紫式部追跡(4)

2024-03-21 00:00:00 | 歴史
紫式部はどこで源氏物語を書いたのだろうと思う方が多いだろう。通説では1002年からと考えられている。この時期、父為時は無官状態を乗り越え、越前守(福井県知事)という要職を得て、下級貴族から中流貴族に格上げになっていた。紫式部は父の赴任先から戻って結婚し、女児(後の大弐三位)を出産したが、夫が疫病で急死してしまう。1002年という年は娘が3歳になり、育児に余裕が出てきた頃なのだろう。(もっとも相当な教育ママで、娘も一流の文化人となっている。百人一首の57番が紫式部、58番が大弐三位。)



今回、紫式部関連を回ったのは、もとより「光の君へ」をNHK大河ドラマとしては初めて見ているからで、事前に調べると、石山寺に「ドラマ館」ができたということだった。なぜ、そこにドラマ館があるのかと石山寺のHPで調べると、「源氏物語は石山寺で書き始められた」かのような記載があったから。書き始めの七日間を、ここで過ごしたというようにも読めるわけだ。それならもっともなことだろうと思っていた。誤解だったのだが。



それはともかく、石山寺は由緒ある寺で石山寺縁起が有名だ。天平年代747年に創建されたが1078年(つまり紫式部の産廃より後に)に落雷で半焼し1096年に再建されている。



まず、参拝者が目にするのが東大門。頼朝の寄贈とも言われる。そして寺院自体が文字通り岩山の上に建てられている。岩の間を登っていくわけだ。小雨交じりの日で注意深く歩かないといけない。滑ると入院7日間になりかねない。



そして本堂の一角にあるのが「源氏の間」。ここで紫式部が7日間逗留したということ。琵琶湖と月という情景の中で「須磨」や「明石」の構想を得たとされ、その時に使われた二池式の硯が残されている。濃い墨と薄い墨が共用できるすぐれものということで、両端使用の筆ペンみたいな効用だろうか。



ただ、大きな疑問が芽生えたのは、「須磨」や「明石」は物語の冒頭ではないわけだ。最初は「桐壺」。原文でも54帖のうち頭の5帖は注釈を見ながら読む進み、その先は与謝野晶子訳で読んだのだが、果たして第12帖、第13帖だ。まさか書き始める前にそこまで構想を練っていたとは思えない。

後で調べると、紫式部が石山寺に行ったのは2004年8月15日。書き始めてから2年後の満月の日である。主人公の光源氏が神戸の先の方に左遷され、月を眺めるシーンがある。石山寺で書いたのは、そのあたりの物語の素材を箇条書きしたりしていたのではないだろうか。創作ノートということだろう。

石山寺側の書き方では、時の中宮から「読みたいから早く書いてほしい」と言われたことになっている。すでに書き始めていなければ、そんなこと言われるわけはないだろう。中宮は藤原道長の娘の彰子。夫は一条天皇である。つまり一条天皇も、彰子も道長も源氏物語を読みたかったわけだ。そして、紫式部は翌年、宮中に上がっていくわけだ。



境内の紫式部像。ずいぶん細面である。平安時代の美人は吉高由里子のような焼き立てのパンのようなふっくら顔。石山寺には江戸時代に土佐光起が書いた画が伝わっているのでそれがモデルなのだろう。江戸時代は日本人のほとんどが丸顔であり、瓜実顔は美人とされていた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿