臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(12月11日掲載・其のⅠ・おろがみて食ぶ)

2011年12月19日 | 今週の朝日歌壇から
[返]

○  亡き祖父を真似て新米食い初めすおかずは皆無おろがみて食ぶ  (茨城県) 田口順道

 五句目を「拝んで食べる」とせずに「おかずは皆無おろがみて食ぶ」としたのは、“作者の古語への執着心の表れ”でありましょうか?
 それとも、単なる“音数合わせ”でありましょうか?
 「食ぷ」はともかくとしても、動詞「おろがみ」は動詞「拝む」の古語であり、しかも、日本書紀などの上代の書物に出て来る古語であるから、昨今に於いては、結婚式や上棟式の際などに祝詞を上げる神主さんの口からしか出て来ません。
 それにも関わらず、古色蒼然たる動詞、即ち「おろがむ」にご執着なさっておられる歌詠みが少なくないと思われ、この古典語を用いた作品は結社誌などにも掲載されるが、その大半は読むに堪えないような凡作である。
 どんな理由があるにしろ、自分たちの生活圏から完全に消えてしまった言葉を敢えて使おうとするところに、短歌が袋小路に嵌ってしまった原因があるのかも知れません。
 緑青が吹いているような古典語を敢えて用いようとしながら、現代仮名遣いを用いている点も、本作の欠点として指摘しなければなりません。
 文語短歌を志向している以上は、「食い初め」は「食ひ初め」と、「おろがみて」は「をろかみて」としなければなりません。
 また、「皆無」という漢語と「おろがみて」という和語とのアンバランスも指摘して置きましょう。
 〔返〕  「食い初め」と「お食い初め」とは異なって「お食い初め」は赤ちゃんがやる   鳥羽省三


○  夜九時に電話かけて来る君のためチョコのような声用意する  (神戸市) 野中智永子

 「チョコ」と言えば、甘いだけではなく、苦さもその魅力の一つである。
 本作の作者・野中智永子さんは、「夜九時に電話」を「かけて来る君のため」に、「チョコのような」甘くて苦くて魅力的な「声」を「用意する」のでありましょうか?
 〔返〕  夜九時に必ずかけて来るはずの君の電話が未だ鳴らない   鳥羽省三


○  玄関を蹴って出てゆく君の好きなハヤシライスを今夜作ろう  (東京都) 土門久美子

 「玄関を蹴って出てゆく君」とは、評者としても、聞き捨てにならない表現である。
 作中の「君」と作者の土門久美子さんとは、起き抜けに痴話喧嘩でもやらかしたのでありましょうか?
 それとも、彼が単に元気なだけでありましょうか?
 そのいずれにしろ、「玄関を蹴って出てゆく」ような「君」のために「君の好きなハヤシライスを今夜作ろう」とするのは、妻として、一家の台所を預かる主婦として真に感心な心掛けである。
 「今夜」も亦、彼と作者とは、きっと熱々になるのに違いありません。
 でも、程々になさって下さいね、ご近所迷惑になりますから。
 〔返〕  煮込むほどハヤシライスは美味くなる今夜食べずに明日食べよう   鳥羽省三


○  逞しきマリンバ奏者の二の腕に雷光のごとく筋が走りぬ  (鴻巣市) 佐久間正城

 「マリンバ奏者の二の腕に雷光のごとく筋が走りぬ」とあるが、ピアニストにしろ、バイオリニストにしろ、声楽家にしろ、音楽家たちの仕事振りは、芸術家という名前に似合わず、あれでなかなかの肉体労働なのである。
 その中でも「マリンバ奏者」は特に筋骨隆々たる存在であることをを私が知ったのは、“さだまさしコンサート”に於いてであった。
 歌手“さだまさし”の家来のような存在の「マリンバ奏者」の宅間久善は、一見すると、ただの優男が年を取り過ぎてしまったような顔つきの中年男であるが、ご主人の“さだまさし”が持ち歌の『胡桃の日』を熱唱する時の彼の伴奏ぶりは、“驚異のマリンバ奏者”と言われる程にも熱狂的であり、彼がステージの奥で「マリンバ」を叩いている間、私たち観客は、思わず総立ちになってしまい、主役の“さだまさし”の存在を無視して、拍手喝采を浴びせてしまうそうにさえなってしまうのである。
 〔返〕  マリンバが憎くてあんなに叩くのか『胡桃の日』を打つ時の宅間は   鳥羽省三