒介として、「悟性」は、「力」としての「無制約的普遍性」即ち「内なるもの」をつかむから、「現象」はやはり必要なわけだ。(110頁)
☆といっても「現象」(※「感性」的のもの)それ自身が、「悟性」の対象ではなく、「超感性的」のものが「悟性」の対象だ。そこで「超感性的な世界」も必要だ。(110頁)
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