ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

如何に狂風吹きまくも〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-14 | 自衛隊

掃海艇に乗ったのは一般見学も含めて初めての経験です。
舞鶴や横須賀の軍港めぐりツァーで乗るクルーズ船に比べると段違いの安定性があり、
少なくとも波のない港内を航行している限り、今日は楽勝!に思われました。

しかし、わたしははっきり言って冬の日向灘をなめていました。

この前日、山の上から「ぶんご」が給油しているとき、遠目にも、
甲板が全面的に見えたり、全く見えなくなったり、つまりあの大きな掃海母艦が
波にあおられて大揺れしていたのをさんざん見ていながら、
翌日、同じ海で、小さな掃海艇がどんな揺れに見舞われることになるのか、
神ならぬ身には、というか、掃海艇初体験の身には想像すべくもなかったのです。
(予告編)




ともかく掃海艇は今岸壁(に繋留した僚艦)を出港しました。
鳴り響く出港ラッパをしかとこの耳で確かめ、感慨に耽っていると、
赤いストラップの双眼鏡をつけた隊司令が颯爽と登場しました。
隊司令、誰かに向かって海軍式敬礼中。

うーん、さすがは司令、ラフで貫禄たっぷりの敬礼ですな。


メインマストには、目にも鮮やかな自衛艦旗が掲揚されています。
軍艦マーチこそ鳴らないけれど、掃海艇独特のキビキビしたスピーディな出港に、
護衛艦のときとは違う雰囲気を感じて、期待はいや増します。



外でずっと写真を撮っている報道の人もいましたが、わたしはとりあえず艦橋内に戻り、
操舵の様子を見守ることにしました。

掃海艇の艇長(艦長ではありません)は3等海佐です。
幹部は艇長ほか、船務長、機関長、掃海長。
水中処分員の乗り込んでいる艇には「処分長」がいます。

「航海長」「砲雷長」がおらずにその代わりと言ってはなんですが、
「掃海長」がいるわけです。

掃海長というのは、掃海に関わることすべて、つまり

掃海、敷設、水中処分、射撃、照射、運用、発射及び水測に関すること

を所掌する長なので、掃海艇においてはメインの役職と言えるでしょう。
補給長の仕事は基本的に誰が兼務してもいいそうですが、専門の長はいません。
そういえば副長という役職もいませんが、これは乗員の数が少ないからでしょうか。



掃海艇艇長は3佐ですが、艇長の椅子は赤青2色です。
護衛艦であれば「赤青の椅子は2佐」と説明してしまうところですが、
艇長および艦長であれば、階級が3佐であってもこのツートンカラーの椅子なのです。

出港後、隊司令が

「ここからしばらく何もないので、寒いですから中に入ってください」

と皆を促し、皆そこでぞろぞろと艦橋に入っていったのですが、そのとき

「ここは写真に撮らないようにお願いします」

と、報道に向かって注意がありました。
それが2枚上の写真の3尉が向かっているのと隣のモニターです。
上の写真も、とりあえず艦長の右上のモニターの数字は自主判断で消しておきました。



わたしたちに説明をする隊司令。
今回乗り込んだ「えのしま」、「ちちじま」、そして隣にいた「はつしま」
の三兄弟は横須賀の第41掃海隊の所属で、この方はそのトップです。

「今日この掃海艇の中で一番暇なのはわたしなので、
質問があればなんでも聞いてください」

と笑いを取りながら、実際にも色々と説明をしてくださいました。



激しくぼけてしまいましたが、艦長席の下側です。
やはり掃海艇ですから、椅子にはショックアブゾーバーを搭載しています。
昨日見学した「ぶんご」どころではない衝撃が来ますからね。



「座って見られたらどれだけショック対策がしてあるかわかります。
ぜひ一度試してみてください」

そう言われて畏れ多くも隊司令の席に座ってみました。
ちなみに、掃海隊の司令は2等海佐ですが、椅子は赤です。(護衛艦では赤は1佐)

椅子に落ち着くのにフカフカのクッションの山をよじ登る、
といった感じで、これならショックを全面的に吸収するだろうと思われました。
波の揺れも吸収しそうなので、長時間の航海もここにいれば楽かもしれません。



細島岸壁のある奥まった港を抜けると、すぐに「竹島」が見えてきます。
本当に、全国どこにでもありますよね。「竹島」という名前の島。

竹島は島と言うより本土から繋がった半島のような島ですが、
グーグルアースで見ると満潮で孤立してしまうので、人工構造物はありません。



ジャイロの前の幹部は、掃海艇の場合船務長でしょうか。

船から竹島の端っこが見えていますが、竹島を過ぎると、ようやく
港の外側に出たところ、といった感じです。
海面に波はほとんど見えませんが、風はあるので船は大いに揺れます。



隊司令のヘルメットはいかにも臨時でつけたようなシール付き。
艦橋に幹部用のヘルメットが並んでいますが、掃海艇の場合
掃海作業に入るときには必ずこれを被ることに決まっているのかと思われます。



昨日、桃源郷岬というところから掃海母艦の給油作業を見守りましたが、
そのときに見えていた「枇榔島(びろうじま)」が近づいてきました。
人は住んでいませんが、これもグーグルアースによると、
島の頂上に何か塔のような建造物らしいものが見えます。
この写真を拡大すると、かすかになにかありますが、これ、なんだろう・・・。

秘密基地?



見張りの隊員が着用している赤い手袋も官給品でしょうか。
まるで鍋つかみのようにごついですが、これなら完璧に風を防ぎそうです。


波は穏やかなので一見快適なクルーズのように見えているものの、
実はこの瞬間もびょーびょーと風が吹きまくっていて、わたしなど、


いかに〜きょおふうう〜吹きまくも〜いかに〜どとう〜は〜逆巻くも〜」

という一節が、頭の中にリフレインしたくらいでございます。
そして、わたしも手袋をしてくればよかった、と心の底から思いましたです。


今回は観艦式ではないので、乗り込んでくる「素人」はなく、報道も
少なくとも作業の邪魔になっているという様子はありませんでしたが、
出航作業のときに、何て言うのか忘れましたが、赤くて細いロープが跳ねて、
報道の人のカメラに当たったということがありました。


見ていても気の毒なくらい、近くの乗員は狼狽して、

「だいじょうぶですかっっっ!!!」

と声をかけてきたのですが、本来乗っているはずもないシチュエーションに、
部外者が乗っているわけだから、まあこういうこともあるだろうと皆思ったに違いありません。
わたしもあらためて、危険も起こりうる掃海艇に乗り込んできていることを認識したものです。




彼らは地元テレビのクルーだったような気がする。
訓練海域に到着するまでの間、しばらく全員がこんな感じで
出港の様子と艦橋などを写真に撮ったり、周りの景色を眺めたりして過ごしました。

後方に出港してきた港の入り口が見えています。



日向灘のこの辺りには「クルスの海」という面白い地名もあったりします。

リアス式海岸なので海岸線にも複雑な岩の形が見られるのですが、
この枇榔島は大変特徴があって、無人島なのに専門のwikiもあるくらいです。

それによると、今は無人島ですが、かつて「美女が住んでいた」という伝説があり、
(なんなのこの漠然とした伝説は)「美女島」とか「美女ケ島」という名もあるそうです。
島の形は柱状節理の切り立った岩断崖絶壁だそうなので、どう見ても人は住めませんが。



ちなみに最初の枇榔島の写真では切り立ったナイフのように見えていたのが
この穴の空いた部分で、ここはすでに枇榔島ではなく「タテベ」といいます。
タテベの左の部分が「小枇榔」(こびろう)。
タテベと小枇榔の間にある小さい岩、これが「ブリバエ」。

最後のは、こんな変な名前ならつけないほうがマシ、って気もしますが、小さな岩にまで
名称をちゃんともらっていて、どんだけ愛されているのか、という枇螂島さんでした。


なお、枇榔島は、1キロ半にわたる全島域が日豊海岸国定公園に指定されています。



そのときです。
東の空はこんなことになっていました。

「見てみて、太陽が・・・」

「まるで旭日旗ですね」


少し高くなった朝の太陽が、雲の上から見事な放射状の旭日光を作りました。
思わず見とれ、次に夢中でシャッターを切ります。

海上自衛隊の訓練がこれから始まろうという時、これはなんという吉兆でしょうか。
その途端、

 みーよとおかいのーそーら明けて〜、きょーくじつ高くかーがやけば〜」



何かと言うと脳内で軍歌が鳴り響くこの体質、何とかならんか。




続く。



 



 


掃海艇出航〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-12 | 自衛隊

今回、わたしは訓練見学の前日に宮崎に入り、訓練が終わってから
当日の最終便に乗る予定を立てていました。
問題は、日向から宮崎空港まではカーナビで1時間半、実際は1時間くらいかかること。

余裕を持って飛行機を取っておいたつもりが、入港に時間がかかったため、
結局呉から広島空港までタクシーに乗る羽目になった、あの護衛艦「いせ」のときの
悲しい過ちは2度と繰り返したくありません。

でも、護衛艦と違って掃海艇は入港したらすぐに降りられますよ」 

とミカさん。
それでも3時半入港予定で6時発の飛行機は心配だったので、
遅い便があるソラシドエアでチケットを取ったのでした。
実際は、ある事情があって予定よりも早く帰ってくることになったので、
心配どころか二人でご飯を食べるくらいの余裕ができたわけですが。


とにかく、「出入港作業にあまり時間がかからない」というのは
まず、朝の出航の様子を見ていてよくわかりました。



艦橋前のまるでステージのようなデッキからは、出航作業がよく見えます。
こういう作業を撮る時には、やっぱり広角レンズですね。


観艦式と違い、撮影場所を取り合うほどの人もおらず、あの鬱陶しい「カメ爺」もおらず、

わたし以外でカメラを持っている人は全員プロ。(一人、一般人の男性がいましたが)

わたしは報道の皆さんがお仕事用のカメラを立てたり、場所を確保した後でも、

その間から悠々と写真を撮ることができました。



観艦式でも、護衛艦の出航作業を艦橋ウィングから見守って写真を撮りましたが、
イージス艦などとはずいぶん様子が違うものです。


まずもやいが細い!
こんな細くても切れたら足を刎ねられるなんて事故になるんでしょうか。

布団収納袋みたいな防眩物も、一人で十分扱える程度の大きさです。



ほいっ!という感じでもやいをわたす、岸壁側の「はつしま」乗員。
これを海に落ちる前に甲板に回収できるかが腕の見せどころ(だったりして)



これだけで「えのしま」の出航作業は終了。
いやー、本当に掃海艇の出航ってあっという間だわ。

そして、次の瞬間、「はつしま」の乗組員は、自分たちの出航作業のため、
すでに岸壁に向かって移動を始めています。
舳先に立っている人は作業を見守る役目の人かな?



次の瞬間、「えのしま」の艦体から強烈なジェットバスみたいな白い波が出てきます。
バウ・スラスターが稼動を始めたのでした。

スラスターというのは英語ではthruster”であり、この単語を引くと
 「(ロケットなどの)小型エンジン」となっていますが、語源の"thrust"は、
「グッと押す」「ぐいっと押しつける」などという意味の動詞です。


これは推進システム全般の総称として使われている名称なので、
たとえば人工衛星や惑星探査機の軌道修正や姿勢制御するものも、
「スラスター」と呼ばれています。

船舶の場合は、「グッと押す」という意味に忠実に、主推進力とは別に
船を横に「グッと押して」動かすためのプロペラを「サイドスラスター」と称します。

主推進ともなる「アジマス(azimuth・方位)スラスター」を搭載している船は
横方向だけでなく自在に動くことができますが、豪華客船や、掘削船「ちきゅう」などは

これを3箇所くらいに搭載していて、タグボートなしで離着岸することができます。

自衛隊の採用しているスラスターは基本このタイプだけらしく、たとえば
掃海艇よりも大きな
掃海艦であっても、同じパワーのスラスターで離着岸することになり、
出入港の際には曳船を必要とすることになるのだそうです。

なんかスラスター付けてる意味なくね?


ちなみに、自衛隊では掃海艇をMSC(Mine Sweeper Coastal)と称しますが、
これは世界基準でいうと、「中型掃海艇」に属します。
この訓練には「つしま」という「やえやま」型掃海「艦」も参加していましたが、
この掃海艦はMSO、つまりMine Sweeper Ocean」です。

大型化中型かを「外洋」「沿岸」で分けるんですね。
一般に掃海艇は対機雷戦の主力であり、中型掃海艇は、外洋で
深深度機雷を処理する、という分担となっています。


かつては掃海艇より小さな「小型掃海艇」(Mine Sweeping Boats, MSB)というのも
あり、自衛隊でも「小掃」という名前で浅瀬での掃海作業に投入されていましたが、
浅瀬で小型船による掃海は危険が多いため、今では無人の 掃海管制艇(MCL)と
遠隔操縦式掃海具(SAM)の組み合わせに置き換わっています。


(これがかつて”NAMIE”とかつて名付けられていたという” SAM”ですね。
このページの下の方にその”証拠”がありますが、現在はさすがに消されているそうです) 

掃海管制艇は SAMを曳航・管制するための艇で、海自が所有するのは現在2隻。
SAMは全部で4隻活躍中だそうです。


艦首側に搭載したスラスターを「バウ・スラスター」、艦尾側のそれを
「スターン(stern)スラスター」といいます。

タグボートなどが搭載している、旋回性能を持った推進装置を

「シュナイダー・プロペラ」

というそうですが、スラスターに組み込まれる推進装置が
シュナイダープロペラなのかどうかは、今回わかりませんでした。

 もやいが解き放たれ、スラスターの推進によって、あっという間に
「えのしま」は「はつしま」から離れていきます。



わたしが写真を撮っているときには、同行の報道が
必ず同じように写真を撮りまくっていました。

もちろん、「世界の艦船」とかの専門雑誌のカメラマンならわかりますが、
(一例として名前をあげましたが、もしかしたら今回本当にいたのかも)
地元テレビや地元新聞社、そしてK同新聞社のカメラマンは、こんなシーン、
全く採用される可能性もないであろうに、やっぱり撮っていました。

とりあえず撮れるものは撮る、これがカメラマンの習性なのかもしれません。



大型の護衛艦でも必ず、出港時には舳先から数えて2番目に、
インカムをつけた隊員が立つらしいということに気づきました。

さらに、その隊員のインカムのコードは、バルカン砲のサークルの中に
立っている隊員が持っているのかと思ったのですが、どうも色が違うので
別のコードである模様。

ちゃんと等間隔に並んで出航しますが、こういう時帽振れはしません。



 

「はつしま」が繋留している岸壁には、他の掃海艇などから
隊員が降りてもやいを外す作業をしています。

このように僚艦の出航の際に別の着岸している艦から作業をするために
何人かが派遣されて向かっているところを今回見たのですが、
ちゃんと並んで行進しており、しかも歩調が揃っていました。

自衛官はこんな感じで並んで歩くと、たとえプライベートのときにも
歩調を合わせて(しかも早足)いると聞いたことがあったのですが、
こんな早くその実例を目の当たりにする日が来ようとは・・・。




バルカン砲M61はGE社の製品で、ファランクスCIWSにも搭載されています。
確かに銃身が、しうす君の銃と同じだわ。
これは、人力操砲式の艦載版として日本で開発されました。

CIWSが主に航空機の近接防御を目的としているならば、
こちらは水面に浮遊している機雷を射撃して処分することなので、
飛んでくる飛行機とじっとしている機雷では同じ時間に射出される弾も違って当然。
CIWSが 毎分4,500発なのに対して、こちらは発射速度を毎分450-500発に抑えてあります。

普通に武器として使われる場合、バルカン砲M61は毎分6000〜6600発ですから、
かなり簡易化されているということになります。

これを撃つ際にはサークルの中に立ち、ベルトを腰に巻いて、
銃ごと中をぐるぐる回って行う、という点ではアメリカで見た
艦上の「ガン・タブ」と同じ仕組みです。

銃身の右側には薬莢が自動で回収されるポケットのようなものが見えます。
海面に浮遊している機雷を撃つのに、どうして「楯」が必要なのかはわかりませんが、
やはり銃で掃討した場合、爆破の影響を少しでも受けないようにでしょうか。




あえて後ろをボケさせず撮ってみました。
ろの道路を走る車と掃海艇の甲板、なんだかシュールな絵じゃないですこと?

ところでこのバルカン砲JM61-RFS 、給弾はこのハッチから手動で行うんでしょうか。

従来型のバルカン砲との違いは、遠隔操縦式であるだけでなく、
射撃精度の向上にあるそうです。

「えのしま」と「はつしま」の就役はわずか2年違うだけですが、搭載武器は
日進月歩で新しい機構のものを(ちなみに国産。ライセンス生産していた航空用を開発)
取り入れて行っているんですね。


さて、この岸壁は日向灘を望む細島というところにあって、
全体が半島のように突き出したフォークのような地形の奥にあります。
従って港としては全く波の干渉を受けず、灘に出るまではまるで湖の上を
クルーズしている気分だったのですが、外に出た途端、海面は一変しました。

この季節、強い風にあおられてうねりの強い海にいよいよ出てきたのです。
日向灘というのが太平洋でも、もちろん日本海でもなく、
フィリピン海の一部であるという記述を後で読んで、さもありなんと思ったわたしでした。


続く。 



 


埠頭をわたる風〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-11 | 自衛隊

フタマルサンマルに入港し、入港作業が済んだ掃海母艦の
艦内ツァーが終了したのは、乗員の皆さんが上陸するのと同じ頃でした。

偶然車のところで拾ってあげた海士くんたち二人を、日向駅前の24時間大型スーパーに
(ミカさんによるとカードリーダを買いに行ったらあったらしい。有能)
送り届け、部屋に帰ってきたらほぼ11時。

SDカードのデータをPCに落とし、電池や端末を順番に充電し、明日の用意をしていたら、
ベッドに入るのは12時になってしまいました。
出航はマルナナサンマル、7時半と聞いたので、ホテルロビーに6時待ち合わせです。
どんなに頑張っても5時間しか寝られないわけですが、寝なきゃと思うと焦ってしまい、
そういえば今日とんかつ屋さんでサービスのコーヒーを飲んだなあ、
などと思い出すと
さらに一層寝られなくなり、少しうとうとしたと思ったら、
5時ににセットしたiPadの
行進曲「軍艦」が耳元で高らかに鳴ってしまいました。

前の日も十分寝不足だったのに、こんな状態で大丈夫か、わたし。

掃海母艦の乗員の皆さんも、昨夜は12時帰艦、5時半に総員起こしだったわけだけど、
なんといってもほら、彼らはそれが仕事なので船酔いもしないだろうしさ。



ホテルから埠頭までは車で7-8分といったところです。
岸壁はまだ暗く、夜明け前の空が東から白んでいます。

601の「ひらしま」と602の「やくしま」の艦橋には、もうすでに
煌々と明かりが灯っているのが見えます。
艦首旗を揚げるポールの先に灯りがあるとは、今の今まで知りませんでした。



ミカさんはさっそく現場で知り合いの自衛官を見つけ、記念撮影。
彼が手にしているのは、彼女の写真集だと思われます。

埠頭はまだ暗いですが、こんな時間にあっても自衛官の皆さんは、
こんなにちゃんと第1種制服を着込んでいらっしゃいます。
聞けばワイシャツも、防大や訓練時代から自分でプレスすることを仕込まれているので、
大抵の自衛官はアイロンがけがプロ並みに早くてうまいというではないですか。

いや、主婦として尊敬します。アイロンがけ嫌いなんで特に。

でも士官がこんなことまで自分でする海軍って、多分世界でも海上自衛隊だけだろうな。




「ひらしま」「やくしま」の後部にまわってみました。
まだ自衛官旗は揚げられておりません。
「やくしま」の後部甲板に白いロケット状のものが見えていますが、
これは小型係維掃海具の1号というものです。



こちら最新鋭型の「えのしま」型「はつしま」(向こうが「えのしま」)ですが、
この後部に見える白いロケット状のが同じ、小型係維掃海具1型の浮標です。



掃海具の「動力」とはこれ即ち掃海艇そのものであります。
この図を見てみもわかるように、白いロケット状のものは単なるフロートなんですね。

掃海を行うのは基本的に掃海艇であり、掃海具というのは掃海艇がトロール漁のように
引っ張って、機雷を切断したり、感応させたりして爆発を誘うためのツールです。

係維機雷の掃海を行うこの掃海具を「オロペサ型」と言います。
第一次世界大戦時にイギリスで開発された形で、機雷戦そのものは
日露戦争から始まっていますから、掃海の方法論というのは、そのころから
原理としては全く変わっていないということができるかと思います。



前甲板で作業する乗組員。
ポールに巻き付けてあるロープを解いているように見えます。
後ろに立っている隊員の顔には笑顔。朝からいい雰囲気です。



いい雰囲気といえばこれも。
彼もミカさんの知り合いで、帽子を振って挨拶していました。
今回のシリーズが始まってから、掃海隊に知り合いのいる人から
掃海隊では有名で噂は聞いていた、という連絡をもらいました。

ミカさんが掃海隊を撮り出してもう7年ということですから、
少なくとも若い海士たちよりも「掃海隊歴」は長いのです。



掃海艦「つしま」くん全景。
この位置からだと、掃海艦のもやいの掛け方がよくわかりますね。
なぜこんなに遠くから撮っているかというと(笑)、

一旦車をこの位置に止め、車の中で朝ご飯代わりのおにぎりを食べたからです。


温めなかったため、おにぎりは冷たくてとても美味しいとは言えませんでしたが、
とにかくあまりお腹が空いていては気分が悪くなるかもしれないと、

無理して一個だけ、お茶と一緒にお腹に詰め込みました。

山の端が明るくなり、もう日の出が始まらんとしています。
朝日に照らされる「ぶんご」さん。
昨晩はどうもお世話になりました。そしてお邪魔致しました。

あの海士くん二人は、ちゃんと12時にタクシーで帰れたかな。



おにぎりを食べ終わるとすぐに、わたしもミカさんも、また岸壁まで出て写真を撮ります。
そこでちょうどご来光が「つしま」くんの向こうから登りかけていました。
天気予報では雨だと聞いていたのに、訓練見学当日は快晴になる模様です。

ただ、この時点で埠頭には、かなり強く冷たい風が吹き渡っていました。

うーん・・・・この風・・・・、もしかしたら、今日は波乱の航海か?



わたしたちが乗り込むのは「えのしま」です。
「えのしま」はご存知のように海上自衛隊掃海艇の最新型で、
604「えのしま」、605「ちちじま」、606「はつしま」のうち、
「ちちじま」を除く2隻がこの訓練に横須賀から参加しています。

ちょうどわたしが3年前の観艦式で「ひゅうが」に乗ったとき、
1番艦の「えのしま」が就役したばかり(2012年)で、初めてのお目見えでした。
その時のエントリにも艦体がGFRP(ガラス繊維強化プラスチック)であることを
書いた覚えがあります。

今回の観艦式は、その3年後に新たに建造された3番艦「はつしま」が顔見世をしました。
ということは、この2隻、わたしがどちらも観艦式で「観艦」した掃海艇ということになります。

こんな形で再会できて嬉しいぞー!


このころになると、メディア・ツァーが行われる「えのしま」の前に、

ポツポツと報道記者とカメラマンを乗せた車が到着し始めます。
陸自の制服を着た男女の地本自衛官も、車で乗りつけてきました。

海自艦艇の出入港の時には、必ず地元の地本が見送り&出迎えをするんですね。



自衛艦旗がいつの間にかマストに上がっています。
左のマストはおそらくこの艦のコールサインだとおもいますが、
右のはなんだろう。
信号旗が読めるようになりたいなあとこんな時思います。


 
昨日は1日雲が多かったので、まだそれが空に残っている感じ。
しかし風が強いのですぐに払われそうです。

そのうち時間になったので、メディアの人たちが先になって乗船を行いました。
わたしたちは外側の「えのしま」に行くために「はつしま」を通り抜けるのですが、
「はつしま」の乗員は、乗艦する人が足を踏み外したりしたときのために
いつでも手を出せる体勢を取りながらも、爽やかに

「おはようございます!」

という挨拶を一人一人にきちんとしてくれました。
いつも思いますが、自衛官の挨拶というのはこちらを元気にしてくれます。


 

そのとき、ちょうど太陽が後ろの山(後で調べたら米ノ山という山だった)から
顔を出しました。
「はつしま」と「えのしま」の間で、出港前の作業が行われています。



まず「えのしま」が「はつしま」から離岸するための作業。
おおおー、皆かっこいいなあ。(と一見普通のことに萌えるわたし)

ところで、「えのしま」と「はつしま」は同型艦のはずなのに、
あれ?甲板上に乗っているモノが全く違うんですけど・・・。

「えのしま」のはM61バルカンの(ちなみにバルカン砲というのは製品名であり、
一般名詞ではありません。念のため)JM-61Mでしょう。(JはジャパンのJ?)
そして「はつしま」のはミニ主砲みたいな感じですが、こちらもバルカンで、
JM61-RFS 20mm多銃身機銃だそうです。

両者の大きな違いは操作法。

「はつしま」は後発なので、遠隔操作のできる新型タイプを搭載したようです。
これは光学方位盤により遠隔指揮を受けるという仕組みで、日本では他に
海上保安庁の船に不審船対策として搭載されているそうですが、

掃海艇でのバルカン砲の使用目的というのは、(まあ武器としても使えますが)
実は機雷処分だということが後で聞いた説明で判明しました。


護衛艦と違って、小さな掃海艇はあれよあれよと作業が進み、あっという間に出航です。
この最新型掃海艇のクルーズ、どんなことが待ち受けているのでしょうか。


続く。








 


2時間の上陸~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-10 | 自衛隊

食堂を通り抜け、副長に説明を受けながら歩いていて、ふと
明日の訓練のためにわたしたちは何時に掃海艇に乗るのだろう、という話になりました。
すると、副長はすぐさま「ちょっと待っていてください」といって
そういう予定がわかる部屋に入っていき、(これがなんの部屋だったかは不明)
「7時半出航だそうです」と聞いてきてくれました。

ちなみに当掃海母艦は、総員起こしマルゴーサンマルだそうです。
確か、自衛艦での起床時間は普通なら6時のはず。
いつもより早く起きなければいけないってことですか。

わたしたちはそれを聞いて、

「それではわれわれは、明日のホテルのロビーでの集合時間は朝6時ですね」

と互いに暗い目を合わせたわけですが、
彼らは朝5時半に起きなくてはいけないのに、夜の10時から上陸とは、
さすが若いって素晴らしい。あ、艦長も行ってらっしゃいましたっけ。

ちょうどその頃、消灯時間の10時が近づきました。
わたしの後ろで、副長にだれかが「消灯どうしますか」と聞きに来ています。
わたしたち一般人が見学しているので消してしまっていいものかどうか、
副長にお伺いを立てにきたというわけ。

そのときにはツァーも終わりに近づいていたので、副長は
いつも通りに消灯して大丈夫、と答えていました(と思う)。
そして、今から上陸隊員の服装点検がある、と言いました。

「上陸をする隊員は皆、点検を受けてから外に出ます」

おお、それは、防衛大学校のノンフィクションでやっていた、

「ネクタイがゆがんでいる!やり直し!」「ボタンが曲がっている!(略)」

というあの嫌がらせのような服装チェックですかい。

「点検で”上陸ダメ”なんて言われることもあるんですか」

副長、笑いながら

「いや、簡単なチェックですので・・」

さんざん入港作業が遅れて、たった2時間になってしまった上陸だというのに、
「シャツの裾が出ている!やりなおし」
なんてやったら、部下から恨まれてしまいますよね。




ここに出るために、副長は「X」のついたドアのラッチを全部外しました。

「ここから地上へのはしごをかけることもあります」

また、ドアがあるだけで隔離されている(海上では特に)スペースなので、
勤務の合間に出てきて煙草を吸ったりするのに絶好の場所だとか。

わたしたちがちょうどここに立った時、下を上陸する隊員が通りかかりながら挨拶しました。
数人の女の子ばかりのグループで、今日は「女子会」を行うようです。

「あの中には補給長がいます」

補給長というのは、5つの分隊のうちの一つである補給科衛生科のうち、
補給科の長で、もちろん防大卒の幹部の役職です。
経理、補給、給食、文書交換などを担当する部門で、先だって話題になった
給養員も、この部門に含まれます。


それにしても、今日の「ぶんご」は1日掃海艇・艦への補給を行っていたわけですが、
つまり補給長である彼女はこの作業を統括していたということでいいのでしょうか。

 何度か説明していますが、この日の補給作業は波のうねりのために何度も中断されたらしく、
午前中に終了する予定が夜の8時半に入港ということになってしまいました。
補給長という任務の幹部は、そんなこんなでさぞかし大変だったのではないかと思われます。

「ジパング」では、「みらい」の艦内で医官の桃井1尉に出逢った海軍軍人津田大尉が、

「軍艦に女を乗せているのか!」

とそこに驚いていたわけですが、現代のわたしたちにとっても
「護衛艦勤務の女性」はまだまだ刮目して見る対象にとどまっています。

眼下を歩いて行く「海軍士官とその部下」である女性たちも、
言われなければ、全く普通の若い女の子とその友人にしか見えません。

やっぱり自衛隊とは外の人間にはある意味「別世界」だと思うのでした。




というわけで、艦内ツァーは終了しました。
副長に舷門まで送られて出てきてみれば、そこには赤白の腕章をつけた
何人かの作業着でない制服を着た自衛官が敬礼してお見送りしてくれる態勢。

お疲れのところ隅から隅までツァーをしてくださった副長、そして
作業を途中で止めさせてしまったり、お風呂上りの超リラックスした格好を
外部の客に見られたり、救命ベストを鞄から出して見せてくれたりした隊員の皆さん、
本当にお邪魔しました。

「明日また海面でお会いしましょう」「訓練頑張ってください~!」

わたしたちはそう言ってラッタルを降りました。
さきほど掃海具Mk-15を見て、後甲板を案内してくださったとき、副長は

「この後ろ側のハッチをよく見て帰るといいですよ。
ここから今日ご覧になったように水中処分員のボートを降ろしたり、
掃海具を引き出したりします」

とおっしゃっていましたっけ。
この説明のときに、メインハッチの脇の4つの小さなハッチの役割を
聞いたような気がするのですが、どうしても思い出せません。



わたしたちは写真を撮りながら車を止めていた岸壁の外に向かいました。
途中に繋留してある掃海艇の掃海具S-10(冒頭写真)にご挨拶をして、
ふと明かりが漏れる内部を見るともなく見ると、そこは洗面所らしく、
鏡に向かってお風呂上りの隊員がドライヤーを使っていました。

どう見てもドライヤーで乾かすまでもないほとんど坊主頭に近いヘアでしたが、
さすがは自衛官、寝癖がつかないように?完璧に乾かしてから寝るんですね。


わたしたちが車を止めていた柵の外に出ると、そこにはタクシーが1台停まっていました。
上陸する自衛官が電話で読んだものか、それとも上陸を知っていて客待ちしているのか。

タクシーの横に止まっていた車に乗り込もうとしたら、若い海士らしい自衛官が
二人、ミカさんに声をかけてきました。

「この近くにコンビニってありますか?」

どうも当てなく上陸して、コンビニで何か買い物でもしようとしていたようです。
ミカさんは近くにAEONタウンがあることを教えてあげていましたが、

「でも、今の時間空いてるかなー」

そこでわたしが、

「駅前まで乗っていかれますか?」

彼らに声をかけました。
後からミカさんは、

「あのとき乗せるって言ってくれてよかったと思いました」

とわたしに言っていましたが、彼女はわたしが借りた車なので、
自分から乗せてあげる、とは言えずにいたのだそうです。


基本どこでも歩いて行く自衛官ですが、さすがに夜10時過ぎて

2時間しか上陸時間がないのに、てくてく最寄りの(というか近くない)
コンビニまでいって帰ってくるだけで終わり、では辛いものがあったでしょう。

彼らはわたしの誘いに全く遠慮せず、とても嬉しそうに車に乗り込んできました。
走り出してすぐ、窓ガラスが急に曇ったので断って窓を開けたら

「風呂入ってきたばかりなんで、体温が高めなんです」

清潔で礼儀正しいだけでなく、いうことがいちいち可愛い。
そのうち、さきほど停まっていたタクシーを追い抜かしました。
お互いに車の中を瞬時に確認しあい、

「前に誰々、後ろに何とか1曹が乗ってる」

さすがは船乗り、こんな暗がりで走る車の中の人物を特定するとはいい目をしておる。

「なんであの車に乗ってたんだって言われたら、無理に引っ張り込まれたっていうのよ」

ミカさんが彼らに変なご指導をしています。
後から、わたしが乗せた隊員のうち一人は、東日本大震災のときに
出動した掃海母艦に乗り込んであの現場を見た子だ、と彼女から聞きました。

百戦錬磨の大の男がその光景に精神の不調をきたすこともあったという、
あの未曾有の災害現場の中にあって、掃海隊は物資の補給、被災者の収容と支援、
そして彼の掃海母艦は、水中処分員が遭難者のご遺体を収容する作業にも当たっています。




駅前にあるおそらく船員向けに24時間空いている大型スーパーマーケットの前、
この何処かで見たようなキャラクターのイルミネーションの前で彼らを降ろしたとき、
車の外に立つなりピシッと直立して、

「ありがとうございました!」

と声を合わせていうあたりはやっぱり自衛官だなあと感心しましたが、
車の中で、

「(乗せてもらって)本当によかったー」

などとニコニコしている様子は、普通の若者どころか日本人には知るべくもない
壮絶な現場を知り、あの救難活動に危険を顧みず身を投じて日本中から感謝された
「つわもの」というには、あまりにも「普通の男の子」に見えました。

わたしがその話を聞かせてくれたミカさんに

「そんな子たちだったんですか。
それを聞くとなおさら、あのとき乗せてあげられて良かったです」


というと、彼女は

「向こうもきっと乗せてもらったことをずっと忘れないと思いますよ」

 と言いました。


さあ、いよいよ明日は掃海隊訓練です。



続く。 









 


特攻を矮小化する人々 ~イントレピッド航空博物館

2015-12-09 | 日本のこと


元「イントレピッド」乗組員、レイモンド・T・ストーンは、第二次世界大戦中、空母「イントレピッド」で
電信員としていくども見ることになった「カミカゼ・エクスペリエンス」を書き残しました。

「MY SHIP!」


というのがそのタイトルです。

 



前回「カミカゼ体験ショー」のときにお話しした、1944年10月29日の

砲座にいた10人中9人が即死した特攻と、11月25日の、69人もの乗組員が戦死した 
零戦2機の特攻(5分と時間を違えず突入は行われた)以外にも、
「イントレピッド」は計5機の突入を受け、そのため二度帰国、修理を余儀なくされました。

同著は、その体験を、戦友を失った経験も加え回顧しているものです。




ところで話は変わりますが、大変不思議なことがあります。 
日本語で「イントレピッド」を検索すると、特攻による被害をこのように書いてあります。

1944年10月にレイテ沖海戦に参加、10月30日に日本海軍の特攻機が銃座に激突し、
10名が死亡、6名が負傷した。
乗員による熟練したダメージコントロール
でまもなく発艦作業を再開する。
同年11月25日、2機の特攻機が激突、士官6名と兵員5名が死亡する。
艦の推進力には影響が及ばず、2時間以内に消火作業を完了した。


????


なぜ日米の彼我でこんなに数字が変わってきてしまっているのでしょうか・
日本版ウィキによると、特攻作戦における「イントレピッド」の犠牲者は、
2回の特攻を受けただけで戦争中を通じて全部でたった21名ということになってしまうのです。



それでは一体これはなんなのでしょうか。

壁に描かれた272名の名前は、すべて日本の特攻機突入による死者重軽傷者です。
今点灯している名前は69人分、つまり11月25日の特攻によって
亡くなった人だけでこれだけがいるということなのです。

日本版ウィキが、特攻突入における死者の数をこれだけ少なく表し、
さらにどちらの被害も軽微なものだったと強調する理由はなんなのでしょうか。

そもそもWikipediaというのは、誰でも編集に携わることが可能なので、例えば人物についても、
偏向した記述をして貶めるような情報操作するというようなことが多々行われているそうです。 


そういう形態を知って、このあからさまな特攻の被害の矮小化を見ると、

「特攻隊の戦果は小さかった」=「特攻は所詮戦況にも寄与しない無駄な作戦だった」
=「特攻は犬死にだった」

としたい「誰か」の意思でもあったのかとさえ勘ぐってしまいます。
戦後、というかいまだに日本では「特攻の与えた被害は大したことない」という論調で、

それを美化するな、と声高に叫ぶ人がたくさんいます。

確かに「外道の作戦」であり、与えた損害と失われた人命の、あえていうなら
「費用対効果」でいえば、「割に合わない」戦法であったと後世から見れば思えます。
しかも、特攻を命ずる方も、1機が効果的にダメージを与えられる小型船舶ではなく
「死者の花道」として丈夫な戦艦や大型空母を狙って死にたいという搭乗員の「冥利」を無視できず、
非情な命令を下しながら、最後まで非情になりきれないという日本的情緒が、
ある意味作戦としての「無駄」を生んだという意味では、彼らにも一理あります。

しかし、この作戦が彼らに与えた心理的効果は実際の被害以上のものでした。
沖縄では精神変調をきたす兵が続出して、ニミッツが「これ以上は無理だ」
と上層部に弱音を吐いたのは有名ですし、帰国後の心的外傷も問題となりました。

何より、アメリカ海軍の「カミカゼ・トラウマ」は、その後の艦隊戦における思想に反映し、
イージスシステムもこの流れを汲んでいるとさえ言われているのです。

特攻に効果がなかったという論調は、戦後のGHQの日本に対する思想統制に遡ります。
アメリカ側が戦後の統制下にある日本にそのように思わせたがった理由はよくわかりますが、
未だに日本人が現実にこのように残る特攻の甚大な「戦果」をなかったことにするのは、
特攻隊員とその命を愚弄することに等しい行為だといえましょう。

正確な史実=特攻の効果を見て見ない振りまでして、彼らを侮辱することと、
戦争と特攻を「あってはならないこと」とすることの間にはなんのつながりも
主張を裏付ける効果もないし、それはいまだに頑迷なる戦後レジームの闇から
精神が一歩も抜け出せていないことを意味するとわたしは断言するものです。





さて、さらに、10月29日の死亡人数は、「マイシップ!」のストーン氏によると10名とありますが、

当「イントレピッド」博物館の名簿によると12名です。
名簿にはちゃんと全員の名前と階級が記されているので、ストーン氏の記憶違いの可能性が高いでしょう。

というわけで、もしどなたかWikipedia編集経験者がおられたら、


10月29日 12名死亡

11月25日 69名死亡

と日本語版wikiを書き換えていただけませんでしょうか。
ちなみにWikipediaの英語版には、特攻による犠牲者の数どころか、
特攻突入による損害を受けたことについても全く書かれていません。



さてそこでもう一度「マイシップ!」に戻ってみましょう。


イントレピッド」に突入した日本軍の特攻機は全部で5機。
これは、戦争中を通じて米海軍の艦船の中では最多となります。

そのうち3機が、10月29日1機と11月25日の2機。
この「イントレピッド」博物館上でも明らかになっている日付です。



それでは4回目はというと、これもwikiには記されていないのですが、

1945年3月18日のことになります。


右舷船首から突入してきた特攻機を、ガンナーが撃ち落としたのですが、
その時に爆発した機体の破片や火のついたガソリンがハンガーデッキに降り注ぎ、
それがいくばくかのダメージをもたらしました。




3月18日に特攻を出しているのは海軍菊水部隊の彗星隊で、
この1日だけで39名の特攻隊員が戦死した記録があります。


この記録から考えずにいられないのは、前年度、組織的な特攻隊が行われ始めた頃には
アメリカ側の犠牲は甚大なものであったのに、この頃になると、
「イントレピッド」の射手に撃ち落とされたこの特攻機だけがかろうじて
軽微な損害を与えただけであったという風に、与えた効果があまりにも僅少だったことです。

そして、39名の大量死。

特別攻撃隊隊長は岩上一郎中尉(室蘭高工)と野間茂中尉(福知高商)という、
どう見ても経験の浅そうな学徒士官です。
しかもその他の学徒士官の出身校を見てみると

宇部高工 長岡高工 第二早高 早稲田専 明治専 青森青教 台中高農

など、専門系が多いのに気づきます。
そして戦死者名簿で思わず目を見張ってしまったのが、

丙(特)飛

という文字です。
丙特飛とは正式には丙種(特)飛行予科練習生といい、昭和19年設立されました。
これは志願で海軍に入隊してきた朝鮮・台湾出身者のうち、

航空科希望者を予科練に組み込んだものというカテゴリなのです。

実際には台湾出身の特攻隊員はいませんでしたから、これは間違いなく、
全部で20名いたという朝鮮半島出身者の特攻隊員であろうと思われます。
その名も、

勝俣市太郎2飛曹と、益岡政一2飛曹。

どちらの名前も通名のまま戦死者名簿に記されています。

そして、乙特飛という、戦況の悪化に伴い、乙飛を志願した練習生の中から
更に選抜して特攻のためだけに短期養成を行った搭乗員が6名も参加しています。

カミカゼの恐怖に立ち向かう、したたかな顔を持つアメリカが、対特攻のための戦略を練り、
守りを堅固にしていくのと反比例して、当初の精鋭部隊もすでに消耗し、日本の特攻隊は
技量も経験も全くない学生隊長が率いる即席養成の搭乗員を投入していたのです。




「マイシップ!」によると、最後に「イントレピッド」に被害を与えた特攻は

1945年4月16日に行われました。

「零戦と”コンベンショナル”(月並みな・ありきたりの)な航空機で行われた大量特攻」

とアメリカ側が記すところの特攻隊は、菊水三号作戦と呼ばれる、神雷桜花隊、銀河隊、
水部隊など、海軍176機、振武隊から成る陸軍52機による攻撃です。

このうち特攻機の未帰還は海軍106機、陸軍51機。(陸軍は帰還一機のみ)

この頃には既に陸軍の特攻機は実用機が不足していたため、
ほとんどが旧式の九七戦で行われました。

この日の大量突入に対し、「イントレピッド」は43機を掃射撃墜しています。

しかしながら一機の特攻機が、対空砲をくぐり抜け、フライトデッキに激突。
この機体はハンガーデッキにまで突き抜け、その時の爆発で10名が死亡しました。


さて、それではもう一度日本語版のWikiがここをどう説明しているのか見てみます。

その間、3月18日と4月16日の二度にわたって神風特別攻撃隊の特攻機の
体当たり攻撃により損傷したが、沈むことなく無事に終戦を迎えている。

まあ、沈まなかったから今博物館になってるんですけどね。
まず、この2回の攻撃が神風特別攻撃隊ではなかったことを突っ込み隊。
じゃなくて突っ込みたい。


特攻とくればなんでもかんでも「カミカゼ」と呼ぶなんて、あんたどこのアメリカ人?
少なくとも日本人なのならば、せめて

特別攻撃隊(菊水三号作戦による)

とか、

神雷桜花隊や振武隊からなる特別攻撃隊

くらいは調べればわかることなんですから、大雑把にならずにきっちり書いていただき隊。
それに、実際の「イントレピッド」の被害が甚大であったことには毛ほども触れず、
「無事に終戦を迎えている」って、それなんか違うんじゃない?


さて、冒頭写真は、

九九式一号2型改

と刻印があるので、 99式20ミリ機銃の部品であろうかと思われます。
99式20ミリは海軍が使用していた航空機銃であり、これは
零戦の部品であることはほぼ間違いありません。

菊水三号作戦の時には特攻に使う零戦は無くなっており、

桜花・陸攻・銀河・97式艦攻・彗星

という陣容でしたから、10月29日か11月25日、いずれかに突入した特攻機の部品でしょう。

 





上の左は8ミリ機銃でしょうか。



煙を噴き上げる「イントレピッド」の写真をバックに、この時に戦死した乗組員の
残したノートにパープルハート勲章などが添えられています。



スクラップ帳だったようですが、何が書いてあるかよくわかりません。
フットボールファンだったのでしょう。



これも特攻隊突入で死亡した乗組員の遺品。


「カミカゼショー」が終わってからわたしとTOは顔を見合わせました。

「どうでした」
「うん・・・」
「なんか、アメリカ人って特攻機に人間が乗っていたって全然思っていないみたい。
なんていうんだろう。まるで天災に遭ったような・・?」

何月何日カミカゼがきました。何人死にました。
この時死んだ誰々は大変勇敢でした。
「イントレピッド」にとって最悪の日でしたが、乗組員はそれに打ち勝ちました。
めでたしめでたし。アメリカ万歳。


これは日本側にも言えることですが、戦っている相手を「人として」見ようとしない、
確かに特攻機には誰か、名前のある日本人が乗っていて、その人間が操縦してくるわけだけど、
それについてはあまり考えないようにしている、というのが近いでしょうか。

どちらもむしろ「個人の顔は見たくない」というのが、わたしたちには
到底知る境地に至ることのない、自我を崩壊させないために機能する、
戦場にあるものの「本能」みたいなものなのでしょうか。


一人の人間ではなく「カミカゼ」という得体の知れない不気味な敵、
こちらの命を巻き添えに自殺攻撃をしてくる理解しがたい「何か」に対して、
「イントレピッド」の隊員たちはそれが「誰か」であることを決して考えまいとしながら、
必死で、無心に、戦い続けていたのかもしれません。 





 


「カミカゼ体験ショー」(笑) イントレピッド航空科学博物館

2015-12-08 | アメリカ

日向灘の掃海隊訓練参加記の途中ですが、今日12月8日は真珠湾攻撃、
つまり日米開戦となった日なので、関連話題をお送りすることにします。 


アメリカ人はどこかの日本人と違って、「愛国心」を発露させることに衒いがなく、
パトリオティシズムを否定しない点では世界スタンダードだと思いますが、
反面とにかくアメリカ万歳のあまり、時として無神経で空気を読まないところがあります。


といきなり言い放ってしまうわけですが、例えばこの冒頭写真を見て、
うんうん、こういうところがなんかついていけないよねー、と
言っていることに賛同していただける方もおられるのではないでしょうか。

この大きな壁に書かれた「カミカゼ体験ショー」のお知らせの前に立った
わたしとTOが思わず絶句して、

「うーん・・・」

と二人で唸っていたら、その時ちょうどショーとやらが始まってしまいました。


イントレピッドの最も暗い、そして最も輝ける日を追体験せよ。
新型マルチメディアによる”カミカゼ:暗黒の日、輝ける日”が、あなたを1944年11月25日、
イントレピッドに2機のカミカゼ自殺機((−_−#))が激突した日に誘います。
そこであなたは炎の下の真のヒロイズムを体験することになるでしょう。

「メモリアル・ウォール・オナーズ」にはそのときイントレピッドに乗り組んで
命を捧げたすべての士官とクルーの名前が記されています。

という説明によるこのショーは、その何機かの特攻隊の攻撃の一回を
再現してみせるというもののようです。
見せてもらいましょう。どんなものなのか。



その前に、甲板で目を留めたボードについて少し説明しておきましょう。
ちょうどフランスのダッソー・エタンダールが置いてある部分にあたるのですが、
この説明によるとちょうどこの部分にかつて特攻機が突っ込んだことがあるのだそうです。



これは、「イントレピッド」が受けた初めての特攻機による攻撃でした。
日にちは1944年、10月29日。フィリピン海でのことです。

そこにはかつてガン・タブ10(10番銃座)があり、そこの銃撃手は全員アフリカ系でした。
彼らは勇敢にも特攻機に対して砲撃を加えますが、飛行機はちょうど彼らのところに激突し、
24名の乗員たちは6人を除いて重軽傷を負い、8名が死亡しました。

この日付を所蔵の「特別攻撃隊全史」で検索してみると、これは比島方面作戦の
第一次、そして第二次神風特攻隊による攻撃によるもので、

初桜隊 野並晢一飛曹(甲飛10)以下、零戦3機

義烈隊 近藤寿男中尉(海機53)以下、彗星2機

神武隊 坂田馨上飛曹(乙飛13)以下、99艦爆2機

神兵隊 藤本勇中尉(海兵71)以下、9艦爆2機

が少なくともこの日、フィリピン方面で戦死を遂げたことがわかります。
この日の特攻による戦死者、12名。
直掩機での戦死や、機上戦死も入れての人数ですが、数だけで言えば
イントレピッドの戦死者より多くの命がこの日一日で失われました。

ただし、一連の「カミカゼ・アクション」が米軍にもたらしたショックは
計り知れないものでした。
それが証拠に、未だにアメリカでは「カミカゼ」を、まるで天災でもあるような、
抗しがたい恐怖を齎すものとしてこうやって語られているのです。

ちなみに、あの関行男大尉が初めて組織された特攻隊として、
敷島隊の5人を率いて特攻を行ったのはこの4日前の10月25日。
10月29日のイントレピッド突入は、これに続く第5次に亘る特攻攻撃の一つでした。



ショー(笑)の始まりを告げるアナウンスがあると、その辺の見学者が
三々五々集まってきてすべての見学者が何も言われないのに床に座り込みました。

日本では少し奇異な光景ですが、アメリカ人というのは常日頃
家の中でも靴で生活しているせいか、建物の中であれば(時には外も)
室内と同じように座り込む性質があります。

アメリカの大型書店、最近はアマゾンのおかげで減ってきましたが、
バーンズアンドノーブルスなどに行ってみると、通路という通路に
子供が(時々大人も)座り込んで本を立ち読み(座り読みか)しています。
まあこういうのからも、アメリカ人の清潔観念というのがうかがい知れるのですが、
総じてアメリカの道は綺麗で、たとえそうでなくても皆そもそも
あまり「外」というものを歩かない(ほとんど目的地まで車でドアトゥドア)
せいなんだろうと思っています。

日本人であるわたしたちは、座り込むことなく、立ったまま15分の間、
ショーを皆の輪の外から眺めることになりました。
まず会場が暗くなります。

「イントレピッド」艦上で、10月25日以降、連日フィリピンの各基地から
飛び立っておそってくる特攻機を待つ状態の乗組員たち。

右ではやはりアメリカ人らしく甲板にゴロゴロ転がって仮眠を取っている人もいますが、
左のまるで鉢担ぎ姫のような大きなヘルメットをかぶっている乗組員の
表情からは、不安と恐怖が隠せません。 

このころの米軍側の戦史から抜粋してみます。

「さらに、フィリピン諸島の各基地から飛来した特別攻撃隊の
アメリカ高速空母機動部隊に対する攻撃は、一層、被害甚大であった。
すなわち10月29日には大型航空母艦”イントレピッド”が損害を被り、その翌日は、
さらに大型空母”フランクリン”が飛行甲板に40フィートの大穴を開けられ、
アメリカ本国に修理のため回送された。

ついで、高速軽空母”ベローウッド”にも、また特攻機が体当たりをした。
11月5日には大型空母”レキシントン”が日本爆撃機の体当たりを喰らって損傷し、
死傷者182名を出した。

このような型破りの戦術はアメリカ海軍に深刻な関心を呼び起こした。
なぜならばアメリカ海軍は、いまだかつて、この自己犠牲の光景ほど、
ゾッと身の毛のよだつような気味悪いものを見たことがなかったからであった」




「イントレピッド」の乗員にとって、この日11月25日以前にも
カミカゼのアタックを受けていたため、その恐怖は大変なものだった、
と続くのですが、今映し出されているのは先ほど説明した、、10番砲座の
アフリカ系ばかりの小隊を狙うように突入した日本機(99艦爆ですね?)と、
この時に戦死した、小隊長のアルフォンソ・チャバリアスだと思われます。



そこでライトが点滅したり、警報が鳴らされたり、艦内のあちこちから
危急をつげる報告が飛び交ったりする緊迫感溢れる音声がさんざん流されたと思ったら、
いきなり子供が二人寝そべったり座ったりしている部分の床から煙が出てきました。



それまで立っていたダディがなぜか一緒になってくつろぐ展開(笑)
艦上は特攻機突入の際の爆発でもはや火の海となっている
・・・・・のでこういう演出をしたようですが、残念ながら
見ている皆にも全く緊迫感なし。

えーと・・・・・。



恐ろしい11月25日のカミカゼアタックによって、なんと69名もの将兵がなくなりました。
このショーは、それらの戦死者に捧ぐ、とありますが、なんというか
こんなショーを捧げられてもなあ、と思ってしまったのはわたしが日本人だから?

いや、きっとアメリカ人だってそう思う人は多いと思う。



海軍葬の行われんとする「イントレピッド」艦上。

この時に「イントレピッド」を襲った第3・第5神風特攻隊は目的が最初から機動部隊でした。

第3高徳隊 植竹功上飛曹(甲飛9) 以下5名 零戦

吉野隊 高武公美中尉(西南学院) 以下12名 零戦

笠置隊 鮎川幸男中尉(海兵71) 以下5名 零戦

疾風隊 前田操上飛曹(普電練) 以下8名 銀河・零戦

強風隊 山口晴雄上飛曹(甲飛9) 以下6名  銀河・零戦

計36名の特攻隊員が戦死しています。
レイテ湾には150隻にわたる艦船が充満していましたが、
この時の猛烈な攻撃によって、イントレピッドを含む空母4隻が
重篤な損害を受けることになりました。




この時の「イントレピッド」艦上。
皆がホースを持ち必死の消火に当たっています。

現在、「イントレピッド」に突入したのは、吉野隊の零戦のうち2機であることがわかっています。
 

 続きます。

 


艦の台所と艦での禁酒~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-07 | 自衛隊

掃海母艦の見学記、続きです。
格納庫の掃海具Mk-15を間近に見学したわたしたちは、もう一度艦内に戻りました。



黒いショルダーバッグがたくさん手すりにかかっているので、ふと

「これ、なんでしょうか」

と聞くと、同行していた隊員さん(もしかしたら給油作業の合間に入港時間を
連絡してくれていた方だったかもしれません。この場をお借りしてお礼申し上げます)
が、わざわざ中を開けて見せてくれました。

「救命ベストですね」



かさばるベストが入っているとはとても思えない小さいバッグだったので、
そこにいる誰も中身が何かわからなかったのです。
そしていっぺん出すとまた元どおりに直すのが大変・・・・・(上写真)

副長は次の見学場所に向かって歩き出してしまうし、後ろを振り向いたら
まだベストを元どおりにする作業が終わっていないし、
ミカさんはそれを見守るために立ち止まっているし・・・・。

うっかり質問したことを申し訳なく思った瞬間でした。



観艦式の「あたご」 艦内では「夜の護衛艦を体験するコーナー」として
この赤い艦内灯が点けられていたのを見てなるほどと思ったのですが、
これは「本物の夜の自衛艦」の赤い灯。

特に潜水艦に顕著ですが、艦隊勤務というのは昼夜の区別がつきにくいことがあるので、
夜には赤い灯を点けるということが慣習として決まっています。



こういうスペースでは赤い灯は使いません。(気が滅入るよね)
夜になって誰もいない食堂。
椅子がちゃんと浮かせて収納されています。



自衛艦の食堂の壁には、写真があったり、賞状やポスターがあったりします。



体験乗艦した小学生から届けられたお礼の手紙と絵。
これは乗員のみなさんも嬉しいよね。
ちゃんと「ぶんご」に見えるなかなかの画力なのだけど、「ぶんご」はともかく
空中の黒い点をさして「やえやま」とはこれいかに・・・。 
もしかしたら遠近法?遠くに見えてたってことかな?

それと、彼の名前がすごい。「いかり」はやっぱり「碇」かな



説明がないので見たときには何かわからなかったのですが、迎えている人々が
トルコの旗を振っているので調べたところ、1万7千人の被害者を出した
1999年のトルコ大地震(イズミット地震)のときに、派遣されて輸送艦「おおすみ」、
補給艦「ときわ」とともに、仮設住宅の輸送を行っていました。

このとき「ぶんご」は、エジプトのアレキサンドリア港まで無寄港で
平均速力18kt(約33km/h)で連続23日間という、海上自衛隊史上初の
長距離連続航海を行った末、トルコのハイダルパシャ港に入港しましたが、
この絵はその入港のときを(おそらく現地の人が)描いたものではないでしょうか。

有名になったサマワでの国際派遣、ペルシャ湾の掃海だけでなく、このときも
トルコの人々は自衛隊の到着を熱狂して迎えてくれたのです。

余談ですが、サマワには「Sato bridge」と名付けられた橋があります。
自衛隊が架設した最初の橋で、この「Sato」は他でもない、隊長であった
佐藤正久3佐(当時)の名前から取られています。



冒頭写真はこの時の誰もいないキッチン。
あと数時間すれば、170人分の朝食のためにコンロには火が付き、
あたたかい味噌汁とご飯が用意されます。
ちなみに熱源はガスは使えないので、電気と蒸気で調理を行います。

自衛隊の金曜カレーというのが有名になって、一般社会のカレー業界では
「金曜カレー」を定着させようという動きもあるのですが、
昔は金曜ではなく土曜日の「半ドン」(昼から休み)の昼食だったとか。
つまりカレーは「金曜日を知らせる」という意味ではなく、
「明日は休みだよ」と知らせるためのものだということです。

昔の艦隊勤務と今の違うところは「カレー曜日」だけでなく、
夜食のあるなしで、昔は1日4食出されていたのですが、今は
必要に応じて夜食をつくることもある、という感じだそうです。

このツァーのとき、夜食のおにぎりが並べられているところを通りました。
おにぎりは一つ崩れてしまったのを残して(−_−) 全部なくなっていました。
食べ盛りの若い人が多い職場ですから、あっという間に消費されてしまうのでしょう。


ところで、副長によると、現在当掃海母艦の食事は「とてもいい」のだそうです。

今の烹炊長(というのかどうか知りませんが)は大変腕が良く、艦食が美味しいのだとか。

海上自衛隊のご飯は一般レベルから見ても美味しい、というのが定説です。
その中でも、特に食事が重要になってくるのは、楽しみが少ない艦隊勤務ならでは。
何しろ日本の軍艦たる自衛隊の艦船は、戦後アメリカ海軍の真似をして
艦内禁酒に決めてしまったのですから、それだけに切実です。




この話が出たのでまたもや余談ですが、今年の最初に、「機動部隊」という

アメリカ映画についてお話ししたことを覚えておられるでしょうか。
この映画で、主人公のゲーリー・クーパー演じる海軍軍人に向かって、
「アメリカがどこと戦争するってんだ」(軍備など必要ない)とふっかけていた
新聞社の社長で、海軍に口うるさくあれこれいうおっさんがいましたが、あれは
アメリカ海軍の禁酒を決めた新聞社社長で海軍長官、ジョセファス・ダニエルズ
モデルだったのではないかと、今にして気づいた私です。

このダニエルズという人物、白人至上主義でアフリカ系アメリカ人の公民権を
剥奪することを公約して選挙に勝ち、公約実行しているわけですが(><)
もっとも悪名高い業績が、

Prohibition in the Navy: General Order 99, 1 June 1914

リンク先を見ていただけばお分かりですが、

"The use or introduction for drinking purposes of alcoholic liquors

on board any naval vessel, or within any navy yard or station,

is strictly prohibited, and commanding officers will be held directly

responsible for the enforcement of this order."

海軍艦艇上、または任意の海軍敷地内や構内での酒類の飲用の目的での
使用または導入は、厳しく禁止されており、指揮官はこの制定の施行における
直接の責任を負うことになります


あまりいい訳ではありませんが(^_^;)まあこんなところでしょう。
wikiにもありますが、彼がお酒の代わりに推奨したのがコーヒー。

「海軍でもっとも強い(ストロングな)飲み物はコーヒーであるべきである」

といったとかなんとか。

ああ、それでアメリカ海軍の船は艦橋にまでコーヒーメーカーがあったり、
専門のコーヒーカップ台があったりしたのか。

とおもわず納得してしまった訳ですが、今でも「a cup of coffee」を意味する

「a cup of Joe」

という俗語に、彼の名前が燦然と?刻まれています。
でもこれ、どう考えても否定的な意味、つまり皮肉ですよね?

ゴラン高原の「SATO BRIDGE」はご本人にも我々日本人にとっても名誉なことですが、
同じ名前を残すのでも、わたしならこんな否定的なニュアンスでは残されたくはないなあ・・。

戦前はイギリス海軍の薫陶を受けたせいで、艦内ではお酒OKで宴会ももちろん、
だった帝国海軍ですが、戦後になって、アメリカ海軍のする通りに
艦内絶対禁酒の規則を取り入れてしまった自衛隊。

まあ、日本国自衛隊の組織の性質を考えれば、アメリカ海軍とは関係なくお酒は
遅かれ早かれアウトになっていた可能性は高いですが。

それについてはこんな話があります。
あるとき、自衛隊の偉い人がアメリカ海軍軍人と話していてこう言いました。

「アメリカ海軍の軍規を見習って、自衛隊でも艦内は禁酒となっています」

それを聞いたアメリカ海軍軍人、嘆息して曰く。

「それはまた、つまらないことを真似したものだなあ」

(ちゃんちゃん)


さて、「ぶんご」のキッチンに話を戻しますと、艦で出る食事が、

副長が外に自慢するほど美味しいというのを聞いて、わたしが

「それは・・・士気もあがりますね」

こういうと、副長はこうおっしゃいました。

「そうなんです。だから今うちはすごく雰囲気がいいんですよ」

ご飯が美味しい=雰囲気がいい=士気が上がる。

食べ物って本当に人間にとって大切なんだなあと当たり前のことを確認した一言でした。


続く。 

 

 


磁気掃海具〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-06 | 自衛隊

掃海母艦の見学が続いています。
艦橋を見学した後は、一度甲板レベルまで降りてきました。



後部甲板に向かって高速で移動していく案内の副長の図。
っていうか、夜なのですこしでも動いているとぶれてしまうわけですが。

そこで目の前に現れたジャイガンティック (gigantic)なリールに驚愕。
これはウィンチというのでしょうか。それとも普通にケーブルドラム?

夜間のせいか見たところ何もありませんが、写真を検索すると
たまに発見されるこの巻き取り機には、黄色いホース状のケーブルが巻かれています。 

デリックに吊られている救命ボートは普通の護衛艦より大型のような気がしますが、
気のせいでしょうか。

 

副長が次にご案内くださったのは後部甲板。
折しも何やら作業の真っ最中です。

甲板の向こう側に防眩物が見えますが、これは接岸用ではなく、
子供の掃海艇などと接舷するときのためのものだと見た。



何を見せてくれるのだろうと思っていたら、なんと副長、

「甲板のエレベーターで
下の階に降ります」

甲板の中央にあって、ヘリコプターを載せるにはやや小さい、
(というか乗らない)ほぼ正四角形のエレベーター。

先ほど搬入されたジュースとともに甲板からエレベーターに乗って降りたばかりですが、
一般見学者にとってはもうワクワクです(アトラクション的に)。

またもや脳内を「サンダーバードのテーマ」が鳴り響く中、エレベーター稼働。



これは、エレベーターがちょうど甲板部分を通過しているところ。
複雑に絡み合ったパイプ、無数のダクト、何一つとして無駄な部分はありません。



ここが甲板下の格納庫。
艦艇一般公開などでは決して見られない部分です。
手前の黄色いリールは掃海具の曳行用電源だと思われます。

甲板の大きな巻き取り機もそうですが、掃海という作業、何しろ
巻き取るもの=索をふんだんに使うのです。

対機雷戦には大まかに分けて、


機雷掃討・・機雷のそばで別の機雷を爆破させ処理する

係維掃海・・錘の先に付けられて海中に浮遊する機雷の糸(維)を切断し、
(けいい)  海面に浮かび上がらせたのち処分する

感応掃海・・磁気機雷に対し、ダミーの磁場を発生させて自爆させる


という三種類の方法が現在行われています。
機雷の種類とその機能によって処分の仕方を変えるわけですが、
このいずれの方法をとったとしても必要となってくるのは「引っ張るもの」=索。

機雷探知機にも、先日お見せした黄色い掃海具にも電源とデータ通信用を兼ねた
長い索がついていますし、係維掃海で機雷の糸を切断するためのロープは
艇から二股に別れたカット用の索を使います。


掃海隊HPより

そして、感応機雷をやっつけるには、掃海索という「船のふりをするための」
曳行具を引っ張る索、そしてダミーの発音をする発音体を引っ張り電源を供給する索が。




つまり、どの方法であっても「索」を必要とするので、掃海母艦にも掃海艇にも
このような巻き取り機がいたるところにあるわけです。 

まるで小学生のような観察ですが、(小並
掃海については訓練見学の報告の際にもう少し詳しくお話しすることもありましょう。



で、ここにも床のあちこちから鎖で固定されている巨大リールがあるわけですが、
これは何のためのもの?



この前に立った時に、ふと「ジングルベル」が脳裏をよぎったわたし。

なんだろう・・・イメージ的にどうしても「トナカイが引くサンタのソリ」
という言葉が浮かんできて仕方がないんですが、その決定的な理由は、
ソリの上に載っているこの赤い物体が、どうにもトナカイのツノみたいだから。

もちろんそんなことは口に出さずに、説明を聞きながら頷いておりましたが。

というわけで、これはMK-105磁気掃海具といいます。
なんと、ヘリコプターに引っ張ってもらってお仕事する掃海具なんですね。
で、この赤いツノは何かと言うと、ヘリコプターに曳行されている時に
抵抗を減らすための水中翼だそうです。
フロートで海上に浮くはずなのに、その上にあるツノが「水中翼」とはこれいかに。
と思ったのですが、よく見たらツノごと外側に向かって倒れるようになっています。
これ、もしかしたらフロートの真下まで倒れるのかな?

これが実際どのように曳行されるのか、動画がないか探してみましたが、
もしかしたら特定機密にあたるのか全く見つかりませんでした。

ところでこの掃海具のメインは、フロートの上に神輿のように担がれているもので、
これがエンジンであり発電機でもあります。

先ほどの「感応機雷」の理屈と同じになるかと思うのですが、これで発電した電流を
電線ケーブルに流して海中に磁場を発生させる事により、敷設された磁気機雷に
「船が通った」と勘違いさせて爆発させるわけです。


実際はヘリに曳行されたこのソリ(じゃないけど)が、さらに電線で
磁場を作っているだけなので、爆発させて処理をすることができるというわけ。


掃海母艦に搭載して現場まで運び、海に下ろしてからヘリがこれを曳行します。
ヘリと索で繋いでから海に降ろすのか、それとも
海に下ろしてから結索するのかどうかまではわかりませんでした。

曳行するヘリは掃海ヘリであるMH-53Eです。
このように航空機によって曳行する掃海具を「航空掃海具」といいますが、
航空掃海具には他に、

バーモアと呼ばれる係維掃海具Mk-103

ベンチュリーと呼ばれる音響掃海具Mk-104

があります。



掃海具格納庫からみた甲板。
いまわたしはMk-105とリールの間に立っています。



ふと甲板上の乗員を見ると、何もせずにこちらを見ている様子・・・。
もしかしたら、わたしたちが見学をしているためにお仕事ができないのでは?

ただでさえ非常識な時間に見学を強行していただいた上、
作業を中断させてしまったのだとしたら、これは申し訳なさすぎる。

後からミカさんに聞いたところによると、わたしたちが後甲板にいったとき、
やはり乗員の皆さんが何か作業をしていて、副長が

「エレベーター動かして」

とオーダーすると、現場の隊員が

「今電源を何々に使っていて(エレベーターを動かせない)」

といったそうなのですが、にもかかわらず副長は鶴の一声で
電源を切り替えさせて(たぶん)動かしてくれたというのです。

わたしはそれを聞いていなかったので、後からこの写真を見て恐縮しまくりました。
もちろんわたしは海上自衛隊の偉い人から、さらに掃海隊の一番偉い人を通じて
この訓練を見学させてもらっているわけで、決して副長が自分の利益のため、
ぶっちゃけて言えば仲のいい人にいい顔をするために中を見せているのではありません。

ですが、時間がイレギュラーすぎたことと、わたしの風体がどう見ても政治家とか、
地域の有力者とか、そういう「無理を言われても仕方ない相手」には見えないことで、
もしかしたらそのせいで
副長が誤解されたりしなかったか、今でも気にしています。



しかもエレベーター下ろしている間は夜なのにこんなロープまで
当直士官が張ってくれていたと・・・。

あああ、やっぱり作業していた人、エレベーターが上がるまで何もせずに待ってるよお。



うーん、この電源と関係あったのかな。
しかし、この話を後で聞いて思ったのは、やはりフネというものは、いちどきに
電気を同時にあっちこっちで使うことができないようになっているらしいということでした。



このあと甲板レベルの格納庫の中も見せてもらいました。
信じられない長さの細いロープが、絡まない方法で束ねてあります。

そしてここにももう一基の掃海具MK-105が。
こちらには「2」とあるのですが、下の子が「1」なんでしょうか。
横の黄色い物体は下にもあった巨大リールだと思います。

というわけで、このとき後甲板で作業していた乗員の皆様方。
その節は本当に(文字通り)お邪魔致しました。



続く。

追加:お節介船屋さんにMk-15のYouTubeを教えてもらいました。
ここでもあげておきます。

何が特定秘密だ(笑)

機雷爆破

MK-105 live sweep mine explosion


曳行されている様子がよくわかる映像

MK-105 Mod 4


 

 


映画「亡国のイージス」その2

2015-12-05 | 映画

さて、この映画が原作である小説を読まずには到底理解できない、
という部分は多々あれど、本日タイトルにしたシーンほど、
映画だけでは訳が分からない部分もないかと思います。

米軍基地の爆発跡から毒ガス兵器「GUSOH」を強奪した北朝鮮の工作員、
ホ・ヨンファとその一味は、防衛省の人事部課長の弱みを握って脅迫し、 
護衛艦「いそかぜ」の幹部を決行グループで固めた艦長(映画では副長)宮津を
利用して自分たちの計画を実行に移さんとします。

その後護衛艦「いそかぜ」にアクアラングで海中から乗り込んでくる謎の女、ジョンヒ。
映画ではヨンファの妹、ということになっているので、二人の関係はあくまでも
肉親愛で結ばれているという表現に終始している訳ですが、
そのジョンヒが、DAISの諜報員として「いそかぜ」に送り込まれた
如月行と海中で格闘しながら、なぜかキスをするシーンがあります。

この場面は、彼女が宮津の妻と行の母以外では紅一点の出演者なので、
一種のサービスシーンなのか?と最初に見たときにわたしは思いました。
それにしても全く伏線がなく、あまりに唐突な表現で、違和感ありまくりです。


この件についてネットで検索したところ、某知恵袋で


「相手の口を塞いで息を奪い、窒息させるためである」

という答えを堂々としている人がいました。
大変納得のできる答えですが、実は、このシーンには小説を読んでいなければ
全く理解できない背景があったのです。


まず、ヨンファは両親を民衆の暴動で惨殺されたのち、
工作員リン・ミンギの元で育てられ、ジョンヒも「不義の子」として
不幸な幼年時代を過ごしているところを、素質を見込まれてミンギに拾われました。 

つまり彼らは血の繋がっていない義理の兄妹なのです。

ジョンヒは対南作戦の地雷で声帯を吹き飛ばされ、韓国安企部の虜囚に身を落とし、
凄まじい拷問を受けて廃人になる寸前、ヨンファに救出されました。

それゆえ血の繋がり以上の濃密な関係を持っていますが、
地獄の深淵と生命の限界を見たジョンヒは、それゆえ義理の兄に対しても、
自分とともに戦う、自分以上に強い男であることしか求めていないのです。


映画ではご予算と時間の関係でばっさりカットされている部分ですが、
原作では航空機が爆破され、墜落するという事故が彼の計画によって起こされます。

「GUSOH」を移送する米国機を爆破してそれを奪い、それを「いそかぜ」の
ヨンファの元に届けたのは、このジョンヒでした。

こんな生死をかけた命令を兄から受けることも、ジョンヒにとっては
愛情表現のようなもので、死の淵に立ったときに全身を駆け巡る
アドレナリンによって、彼女は初めて生きていると実感できるのでした。

「革命を成功させたらお前をあたらしい朝鮮国家の女王にする。
そして縁故も袖の下も通用しない、公平で貧困のない世界を作る」

そうヨンファはジョンヒに語ります。
そのジョンヒが如月行の「強さ」に惹かれているのを、言葉を超越したところで
彼女と分かり合えるヨンファは鋭く気づき、嫉妬の炎と殺意を燃やすのでした。




その後、如月行と先任伍長、そしてなにより日本政府は、ヨンファの思ったより

ずっと手強く、計画もそうは簡単に思い通りにならないことがわかります。

これも映画には出てきませんが、政府はEODからなる特殊部隊を

海面をレーダーを逃れるように接近させ、艦の破口から制圧部隊として
潜入させるという作戦をとったり、潜水艦からの攻撃を仕掛けたりと、
首都防衛のためのあらゆる抵抗を試みるのに加え、そのうち
宮津艦長に従ってきた幹部たちの中にも、仙石らに密かに情報を流した副長が
ヨンファの手で殺害されてからは、反発する者が現れだしたからです。



その一方で、自分を拷問し凌辱した韓国安企部の職員をなぶり殺しにした兄が、
計画の遂行に手を焼き、さらに如月行に対しては、その復讐心をあらわにしないので、
ジョンヒは傷つき、兄を「老いた敗残者」と見捨ててしまい、
その代わりに「自分を満足させてくれる男」として、行を求めるのです。

「いま迎えに行ってあげる」

そう心の中でつぶやき、単独で航走中の「いそかぜ」から飛び込み、
海中で艦底に爆発物を仕掛ける行の前にいきなり立ちはだかるジョンヒ。

格闘ののち、自分のゴーグルを剥ぎ取り、ジョンヒは行の心にこう話しかけます。

ねえ、わたしと一緒に来ない?
力のある人間は生きる価値がある。
わたしと一緒に来ればもう苦しまなくてすむわ・・。


小説では、このような会話の末、ジョンヒが行にキスをすることになっており、
これだけの状況が説明されていさえすれば、決して唐突でも不思議でもありません。
ところが、映画ではヨンファとの関係も「兄と妹」とされているだけですし、
従ってジョンヒが如月行に彼女一流の「愛情」を抱く、という伏線も何もないまま、
水中で格闘しながらいきなりこういうことをするので、大抵の人がここで
「?」となってしまうというわけです。


こういうのを見ると思うのですが、この映画は、映画の中で全てを説明し、
原作とは独立した媒体として存在するという努力を一切放棄しています。

一切というのは言い過ぎかもしれませんが、このキスの件だけでなく、
映画で疑問を持ち、小説を読んで確かめることもあらかじめ計算済みで、
つまり原作の小説と映画は補遺しあうことを前提に成立しているのではないか?
と思わざるを得ないのです。

確かにこの小説を映画化するのは物理的に無理です。
いくら石破茂が猛烈にプッシュしたからといっても、いくら防衛庁が
自衛隊的に都合の悪いところをみんなカットしたといっても、
これだけの濃い、しかもスペクタクルな内容を映像化するのは限界があります。

ということで、制作側はこのことも織り込み済みで、

「映画は小説のダイジェストみたいなものなので、興味があったら本読んでね」

という傍論?付きの映画を、仕方がないので撮ったのでは、と思われるのです。

さて、この後ジョンヒから、かつて自殺した母が放っていたのと同じ
「人間が腐っていく臭い」を彼女から嗅いだ行は、彼女をしりぞけ、

ーなら、死ね。 

と感応した彼女と戦い、仙石の助けによって彼女を倒します。

映画のヨンファは、部下が持ってきたジョンヒの遺品を受け取り、

一人で部屋に帰って白黒の写真(養父と三人で撮ったもの)を取り出し、
無言で燃やす(BGMに美しい音楽付き)わけですが、小説では彼は絶望のあまり

「顔をひきつらせているため薄笑いを浮かべているように見える表情」

を浮かべ、嫉妬と憎悪と復讐に静かに狂っていくのでした。
ちなみに、如月行はこのときのジョンヒのことを、

「口説きに来たんだ」

と仙石に説明し、仙石は最後のヨンファとの対決でその言葉を投げつけます。
仙石にすら、自分が行に嫉妬していたことを見抜かれて逆上するヨンファ。

小説のヨンファの死に様は映画とは全く違いますが、
さらに問題なのは、映画でヨンファたちが強奪した毒ガス兵器「GUSOH」が、
あくまで「本物だった」というストーリー改変。

この辺りの「政治」についての描き方も、小説ならではの面白さがあるので、
(というか、これはアメリカに配慮して映画にはできなかっただろうなという印象)
読み比べてみるとよろしいかと思われます。

さて、最後に、登場する「いそかぜ」幹部を演じる俳優さんたちのこと。



如月行演じる勝地涼。
母親の生花店でロケがあったので見学していたところスカウトされ、
俳優になったというエピソードがどうも忘れられません(笑)
(吉田秋生の「吉祥天女」の遠野遼役ははまり役だと思う)

この映画の撮影に際しては自衛隊に体験入隊して訓練を行ったり、
真冬の海に入るなどの過酷なロケに挑戦し、新人賞を獲得しました。



「航海長いただきました。
両舷前進原速、赤黒なし。針路フタフタマル」

何も知らずに「いそかぜ」を操艦する衣笠艦長(橋爪淳)と、
航海長を演じる中村育二。
「連合艦隊(中略)真実」で演じた宇垣纒は良かったですね。

しかし、この図・・・こんな艦長と航海長、本当にいるよねー。



杉浦砲雷長役、豊原功補。
どこかで見たと思ったら、「南極料理人」のドクター役、そして
「のだめカンタービレ」の江藤先生役ではないか。

「うらかぜ」にハープーンを撃ち込む宮津からの指令を受け、

「(撃)てー!」

を発令する杉浦。
原作では、融通の利かない神経質な防大出の幹部で、
先任伍長に代表されるベテラン海曹という存在を嫌悪しているとされます。



んが、「うらかぜ」がモニターから消えた瞬間、暗い怯えた目をして
艦長やヨンファをうち眺めております。



豊原さんや中村さんもそうですが、端役にも手を抜かないのがこの映画の魅力。
小説では副長兼船務長ですが、映画では反乱を起こすのが艦長では
何か防衛省的に不都合だったらしく、副長兼務ではなく船務長である竹中3佐に、
まさかの吉田栄作。

一般大卒幹部、通称B幹部で、ヨンファにも静かに抵抗する人望厚い自衛官。
小説では仙石らに情報を流すためにマイクを仕込み、ヨンファに殺害されます。



さて、海上警備行動の趣旨は先制攻撃を受けた後も鑑定が生残することを
前提に成り立っていますが、現代戦では最初の一撃が全てを決してしまう、
つまり、「専守防衛」では勝てないという絶対的真理があります。

「その至極当然の理屈を野蛮だ、好戦的だと蔑み、省みないで済ます甘えが
許されたのが日本という国家」

であり、宮津が海幕長に

「なぜ無抵抗のうらかぜを沈めた!」

と罵られた時に返した、

「撃たれる前に撃つ、それが戦争の勝敗を決し、軍人は戦いに勝つために
国家に雇われている。
それができない自衛隊に武器を扱う資格はなく、それを認められない日本に
国家を名乗る資格はない」

という言葉は、日本の防衛の現場が縛られている絶対の矛盾を突いています。

当時の防衛庁長官が、どうしてこの小説を映画化することに積極的だったのか、
こういう表現からもなんとなくわかる気がします。


さて、小説と映画を比較しながら語ってきましたが、最後に、このシーンだけは
映画化して欲しかった(しかしされなかった)部分についてお話ししておきます。

冒頭、宮津が最初の艦長を務めた艦から陸を見ていると、
海岸で絵を描いているらしい少年がこちらに手を振っていました。
ふとした気持ちで警笛を鳴らすのですが、その相手は如月行の少年時代でした。

こういう「神の視点」で書かれた偶然がこの小説には幾つかあるのですが、
「いそかぜ」で瀕死の重傷を負った両者が相見える時、朦朧とした行は
宮津に向かって「父さんが悪いんだ」と語りかけ、宮津は行に
亡き息子の面影を重ねて、「父さんが悪かった」と、なにもしてやれなかったことを
謝罪するという運命の邂逅を二人は迎えることになります。


お互い命長らえたあと、仙石は天才画家として世に出た如月と再会し、
彼と海を見るのですが、そのときに、この偶然のリフレインがあります。
この美しいラストシーンに思わず涙してしまったわたしでした。

映画を観たあと、製作者のオススメ通り、小説を読むのが、
多角的に楽しめる「亡国のイージス」の鑑賞法だと思うので、
お正月時間があればまだの方には是非おすすめしたいです。



 

 


夜の艦橋~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-05 | 自衛隊

最近、ブログ編集をするのに大変なストレスを感じております。
前にも一度書きましたが、文字を打ち込んで反映されるのに大変時間がかかり、
ひどい時にはだだだだっと打ち込んでじーっと画面を見つめていると、
20秒くらい経ってからずらずらずらっと文字が現れてくる始末。

これはいかなる現象なのかと首を傾げていたのですが、
文字数が一定の量を越したところからこの現象が始まることに気づきました。 

つまり、当ブログの一つのエントリの文字数が多すぎるのかもしれないということです。

2万字を超えても普通に投稿はできるので、相関関係は明らかではありませんが、
gooブログもこんなに毎日毎日1万5千文字平均のエントリを投稿するというような
ブロガーを想定してプログラムしておらず、画面不具合が起きるのかもしれません。

初っ端からなにを愚痴っているのかと思われたかもしれませんが、
しばらく実験的にエントリの文字数を抑えて内容を短くしてみることにしますので、
ご了承ください、というお断りでした。


さて、CICドアの (-_-)/~~~ピシーピシー!になごんだ後、
(今これをコピペするために検索したら、”ピシーピシー”ってどういう意味ですか、

という質問が多数上がっていたので一応ここでも説明すると、鞭をふるっている人。
つまり、『ドア閉めないとお仕置きよ』という意味ですので念のため)
わたしたちはラッタルを登って艦橋に上がりました。
(ちなみに当掃海母艦のラッタルには、いちいち「三点保持」の札がありました)

上に上がってまず驚いたのは、操舵室が広いこと!

「艦橋が広いでしょう。掃海母艦ならではです」

と心なし誇らしげに副長がおっしゃいます。
観艦式でイージス艦の艦橋をたっぷり見学したばかりなのでよくわかります。
ちなみにこの掃海母艦は先日の観艦式にも受閲艦艇として参加したのですが、
この艦橋には最初からロープを張って前面には入れないようにしていたそうです。

艦橋の天井上部にバーがありますが、その時の見学者も
ここにぶら下がるようにしてフネの揺れに耐えていたのでしょうか。

それにしても・・・・。

わたしはこの光景に猛烈に感動していました。
窓の外が真っ黒い夜の艦橋。
岸壁に停泊しているので動きがなく、誰もいない艦橋なんて、
そうそう一般人が誰でも見られるものではありません。

前回の話ではないですが、乗員がこのような写真をSNSをつかって
外に発信するということはまずありえないので、
従ってこの写真も大変貴重なものではないかと思うわけです。



操舵を行うために立つ床には、ここだけ何か敷いてあり、折りたたみ式のイスも
明らかにショックアブゾーバーを搭載しているように見えます。

次の日に乗った掃海艇の艦橋の椅子はどれもこの機構が組み込まれ、
つまり機雷処理をする時の爆発の影響を受けないようになっていました。

本艦は母艦ですから掃海艇よりも離れたところに待機するはずですし、
艦体も掃海艇と違って大きく安定しているのですが、やはり操舵には
影響を与えることがあってはいけないということなのでしょう。 



誰もいない艦橋・・・、といいながら人影が見えますが、
右側は案内して下さった副長、左は・・・艦橋にいた人だったかな?
全体に広いので、スペースに余裕があり、
双眼鏡置場などがイージス艦とは全く違う場所にあります。

後部に覆いをかけたボードがありますが、毎日作業が終了したらこうするのか、
それとも外部から見学者(わたしたちのこと)が来るので、何か見られたらマズいものを隠したのか。

 

艦橋脇にもこれだけのスペースがあるのが掃海母艦。
これだけ広ければ、観艦式の時にはさぞたくさんの人が艦橋で見学できたでしょう。

艦長はほとんどの自衛艦と同じく2佐ですので、
艦長席のカバーは赤と青の二色となります。

他の艦橋内の写真では、左舷側の椅子は1佐用の赤です。

広いので、ヘルメットや戦闘訓練のときに装着するベストも、部屋の隅に置いておけます。
このスタイルはやっぱり「戦闘服装」と称するようです。 

今観ている「ジパング」では、これをつけて銃を構えた「みらい」乗員を見て、
帝国海軍の皆さんが、

「おい、ドイツ軍みたいな鉄兜を被っているぞ」

「なんだあの見たことのない銃は」

とざわざわするシーンがありました。
多分銃は89式小銃なので、当然1943年の海軍軍人には全く見たことがないはず。
「ドイツ軍みたいな鉄兜」は88式鉄帽と言われるものでしょう。

臨検の時などにかぶるヘルメットはABS樹脂(レゴと同じ素材)で、防弾能力はないので、
戦闘服装の時には「テッパチ」と称するこちらを被ることになっています。
帝国海軍の艦隊勤務でも戦闘の時、砲座ではテッパチを被っていましたが、
当時の人間がもしこの88式鉄帽を見たら、縁が真っ直ぐでないこちらのヘルメット
(耳が隠れる)は、確かにドイツ軍の鉄兜に見えるかもしれません。

ちなみに戦闘服装とは

作業服に作業帽を着用する(絶対にあご紐をかける)

右臀部のズボンポケットに軍手を入れる。

ズボンベルト後ろ側にフェイスタオルか手ぬぐいをかけ、左臀部のズボンポケットに入れておく。

両足の靴下の中にズボンの裾を入れるか、専用ゴムバンドを使用し裾を絞っておく。

靴は通常の短靴1型を着用する。

ふーむ、ポケットの右は軍手、左は手ぬぐい。
そんなことがきっちり決められてその通りにしなければいけないというのが軍隊式。
この次の日、掃海艇の上では乗員が皆その格好で作業をしていたわけですが、
本当に手ぬぐいと軍手がちゃんと入っていたのか見たかったな。

しかし、これによると靴は「短靴1型」と決まっているということですが、
艦橋で皆さんの履いている靴を見るともなく見ていて、

「やっぱり靴くらいは自分で好きなのを選んで履けるんだなあ」

と思った覚えがあります。
一応黒ではあったけど、皆形が違いましたし、靴下にズボンを入れている人よりも
少し長めの飛行ブーツっぽい靴を履いている人が多いように思われました。

あまりこのあたりは厳密に守らなくてもいいように見えました。



前回もアップした機関室の写真。
私の記憶に間違いがなければ、この掃海母艦の機関室は
艦橋の後ろの、同じ階にありました。
わたしが

「普通機関室って食堂の隣とかにないですか? 艦内神社が横にあったりして」

というと、 副長もそうだと答えたような気がします。
では、なぜ掃海母艦に限り機関室が他の自衛艦や軍艦と違って上にあるのだと思いますか?

これは、理由を聞くとけっこう戦慄したのですが、

「機雷の爆発が海中で起こった時、機関室だけはダメージを受けないように」

ということでした。

「ここが破壊されてしまったら船が動かなくなるので」

もちろんいかなる軍艦も戦闘や戦争を想定してつくられているわけですが、
実は掃海隊というのは、現在の戦争をしていない日本の自衛隊のなかで、 
掃海艇・掃海艦とともにもっとも、

「日ごろから現実的な危険にさらされている部隊である」

ということが、この言葉で
改めて実感された次第です。

続く。


(やっぱり最後の頃には打ち込みにくくなりました。
予想は当たっていたみたいです) 


 


自衛官とSNS~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-04 | 自衛隊

掃海隊の訓練に参加したこともあって、わたしのなかでは今「掃海艇ブーム」なのですが、
そんな状態だからすぐに気づいたのか、10月27日に行われた
最新式掃海艦「あわじ」 の進水式についてのニュースが目に飛び込んできました。


「あわじ」は「やえやま」型掃海艦の後継とされた「あわじ」型1番艦で、
もちろん兵庫県の「淡路島」から命名したものです。 

「あわじ」は「えのしま」型から採用している繊維強化プラスチック(FRP)の船体を持ち、
このため「えのしま」以前の木製よりも寿命が15年から30年と飛躍的に伸びました。
船体の大きさも掃海「艇」である「えのしま」より大きな掃海「艦」ですから、
これは現在日本における、唯一かつ最大の掃海艦になる予定です。
 

「あわじ」が今までの掃海艇・掃海艦と違うところは、変深度式機雷探知機を搭載したこと。
これによって、さらに深度の深いところでの掃海作業が可能となりました。
まだ就役しておらず、搭載掃海装置の詳細は分かりませんが、
深深度系維機雷掃海装置や改良型の機雷処分具が装備されることになっています。

そして何と言っても強みは衛星システムともデータリンクできるということ。
機雷や船舶のいっそう精密な位置情報の把握も可能となってくるということです。

「あわじ」の就役は平成29年3月の予定。
今回、掃海隊の訓練から帰ってきてすぐ目に止まった記事だけに、
こういうのも引き寄せの法則みたいなものかとちょっと嬉しかった次第です。

さて、掃海母艦艦内ツァーの続きを始めます。



大型の自衛艦は、このように予備の居室を幾つかそなえています。
使われていないので見せてもらった士官用の二人部屋。

ロッカーを中心にライティングデスク、小物入れ、ベッド下の衣類収納引き出し、
そしてベッド脇のカーテンは、上下に分かれていてお互いに配慮しなくとも
開け閉めすることができるようになっています。

ロッカーの上にさりげなく洗面器が置いてありますが、これは、
おそらくあまり船に慣れていない自衛官が乗り込んで、
気分が悪くなってしまった時に活用するものではないかと思われます。

陸自の人ならともかく、海自の自衛官ならそんなことはないだろうって?
いや、あるらしいですよ。
若い時に艦隊勤務でも、偉くなったりして陸に上がりしばらくたてば、
たまに乗艦すると辛い人もいるのだそうです。



艦長室。
掃海母艦の艦長は2佐です。

この後実は、今から上陸でお出かけ、という艦長とすれ違い、ご挨拶をしました。

「お世話になっております」

「すみません、今日は宴会で」

いや、わたしごときにお謝りになることなどないのです艦長。
この日入稿が大幅に当初の予定から遅れ、なんと上陸が10時からになったのですが、
もしかしたら艦長のおっしゃる宴会って、もうとっくに始まってたりするのかしら?
だとしたら、一刻も早く、急いでお出かけください。

ところが、挨拶をして姿を消した艦長と、その直後またお会いしました。


「忘れ物をしました」

艦長、早く行かないと、お酒を飲む時間が・・・






さて、ここ、なんの扉だと思います?
私の記憶に間違いがなければですが(間違ってたらすみません)、
確かここはCIC、コンバットインフォメーションセンターすなわち戦闘指揮所

どの艦でもそうですが、内部は一切写真撮影禁止です。
でも、本日は副長による特別大サービスツァーなので、(たぶん)中を
ちらっ!と見せていただきました。
どれくらいちらっとかというと、網膜に残像も残らないくらいです。

次の日の「えのしま」のCICでも同じで、やはり瞬間公開でしたが、
「えのしま」では、CICのドアの外側に「携帯置き場」が設けられており、
乗員が携帯を持ち込みをすることも禁止されているようでした。


なかで使用しないためということもありますが、それより何かのはずみで
内部の写真が流出する危険性の考慮ではないでしょうか。



最近、SNSに絡んだ社会的な問題が頻発しました。

セキュリティ会社の幹部が、職務上、手に入れることのできる個人情報を、
自分の思想と違うということを理由に、個人的な
「懲罰」と称してばらまいたことで、
自分が逆に個人特定され、ついでに
恥ずかしい過去の発言も全て世間にばらまかれたり、
また、新聞社の幹部が匿名で
凄まじいヘイト発言と暴言を繰り返していたのがばれ、
それが理由で職を追われたりしたというものですが、
これらの一連の騒動で、
SNSというものは実は「匿名」ではないということに、
多くの人が気づくこととなりました。

匿名で暴言や脅迫をエスカレートさせて墜ちるところまで落とされたのは、
彼らがSNSの本当の怖さを知らなかったためということができますが、
匿名どころか実名に近い状態で、迂闊に思ったことをつぶやく人は世間に多勢います。

たいていが他愛もないことでとどまっていますが、なかには問題発言だったり、
犯罪自慢だったりして、これが「世間」の目に止まり、「炎上」すると
騒がれて職を失ったり学校にばれたりして「自爆」してしまうのです。

「雉も鳴かずば撃たれまい」ではありませんが、余計なことをつぶやいたがため、
社会的に自殺する羽目になることから、ツィッターのことを別名
「バカッター」と呼んだりするのは言い得て妙というものかもしれません。



さて、我らが自衛隊では、護衛艦の副長という人が、望遠鏡を通して撮った潜水艦の写真を
ボカシなしで背景もいれてFacebookにあげたり、艦長となってからもフォロワーの質問に
詳しすぎる(というか自衛官として守秘義務の範疇に当たる)自衛隊装備の説明をして、
ちょっとした問題になったことがあったようです。

わたしもこういう自衛隊の「潜入記」をアップするにあたって、
そこまでいかずとも、あまり世間に公表しないほうが望ましいのではないかと
思われることは、現場で「写真を撮っていいか と必ず確かめることにしていますし、
同行のミカさんも、この艦内ツァーの途中、何度か

「この話はブログなどに書いてもいいですか」

と確認していました。
それでいうと、アウトなのは、艦の性能を表す数字でしょうか。


ところで、わたしはこの自衛官SNS事件を知ることになった
あるニュースサイトの記事に、例によって
大変な違和感を覚えました。

「SNSで防衛機密を垂れ流すトンデモ艦長が野放し」

というタイトルで、くだんの自衛官の「トンデモ」の数々を記事として論っているのですが、
まず、問題になったSNSの潜水艦の写真を記事上にバッチリ掲載しているのです。
いやだから、おたくの記事によると、その写真は後ろに写っている景色で
どこか特定できるからまずかったんじゃ・・・。

それだけではなく、自衛官がその護衛艦の機能についてフォロワーの質問に答えたという
その内容をすべて事細かに掲載し、はてはビーチングの具体的な距離や、ご丁寧にも
それがなぜまずいかなども縷々書き連ねております。
「問題だ、問題だ」

と言いながら、記事上においてその機密とされるものを世間に改めてばらまいているのです。

テロ組織などを想定すれば決して漏らされるべきではない情報である、と言いながら、
同じ紙面でその内容をここまで詳しく書き連ねるというのはおかしくないか?


最後まで読むと、どうもこのメディアは、トンデモ艦長の情報漏洩より、
この艦長を厳しく処分しなかった(つまり”野放し”にした)自衛隊に怒っているのです。

自衛隊がこの幹部をはっきりと処罰しなかったのは、もしそうすると

「どういったことが職務上問題になったか」

を明らかにしなければならず、つまりそのことによって
何が機密で何がまずいことだったのか公になってしまうから、という
自衛隊側の
「大人の事情」も一応わかっているようなのに、です。

そして、この記事はこの「甘い処分」が、下の自衛官の

「あれだけ漏洩してもあんな軽い処分で済んだのだから」

という甘えと同様の不祥事の再発を招く、ともっともらしく嘆いております。

しかしこの媒体が自衛隊という組織を見る目は、例えばこの艦長が、

◯◯艦長というFacebookでのHNを上層部から禁じられたあと、

その表記を「Japan NAVY◯◯CAPT」と英語ながらも
"日本海軍"と改める暴走ぶりをみせた。

とヒステリックに糾弾していることをみても、明らかに「偏っている」と思われます。
暴走も何も、世界的には海上自衛隊は「ネイビー」と認識されてると思うんですが。

だいたいネイビーという言葉くらいで発狂すんじゃねー!

(とブログ「ネイ恋」のブログ主は思うのだった)

だいたいこの記事に出てくる「元海上自衛隊幹部」だって、ペラペラと
内部情報を喋りまくっているようだけど、本当にこんなこといったのかな?
ってか、本当に「元幹部」とやらに取材をしたんでしょうか?



とはいえ、実名で「どこそこ艦の何々(役職)はあまり出来が良くなくて」

みたいな上司の評定をそのままSNSで垂れ流してしまうこの幹部に、釈明の余地はありません。
自衛官という以前に、「社会人として」かなり問題がある人物といえましょう。


得てしていい年をしてSNSデビューした人ほど、加減がわからずに自爆してしまう、
というのは例の暴力的反政府団体のお爺ちゃまたちの自滅で証明されたばかりですが、
この幹部も、承認欲求がSNSという新しいツールを得て暴走したといったところでしょうか。

とにかく、自衛官は、鵜の目鷹の目で自衛隊の落ち度をあげつらい、
非難するチャンスを狙っている
この記者のような人種がいる限り、
SNSの危険性を一般人より肝に銘じておくべきなのかもしれません。







ドアの貼り紙に大変感銘を受けたので、もう一度拡大してみました。
これは・・・・公開しても大丈夫ですよね?



つづく。

注:本日の掃海母艦の写真と後半の内容は全く関係ありません。


減圧室~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-02 | 自衛隊

ジュースやお茶の補給物資とともに甲板から一階下に降りたわたしたち。
掃海母艦副長による艦内ツァーはまだまだ続きます。

ところでいきなり余談ですが、副長といえば・・・・。


わたしは、よくキッチンに立つ時間を利用してHULUで映画を見るのですが、

「進撃の巨人」に雌型が登場して面白くなってきたところで、ふと
「ジパング」のアニメ版も配信されていることを知り、観始めてしまいました。

コミック本で全巻読んだはずなのですが、動画で見るとこのアニメ、細部が非常に
丁寧に描き込まれているため、昔より自衛艦、ことにイージス艦については
見学や観艦式で経験値が上がったばかりのわたしにとって、当社比で面白さも爆上げ状態。

その結果、「雌型巨人のうなじに誰が入っているのか」など、
わりとどうでもよくなってしまって、こちらにのめりこんでしまいました。

所詮アニメではありますが、艦内食堂の様子とか、その他ディテールにおいて
知識とシーンの絵合せが一致したようなことでもあると、
「ああそうそう、こんなだよね」なんだか嬉しくなってしまうものです。


これきっと自衛官の皆さんも「そうそう、この通り」とか
「これありえねー」 などとツッコミを入れて観ていたんだろうな。


ところでこの「ジパング」の三人のうち主人公的キャラの門松2佐は、
防衛大学校で砲雷長の菊池、 航海長の小栗と同期なのですが、門松2佐は
同級生二人がまだ3佐なのにもかかわらず、すでに階級において上官で、
「みらい」においては副長であったりするわけです。

実際の海自で、こんな三人を同じ船に乗せるなどということはあるのか?

と、前回は全く考えもしなかった疑問が今回まず沸きました。
この三人、もともと仲が良かったから良かったようなものの、基本的に組織は
そんな人間関係など考慮しないと思うし、暴走族上がりの小栗と秀才の菊池が
仲が良かったというのも、物語的にはありでも実際にはどうだろうって気もするし。

ところで、この物語の主人公、門松2佐は副長です。
副長とは艦長に次ぐナンバーツーで、乗組員の服務規律や訓練の立案などを行い、
全体の統制をはかる、大変重要なポジションだそうです。

つまり副長というのは「フネの論理」で全体的な判断を最終的に下す艦長より
ある意味、人間的な面での葛藤と、職務との二律背反に悩む可能性もあるわけで、
こういった物語の主人公には、艦長より相応しいポジションなのではと思われました。



という余談はともかく、この日の掃海母艦艦内ツァーの案内をしてくださった副長ですが、
このシリーズ始まってすぐ、知人から、

「その副長に艦内を案内してもらったことがある!」

という連絡をもらいました。

「ものすごくサービス精神の高い素敵な副長」

というのがその人の感想で、いつでも誰に対しても、一般に対する広報活動を
誠意を持って行っている、つまりこちらも「主人公キャラ」といった感じ?

夜の自衛艦内部を観られることに加えて、こんな副長による案内。
こんなお得な艦内ツァーがまたとあるでしょうか。



甲板の一階下にあるのが士官室。
士官という言葉は自衛隊では廃止になっているということになっていますが、
海自だけはこんな形でしれっと使い続けています。

こういうツァーで甲板下の士官室や艦長の部屋は見せても、その一階下の
曹士の部屋は決して見せないのも、気遣いというものでしょうか。 

士官室の隅には共用のパソコンがあって、幹部が使用中。



モニターには後甲板の定点カメラの映像が映されています。
こちら側に、艦長以下士官室の幹部が、艦内で食事を取るかどうかを書き込む表が。




次の日の朝食の席次まできっちりと決まっている・・・。
黄色い札は「外から臨時に来て乗艦しているゲスト」。
この艦は掃海母艦なので、「敷設長」がいます。

「敷設長」というのは「Mine Laying Officer」という名称の通り、
機雷を敷設する任務の統括士官で、掃海母艦ならではの役職です。


それにしても、毎日毎回の席次が前もって決められているというのは、
さすが軍組織であります。
掃海母艦の艦長は2佐ですから、幹部の階級は同じはずですが、
役職によって「先任」が決まってくるので、その順番で席次も決まります。

士官室を出て、次に見せていただいたのは軍司令の個室。



一般組織の一番上級者の部屋としてみれば殺風景ですが、
船の中では最上級の仕様ということになっております。

「冷蔵庫がある!」

「なぜわざわざ貼り紙が・・・」

「立派ですねえ。もしかして作りつけですか?」

副長「違います」

扉を開けたら、ガワの大きさとはまったく違う小さな冷蔵庫が入っていました。
しかし、この艦内で自室に冷蔵庫があることそのものが特別の証。



群司令用の特別浴室。
これが船室であることを考えると、この浴槽の大きさは異常。
これより小さなお風呂のビジネスホテルなんて普通にあるよ?

もしかしたら自衛艦の幹部は、偉くなって初めて一人でこの塩水風呂に浸かった時、

「ああ、俺もついにここまで・・・・」

と感慨に浸ったりするのでしょうか。



青に掃海隊群のマークが入った立派なテーブルクロスがかかったテーブル。
いうまでもなく、この白いカバーのかかった席が、群司令、あるいは
幕僚などが参加した際の「一番偉い人席」です。

ちなみにわたしは今回このマークの豪華刺繍入りタオルを、
参加記念として帰りにいただいてまいりました。



龍が機雷をグイっと掴んでおり、後ろでは爆発が起きております。
この意匠は、割と最近までイルカが機雷を銛で突き刺しているシュールなものでしたが、
ある群司令の、

「イルカさんは可愛いけど、もっと強そうな方がいい」

という鶴の一声で、このマークに変わったという話でした。
確かにこれは強そうだ。

それはともかく、この部屋を見学した時に、

「幕僚と一緒に食事なんかすると僕たちカレーが喉を通らないんですよ!
緊張して!これ、どういう感じか分かりますか?」

という生々しい本音を聞いたことがある、とミカさんが言っていました。
自衛隊に限らず自分の組織の一番偉い人と食事をするのは気詰まりなものでしょうが、

特に自衛隊は現在の日本でおそらく最も旧軍のそれに近い階級社会でしょうから、
その「感じ」というのもおそらく我々の想像を超えるのでしょう。

うちのTOの業界も、恩師の大学教授は神様みたいなものなので、わたしが
向こうが話しかけて下さるので、調子に乗って軽~い調子で会話していたら、
TOの同期の愛弟子が、

「きっ、きみのおくさん、先生にタメ口きいてるよおー」

と震えていたそうです。
いくらその業界で偉くても、関係ない者にとっては普通のおじさんだし・・・。

と、階級社会にも会社社会にも一切関わらずに生きてきた人間は、呑気に思うのだった。



どうもここは偉い人がきた時の特別な応接室のようなものらしいです。
24時間コーヒーなど飲めるスタンドも完備。

「ぶんご」「うらが」は前にも書いたように、掃海隊訓練の旗艦となったり、
海外での掃海訓練では外国海軍の連絡士官を迎えるため、設備が万全なのです。



続いて医務室。
この医務室のマークは、何故寝ている人が脚を浮かせて腹筋をしているのか。
という細かいツッコミはともかく、ここには掃海母艦ならではの設備があったのでした。

 

減圧室。

掃海隊に所属するEOD(水中処分員)の本業はダイバーです。
この水中処分員の資格、体格と健康条件は大したことありません。

といっても、肺活量が3500ml以上で握力も35kgないとだめですけど、
問題は水中能力検定で、
 
 1、25m潜水したまま泳げること

 2、45mを4回の息継ぎで潜水したまま泳げること

 3、400mを10分以内に泳げること

 4、水深3mから5キログラムの錘を持ち上げられること

 5、足ひれをつけて背泳ぎしながら腹に5kgの錘を乗せて25m運べること

大抵の人間には無理ゲーです。
特に最後、これは想像するに、



この状態ですよね?

これは可愛い・・じゃなくて、これはきつい。
しかし、こんな条件をくぐり抜け、EODになりたいという夢を叶えた
あの横須賀で見た女性隊員は本当にすごいなあと感心します。

とにかく、これだけずば抜けた身体能力を備えていないと務まらないEODですが、
勤務そのものも大変過酷なもので、作業中の事故も多く待ち受けています。

その一つが減圧症。

昔は(今もかな)潜水病として知られていたこの現象は、深海で高圧中に
微小なものであった血液中の気泡が、急激に減圧、すなわち地表に戻ることで大きくなり、
そのうち酸素ボンベでの呼吸で血液中に取り込まれた排泄できない窒素の気泡が、
血管を塞いで血行障害を引き起こすのです。

これによってチアノーゼが見られたり、胸の痛みを覚えたり、重篤な場合は
脊髄に障害が残ったり、最悪死に至ることもあります。

この現象はなってしまったら自然治癒はありませんし、一刻も早く治療しないと
取り返しのつかないことになるので、まず掃海母艦に運び込むのです。


この上の写真はその減圧室に入る入り口です。

「減圧室」という名称ですが、これはどうやら「減圧症を治すための部屋」
という意味で付けられているのであって、正確には「高圧室」です。



内部のベッドには何かあった時に押すコールボタンがあり、
外から患者の様子を見ることのできる潜水艦のような丸窓があります。

減圧症になってしまったら、「高気圧酸素治療」を行います。
深海に潜る時には段階的に海中に止まりながら徐々に上がってくるのが常道で、
それは副長によると今でも同じなのだそうですが、昔は潜水病になったら
もう一度高気圧の深海に沈めるということもあったそうです。

減圧室の理論は途中まで同じですが、違うのは大気圧よりも高い気圧の中に患者を収容し、
同時に高酸素を与えるというもので、具体的には1時間ほど高気圧環境下に患者をおき、
長い時間をかけて減圧することによって、症状の緩和を図ります。

副長の説明によると、ここに備わっている装置は同時に二人の患者と、
治療のための人員を同時に収容できる最大のものだそうです。

1名の患者のみを収容するものを第1種装置、こちらを第2種装置といいます。



ちゃんと減圧室の中にトイレもあります。
上部に火災警報器がありますが、高圧室の中では少しの原因が火災を引き起こすため、
アルコール類や時計、携帯ですら持ち込みは厳禁とされています。

この治療を行う際の最も大きなリスクが、酸素中毒と火災なのです。



ほら、ここにも「火気厳禁」の札が。
いつでも人員を収納できるように患者衣が2着かけてあります。
 

この大掛かりなパイプだらけの装置は、見た時にはわからなかったのですが、減圧室の
なんたるかを知った今、酸素発生器とチャンバー内にそれを送り込むものだと確信しました。
   



チャンバーを出たところの執務机のようなところには、内部と会話できる
マイクやヘッドホンなどが備えてあるのがわかります。

「これ、圧力をかけたカップヌードルの入れ物です」

副長によると、こんな綺麗に縮むブツはこれをおいて他にないそうです。
これが高圧酸素室でかけられた圧によるものだとしたら、人間の体って
なんて柔軟性があるんだろうとあらためて感心してしまいますね。



ところで最後にまた余談の続きですが、「ジパング」は門松以外の全員が
タイムトラベルの記憶を全く喪失して、現代の日本に帰って来るというのがラストでした。

そのとき、「みらい」の副長は誰だったんだろう(棒)




続く。 


ジュージャンと上陸〜日向灘・掃海隊訓練

2015-12-01 | 自衛隊

艦艇の一般公開は常に昼間にしか行われません。
1日を艦上で過ごす観艦式でさえ、下艦はどんなに遅くとも夕刻で、
日が沈んだ後、船の中はどのような状態になるのか、乗員は何をしているのか、
そんな様子は本来ならば想像すらしないのが一般人というものです。

海上自衛隊と関わるようになって、特に最近は、普通の人が目にすることのない
部分をそれなりに目にしてきましたが、今回のように夜の、しかも消灯前の
自衛艦の中を体験できることになろうとは、全く予想していませんでした。

これというのも「ぶんご」の1日の補給作業が長引き、入港が夜になったからで、
さらにこんな時間にツァーを決行してくださった副長のS2佐ののおかげにつきます。
もとより自衛隊公式の一般公開などではなく、ミカさんが

「せっかく遠いところからこのためだけに来たので、中を見せてあげてほしい」

と頼んで、すなわちこのわたし一人のために計画されたにすぎないものでした。
ただでさえ予想外の入港遅れで、深夜といってもいい時間に着岸したのですから、

「お約束してましたが、こんなに遅くなってしまったのですみません」

と体よく断られたとしても当然ですし、わたしは実のところそうなるだろうと思っていたのです。
それだけに副長が迎えに来てくれ、いよいよ「ぶんご」に潜入するとき、
わたしはいつも自衛艦に乗り込むときの倍以上、ワクワクドキドキしていました。 

外の人に見せるためではない、自衛艦の夜の顔、乗員の夜の日常を
皆さんにここでご報告できることは、冥利に尽きるというものです。



最近では自衛艦見学も数を重ね、はっきりいってオトーメララなど、
珍しくもなんともなくなってきたという今日この頃のわたしでございますが、
夜の艦内灯に照らされているとなると話は別です。

舷悌を上がっていくとまず前甲板なので、副長はまずここから始めたのですが、

「これはイタリア製の主砲です」

という説明に対し、わたしが

「オトーメララですね」

と相槌を打つと、それだけで、わたしがどの程度の予備知識があるかを悟った副長、

「あ、この辺りは説明しなくても大丈夫ですね」

と心なしかほっとしたように次を急ぐ構え。
たいした違いはないかもしれませんが、全く基礎のない人にゼロから説明するよりは
ちょっとは気が楽、と感じていただけたのだとしたら幸いです。



甲板の上には先を岸壁に掛けられたもやいが長々とあちこちにうねっています。
巨大な艦体を係留しておくものですから、岸壁のもやい杭には引っ掛けているだけでも、
艦の側は幾つもの杭に6重にもやいを巻きつけています。



しかもそのもやいをたぐっていくと、甲板の下の階から来ているという・・。
つまり繋留中、この丸いハッチは開けっ放しってことですか?

停泊中大雨にでもなったら、この部分には傘をさすのかが気になります。



わたしたちが甲板をあとにするとき、甲板の上で作業していた人たちが集まりました。

全員いるかどうか確認するんです」

このような作業は大変危険を伴うものなので、作業中人しれず海に落ちていたとか
そういう事故が起こっていないかを確認するために行う点検です。

「舫は切れることもあるんですよ」

そういえばコメント欄でもそんな話題になったことがありましたね。

引っ張る際、もやいにはかなりの張力が掛かります。
側で見ると、あの太いもやいが明らかに伸びるのがわかります。


張力が掛かった状態でもやいが切れるとものすごい早さで跳ね回り、
足に当たると切断を余儀なくされる程のダメージを負うので(略)
実際にそういう事故も起こっています。(雷蔵さんコメント)

副長がおっしゃったとき、わたしは瞬時にこのコメントを思い出しました。
しかし、このもやいそのものの素材は昔と変わっていないのでしょうか。
「もやい 素材」で検索しても、モアイの写真がでてくるばかりで(´・ω・`)
結局わからなかったのですが。

重量と扱いのことを考えると切れる可能性があってもせいぜいナイロン素材など、
復原性の高いものにする以外はないのかもしれません。



前甲板から左舷側を(さげんではなくひだりげんといいます。
なんでも省略する海自ですが、この件については長くなっているのが面白い。
右舷もうげんではなくみぎげん。多分聞き間違いしないようにだと思います)
艦尾に向かって歩き出したところで、なにやらおもしろそうな光景が。

「今から補給を艦上に積む作業が始まります」

「ものはなんですか」

「ジュースですね」

そういえば、舷悌を登る前、岸壁で業者らしい人が自衛官と
納入のようなやり取りをしているのを見ましたっけ。
このジュース納入業者も、午前中に入港と聞いていたのに、結局
こんな遅くまで待たされていたということになります。

自衛隊、ことに海上自衛隊相手の納入業者は大変だー。 



 
床に白線で囲んだ楕円状のハッチが持ち上がりました。
なんとこれ、エレベーターだったのです。



手すりのない板状のリフトが下の階に見えています。
 
舞台のセリみたいな感じですね。



見ている間に床がセリ上がってきました。
艦内に荷物を運ぶのは全てこのようにエレベーターを使うんですね。

戦艦「長門」の艦長だった海軍中将の息子という人から、
艦長が外地で購入したスタンウェイのアップライトピアノを長門で運ばせて
それが家にあったという話を聞いたことがあり、そのときに
ピアノなんてどうやって戦艦に乗せたんだろうと不思議でならなかったのですが、
当時の戦艦にも空母のようなエレベーターがあったとすれば納得できます。 

 

ぴったりと気持ちよくせりあがったリフトに、これからクレーンで
岸壁から積み込まれた荷物を置いていきます。

「あのクレーンを操縦している人は特別な資格がある人ですか」

「乗員が訓練して操作できるようにします」

この隊員さん、上陸してクレーンゲームをしたらものすごくうまかったりして。
クレーンで持ち上げた荷物には風で揺れたりすることを制御するためか、
どこかに結びつけたロープが繋がれています。 

 

荷物が無事にエレベータのパレットに乗りました。
どれどれ、中身は何かな?と近寄って写真を一枚。全部お茶の模様。



荷物が下ろされたら、素早くクレーンの先のワイヤから荷物を外します。
考えたら、艦内で使用する消耗品、食料や日用品は毎日のようにこうやって
クレーンで搬入するのですから、彼らにすればルーチンワークなんですね。

でも、わたしたち外の人間にとっては全てが珍しいことばかり。



こちらは何かと見てみたら、缶コーヒーでした。

「これは自動販売機に入れるんですか」

「そうです。ジュースやアイスクリームの搬入は大切なんですよ。
じゃんけんで負けた人が参加者におごるという習慣がありまして」

おお、それは噂に聞く「ジュージャン」「アイジャン」というやつですか。
陸海空自衛隊全てに深く浸透しているこの「賭けじゃんけん」、
自衛隊発祥なのかどうかは知りませんが、副長がこういうくらいですから、
「ぶんご」でも毎晩誰かがじゃんけんに興じているのでしょう。

この「ジュージャン」、参加人数はだいたい3人から多くて7人くらいですが、
何かのはずみで数十人単位(50人くらい)で行われることがあり、その時には
艦内の自動販売機がいくら安めに設定されていると言っても、運の悪い人は
一瞬にして数千円ぶんをおごるということになるそうです。

任務がそのまま生活と直結している海自の隊員たちは、このように
なにかというとじゃんけんで生贄を決めておごらせるというゲームをするのですが、
ジュースやアイスクリームだけでなく、飲み会の時のビール、
上陸の時の回転寿しなどもその対象になるのだとか。 

ビールやお寿司で負けると痛いよねえ・・。

いい大人がジュースやアイスを賭けて真剣にじゃんけんをする職場というのも

おそらく日本で(たぶん世界でも)自衛隊ぐらいではないかと思うのですが、
それも、職住一体の極めて閉鎖された環境の中では、
こんな他愛もないちょっとした賭けごとが気晴らしとなり潤滑油ともなるのでしょう。

ちなみにこういったものは先任海曹の管轄下で管理されるということでした。



さて、この作業を興味深く見守っていると、副長が


「これに乗って下の階に行きましょう」

とおっしゃいます。
ミカさんは後ろ向きでないとラッタルが降りられないそうですし、
今日はカメラに三脚まで持っているのですからありがたい話です。

何よりこんな機会、またとありません。

ちなみに彼女がラッタル昇り降りの時には、同行の隊員さんが三脚を持ってあげていました。



ジュースとともに地下に運ばれていくわたしたち。
こういうときには「サンダーバードのテーマ」がBGMにいい感じ。

ミカさんはカメラではなく携帯の動画を撮影中。
わたしのように艦内の説明を受ける必要がほぼないという人なので、
ツァーの間じゅう独自に写真を撮っておられました。



そして下の階に到着。
すでにそこには一個連隊ぶんくらい?の乗員が待ち受けていました。

「目的まで一歩も歩くことなく荷物を受け渡しして運びます」

このジュースの箱の山が全部搬入を終えるのにおそらく何分もかからないかもしれません。

ところで前回書いた「深夜10時から2時間だけの上陸」というのが 、多くの人々に
ちょっとした衝撃を与えたようですが、艦内を少し見る限り、自衛艦のなかは
年中無休で24時間誰かが必ず任務に就いているのが普通です。

ここでジュースのリレーをしている隊員さんも、もし入港が遅れず、
午前中に作業が終わっていれば、今頃全く違ったことをしていただろうし、
そもそも夕刻からなら上陸できていたに違いありません。

 つまり、たった2時間であろうが深夜であろうが、可能な時に上陸しておかないと、
特にこのような訓練の間は次いつ上がれるかわからないということです。

少しの時間も惜しんで陸に上がろうとするのも、ハーロック三世さんのおっしゃる

 艦艇も飛行機も乗っている間は逃げ場もなく、閉鎖された空間でであるから、
その状態から精神を一気に解放して平衡を保つ為の時間

が彼らにとって真に必要であるということなのでしょう。 

 

続く。