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ハイラインチェアの恐怖  空母「イントレピッド」

2015-12-29 | 軍艦

空母「イントレピッド」のハンガーデッキ展示の続きです。

甲板にある航空機は必ずしも艦載機でなく、中には外国軍のものもあったりして、
甲板は「航空機展示用のスペース」として活用されているだけということになりますが、
ハンガーデッキでは空母「イントレピッド」についての展示ばかりであることから、
ここにある航空機も実際に艦載されていた飛行機ばかりです。

その一つ、

Grumman イースタン・エアクラフト TBM 3E「アベンジャー」

アメリカという国と戦争した日本人にとってもっとも「敵」として名高いのは
なんといってもB-29爆撃機だと思うのですが、日本軍、ことに海軍から見た場合、
零戦を劣勢に追い込んだF6Fヘルキャットとそれにつづくこのアベンジャーが、
もっとも恐ろしい敵となったことは否定できないでしょう。

なんといっても、このアベンジャーによって戦艦「大和」「武蔵」、
そして空母「瑞鶴」も沈められることになったのですから。

当館のアベンジャーに付された説明にも

太平洋戦線でアベンジャーは「もっともパワフルな」戦艦「大和」と
「武蔵」を含む日本の軍艦を撃沈せしめる役割を担った

と心なしか誇らしげに記されています。


ところで、少し前にアップした「イントレピッドシリーズ」で、
ドーントレスとアベンジャーを間違えて説明を載せてしまい、
お節介船屋さんと部下その1(いまのところ一人ですが)に指摘され、

「だってイントレピッドのHPにアベンジャーの写真があって、ドーントレスがなかったんだもん。
きっとアベンジャーとドーントレスをどこかと交換したに違いない!」

と往生際悪く言い訳などしたのですが、よく考えたら、ハンガーデッキにあったんだった。
つまりわたし、アベンジャーを「イントレピッド」で見ていたのに、
このときにはすっかりと忘れ去っていたということなのです。



となりにターレットが展示されていました。

英語では「ボールターレット」と呼ぶようです。
このターレットが初めて搭載されたのが、TBM「アベンジャー」でした。

そもそも「ターレット」だけだと、英語ではたんなる「砲塔」という意味になります。



アベンジャーのターレット搭載例。
映画「メンフィス・ベル」の爆撃機B-17Fだと、ターレットが下部にあり、
背の低い乗組員がボールの中に入ってハッチを閉められていましたが、
これだとまあそう「怖い」(B-17のは怖かったらしい)ことはなさそうです。

アベンジャーの乗組員は機長と射手、そして爆撃手を兼任する無線士の三人が乗り込みました。

しかし、この写真を見て、大男の多いアメリカ人で、よくこんなボールに
入り込んでしかも長時間乗っていることができたなと思います。



座席部分をどうぞ。
たとえ飛行機の下部分にぶら下がるようについていなかったとしても、
ガラスのドームのような部分で敵と対峙するのは恐怖だったと思われます。



続いて椅子ばかりが幾つか並んだコーナー。

まずこの変哲もないただの椅子は

NAVY SIDE CHAIR

と言います。
「マルチファンクショナル・ライトウェイト」とされるこの椅子は、
海に浮かぶ一つの「シティ」の中で3000人以上の乗組員が生活していくために
必要な様々な仕事のために作られた艦内専用椅子。
主にレーダー、通信係、オペレーター、事務職などが使用していました。



航空機用のシートベルトのようなものが付いています。
まさかイジェクトシート?と思ったら、やはりそうでした。

イジェクトシートが最初に航空界に現れたのは1910年のこと。
その頃の飛行機はそれほど高速ではなかったので、何かあれば
パラシュートを背負って自分で飛び降りれば大丈夫でしたが、そのうち
飛行機の性能の向上に伴い、飛び降りるときに尾翼にぶつかる事故もあったため、
ゴムで(!)座席を弾き出す方式のものが生まれ、のちにドイツが圧縮空気式を発明しました。

射出座席を本格的に実用化したのは、イギリスのマーチン・ベーカー社。
ここにあるのがその射出座席で、ドイツが採用していた圧縮空気より力のある火薬式。

マーチン・ベーカー社がこの研究を始めたのは第二次世界大戦の最中で、製品として
完成させたのは、1946年のことです。
この座席はアメリカ軍の1950年代の戦闘機で使用されていたもので、射出するには
パイロットは、頭上からぶら下がっているリングを引っぱります。
ほとんどの場合、キャノピーは射出の際、吹き飛ばされ、座席の下のロケットモーターが
点火されると座席は射出されます。
そのあと、シートはパイロットの体から離れ、パイロットは落下傘で着陸するのです。

射出座席が必要になったのは、レシプロ機からジェット機になったとき、
速度によって受ける空気抵抗が大きすぎて自力で脱出できなくなったからです。
例えば68キロの体重のパイロットが射出の際に受けるGは1,360キロになります。 

なお、マーチン・ベーカー社は現在でも射出座席の代表的メーカーのひとつです。



まるで昔の映画館の椅子のようですが、これは


READY ROOM CHAIR

といって、搭乗員の控え室にあったものです。
この部屋にある椅子が、全艦内で一番豪華でリラックスできる仕様でした。
パイロットはどこの国の軍隊でもその特殊性からもっとも優遇されていたのです。

しかし控え室の椅子に関しては、元来空母の搭乗員は、比較的普通の、
居心地の悪い椅子に座っていたものだそうで、このようになったのは 
「エセックス」のデザイナーがラウンジルームを豪華に設計し、
「エセックス」級が同じ仕様を取り入れてからのことだそうです。

この椅子は第二次世界大戦中に「イントレピッド」の搭乗員が使用したものです。



歯医者さんの椅子みたい、と思ったらやっぱりそうでした。
3000人以上が乗り込んでいれば、歯に不具合ができる乗組員だって少なからずいます。
というわけで、ちゃんと艦内には医療スペースとは別に歯医者の診察所もありました。

呉の「大和ミュージアム」で最後の特攻作戦に、
歯科医が乗っていたという証言を見て、

「少尉候補生や少尉、年配の下士官は下ろしたのに、
どうしてわざわざその必要もない歯科医を乗せていく必要があったのだろう」

と不思議に思ったことを思い出しました。



これは見ただけでわかりますね。
え?わからない?これですよこれ。

 At Sea Hi-line transfer


あの、むちゃくちゃ怖いんですけど。
ケージごとぶらんぶらん揺れて、波とかかかりまくりなんですけど。 

wiki

もっと怖い写真がこれ。
ヘリコプターが使えない時、隣に来た船舶に移る時には、
昔からこの方法が普通に使われてきたそうですが、それにしても
乗っている人は怖いだろうなあ・・・。
まあ、何かあってもすぐに助けてもらえると思うけど、
シートベルトごと海に落ちたら助けに来るまでに死ぬよ?



1990年にフライトデッキを改装した時に一部切り取って展示してあります。
7.6cmの板の上に、5cmの鋼鉄板をレイヤーで重ねてあります。
一番下の木はマツ、その上はチークという素材です。(多分チークが固いからですね)

木製の甲板は補修しやすく取り替えやすいというメリットがありますが、
戦争も後半となると、主に特攻機の攻撃に備えて鋼鉄に変えられる部分が増えました。
先日お話した「カゼ体験ショー」を見ても思ったのですが、
本当にアメリカ軍にとって特攻隊の攻撃は悪夢以外の何物でもなかったのです。

"JOCKO"ってなんでしょうか。
Joseph  James "JOCKO" Clark は、第二次世界大戦中アメリカ海軍で
もっとも有名なエセックス級の司令官でした。

wiki


なぜインディアンの格好をしているかというと、彼がネイティブ・インディアン
(チェロキー族)の出身で、初めて海軍士官学校を卒業した人物だからです。

最初の艦隊勤務を「ヨークタウン」の副長から始めた彼は、ミッドウェー海戦、そして
マリアナ沖海戦(アメリカ側の呼称はフィリピン・シー・バトル)で
指揮を執り、アメリカ海軍の勝利に大きく寄与し、最終的には大将になりました。

この漫画には、東条英機のつもりらしい出っ歯のメガネ(東条英機は出っ歯ではない)
が、頭を抱えている横に立て札があり、右側には「TOKYO」、左には

BONINS (JOCKO JIMA )

とあります。
ジョッコーことクラークは、一連の小笠原諸島に対する攻撃の司令官として、
前任者のイマイチ煮え切らない攻撃とは違って高く評価を受けたそうですが、
このときクラークの下で戦った乗組員やパイロットから

「ジョッコー島開発公社」 (Jocko Jima Development Corporation)

と呼ばれていたそうです、

 BONINSというのはこのままえいごで検索していただくとわかりますが、
小笠原諸島のことを英名でこういうのです。

ピントが甘くてよく見えませんが、水平線の右手には
島を浮き輪のようにしているおっさんが「ターキー」を食べています。
そして、立て札には「MARIANAS 」(マリアナ)の文字が・・・・・。(不愉快)



続く。