家内が新聞紙面を見て、「I.Mさんが亡くなったんだネ、99才だって」と私に話しかけて来る。
「エッ」と、おくやみ欄みれば、7~9日届け出、〇〇〇〇 伊〇道〇 99と記されていた。昔はよく当店へにもお越し頂いていて、おだやかな方で、最近はお見かけしていなかったが、当地にマジッククラブ、手品の愛好家の集まりを作られ、慰問、ステージにと活躍されていて、4年前の当市マジック文化祭に、95歳と云うご高齢でステージに立たれ、おどろきと、不思議さを会場に放され、華を咲かせべくご活躍されていたという。
お近くに住む、同集まりのマジック愛好家に聞けば、このご時世、葬儀はご家族で済まされたそうだ。
新聞には99歳と載っていたけど、数えで言えば100歳ですよと力が入る。
本来であれば、お仲間も集まり、最後のステージに今度は、こちらからパァーッと花を咲かせ、感謝を込め見送ってあげたかったのでありましょう。
人はみな亡くなります。歳の差こそあれ、死は人々に平等にあらわれる。
死を如何考える? 自分は人生の何段目の階段で逝くのか?同期の知人も、もはや何人も旅経たれている。
果たして、この世の後片付けを済ませてから逝けるのか?それとも、残された者に迷惑をかけるのか?
毎日階段を上れば、自分の死に一歩づつ近づいて行く。
死には二通りのパターンがあるのだろう、惜しまれて行く側か、それとも迷惑をかける側に並ぶのか。
手始めに、やれる事の一つ目は終わっているのか?
惜しまれて亡くなれます様にと、言うはやさしいいが、行なうには人力がいる。
亡くなるまでの時間を、身の回りの整理整頓にどの位当てられるのか?立つ鳥跡を濁さずのことわざの様に行けるのか?
ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんが12日夜、老衰のため94歳で亡くなった。「ニュートリノ天文学」という新しい分野を切り開き、何人ものノーベル受賞者を育てている。
そんなお方と比べ物にもならぬが、もともと評価される様なものなど何もないが、
まだまだ、ボーッと生きて行くのかネー。