Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

トスカニーニの委嘱作

2024-09-18 | 
生中継放送を聴いた。休憩を挟んで余白を充分にとった三時間余りの番組だった。前半のヒット曲のメドレーに近いようなものはビッグバンドファンでなければ興味が薄いものだった。但しフィルハーモニーにマイクロフォンを立てた手の込んだ録音でCD化されたら評価が高いものとなるだろう。それでも前半から後半を聴き続けるのは辛かった。

放送局でも絶賛の第二部になってドイツェオパーの管弦楽団が出て来て、休憩時に楽員とアナウンスでティテュス・エンゲルの紹介があって、「インテリサイドからのアプロ―チであると同時にベースの奏者としてスイングできることが貴重」とされていた。

それは最初の曲「ハーレム」で発揮される。アルテュール・トスカニーニがニューヨークの作品を求めていたことから組曲をエリントンが委嘱を受けての作品で、エリントン自身がジャズを機会音楽から独立した音楽としての試みからの取り組みの中でルーザーヘンダーソンの管弦楽化でなった。結局トスカニーニは指揮することはなく1955年の完成版はカーネギーホールで初演されている。その十話ほどにエピソード化されている「ハーレム」をして作曲家は「そこの住民たちの取り分けハンサムな人達の街」と説明して、ラテン系、インディアン、アフロの各々の共同体のその多様性を描いているのである。

1943年に「ブラック、ブラウン、ベージュ」としてカーネギーホールで奴隷黒人のポエムが演奏されていた様であるが、ここで聴かれるその躍動感などは、同じニューヨーカーのユダヤ系ガーシュインの音楽などで知っているような哀愁漂うアフロアフリカンの雰囲気とは全く異なる。それは全く当事者視線が異なるといううことでしかないであろう。

ガーシュインとは異なりエリントンの場合は父親がボーイをしていたことからホワイトハウスでも仕事をしていたようで、子供の時からピアノを習う環境にあったというのがそこから知れる。つまり古典派から浪漫派への西欧音楽の流れを汲んでそこにアフロアフリカンのエキゾティックな音楽要素を加味したということになる。それが所謂サードストリームと称され合衆国におけるエリントンが活躍した半世紀の世界でのメディア支配の核になっていた音楽と当夜のプログラムには書いてある。

そうしたサブやポップカルチァーのエンタメと芸術音楽との差異をそちら側から示していることにはなるのだが、同時にエンゲルらが語るような今日の芸術音楽の流れとしてのサードストリーミングとアナログになる関係にあるだろうか。

それに関しては後半二曲目の「ナイトクリエイテァー」にヒントがある様にも思える。実は生中継でこれを流していると居眠りして仕舞っていた。夕方の雨の切れ目にさっと走って来て、新しい靴の二回目の使用を経験して、急いで一杯引っ掛けて食事をしたからでもあるが、なによりも音楽の流れの構造が見えないのでどうしても追えないというものがある。それはエリントンの通常のジャズピースにしてもそのコード進行にドラマテュルギー的なアドリブなしにはそれなりの道理が感じられないということでもある。

そしてその曲に関してエンゲルは、エリントンが如何にそこの具象的な像を描いていたかという解説をしていたのでもあった。(続く)



参照:
A Celebration for the "Duke" ー オンデマンド 第二部 — 1時間16分から
デュークの律動的力強さ 2024-09-17 | 音
「半糞有色黒人」の総譜 2022-09-27 | 音
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デュークの律動的力強さ

2024-09-17 | 
金曜日に数カ月ぶりに入浴した。垢を落として、ダージリンを飲んでから快眠した。次は何時になるだろうか?新しい靴で走った後での疲れも取れて、更に足の角質の整備できたか。

車の窓拭きはミラノに出かける前にするのは決まっている。因みに8月に塗ったラッカーは光が弱くなってより目立つようになって色褪せて来た。透明のコーティングをもう一度塗布しておく方がいいかもしれない。こうなれば輝きで誤魔化すだけだ。先ずは9月を乗り切るだけ。部屋の窓の陽射し避けは殆ど冬向きにしたので、窓拭きを何時頃にするかどうかである。
A Celebration for the ‘Duke’ (Teaser)

Duke Ellington, "Take the A Train"

Duke Ellington & John Coltrane - The Feeling Of Jazz (1962).


月曜日はベルリンで行われているフェスティヴァルでティテュス・エンゲルがデュークエリントンを振る。一昨年のミンガスの「エピタフ」に続く企画である。ドイツェオパーのジャズバンドとの協調が上手く行ったことの証明であり、今回はエリントンの生誕125周年且つ没後50周年を記念してフィルハーモニーから生中継される。ユーロアーツが共同制作しているので映像も撮られるのだろうが、CD化は決まっているとされている。

エンゲル本人の誘いのヴィデオも出ている。そこで語っている名人技やその音楽的な革新性、更に演奏作曲双方においてのエネルギー溢れるリズムがあって、具象的な像が脳裏にあったのがその音楽だとエンゲルは語っている。勿論ジャズバンドと管弦楽の融合がそのファンタジーであったとしている。

デュークと呼ばれるその音楽はスイングしているとぐらいしか思い描けないので、幾つかのヴィデオを観た。一番耳に残っているのは「ソフィスケテットレディー」とか「テークジエートレイン」とかの戦前の曲で、意識して聴いていたというよりもNHKの「夢で逢いましょう」での六八九とかの話しや演奏で子供の頃に耳にしていたのかもしれない。当時は少なくともスイングジャズは日本のお茶の間を席巻していたということか。

そして気が付くのはエンゲルが語っているようにそのキーボードプレーも若い時は凄く強かった。ノーシージャズフェスティヴァルなどの中継録音をNHKFMで聴いていた時にはこんな強い演奏はしていなかったのでその差が分かった。

ビッグバンドもどちらかというと若い時の仕事のようで、なるほど戦後も時間が経つと怠い印象しかなかったのも正しかったなと感じる。恐らくガーシュインとかその辺りの影響もあったのだろう。ベルリン出身のプレヴィンなどが映画音楽のミュージシャンとして活躍していたことや、またこうしたジャズの世界との関連などがよく分からないので興味がある。

11月のベルリナーフィルハーモニカーによる合衆国ツアーは大統領選挙後のワシントンDCでのキリル・ペトレンコデビューともなる。そこでヴィーンからの亡命映画作曲家コルンゴールトのヴァイオリン協奏曲がワイン街道のトラムプ家と隣町の出自を持つヒラリー・ハーンのソロで演奏される。来週末には彼女の演奏をフランクフルトで聴く予定だ。



参照:
追想の音響への眼差し 2024-09-16 | 音
Kamala IS Bratの意味 2024-07-25 | 文化一般
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追想の音響への眼差し

2024-09-16 | 
承前)ベルリンでの最終公演が生中継された。初日の演奏とは比較にならない音響だった。楽譜から音楽を読み取るとどのようになるかという典型で、初日から何を求めてやっていたかの成果が音響としても如実に表れていた。なるほどフィルハーモニーの音響から塊とはならないのでより精妙なアンサンブルが要求されるのだが、それが六回の本番演奏を通してアーテュキュレーションとデュナ―ミックをルーティン化させることで初めてものにしていた。特に一楽章の演奏は歴史的にブルックナー演奏の頂点であったろう。

中継と本番などを通して今迄の全七回の演奏の四回を聴いたことになるが、想定通りの進化をしていて、ペトレンコ指揮のベルリンでの演奏としては最高峰だったろう。一楽章のフィナーレ迄の大きな弧の中で、初日の批評で言及された導入での爆発も全てが道理の通る大きな流れとなっていた。

残念乍ら生で体験したルツェルンでのそれは音響的にはより音楽が作れていたものの今回のような壮大な音の流れは作れていなかった。もうこれは演奏者が流れを自ら作っていくぐらいにルーティン化していないとはならずに、ある意味カラヤン時代の全盛期はそこからゴージャスな音響が出来上がっていたのである。

初日には音を当てることが出来ずに不安定になっていたホルン名人のドールだが、ソロに入る最初からしっかりしたラインを描いていた。そこには正式採用されなかったフルートのジャコーや助っ人のクラリネットなどのロンドン公演よりも明らかに弱い木管群との拮抗が弱まったような条件もあるのだが、冒頭の繰り返しへのつまり展開部へのエピローグでのトレモロに乗ってのフルートからホルンへの渡しのそこが全てであった。

そのオクターヴの跳躍は四楽章コーダでのフルートの上昇に匹敵するもので、初日から苦労していたところでもあるのだが、なんと前半に取り上げられたリーム作曲「インシュリフト」における「追想の響き」に通じるものとしていた。リームにおいては、ベネツィアのサンマルコ寺院のバロックの多声への追想となっているように、ブルックナーにおいてもこの曲ではバロックの技法も追想されている。

最終楽章の二重フーガなどはその多声音楽そのものでもある。ここもアンサムブルの妙味が如何に積極的に繰り広げられるかに掛かっていて、その音楽的充実に直結する。

ベルリンでの最終公演では到底満席にもならずに舞台上の席も解放されていなかった。やはり序奏からの煉獄のような情景も音響への悦びもカトリック圏での受容の様にはいかない。恐らくそれは新フィルハーモニーの発散する音響空間だけの責任ではないようにも感じられる。

第一楽章後での拍手喝采はその意味ではとても説得力があるもので、二楽章、三楽章へと高揚がなかったのもこうした聴衆の受け取り方の相違に拠るかもしれない。11月にはフランクフルトで米国ツアーへの向けての壮行演奏会が開かれるが、少なくとも音響的には利があるかもしれない。どのような人がソロに入るかなどの相違は出てくると思うが、引き続き大きな衝撃を世界的に与えていく筈だ。



参照:
ルツェルンからの光景 2024-09-11 | 音
期待する天才の裏側 2024-09-06 | 女
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この二年半の落とし前

2024-09-15 | アウトドーア・環境
パジャマを長袖に替えた。予定より早かった。寝具は来週以降となるが、昨年は9月が暖かくて、8月に一度出した長袖を末に改めて出している。今夏は8月後半が暑かったのだが、乾いていて過ごしやすかった。その分9月に入ってからの冷えは異常である。窓拭きを済ましてもいいぐらいだが、10月に再び暖かくなるだろうか。

新品の靴を下した。想定以上に違った。なによりも軽く感じる。計測では殆ど変わらない。固さやバランスが全く異なる。蹴りが入る以上に反動が前に出る感じで、今迄少なくとも二年半は腕の振りで無理して足を前に進めていた。それがなくても足が出るので、歩調がとても早くなる。計測は最高240となっているがそれは誤りとしても160を超えているところが何度かあるので、それなりのテムポは築かれた。それによって心拍数が上がりやすくなった。

二年半を返してくれと言いたいが、そのお陰で無理に足を進める筋力はついたと思う。腕の振りは激しくなった。その分バランスが悪くなっていた。腰や膝の違和感は治していけると思う。

実は心拍数を上げようとしてもなかなか上がらないのは年齢ゆえかと思っていた。然し、それが上げられない歩速ゆえだと理解した。靴に柔軟性も羽根もなかったからである。前回のラストランでは平均126で最高161までしか上がらなかったが、今回は平均146で最高173まで出ていた。明らかにトレーニング効果が異なる。そして所要時間も5分ほど短縮している。動機付けがないから仕方がないとも思っていたがこうして走りやすさがあると、更に記録を出したくなる。上りで19分掛かっていたので、23分よりはマシとしてもそれ程ではない。然し頂上往復を久しぶりに試したくなった。

足出しの良さは準備体操でジャンプする時に分かった。室内で履いた時には踵が緩く大丈夫かとも思ったのだが、なるほど走ると空気がポコポコする音もある。もう少し足に靴が慣れてくると無駄がなくなるかもしれない。靴下もウレタンが効いていて滑りやすいのでその辺りの改善は進むと思う。

また初めての薄いゴアテックスの通気性は素晴らしい。少なくとも摂氏気温17度の曇天では足が熱を持つことはなかった。冷たくないので安心して運動可能となった。想定よりは使える可能性が出て来た。アルプスならば夏でも問題は全くないというかとても快適だと思う。

小石の上を通る時の感覚も滑り感は全くないのでよく、足運びが自由自在なのでテクニカルに足を運べる。車輛で言えば、前回の靴がオペルのファミリーカーのライトバンで後ろに引かれる感じで精々最高速度時速190kmで150km巡行が限界なのに対して、今回のは巡行200km以上可能で最高速は250kmで抑えられている感じである。それ程の差が、小売り希望価格で30ユーロ程購入価格で数ユーロの差、そしておそらく生産コストも20ユーロ以上違ったのだろう。車輛も同じモデルでも可也大きな差が出ていて、生産コストを販売台数と小売価格で一番利益が出る様に計算されている。

数カ月ぶりに入浴した。垢を落として、ダージリンを飲んでから快眠した。次は何時だろうか?



参照:
抵抗不可の45%引き 2024-09-10 | アウトドーア・環境
イミテーションの先端 2022-02-24 | アウトドーア・環境
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超一流奏者とは如何に

2024-09-14 | 
ルツェルンではいつものように前座催し物に出かけた。今回は昨年に続いて音楽祭コンテムポラリー楽団による世界初演の練習であった。無料の催しとあって若干異なる層の地元の聴衆が殆どなので興味深い。昨年はメルキ指揮のポッペの曲の練習だった。今回は初演で作曲家のリサ・シュトライも注文を付けていた。指揮者はヴィーンのクラングフォールム代表で五月にもエンゲル指揮で北京で公演を敢行したベアト・フーラーで、お友達仲間でもある。作曲家としては馴染みなのだが、指揮者としては初めてで、痩せて若干印象が異なっていた。

楽団はアカデミーのそれとどこが異なるのかはよく分からないがいつものように若い面々で、今回の初演曲のトラムペット協奏曲のソリストも嘗てのアカデミー生として活躍したジモン・へ―フェレで、フリードリッヒの弟子でもあって、恐らくトップクラスの奏者であるのだろう。

曲自体が協奏曲とは謳っていてもメタムジーク表現であることは間違いなく、殆ど楽団以下の小さな音しか出さない。如何にそれを成すかが音楽的な腕であるが、楽団の腕と作曲家の腕との両面でどこ迄その効果が出ていたかには大きな疑問が残った。

然し乍らソリストの風切り音でもない微小音のコントロールとホース迄をつけての音出しは見事で見ものでもあった。現在の超一流の奏者はそこまでの特殊奏法を自らのものにしていないと仕事にならない。それは旧態とした大管弦楽団で演奏しているようなものでは全くなく、一つの出来上がった技術としてコンクールで披露するようなものではない演奏実践上の楽器の可能性を拓く革新性がないと務まらない。

まさしくソリストと所謂オーケストラムジカ―とは職業が違う。勿論前者の公的資格を取って大管弦楽団でも活躍している人も少なくないだろう。然し抑々違うものである。先頃コンクールなどで優勝したフルートの奏者がベルリンのフィルハーモニカーとしてソロストとして試用期間を超えられなかったと発表があった。若干驚いた。なぜならば楽団のソリストとしてそつのない仕事をしていたからだ。勿論同僚のパユの様にこれは正真正銘のソリストがなぜ大楽団で仕事をしているとスイスの音楽家などは皆驚くのとは違う。

正直技術的な問題点はこれといって気が付かなかった。同僚に比較すれば明らかに個性が弱く、フルートという楽器ながら背後に沈んでしまうことも少なくなかった。なるほど確かに目立つことはなかったのだが、二人と同じスイス人の先ほど亡くなったオーレル・ニコレの透き通って硬質な音のような強い個性はなかった。コロナ期間中にワクチン接種拒否から退団した元シカゴ交響楽団のデュルフォーはそれなりに目立っていた。

フィルハーモニカーにどれだけのフルートソロが必要なのかなどは計り知れないのだが、そこまでを求めないと木管アンサムブルも決まらないということになるのだろうか。弦楽器奏者とは異なり、小さなアンサムブルではあまり出番もなく力を発揮できないということで、例えばヴァイオリン奏者などよりも管楽器奏者の方がソリストなのだが、今度は木管や管楽器のソロで一流の舞台で生活していける奏者などは殆どいない。そこから上のトラムペット奏者が如何に楽器奏者の頂点に立っているかがしれようというものである。



参照:
ルツェルンからの光景 2024-09-11 | 音
無料前座演奏会の光景 2019-08-28 | 音
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無事だったラストラン

2024-09-13 | アウトドーア・環境
現行の靴のラストランを行った。地面が濡れていたが雨が止んだので、少し肌寒いながらもゆっくり走れた。決して悪いスピードではなかった。ここ暫くでは早い方かもしれない。現在の状況での走り心地を記憶しておきたかったから、幾らかスポーティーに動けた。

新しいものと比較すると足入れが悪いのは紐だけでなくて、靴の舌が分厚く固い。何故そうしてあるかは、底が弱いからだと感じた。底だけならば地下足袋のようにごつごつしてクッションがあまり効いていない。腰やら膝に来る感じはそこに原因があったのだろう。よって細かく石の上を渡るようなのはあまりうまくいかない。エアルの音楽祭からザルツブルクに廻った節のキムゼーの岩山を2000メートルほどまで登った時も余りしっくりは来なかった。つまり足捌きが上手にいかない。靴のバランスが先端の方に重かったりと色々あるのだろう。靴自体の重心が高くなっていることも分かる。

2022年2月中旬には親指の付け根が痛くて寝れない夜を過ごしていた。普段の靴にも足が入らずに引きづっていた様だった。新年早々から使っていたので、この靴で足を痛めたことになる。履き心地も読み返すとあまり良くなかったので、余り健康的な靴ではなかったようだ。親指の付け根問題は2014年から記載があるが、その時は走っていて捻挫と書いてある。2018年は違っていて、右側が8月に腫れている。その後は2022年2月そして11月と痛めていた。今は左足親指付け根へと筋に違和感がある。

ラストランでの地下足袋感覚とその逆の細かな立ち方が出来ないごつごつ感は車輛でも悪い独車にありそうな違和感で、89ユーロで買っていたとしても不満は最後まで残った。大きな転倒がなかったのは幸いで、それなりの底のグリップは効いていた様だった。腰への負担は一部不可逆なものもありそうで嫌であるが、それ以上に膝に若干来たのはこの靴が初めてであった。足の裏の緊張と足運びによる膝への負担はこれで卒業できるかと思う。

底のプロフィールの摩耗は限界域であるが、現在の状況でも余り滑らない。コケなどが蒸して来ると分からないが、泥濘などは駄目だろう。内装は角を除いて中敷きも余り摩耗していない。支えの赤いラヴァ―部分は踵内側が剥がれかけてきている。それ以外はまだ穴は開いていない。靴紐も使える。靴としては堅牢だった。

乾かして純正箱に入れて仕舞っておくが、今後どういう時に使うか?旅行の徒歩には使える。それも山道以外で履く時だろうか。「アシジの聖フランシス」公演の巡礼移動時に履いていたのも想い出か。

靴と一緒に発注した靴下は、色違い二種類を今迄四足ぐらい購入したかも知れない。最初はウレタンがふんわりしていて気持ちよいが洗濯し続けると固くなって、弾力を失う。主に冬用に考えているので涼しくなくても構わない。前回使っていて破れたものは最初から左足の丈が短かった。余計に引っ張りなどで爪先が破れるのが早かったかもしれない。靴と同じ時に購入してしていたので、600kmぐらいはそれで走れたのかもしれない。靴はその倍は走行した。それでもやはり靴はとても高価である。



参照:
楽団維持の資金に乾杯 2022-01-07 | ワイン
聖フランシス「太陽の賛歌」 2023-06-24 | 文化一般
下から目立つ大きな十字架 2022-07-31 | アウトドーア・環境
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不可欠の表向け秩序

2024-09-12 | 
発注したシューズの配達が水曜日となりそうだ。少し迷っている。最後にもう一度現行の靴を履いて、そして洗いたい。然し足の裏に違和感もあって、一日でも早く新しのを履きたい気持ちもある。その一方出来れば室内で履いて、細かなところもチェックしたい。気温が下がると不調なところが顕著に出る。足の痛みは一月ほどでは元に戻らなくなる。朝も起きれなくなってきた。雨で陽射しがないと厳しい。

夏のシャツを洗濯に出した。9月には普段にもう少し袖を通そうかと思ったが、厚いのを着れるので全く必要がなくなった。次のお出かけ用のシャツを考えておけばよい。三回の演奏会の前に試飲会で、それを一着で済ませると都合がよい。その後のミラノでの服装を考えながらになる。

スカラ座への駐車場を研究した。どうもドウォーモの近辺は立体駐車場が多くて、大型車お断りがあった。まるで暴力団お断りの大阪市内のモータープールの様である。面倒なので少し離れたところに通常の地下駐車場を見つけた。問題は土曜日も19時30分まで店を開けているイタリアの買い物客でまだ賑わっていそうで、出かけるまでに交通情報等を調べておかないと大変な時間の無駄になりそうだ。

来週の床屋の為の現金は序に隣町のポストバンクで下ろしてきた。50ユーロあるので、20ユーロを床屋で落として、ミラノに行く前に少し足して50ユーロあればなんとかなるだろう。

夜中午前三時過ぎに目が覚めた。大統領選挙討論会なのは頭にあったが直ぐには観れなかった。トイレに立ったので40分前から観た。違法移民や外交問題をトラムプが語っていて、ネトウヨそのものの主張はへきへきするものでなんら反論の必要すら感じなかった。それで困った顔で憐みの表情を浮かべはぐらかすような反応をハリス副大統領がしていたので、トラムプがヒートしていって更に聞いていられなくなった。

所謂世界の中での合衆国に求められている立場の逆張りばかりなので、ガサのテロへの攻撃を賛辞して、プーティンと金主席のお友達自慢だけでなく、ハンガリーのオーバンを欧州におけるパートナーとすることで最早尋常ではなかった。更にタリバン支配への介入も自供していた。絶対再選を許すべきものではないと確信した。トラムプのあまりにも酷さを全米に全世界に曝すという戦略では大成功していた。

その後仮眠などをして、思いがけなく朝が気持ちよく起きれた。通常よりも30分ほど前に床に就いたことで大分違ったのかもしれない。副大統領はこうしたカオスは止めにしましょうと呼びかけたのは、ストンと落ちた。所謂世界でのネトウヨ傾向はこの十年ほど高まっていて、漸くこれで合衆国の空気が変われば世界も変わるに違いない。

今世紀に入ってから、NYの摩天楼の崩壊からフクシマ禍と通常ではあり得ない事ばかりが続いていた。然しこの辺りで真面な社会の骨子が確立されるべきであろう。外交には表も裏もあるが少なくとも表向きの秩序は不可欠である。



参照:
Kamala IS Bratの意味 2024-07-25 | 文化一般
今秋のミラノ旅行準備 2024-06-06 | 雑感
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ルツェルンからの光景

2024-09-11 | 
承前)ベルリンでの定期公演が近づいている。その前にブルックナーの交響曲について補完的にもルツェルン音楽祭が作曲家のスイス旅行についてまとめているものを改めて目にすると、その1880年に旅行の感興をまとめた交響曲六番にも興味が。当地でも五番の曲説明に加えて、そのリンツ駅での操車場での情景が音楽化されているとされたが、なるほどと思わせる。カトリックの神秘主義者ブルックナーにとっては蒸気機関への畏敬の念はそのもの創造主へのそれそのものなのだが、同時に有名な鉄道マニアのドヴォルジャークや路面電車ファンのマーラーと同じく乗り鉄であったことも間違いなさそうだ。特にこのスケルツォは「新世界交響曲」など同様に走行感もある。

余りに楽天的に映画音楽のようになるきらいもあるのだが、やはり注目したいのは緩徐楽章にファイヤーリッヒと書くのはどうしてもリギ山上での一晩の経験やモンブランを見上げたその時の印象が見える。するとどうしても作曲家が尊敬するヴァ―クナーが湖畔のトリプヒェンから望んだ山々の情景とその音楽の影響を考えずにはいられない。やはり最も感じるのはジークフリートであり、それは最終楽章にも第二主題として取り入れられているとなると、疑問の余地はない。

その旅の途上で立ち寄ったオバーアマルガウでの娘の住居だけでなく、トリプヒェンのことも根っからの度を越したストーカーの作曲家は気になって仕方がなかった筈だ。そこを訪ねたとはどこにもないのだが、同じ情景を体験することにも熱心だったに違いない。(続く)

承前)「我が祖国」の演奏に関して、その後BBCでの生放送を聴いた。結論からすると、会場の音響だけでなくて、やはりどうしても演奏も粗くなるだけではなくて、全体のバランスも若干異なっていた。既に言及していた様に最初の二部での表現力は汲めども汲みつけない細部があったのだが、余程上手に運ばないと全体的な印象とはならなかったのも事実だ。

ブルックナーにおいてその交響曲はノイドイチェシューレとしてヴァ―クナーに代表される劇音楽化したそしてその娘婿のリストの交響詩に代表される抽象音楽からの逸脱が批判された。それがスメタナにおいては最初から交響詩でもなく如何に物語を紡ぐかにあった。当時のその両方からの試みを二日に亘って示すのが今回の夏のプログラミングの骨子であったわけだが、やはりそこではなにをどのようにという質問が用意されている。

歴史物語を管弦楽曲としてそれどころか交響曲として描いたのはメンデルスゾーンの「スコットランド」であって、決して奇異ではないが、その「宗教改革」交響曲の讃美歌「神は我がやぐら」 のようにここでもフス教のそれが5部で主題になるようにメンデルスゾーンの存在も考えざるを得ない。

先日偶々昨年のプロムスで演奏されてBBC4で放映されたチェコのフルサ指揮バムベルク交響楽団の「我が祖国」全曲演奏を見つけた。なかなか健闘していて、指揮者は同国人だけの拘りを見せた演奏実践となっていて、とても興味深い。要するに音楽の背景にある主張を民族的なものとして普遍化した裏付けで以って演奏させているのが分かる。逆にそれが、どこまで音化されているのかどうかの疑問が、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏との比較によって浮かび上がらせることになった。(続く)



参照:
期待する天才の裏側 2024-09-06 | 女
描き切れない普遍的価値 2024-09-01 | 文化一般
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抵抗不可の45%引き

2024-09-10 | アウトドーア・環境
ランニングシューズを検索した。古いモデルは出て来なかった。流石に経年変化で処分されてしまったのだろう。10年はもたないだろう。今からすると立派な靴を10年前に買っていた。現在の価格は殆ど変わらず生産地もより安い国に移って、フェアートレード保証が付いている。それで如何に安く生産コストを抑えているかは車の生産と同じである。

よってどうしても質が落ちる。機能を最低保持して改良が為されるかどうか。前回2022年2月に購入したのが、足を痛めてからで、よりホールドされていて使えたのだが、それでも包まれ感が強く足の出し入れには靴ベラが必要になった。特に靴紐を自己改良したので余り開口が広がらず余計にその窮屈感は今でも変わらない。そして形状維持の高分子の硬さと支えなどが足入れ感の馴染みを与えなかった。

ざっと後継のモデルは若干足入れはましになっているようだが、踵引っ張り紐ついていないので靴ベラは必携に見えた。紐が付いているものもあったが、又コンセプトが違う靴だった。要するにコストダウンするところは相変わらずで一長一短なので、サイズの合うものの中で割引価格を探した。

45%引きでサイズ8が見つかった。それも10年前には頻繁に購入していた山道具屋のサイトだった。このサイズは男性の標準サイズ域なので最後の一つとして残っているのはとても珍しく、それ程急ぐつもりはなかったのだが、この好機を逃したくなかった。93ユーロで現行製品処分のみならず、通常は高価なので買わない軽量ゴアテックスを使っている靴である。標準小売価格170ユーロは高級品である。冬の雪道を走る時以外には、足の風通し水通しがいい方がトレイルランニングには向いているので、態々高価なそれをランニング用に買う人は少ない。

それでもこの価格で一度試してみてもよいと思った。軽量ゴアテックスは使ったこともなく、少なくとも次の夏迄はなによりも膝と腰を護るためにも新しいソールでしっかりしている靴が健康のためと考えた。100ユーロをケチって怪我をしたら後悔しかない。少なくとも冬季はアルプスでもどこでも使いやすい筈だ。今迄は水の通る靴で毛の靴下で雪の上を走った。やはり湿って使い難かった。

2010年10月のレーヴェの靴から初めて、今回が7足目のようで平均約2年3カ月使用となる。マムートのトレイルランニングシューズを当初から購入してシリーズも変わり、ここ二回は若干方向がずれていた。本格的にアルプスで使う予定がなかったからだが、安売りでいいものが見つからなかったからだ。破れたりしたときに急いで購入するのでどうしてもそうなる。メーカーがトレイルランニングシューズリリースを諦めた為に現行のがIIという表記でよりオールランドなスニーカーとなっていたのが主原因の様だった。前々回は軽いランニング向きの爪先が柔らかいタイプだったから安かった。現在は更に特化した製品はあるのだが、先ず現実的にアルプスで長い距離を走る予定がないので、今回のもので目的が叶う筈である。少なくとも今使っているものよりも、身体を守るだけでなくて、スピードや距離を伸ばす動機付けになりそうな期待が膨らむ。

送料免除最低価格が高いので序に必要なそれ用の靴下をセール価格で同時発注。これで当面の買い物が片付いた。



参照:
トレイルランニングに使える靴 2010-10-29 | アウトドーア・環境
新製品試着の歯痒い気持ち 2013-04-12 | アウトドーア・環境
消えた踵のエラ張り 2014-01-31 | 雑感
待望のランニングシューズ 2017-03-22 | アウトドーア・環境
軽いトレイルランニング 2019-03-23 | アウトドーア・環境
希求の無い所、何も無し 2022-01-02 | アウトドーア・環境
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夏はゆく、秋の備え

2024-09-09 | 
涼しくなって夏は終わった。南欧でも週明けからは摂氏20度を超えるだけの秋だ。ここワイン街道でも朝晩は6度まで落ちる。すると夏のパジャマと寝具では寒くなる。洗濯可能なのは再来週になるので、それ迄は今の儘か。

そのパジャマは発注後に値上がりして、定価引きが7%と一時半分になった。20ユーロを超えると安くないという感じだ。逆に他の安売りものがやはり商品に割引のワケがあったのは確かになる。袖を通す前に履いてみた。腹回りがポイントで、大きくなくてそして押さえられない。丁度であった。サイズ52で93CMらしいが、嘗ては1メートル欲しかったのとは大分違う。ジーンズも30が問題なく履けるようになったのと相応している。ティーンエイジャーの時は28ぐらいだったのだろうか、32までは必要になっていた。アマゾン評価でもサイズ54の人が多いので、やはり腹ぼてが多いのではないかと思う。

着心地は好評と同じく抜群で、通常の薄いものよりもくっつく感じがなく、ちょっとチャーリーブラウンの毛布風のすべすべ感もある。一度洗えばよりもう少しさっぱりした感じになると思うので、来夏は早くから着れると思う。20ユーロ以下の価格といい、大きさといい、質感やその縫製で満足感は高い。これで夏冬寝巻は来年は考えないでいれる。

そろそろ月末前から三回の音楽会の準備と来月のミラノ行を計画しないといけない。床屋も再来週で二ヶ月に近くなり、ミラノ行きも合わせられる。その後11月の壮行演奏会前に行けば事足りる。現金を用意しなければいけない。

これで気が付いたのは、現在洗濯に出さずにいるシャツは再来週末の試飲会では着れないと認知した。洗濯に出さないといけない。序に眼鏡の調整でもして貰うか。

目薬が効くようになった感じで、眼精疲労が減った。疲労したなと思う時に昼間でも一度ほど点眼することがある。要するにその差が出てきたということだ。そして疲れた時とそうでないときの眼の下の隈が明らかに変わってきた。そこから原因と対策が見えて来た。

久しぶりにウクライナの娘の顔を見た。夏休みで、おやじさんが住むスペインに滞在していたようだ。暑かったでしょうと訊ねると、夜は眠れないほどではなかったという。目元の当たりを見ると赤くなって、鼻頭辺りが若干肌荒れしていた。それはそれでまだまだ冬には回復しそうで、まだ20歳少しの若さが逆に感じられた。17歳頃から知っているので流石にトウが立ったかと思ったら、まだまだどうして若いものが漲っている。母親の居る故郷には行けないので、恐らく再婚しているのであろうおやじさんのところに未だに出かけているのかと想いを馳せる。

ウィッシュカードには、ランニング用の靴下とランニング用のトレイルランニングシューズを入れないといけない。後者は寒い時期まで使うと膝を傷めそうなので、その前にあったらしいものが欲しい。2022年に購入しているので丸二年間使えただけだ。全走行距離1000kmにも満たない。古いタイプの方が質が高かったので経年変化していないようなものがあれば安ければ古いのを買ってもいいかと思う。



参照:
希求の無い所、何も無し 2022-01-02 | アウトドーア・環境
変わり目の季節に 2024-09-07 | 暦
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圧倒的な後期浪漫の音

2024-09-08 | 
昨年の復活祭新制作「影のない女」の映像がアーカイヴ化された。初めてリニアPCMで聴ける。今迄はTVやラディオ放送で非可逆的な圧縮音源でしか聴けなかったからだ。勿論生放送も当夜劇場にいたので聴けていなかった。

なによりも想定以上に音響が強烈だ。三晩通ったわけだが、やはり初日の力の入り方は違った。通常のオペラもそうである。ざっと観るにやはり映像も初日のもののようで、取り分け染屋の女将のミナリーザ・ヴェレーラのデビュー歌唱が圧倒的だったの指揮者のペトレンコも花束を彼女に渡している。勿論音楽的には最終日の完成度も高く、二日目も歌手の交代以外には様々な利点があった。映像はまだ細かく観ていないので、どのように繋げてあるかなどはあまり分からない。

舞台を観ながら聴くのと、映像を消して音を流すのではまた少し異なり、より声部の絡み合いやぶつかり合いが聴きとれる。これは特に先日のブルックナー演奏から余計に耳につくようになった点で、所謂後期浪漫派のエポックにおいてはその不協和音の使い方からどのように鳴るべきかが重要になる。とても楽譜読解力の重要な要素でもあるが、一筋縄ではいかないのは当然だろう。それでも経験の薄いブルックナーの総譜とは異なり、シュトラウスのそれは指揮の能力で解決される筈だ。

然し、前世紀においては特に戦後は指揮者カラヤンなどが代表的にそうした響きを少し刺激のあるサウンドとして表現する演奏実践が一般化した。それによって失われたものは多大で、古典的な長短和声の中での色調であったりと、カラヤンサウンドなどで顕著になる音色化の表現に収斂した。それはある声部を塗りつぶしたような損失の上に響かせて得られたものであった。

作曲家リヒャルト・シュトラウスの演奏実践においても、指揮者自身が自作自演している録音などと比較する迄もなく、サウンドとして形成されて、嘗ての楽器が響くような表現は影を潜めるようになっていた。生前から楽劇作曲家として成功していたシュトラウスにおいては、こうした声に寄り添う楽器や楽器の声部に寄り添う言語の表現がその作曲を歴史的に評価できる唯一のものとすればそれを無視しての公演などは今後ともありえない。

公演前にペトレンコ自身が語っていた様に「二度ともうない完全上演」であり、その機会を得たことは運命的ですらある。ハムブルクの歌劇場による東京での公演で移住を決意した。そしてこの昨年の公演は演出を含めて更に個人的にも重要なエポックを示唆するものになったかもしれない。

なるほどミュンヘンでの公演も天井桟敷で体験したのだが、それは比較されるまでもなかった。演出の影響も大きいのだが、管弦楽の表現力がやはり異なった。然しこのハイレゾで捉えられている音はとんでもない。これだけ鳴って、更に声がしっかり通っているのは現場でしっかりと確かめているが、キャスティングの巧さもその成果に大きく寄与している。皇后のエルザ・ファンデンヒーヴァ―の声と歌唱はこれだけで歴史に残る。主役五人に抜かりはなかった。



参照:
楽譜にないものとは? 2024-09-05 | 音
ヴィーン風北独逸音楽 2024-04-03 | 音
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変わり目の季節に

2024-09-07 | 
発注した夏用パジャマが届いた。早速手触りを確かめた。完全に危惧が外れた。ジャージであるからシングルでもどれだけの厚さになるかは一切分らなかった。誰かが分厚いと書いていたのはボーデンゼーのシーサーのセカンドブランドの極薄生地と比較してだ。その生地も純綿としてもその表面加工や織機の薬剤の使い方などによっては若干変わる。つまり余りに密で空気を通さないと身体にくっつく感じで暑くて着ていられない時もある。

それに比較すると分厚いのだが表面がメッシュ状なのでくっつきはしない。冬物がダブルにしているのは空気を通すと寒いからで、夏用としてこれはいいのではないか。洗濯しても密にならなければいいが、試してみないと分からない。後ほど袖を通してみて、大きさも含めて検討する。

月曜日に走りに出かけると、大きな摘み取り機が走って来た。この高級の地所しかないこの辺りでは見かけることは少ないのだが、農協や大手の醸造所では使うこともある、特に今摘み取るのはどぶろく用の単純な葡萄の実なのでごっそりと人手を掛けずにやる。砂糖を入れて簡単に発酵したまま市場に出す。週末から世界一のワインフェストとなれば掻き入れ時となる。

そこで金曜日には毎年の様に予約していたナーヘのグローセスゲヴェックスをとって更に谷奥で試飲してくるのをどうしようか考えている。先ず車を無駄に走らせたくない事、更にそこで何を購入してというのが若干迷いがある。そこのリースリングは先日も開けたのだが今一つだった。つまりグローセスゲヴェックスには価値があるがそれ以外は果実風味が強過ぎて甘すぎると感じるからだ。先日試飲した様に超辛口に慣れてくると、少しでも残糖が多いと盃が進まない。量を制限するようになるとその質の厳選も進むのは当然だろうか。アルコールの為に飲まなくなったというのが大きい。

そこで、既にラインガウで6本を安売り価格で予約してあるが、更に買う6本は通常飲み用になる。本年は最も困るのはそこの価格帯のリースリングが揃っていないことで、すっきりしていてどんな食事にでも合うものが欲しい。2021年のラインガウは素晴らしかったのだが、2023年はそこ迄期待できないとしても、もしかすると9本買えないかとも思ったりする。これは試してみないとなんとも言えない。先日の試飲会でお気に入りが売り切れていて買えなかったからである。ワイン街道で調達してもいいのだが、ラインガウの土壌の良さはまた様々な食事に楽しめる品がある。

一本22,50ユーロを高いと思うか。一人で二回ぐらいで飲み干してしまうと、一食10ユーロ以上だ。遥かに食事の材料費よりも高価だ。毎日ではないが週に三回ワインを飲むと、一人で月150ユーロを超える。それに引き換え缶ビールは一食50セントである。20倍のこの差は大きい。

月曜日にグランクリュのリースリングの熟成度を見てきた。既に柔らかくなっていた。大きさに二種類あるのは、小さい方は寒の戻りで後に展葉したものかもしれない。然し総じて出来は悪くなさそうで色づいて早めに熟成しそうなので、場合によって先落としヴィラージュでいいものが出来上がるかもしれない。なにもワインはグローセスゲヴェックスばかりとは限らない。



参照:
三日間の運動日を経て 2024-08-08 | アウトドーア・環境
味のあるフラッシュ 2024-09-04 | 雑感
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期待する天才の裏側

2024-09-06 | 
ザルツブルク音楽祭の歌手降板に関しての記事を読む。殆どキャンセルをしない若手のベルナイムが新制作日程を最後まで歌わなかったのは抗議が含まれていたということだ。要するに指揮者の名声などの都合で声を潰されるのは歌手だということで、長く歌えて大成功しない歌手が増えているのは何も自らに責任があるというものではないという声明である。これに関しては「オペラ、過酷な世界」のドキュメントの主題になっていて、そこで人気スターテノール歌手のヨーナス・カウフマン、既に声を失ったアスミク・グリゴーリアン、そしてその後人気の出たエルザ・トライジーク、ベチャラ夫妻などが自らの経験から後継者らに注意を喚起する番組だった。要するに圧力に負けて無理して歌手生命を短くするというものだ。

今回の事件は音楽祭のヴィーナーフィルハーモニカーを十分にコントロールできない指揮者の下で歌っていると、歴史的なピッチとその楽器からのダイナミックスに合わせて、歌手が張り合って歌うと知らず知らずに限界に達して故障してしまうということである。

そこで嘗て、ミュンヘンの大劇場でサロメを歌って大成功したマルリス・ペーターセンの話しが取り上げられていた。そもそもあの大劇場で出ずっぱりの娘役を歌い通せる歌手は少なく、コロラトゥーラで始めたリリックなソプラノのペーターセンが、十八番のルルだけでなく、サロメ、マリオネッタなどを歌えたのは音楽監督ペトレンコが振ったからだと語る。

今回初めて知ったのは、最初の管弦楽稽古の時にペトレンコは冒頭座付き管弦楽団に話しかけた内容である。

「マルリスに合わせて音楽的オートクチュールでやりましょう。」と、それはペーターセン曰く、「私の音楽への尊重の表現でしかない。」と同時にその娘のような声とそしてその舞台の為への芸術への飽くなき姿勢でしかなかったであろう。幸い最後の楽劇指揮「トリスタン」の直前に最終公演も観ることが叶った。初演シリーズに続いて二回目のだった踊って歌ってのまさに全てを賭けた一夜の舞台が披露されたのも決して偶然ではないのだった。

何故、偶々とは言いながら、この話しを大書きしなければいけなかったか。それはこうした指揮者ペトレンコの姿勢は、勿論その人格もあるのだが、よりむしろ芸術家としての本望を示すものでしかなく、今日現在我々が彼の期待しているものに他ならないからだ。

子供のころから劇場で指揮台の廻りで遊んでいたペトレンコが、ベルリンにおいてもこうした歌手に関わると同じぐらいに管弦楽団の奏者との関係を結んできているからこその成功があるとザタイムズ紙は先日のロイヤルアルバートホールでのブルックナー交響曲五番の演奏をして特大評価をしている。

ペーターセンは、「こうしたことはなにも業界での論議だけでなく、聴衆も皆が一緒になって考えるべきものだ」と結んでいる。ペトレンコがアンチマエストロと呼ばれたこととこれは全く同じことなのである。



参照:
Stars im Abseits: Sind Orchester zu laut?, Markus Thiel, Markur.de vom 31.08.2024
陽性が出ない抗原検査 2021-05-29 | 雑感
超絶絶後の座付き管弦楽 2021-07-29 | 音
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楽譜にないものとは?

2024-09-05 | 
承前)三楽章スケルツォは前の楽章の同じ様に始まり数倍速となる。同じようにニ短調からニ長調の調性までとなる。それをしてバロックのパロディーだとも書かれている。興味深いのはやはり一つ目主題からレントラーに入りというアッチァランドによるテムポの移動でもあろう。

車中のラディオで今し方オーストリアの地方指揮者が語っていたが、そのボヘミア風のポルカに始まってと、その後のシュタムプターの中声部にはヨーデルがこだまするとなる。そしてそういう音楽は記譜が出来ないものだと断定する。然しそこで鳴らされるヴィーンの放送交響楽団を振る演奏では何が何だか分からない。ある声部を強調すればそれは創作の本望ではなく、そもそも全体像をこういう演奏ではとても示せない。

ペトレンコ指揮において、こうした地方の二流指揮者が鳴らすようなものは、そのヴィーンでの修行から彼ら以上に正統的に鳴らされる。ロンドン公演において英国の二大高級新聞がこぞって絶賛しているが、そこにおける特に後期浪漫派におけるその表現はその辺りの指揮者がどんな言葉を尽くしても表現できるものではない。

創作家は何もそこでポルカやレントラーをまるで楽屋落ちのようにして大交響曲の中で演奏させることを目的にしていたのではない。それはルネッサンスにおいてのパロディミサ曲と同じく、あり得るべきこととして創作しているのである。

同じようにトリオにおいては更に田舎の楽師風の光景が繰り広げられる。それは嘗てブルックナー自身が小遣い稼ぎにそうしたところでヴァイオリンなどを演奏した適当な演奏をもしていると呼ばれるところである。そしてそれは勿論正しく記譜されている。

上のラディオ放送で、そうした音楽的な極端に大きな動きは、リンツの大聖堂などの巨大なオルガンを弾く作曲家の肉体的な感覚から来ていると語られる。それは勿論そうなのだろうが、大管弦楽団を指揮して残された楽譜から創作の正しい意思を引き出して、音として言語では表現不可能な表現をすることが全てなのである。

今日9月4日が作曲家ブルックナーの生誕200年祭となっている。そしてこの前後年に盛んにその交響曲が演奏される。その中で今迄これといった特別な演奏の話しは聞いていない。然し、先月の初日から続いて、三回演奏された第五交響曲は取り分け演奏が困難だった曲であり、コムパクトに演奏が不可能で、その為に最も理解されがたい曲であった。そして、三回目のロンドン公演で、そして中旬からのベルリンでの三回の公演で、その全容は明らかになる。

同時に二年前にマーラー交響曲七番でそのように語られたように、この交響曲において最早それを越えることが出来ないことが明らかになって、それどころか11月には北米で演奏されることによって、恐らくこの交響曲も博物館行きとなるだろう。(続く)



参照:
描き切れない普遍的価値 2024-09-01 | 文化一般
我が祖国の高み 2024-08-10 | 文化一般
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味のあるフラッシュ

2024-09-04 | 雑感
朝の肉屋の帰り道、自転車の少女とすれ違った。この辺りでは見ない顔で初めてだった。最初は肌色などが濃い目なのでラテン系の子かなと思った。スペインでもないしと思って、これを書いていると似た娘がいたと思い出した。スイスでロシア人ゆえにボイコットになったことから有名になって今最も売りに出されてチェリスティンである。余り売り込み方がよくないのでちょっかいを掛けるのだが、恐らくすれ違った子はあの黒海周辺の血筋だと予想する。西側でもなく、ウクライナでもなく、南でもないという感じである。ユダヤ系セム系としたら余計に話が合うか?勿論ミドルティーンの感じだから、もう一つその特徴も分かりにくいのだが、その若干はにかむ表情やペダルを踏み込む動感がとても良かった。朝から気持ちがよい。

安い夏用のパジャマを発注した。先に目をつけていた30%引きはよく見ると腹のところにに紐の穴が開いて、金具の輪っかが嵌めてあった。着心地には関係がないと思ったが、洗濯でそこから傷むことが予想された。それで安売りなら買わない。

そこで同じブランドのノンブランドの銘柄を見ると長袖と同じようにあった。生地はぶ厚くなるが少し涼しいこれからは使いやすいかと思った。何度か洗濯をすれば着ざらしで爽やかになる筈だ。冬物はジャージー作りでこれはまた特殊だが、それはそれで使いようがある。先ずは手に取ってみないと生地感も分からない。夏ものだからそれ程分厚くはないであろう。価格は35ユーロに対して14%引き30ユーロなら悪くはない。

サイズは52を発注した。54でもよいが流石に50は小さいということが認識されたからで、安売りで購入して使えるものはあるが、やはり痛みも早くなるだろう。三着保持の冬物は洗濯が乾かなくて着るものに欠けると眠れないが、夏物はそれほど重要ではないので先延ばししておいたのだ。然し穴が開いて来ると何時までも着ていられないので決断した。

いつものように送料無料最低金額へと10ユーロ程あったので、これまた先延ばししていたダージリンを発注。前回はセカンドフラッシュでも高価だったが、その良さが分かったので、多めのビオの250gを14ユーロで発注。初めてのブランドであるが、いつもセカンドフラッシュが欠けていて、今回入手していたので試してみることに。

セカンドフラッシュで、そんなに不味いものもなく、評判も悪くないので、秋にはこの味と香りを楽しめるセカンドのダージリンが嬉しい。価格が安いか高いかは飲んでみないと分からない。なによりもティーバックでは我慢できなかったり不味かったりするのとはさすがにそれは違うのは分かっている。

日曜日に燃料を入れた。旅行前よりも安くリットル161だった。まだ残りはあったがその時点で無給油走行距離800kmを越えていた。この車はタンクさえ大きいままであったらなんでもなかったのだろうが、スキースルーをつける為に小さくなったので、これだけの走行距離は殆ど経験していない。エコ運転とエンジンオイルに準拠するとして、オイルの方は200㏄は消費したかもしれない。倍の距離もミラノ往復となると500㏄は見積もっておかないといけないかもしれない。車自体もどう見ても今回は30万キロメートルまでは乗ることがないのが明らかになった。



参照:
一夏の旅行体験へ 2024-08-27 | 雑感
睨み合いの国境越え 2024-08-31 | 雑感
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