Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

律動無しのコテコテ停滞

2024-03-22 | 
二年前にコロナ期間に出かけたザルツブルク音楽祭の「エレクトラ」を流してみる。アスミク・グリゴーリアン目当てで出かけた。二十年ぶりぐらいのザルツブルクだった。しかし結果的にはあの状況下でよくやったと思った。あれだけの大編成を奈落でというのは特別なことだったからである。

演奏自体も劇場的な管弦楽団であるが準備は出来ていて、メストの指揮も劇場のそれとしては一流のものだった。しかし、こうして改めて聴いてみると、問題点は明らかだった。最大の問題は歌手との合わせ方で、その背景には歌手が独逸語歌唱を修めていなかったゆえに、歌詞と音楽が連携してという風にはなっていなかった。指揮者も楽団もそうした現代的なオペラの水準に達していない点もあるのだろう。

ザルツブルクのヴァリコフスキー演出のお決まりの小節前の芝居や音による演出は、この場合は最初の動機が出る迄の劇的な準備になっている。今回の復活祭の新制作では、ヴィデオが使われるのではないかと思うのだが、中々注目されるアインザッツの持って行き方であろう。

ザルツブルクではアスミクと同郷のステユンディーテの抒情的な声であったのだが、歌で場面を作る力はなかった。今回はシュテムメが歌うのでそのドラマ性と表現力には疑問の余地はないが、如何に大管弦楽団の上に通る声を準備できるかでしかない。なによりも妹役のファンデンへ―ファ―の声が上に乗るデュオは聴きものだ。これはザルツブルクとは比較に為らない。勿論母親役のシュスターも昨年の歌からするととても期待される。

しかし何よりもあれだけの大段の管弦楽を如何に声に当ててくるかであって、指揮者のペトレンコが凝縮した音を出させれるかでしかない。可也点描風に当てて来れるは、昨年の「影のない女」以上にやはり「サロメ」のコムパクトな音響が目されているに違いない。

そこで特に注目されるのはシュテムメである。元々声量足りないのだが、特にこのエレクトラ役はドラマティックのみならず、抒情的に下で歌うこともあり、そこで何を語れるのか、どのように管弦楽が付けるのかが聴きどころとなろう。
Nina Stemme als Elektra | Osterfestspiele 2024

Osterfestspiele 2024


手元のベルリンで録音されたポラスキーの歌で母親役をマイヤーが歌ったものがあるのだが、今回は後者はシュスターが歌うのであまり問題はない。ポラスキーは乳母役で聴いているのだが、シュスターに比較しても柔軟に歌える歌手ではない。もう一度聴いてみる。

前半を流してみた。先ずは制作録音ということもあってウィーナーフィルハーモニカーとは比較できない程座付き楽団が上手い、そして指揮もアーティキュレ-ションが明晰だ。しかし、マイヤーが出て来てさらにこてこてのアーティキュレーションで流れを止める。これで一人舞台も作っていたのだが、晩年のように二流の劇場ではとても酷い公演になっていたことはよく分かる。眠くなって聴きとおせない。

そもそも指揮者が流れない音楽を作ってそこにマイヤーが歌うとなると最悪である。ドイツでも評価する人も少なくない歌手であったのだが、一流ものしか訪問しない私にとってはあまり印象に残る舞台がなかった歌手であった。要するに流れる音楽でないと我慢できなくなる性質なのだ。(続く)



参照:
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
りっしん偏に生まれる 2023-04-02 | 音
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