Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

多感な若い才女を娶ると

2005-08-22 | 
「亡き子を偲ぶ歌」交響曲集作曲の数年前に作曲家は、二十一歳年下の画家の娘アルマと結婚した。そのアルマ・ヴェルヘル・マーラーの著書「グスタフ・マーラーの想い出」の中で、第六交響曲の創作時期に不吉なリュッケルト詩による歌曲集「亡き子を偲ぶ歌」の三曲を新たに作曲した夫に言葉が投げかけられている。その言葉は、作曲家が好んだ「SPLENDID ISOLATION」と云う英語から名付けられた章に記されている。

「めっそうもない!そんな魔のさす様なまねをして!」

実際、作曲家が木陰で若々しい気持ちで遊んでいた二人の子供の内の長女を、数年後の1907年に病気で亡くしている。この曲の悲劇的の名は決してこのような運命からのみ来ているのではないが、この曲のモットーとされるイ長調からイ短調へのハンマーの一撃ですら視点を変えると、違うように聞こえる。

このフィナーレを聞くと経験するのだが、寧ろそのモットーへ運ぶまでの準備に不安の心理が増幅されている。一体この心理は、どこから来ているのだろうか?

マーラーは森から帰って来て、「僕は主題の中に君を引き止めたよ。巧く行ったかどうかは分からないけど、もうどうしても気に入って貰わなきゃ」。

アルマ・マーラーは、この時期には既にお互いに嫉妬が生まれ、自分の将来の様を暗示していたと述懐している。

1906年5月にトンキュンストラーフェストの催されているエッセンでの、第六交響曲初演のリハーサルの様子が描かれている。リハーサル中に楽屋に行ったり来たりして、手を揉み合わせて咽び泣く作曲家。そして巧くいかなかったという本番には、指揮者のメンゲルベルクも駆けつけ、またシュトラウスがアルマにフィナーレについて批評したとある。

「どうして最後になって、力を抜くのか分からんね。初めのハンマー打ちが最も強くて、二回目、三回目とだんだんと弱くなるなんてね」。

フィナーレ導入部での教会やコラールの響きは、森の仕事部屋の空間をだんだんと広い宇宙的世界へと拡大拡張して行く。そして打ち下ろされるハンマーの響きと共に破局を迎える。グスタフ・マーラーは、これをして「英雄は、まるで樵が木を切り倒すように、一度、二度、三度目に終に打ち倒される」としている。

創作中の避暑地マイエルニックでは、出来上がった曲を試し弾きして悲しくて二人で泣き合った。フィナーレの再現部で示される慰めは今しばらく続くのだが、幸せの日々は過ぎて行く。自分たちでは決して変えることの出来ない、運命と云う、環境に打ちのめされるのを二人して感じ取っていた。この心理こそが、この交響曲の核であり、この作曲家のエゴイズムを反映している。



第六交響曲 第三楽章 [ 音 ] / 2005-08-21
から続く
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コラールの意味について (Musikant/komponist)
2005-09-08 22:27:24
「第6」のフィナーレについても触れておこうと思いつつ、時間が過ぎてしまったのですが、いざ考えてみるとそれは膨大な分量の文章となることが解りました(楽章の規模と情報量、その緻密な構成に比例して)。

遅れた上に申し訳ないのですが、これらについてはいずれ自分のページで詳しく書かせていただくことにして、ここではこの楽章の「序奏部」の意味について考えたいと思います。

冒頭のオクターヴ跳躍を持つ印象的なテーマ=たびたび回帰して「区切り」を示し、しかし「和声的には曖昧な」性格であり、続く「モットー」を強調する効果も持つ=に始まるものの、実態としては=「曖昧さ」は維持されてはいますが=続くアレグロの「主部」の要素が順次「提示」されており(第一主題の「予告」に続いては、例の「カウベル」を伴う第1楽章の模糊とした音楽が再現し、これを背景として第二主題が提示され、その「精神的関連性」が示されます。)、構造はより「複雑化」し異なっているにせよ、シューベルト「グレイト」第一楽章の序奏(およびこれの真似をしたシューマンの「第1」)と同じような「機能」を持っています(主部への推移の仕方等も似ています)。

注目すべきなのはマーラーでは例の「コラール主題」(ここに見られる同音反復は以前述べた通り前の楽章との強いつながりを示します。)、の「導入」以後、音楽がにわかにリアリティを帯び、それをきっかけとして第一楽章と同様の「戦闘的音楽」が復帰してくることで、このコラール自体が「運命動機」とも直接結びつけられ、また、以後の音楽にも様々な形で盛り込まれていること、そして何より問題の「ハンマー」の出現と結びつけられていること(例の「三度目のハンマーの削除」については迷信めいた「縁起かつぎ」のような説明がされることが多いですが、二度にわたるコラールとの関連が、三度目では冒頭主題の=但し原調イ短調での再現=と結びつくことになり、「整合性が損なわれること」が第一の原因であろうと思われます。)、全曲の最後を閉じるトロンボーンの「葬送の音楽=エクヴァーレ」自体、この「コラール」の「変奏」に他ならぬことを考えると、これはこの巨大な終楽章にあっても、最も「特別な」意味を帯びたものと考えられます。

そして、「序奏」そのものは何度か姿を変えて立ち戻ってくる(起こっている「状況」のためにそのたび「変質せざるを得ない」)のですが、この「コラール主題」だけはアレグロに融合したまま『コラール』としては「もう戻ってこない」のです、コーダになり、「ばらばらになって」帰ってくるまでは。

分析しながら、恐ろしさを感じるほどの完璧な「構成」であり、様々な人がここにマーラーの創作力の「絶頂」を見るのも当然のように思われます。これほどの内容の音楽は、マーラーといえども、あとは「第9」の第一楽章を数えるのみでしょう。いずれについても、私なりの詳しい「解析」をそのうち試みたいと思っています。
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曖昧模糊とした世の中 (pfaelzerwein)
2005-09-10 05:13:28
こちらこそご無理を言いまして。お陰様でこうして伺うと大分と全体像が見えてきました。



最も興味あるのが、曖昧模糊主題と同音進行主題を含むコラール主題群の扱いで、仰るようにフィナーレにおけるモットーと大きな世界を作っている事に改めて気がつきました。



それが一楽章の「戦いとアルマ」の間に挟まっていた事も留意させます。またアンダンテ(一応二楽章に拘ります)の同音進行を呼び起こし、スケルツォの軍隊物が主部に出て挟まれるのが良く分かります。



曖昧模糊モティーフの性格もアンダンテにおける対旋律のような働きを見るのですが如何でしょう。



そして一番関心のあった不安の所在ですが、この曖昧模糊から同音進行への性格であったのに気が付きます。それに較べて戦闘の音楽はどれほど実体的で安定して響く事でしょう。



マクロに見ると、このコラール群とモットーとの大きな緊張の為に全てが運ばれていると考えて良いのではないのでしょうか。



余談ですが、シューベルトとシューマンと聞きますと、ヴェーベルンが1930年を挟む10年間にグレートとマーラーの八番・七番から夜の音楽・六番を良く指揮をしている事が思い出され、更に中期の作品への音形などの影響を考えさせてくれます。



また面白い事にヴァーベルンも最初はシュトラウス派であったのがマーラー派に転向したような事が書いてあり意外に思いました。



サイトの方で続きを楽しみにしております。
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