ダックのパパママストア

商店街に有る、パパママストア。
  何を売る店? 今日は、何をお探しですか....? 商店街で起こる色々なこと。

・・・とは何ぞや?

2015-02-12 18:04:02 | 文化・教育

学生の時、選択科目に「哲学」なるものが有り、おのぼりの私は、何か格好が良さそうと、それを選び教室を覗く事になる。

教室は他の授業よりも人気が有り、満員でどんな授業をするのか皆興味津々だったのだろう。それが2~3回授業が進むと、学生数が半減する。

何が何だかサッパリ分からないと云うか、私も授業をちゃんと出ていたのか今となっては思い出せないが、なんとか単位は頂いている。

教科書は教授が書かれた物で、表紙には「知的人間愛の科学としての哲学」その題目の下にー物と心との闘いとその歴史ーと記されていた。

哲学の遍歴を学ぶのだろうが、第1章 序説に『哲学への出発』と題して、諸氏はドストイエフスキーの「罪と罰」を読んだことがあるであろうか?の問いかけから文面は始まる。
主人公は妹の送金で大学に通っている貧乏学生であり、今は肺を侵され、飢餓と病に追い詰められ下宿屋の屋根裏に肉体を横たえている。然し秀才である。

持前の鋭敏な頭脳に理論の殿堂を築いては壊し、壊しては作りながら虚しい生活を続けている。そして最後にー1人の人間が自己の幸福を得るために多くの人を苦しめることは社会を歪曲する最も根源的悪であるーと断案する。そして、「よし、あの高利貸しの老婆を殺してやる。」と心に深く決意する。(中略)

一撃他殺の行為が、法と倫理において何を意味するかを十分に理解していた彼である。ただ然し、1市民の良識が1人を殺害する時はこれを悪として断罪し、ナポレオン的百万人の殺害は善として崇拝する人間の価値評価に対する矛盾を、人間的根本問題として採りあげたのである。(引用)

久々に本棚から引っ張り出し、端折って紹介したが、1人を殺したのが殺人犯で、百万人を殺したのが英雄である。さて、これが世の中の正しい見方か?果たしてそうか?哲学的思考とはどう考えるのか。

教科書と云うものは、英語にしろ最初に書かれているものは案外覚えているものだが、最後に何が書かれていたかまでは覚えていない。B5判310㌻をパラパラめくってみれば、色鉛筆やペンで、所々下線も引かれ、「 」や〇で活字が囲まれているのだが、今になっては部分的に見ても、何のことやら思い出しもしない。

欧米が今イスラムと張り合っている。十字軍の恨みがあるのか、米国はベトナムに爆弾を落とし、イラクにも爆弾を落としアフガンにも、イスラム国にも一方的に爆弾を落とし、何万人もの人々を殺して来た。

報復なのだろう。こんどは預言者の風刺画でイスラム教を冒涜し、過度に挑発的だっとイスラム国から十数人の欧米の人々が殺されている。

そうしたら欧米中が、とんでもないことをする奴らだ!テロだテロだと騒ぎたてる。
あんな卑劣の行為をされるのは我々が被害者だと話をすりかえる。

風刺画がなくても最初に爆弾を落としたのはお前らではないか。何万人と殺しておきながら、我々が正しいのだと、今度はテロ撲滅をと世界中に訴える。

そうだそうだと、テロには屈しないと発言した日本も、邦人が殺されている。

教科書の最後のページには、サルトルは、弁証法的唯物論の新しい基礎づけを試みる。

即ち、個人的実践ー集列体ー共同的実践ーがそれである。サルトルは、個人的実践を通して把握されるものを「構成する弁証法」と称したのであるが、これは、自己が生産したもののうちに自己の限界を見出すことによって「反弁証法」に転化するものであった。

而して「反弁証法」とは、受動性の弁証法であり、これを集列体と呼んでるのである。集列体とは、主体的統一性を欠いた無力者の集合体のことであり、そこには共同的実践はない。

共同的実践とは、集列体の無力に対抗する集団による実践を意味する。この実践によって把握されるのが「構成される弁証法」である。この弁証法は、「構成する弁証法」を基礎とするが、両者は完全に区別される。而して、集団の間における闘争としての階級闘争は、弁証法の理解と密接な関係にあり、この実践を通してしか歴史を理解することは出来ないーというのである。(引用)

これが教科書の最後の一節である。

どう云う事なのかネー?

 

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