脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

DONT BE SPOILED

2015-02-27 | Weblog

藤子不二雄の漫画でパーマンと言うかなり古い漫画がある。パーマンは1号から5号までそれぞれキャラクターが違うのだが、なぜかパーマン2号はサルだ。と言うと3号以下はサルにまけているのかと思うのだが、私はDQNのようなその手の奴らをパーマン3号と呼んでいる。運動系にはパーマン3号が多い、中には4号とか5号レベルかとさえ思えるような人間もいるのだが、こういうやつらは時には自分勝手で無神経なことをするので非常に腹ただしい。前にも言ったが個性と言う言葉は非常に難しい言葉だ。個性と言うのは自分の言いたいことや主張を人に押し付けたり、奇抜な格好を人に見せつけるものでもない、いろいろと他者と比較して悩むことが自分の個性につながっていく、雪の女王のLet it goは根本的に訳が違う。ありのままでなんて言うのは誤訳でLet it goは大きな悩みなどにぶち当たった時に気にしないでいいよというような感じで使われる言葉だ、だから韓国語の訳タイジョ(すべて忘れよう)と言う訳のほうが正しい、日本人はこういう言葉を好んで使うと言うようなことを言ったと思う。私自身はかなり個性が強いと思う。たぶん人とは違う能力もあると自負しているし、人に与えるインパクトも強いであろう。外国人も個性があると言っているのだが、しかし髪を染めているわけではあるまいし、奇抜な格好もしていない、むしろいい年をして目立とうとするような奴らの気が知れないと思っている。私の個性はどこから来たかと言うのは若い時にいろいろとたくさん葛藤し悩んだからだ。人と交われば交わるほど人との違いが見えてくる。だから時には広く他の国に出ていくことも人間の成長には必要なことでそういう他者との出会いによって人間は大きく成長するのだと思っている。しかし最近の若い人たちは思いっきり激しい議論はしないように思える。もっぱらfacebookやLineなどで情報交換をしたりほめあったり、慰めあっているように見えるのだが、過渡期と言われる時期には思いっきり議論しあうことは大事なことだ。私の洞察では最近の若い人はお互いをかばいあったり、慰めあったりはできるが、しかし違うことは違うおかしいことはおかしいと言えない。何かかなり気をつかいあっているように見える。しかしその一方親とか教師など迷惑をかける相手には思いっきり迷惑をかけるのだがそのバランスが何とも言えないぐらいわるいのだ。ありのままでとか個性なんて言いすぎると人間関係にくだらない遠慮ができる。相手に意見することは相手の個性を認めないと言うことになるし、それこそ違うなんて言うことを言ったらまさにそうである。最近道徳心というのが問題になっているが根本的には悪いことがわるいと言えない、間違っていることは間違っていると言えない、そういう傾向が道徳心の欠落と言うことと関係しているように思えるのだ。勉強をするのに金髪や変な髪の色のやつらに対して不快だとなぜ言えないのか?勉強を教える側としてはそういうくだらないかたちで自分を主張するような奴がいれば不快で授業はやりにくい、こういうことも個性と言う言葉でかたづけられるのだろうが、しかし教える側には権利などないように思える。実は教育と言う場においてはこの権利が大事なことだ。英語も理解できないたいした知識もないような奴が、これが俺の主張だと言わせてもらえるような世界で大人にそうかそういう考えもあるよなと庇護されて偉そうに言うのはちゃんちゃら笑える。勉強する気があるのならきちんとノートを持ってこい、さわぐなら出ていけ、人が見て不快な格好をするなバランスがくずれるだろぐらい全体のバランスを考えてそいつらに行動に不快感があって弊害になるならば言ってもいい、はっきり言って教室にサルが入って来たら授業になるのか?追い出すだろ、そういうレベルの奴が義務教育と言う世界であぐらをかいている。世界には勉強したくてもできない人間がいる。もっとそういう国を顧みて自分たちがいかに恵まれているかを知る必要がある。今の世の中は個性と言う言葉が強調されて言いたいことが先に言える世界である。ある社会学者はこう言っている。若者の言っていることは間違っている。しかし主張することは正しいことだと。友達同士で言いたいことを言いあったり大人に意見されることは大事なことなのだが、しかしこれが俺の個性と言うのがそういう成長の過程をさまたげている。いろいろな人の意見を聞いて時には否定されることも必要だが、しかしそういう経験をしようとしないのが現代人かもしれない。人に言われて時には傷つくこともある。しかしそれを成長の糧にできるのは若いからだ。私自身は生まれた時から他者との違いがあるのであくが強くありのままにがうけいれられなかった人間だ、ありのままにが受け入れなかったから成長して今の個性がある。私はありのままにと言う言葉はあまったれるなに聞こえる、Let it goではなくdont be spoiledである。

昔韓国に行った時に趙君と言う友人に「自分の友達が日本語を勉強しているので話をしてやってくれ」と頼まれた。行けば3人ぐらいの男が来てて日本語を勉強しているのだと言う。近くの店で話をしたのだが話すと必ず戦争責任の問題になる。まあ多少は予想していたがしかしこういう場でずけずけと言ってくるのはルール違反だ、で頭に来たので言った。当時はそれほど問題が明らかにされていなかったのではっきりとした事実関係に基づいて言えなかったが、しかし私はお前ら過去よりも前を見ろだから日本に勝てないんじゃみたいなことを言ってすごく険悪な雰囲気になった。問題はその趙君の友人たちでたぶん帰りに袋叩きに会うんじゃないかと言うぐらい険悪で、お前今なんて言ったんじゃみたいなことを韓国語で言ってきて一触即発であった。すると趙君が間に入って俺の友人に何かがあればゆるさんと助けてくれたのだ。人間は否定されることもあれば肯定されることもある、しかしこういう過程の中で成長していくのが人間だ。趙君とはよく議論もした日本のこと韓国のこと韓国人のおっさんは最低だと言うことは同じ意見であるが、しかしこういう関係があったからこそ本当の友人を持つことができたとさえ思っている。

 


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