映画「ヴェニスに死す」でのマーラーの第五交響曲アダージェットは殊に有名である。あの映画の影響は大きく、常にこの楽章に「死」が付き纏う事になる。その後それを否定する論文などが紹介されて、決してアダージョではない「愛」がこの有名な音楽に強調されるようになった。第六交響曲・第七交響曲と共に「亡き子を偲ぶ歌」交響曲集に含まれ、更に直に結婚へと発展するアルマ・シントラーとの出会いが 濃 く 影 を 落 と し て いる。
ここでは常に出来る限り音楽を、文化記号の鍵を解きながら耳を傾けているのだが、マーラーの交響曲の中でも最も純音楽的な第六交響曲は、その緻密で古典的な完成度でこれを難しくしている。全く違う意味で、第四交響曲が取り扱いにくいのと双璧に思う。
今回、この名作の中間2楽章を入れ替えた修正が最近受け入れられていると知って、俄然興味を持った。この四楽章構成には隙などが無くてとの先入観念を取り去ってくれたので、少し遊んでみた。残念ながら手元には修正版への資料もその音源も無いので、手っ取り早くCDやLPで順番を入れ替えて聞いてみた。
学術的な見解は別にして、作曲家が珍しく先人ブルックナーのように躊躇した軌跡も幾らか知れた。気が付くのは、まるでブラームスのようにぎっしりと書き込まれたスケルツォの居心地の悪さや正反対にアンダンテの希薄な一体感である。
アンダンテを第二楽章とした場合、その主題の変ホ長調「亡き子を偲ぶ歌 - あの子たちは一寸出かけただけなのよ」のキャラクターだけでなく、特にアルマの主題とされる第一楽章の三つ目のへ長調主題とこの楽章主題との親近性が薄っすらと浮かび揚がる。そしてこのように捉えると、この楽章は第五交響曲のアダージェットより遥かに具体的でエロティックに響く。そして、仕事小屋への往復の森の風景にも、静かで親密な夜の情景にも事欠かない。
しかし途中にスケルツォが先に挟まれると、アルマの動機は既に抽象的に一旦分解されてしまっているのでこの印象を更に次の楽章へと橋渡しするようなことはない。そしてアンダンテの後に置かれたスケルツォのトリオが、毎日山小屋へ作曲に通う作曲家を追掛けたであろう、二人の娘の乾いた砂の上のヨチヨチ歩きを表すとすると、リヒャルト・シュトラウスに勝るとも劣らない「家庭交響曲」の様相を呈する。
予断だが、リヒャルト・シュトラウスとグスタフ・マーラーは、ベートヴェンについて語り合っていたと記されている。前者は初期の作曲を、後者は後期の作曲を評価していたとある。
決して、なにもここで新ヴィーン楽派の後輩作曲家やアドルノが指すような自立的で構造的な抽象性を否定するのではない事は、改めて断る必要も無いだろう。しかし、上のように考えてもこのスケルツォ楽章に含まれるアイロニーやユーモワをなんと表現すれば良いのだろうか?
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22
へと続く
ここでは常に出来る限り音楽を、文化記号の鍵を解きながら耳を傾けているのだが、マーラーの交響曲の中でも最も純音楽的な第六交響曲は、その緻密で古典的な完成度でこれを難しくしている。全く違う意味で、第四交響曲が取り扱いにくいのと双璧に思う。
今回、この名作の中間2楽章を入れ替えた修正が最近受け入れられていると知って、俄然興味を持った。この四楽章構成には隙などが無くてとの先入観念を取り去ってくれたので、少し遊んでみた。残念ながら手元には修正版への資料もその音源も無いので、手っ取り早くCDやLPで順番を入れ替えて聞いてみた。
学術的な見解は別にして、作曲家が珍しく先人ブルックナーのように躊躇した軌跡も幾らか知れた。気が付くのは、まるでブラームスのようにぎっしりと書き込まれたスケルツォの居心地の悪さや正反対にアンダンテの希薄な一体感である。
アンダンテを第二楽章とした場合、その主題の変ホ長調「亡き子を偲ぶ歌 - あの子たちは一寸出かけただけなのよ」のキャラクターだけでなく、特にアルマの主題とされる第一楽章の三つ目のへ長調主題とこの楽章主題との親近性が薄っすらと浮かび揚がる。そしてこのように捉えると、この楽章は第五交響曲のアダージェットより遥かに具体的でエロティックに響く。そして、仕事小屋への往復の森の風景にも、静かで親密な夜の情景にも事欠かない。
しかし途中にスケルツォが先に挟まれると、アルマの動機は既に抽象的に一旦分解されてしまっているのでこの印象を更に次の楽章へと橋渡しするようなことはない。そしてアンダンテの後に置かれたスケルツォのトリオが、毎日山小屋へ作曲に通う作曲家を追掛けたであろう、二人の娘の乾いた砂の上のヨチヨチ歩きを表すとすると、リヒャルト・シュトラウスに勝るとも劣らない「家庭交響曲」の様相を呈する。
予断だが、リヒャルト・シュトラウスとグスタフ・マーラーは、ベートヴェンについて語り合っていたと記されている。前者は初期の作曲を、後者は後期の作曲を評価していたとある。
決して、なにもここで新ヴィーン楽派の後輩作曲家やアドルノが指すような自立的で構造的な抽象性を否定するのではない事は、改めて断る必要も無いだろう。しかし、上のように考えてもこのスケルツォ楽章に含まれるアイロニーやユーモワをなんと表現すれば良いのだろうか?
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22
へと続く
マーラー6番についての記事を、大変興味深く読ませていただきました。つい最近出たアバドの6番の新しい録音も、楽章を入れ替えていますね。2003年12月に来日した、メータとイスラエルフィルもそうでした。
ブックマークして、またゆっくり読ませていただきます。
中間楽章の入替えについても考えを述べましたが、なるほど、ご指摘になられたような聴き方も可能なのかと感じ入りました。確かに視点が代わり、また演奏する側でもこれによって(全体の解釈にも)「変化」が生じるに違いありません。(バーンスタインはじめ、「特に」筋金入りのマーラー指揮者でスケルツォを「後」にしたのはバルビローリぐらいでしたが、ディスクによっては順番が入れ替わっています。しかし、それでも違和感のない演奏をしている!)
また、R・シュトラウスについては、「英雄の生涯」、また「家庭交響曲」(同時期に作曲されている)とこの「第6」との関連性について語られるところです。とは言え、マーラーでは「運命的なもの」の「影」が極めて濃厚であるため、また、その抽象性のため、この点についてはあくまで「余談」の域を出ないようでもあります。
例の「アルマ主題」やスケルツォの「子供達への言及」に鑑みると、どうしても第一楽章、第一主題についてはマーラー本人との関連を考えざるを得ません。中心音「ラ」が多用されることで断定的、男性的な性格を持つことや、「運命モティーフ」と直結されていること、「アルマ主題」のさなかに、長調の「行進曲」として導入されること等考えても可能性は高いでしょう。
しかし、「アルマ主題」自体が、これから派生したものと考えられることも事実です。(特にリズムに注目)ただしここでは中心音「ド」がかなり徹底して避けられていること(これにどのような「意味」があるのか?)、第一主題にない音階的「上昇」がしきりに見られることを指摘しておきましょう。
ところでアンダンテについては、シェーンベルクがオマージュを捧げた、冒頭の素晴らしいテーマが、結局のところ第一楽章の第一主題と意外にも近縁関係にあることや(オクターヴ跳躍、音階的に進行する三度音程、休符をはさむ音型、モルデンド風の音型値等、重要なのは中心音「ド」がのっけからつかわれ、また「ド」に戻る動きがあることで、少なくともその開始において「共通」の性質を持つこと)、主題そのものの不規則な構造がスケルツォのリズムが持つ「それ」を反映していること、「亡き子を偲ぶ歌」との濃厚な類似性(「第5」でも引用された部分が再び現れていることや、ト短調の第二主題が「亡き子」第三曲と強い類似=調は違うが実際の音高、素材が共通していることなど)が感じられる点で、この楽章はむしろ全体の流れの中での「運命」や「死」への連想が強く、「愛」の観点は私には稀薄でした。確かに「ミステリオーゾ」の部分など特に、「そのように」聴こえるようです。
しかし、いずれにせよ、そのあとの哀歌的なクライマックスや主題の再現、主調に戻ってのまさに「胸のつまるような」美しい部分については何と言えばいいでしょうか。
アンダンテの主題を伴奏するチェロの音型、しきりに聴かれる「ラソドソ」等のモティーフ、これらは「亡き子」の終曲でフルートに現れる「子守唄」を示すモティーフにも他なりません。
そしてこの二曲の「閉じ方」は、その素材と書法において「ほぼ同じ音楽」といってもいいほどのものです。マーラーはここにいったい何を見ていたのでしょうか?(これに含まれる「同音反復」は、交響曲冒頭の、あの低弦の行進の「刻み」にも通じています。)
そしてこれを引き継ぐのはやはりフィナーレしかないと感じるのです。その冒頭主題は基本的に前述の材料で出来ているだけでなく、それ自体アンダンテのコーダで「暗示」されており、またアンダンテの「夢」(と呼べるかどうか)から「闘い」にまた立ち戻るために、フィナーレのあの長い「序奏」が必要になるのです。スケルツォのこの曲における役割は「第一楽章の(歪んだ)継続」、特にその第一主題の徹底した「パロディー化」であって(ただし、バラバラにし、殆ど「でたらめに」再構成した、もしくはモロソフの「鉄工場」よろしく重機械めいた「粗暴な不器用さ」に「おとしめて」みせたということ、この「不器用さ」がトリオの「子供の描写」とまた重なります。)、だからこそ、その類似性がマーラーの躊躇の原因にもなったわけですが、「継続」である以上、それは第二楽章であるべきなのです。(それがマーラーの最初の「意図」でした。)「入れ替え」によってこのような「内的プログラム」は崩れてしまうのです。
最後に、このスケルツォでは第一楽章第一主題のうち、「アルマ主題」にも用いられている部分だけが=おそらくは意図的に=「利用されていない」ことに触れておきます。
長くなってしまい申し訳ありません。フィナーレについては、次の記事のコメントとしていずれ書かせていただきます。
国際マーラー協会が第2楽章と第3楽章の入れ替えを決めたことで、特にヨーロッパでは主流になってきているのではないでしょうか。
アバド/ベルリンフィルもそうですし、この春のラトル/ベルリンフィルとヴィーンフィルの合同演奏会もそうでした。
順番はどちらでもよいと思いますが、
私は日本でつけられている副題に反対です。
「悲劇的」とか「千人の交響曲」とか。。。
天下のNHKでさえ、前述合同演奏会を副題も無いのに、「悲劇的」と副題を当たり前のようにつけています。コンサートプログラムにも無いのにもかかわらずです。
勉強になりました。これからもよろしくお願いします。
kazuさん、2003年12月がそうだとしたら、それより前の同じ組み合わせのVIDEOを探して是非確認しようと思います。
こちらこそ宜しくお願い致します。
Musikant/komponistさん、強引にお迎えして、レクチャーにお出で頂いて大層感謝しております。先ず、入れ替えの件も新録音の存在も知って確認出来ました。アバドの解釈は旧盤を聞いていてある程度想像出来ます。上でも指摘されたようにバルビローリは意外で興味を持ちました。
家庭交響曲が同時期である事も些か驚きました。第六でもその管弦楽法の影響に気が付きますし、アルマの書いたエピソードも適合していますね。
一楽章の主題なども第五番の三連音の動機などよりもこの六番において作法としてはベートヴェンを思い起こします。同時に角笛の軍隊物などがコラールへと導かれるのが、スケルツォでは「アルマ主題に用いられている部分だけが利用されていない」事に、私も書きながら途中で気が付きました。この意図が特に気になるところです。
さて問題のアンダンテですが、対旋律の使い方や浮かばせ方などが、アダ-ジェントでも示していますが、やはり複層的な意味合いを持っているのに注目したいと思います。まさに主調が戻ってくるところでもあります。
云えば、ここでこうして注意を喚起して頂いている様に、ここでの建前に矛盾するようですが、「何を」でなくて「どのようにして」表現しているかが受動的な聞き手にも興味を持たれる点と思います。
印象主義とさえ云われるカウベルや教会ベルへの「具体性を避けるように」との抽象化を望んでる作曲家の意図は、シュトラウスと正反対ですね。トリスタンの世界観との差も興味を引きます。
並び替えで、フィナーレの効果も大分違って来て、特にコラール旋律が際立つように感じますが如何でしょう。
TBありがとうございました。
正直にお話しますと、私は第3楽章がアンダンテのほうがしっくり来ると思っていました。だから、アバドの新盤を聴いたときに若干違和感を覚えたのも事実です。でも、pfaelzerweinさんの下記のコメントを読んで「なるほど、とても興味深い考察だ」と感じ入りました。
>アンダンテを第二楽章とした場合、・・・特にアルマの主題とされる第一楽章の三つ目のへ長調主題とこの楽章主題との親近性が薄っすらと浮かび揚がる。
来週、またじっくりこの曲を聴いてみたいと思います。
入れ替えが時流にあった趣味であっても、最終的に指揮者が聴衆を納得させられない限り、もしくは学術的な根拠が無い限り、定着はしないかもしれません。それでも、明らかに受ける印象は違うのでまたどちらかに落ち着くのでしょう。それでも、仰るように若い指揮者が旧版を選ぶのは難しいでしょう。
副題は、適切な解説の代わりにはなりませんから悪影響のほうが多いかもしれませんね。まあ、ニックネームでもありますけど。
それからURLが付いてなかったので戻れませんでした。もし良ければTBか次回のコメントでお知らせ下さい。
しのたかさん、コメント有り難うございます。こちらこそ色々と情報だけでなく、お互いに勉強させて頂いてます。
narkejpさん、コメント有り難うございます。ワインも歌も古いのも良いですよ。何も新しいものでなくても。
romaniさん、入れ替え版の良さは、上で説明して頂いたようなMusikant/komponistさんの正論にディベートするような意味合いもあると思います。つまり、誰が聞いても感じれる凝縮したアレグロとスケルツォの引力を、解き放つようなです。しかしもともとアンダンテは、インテルメッツオといわれるように浮遊したような印象がありますね。
第五交響曲のようにアダージェットからアッタカで繋がれる物ならば良かったのでしょうが、第六交響曲ではフィナーレに序奏が置かれる事になります。
少なく入れ替えによって、随分と楽曲が説き解れ易くなるのではないでしょうか。これは、構成力が弱まる事の裏返しかも知れませんが。
確か・・・というほど私はどちらも楽しめるほどすきなのですね。
http://www.gustav-mahler.org/english/gesamtausgabe/