Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

旨味へと関心が移る展開

2009-11-07 | 文学・思想
レヴィ・ストロースの追悼記事を読む。書いている記者は同業者だと思われるが、一度目を通しただけではなかなか纏められない。囲み記事になっているご本人の構造的人類学Iの第五章からの引用の方がいやしい我々には分かり易いか?否、そこに構造主義の本質的な考え方を思い浮かべるよりもなによりも、この人類学者の知能の高さと、一種の情容赦無き視点が伺える。

難しいことは措いといて、それを読むと、「ある社会のその料理は、その言語と同じように一定の正反構造に分類できる<ギュステーム>という素材に分解できる」とする。

そこで英国料理を、三つの相反する要素でフランス料理と区別できるかも知れないというのである:
endogen/exdogen(地場と輸入食材)、zentral/peripher(主食と付け合わせ)、旨味溢れると淡白な料理を対比させる。

すると英国料理は、主食は地場の淡白に拵えられたものかからなり、そこに価値の陰影の差がつけられた輸入品(お茶、果物パン、ママレード、ポートワイン)を組み合わせるようになっている。反対にフランス料理は、地場と輸入食材は対照させられずに殆ど認識出来ないばかりか、主食と付け合わせの異なる要素が組み合わされてさえいる。

このように定義して、次に中華料理にこの定義を当て嵌めてみる。その場合は異なる正反が準備される。つまり甘いと酸っぱいであり、この正反が中華とフレンチ・ジャーマンを分け隔てる。フランス料理は通時性があるというのは、つまり同じ正反要素が時間をおいて供されるということがないということである。例えば腸詰と生素材が正反を形作る前菜のあと、同時性を持たせてこの方法が再び齎せることがないという。それに反して、中華料理においては同じ正反要素が全ての菜に一斉に並ぶという。

この章がこの記述のあとどのようにこの定義を抽象化して扱っていくかは知らないが、その理論的展開以上にここでストロース本人が使っている言語の概念の方に関心が向うのは当然だろう。もちろん、そこに旨味がある訳だが。



参照:
Eine Prise Strukturalismus: Lévi-Strauss über die englische und die französische Küche, FAZ vom 5.11.09
感性の嗜好を認知する行為 2009-11-02 | マスメディア批評
ドイツ語で喋るということは 2009-11-05 | 女
あまりふれたくない真実 2009-11-03 | マスメディア批評
啓蒙されたユダヤ人と大俗物 2009-11-01 | 文化一般

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