脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

自分が主役に選ばれた理由

2008-11-28 | Weblog
昨日名探偵コナンを観ていたらこういうせりふがあった。
自分を殺そうとした人間が階段から落ちそうになったところを、助けた時にその殺人をおかそうとした人間が、なぜ助けるのかという問いに対して語られた言葉であるが「人を助けるのに理由があるのか」という言葉である。
昔ある日系人に頼まれて劇にでたことがある。
それはむこうでは有名な物語で「Good samarian」という聖書劇で、傷ついた人間を誰が助けたかという有名な物語である。
物語は現代風にアレンジするが、一人のサラリーマンが強盗になって半殺しの目にあい道端に倒れていた。まず最初に通りかかったのが弁護士、しかし彼はかかわっては面倒だとその場を素通りしていった。さらにそこを通りかかったのが学校の先生だ、しかし彼も関わっては面倒だとその彼を見捨てるのである。
しかし最後に一人の男が登場する。それは一見パンク(ちんぴら)風の男であるが、実はこの男が倒れていた彼を介抱し、助けてやるのだ。
この劇は日系人の前でパフォーマンスされる劇だったので、日本語で演じられたが、何をかくそう自分が演じたのは主役ともいえる。最後のパンク風の男であった。
なぜそうなったのかというと、理由は簡単である。
何でもチンピラ風の男を演じるのなら大阪人がいいというのがいて、それならあいつが最適だということで自分に白羽の矢がささったのだ。
中には生の大阪弁を聞いてみたいと言うのもいた。
宗教としては話は別だが、自分はバイブルから大きな影響を受けたことは事実である。読んでファンダメンタルに理解する必要はないが、西洋の精神世界を知る上では重要である。多くの日本の文学者も呼んで影響を受けているらしいが、文学や哲学を専攻するものには不可欠である。
話はこの物語に戻るが、この男が人を助けたのには理由はない。ただそこには「He took pity on him」と書かれているだけで、まさに一人の人間が当たり前のこととして人に哀れみをかけ、その人を助けた。ただそれだけである。しかしそのことがダイレクトに伝わってくる。さすが何千前に書かれ読み継がれている書物である。
特にこれらはAdulteryの罪について、しばしば言及しているが、それは現代社会においても重要なことであり、こういうことがきっちり守れるか守れないかがその人の信用の問題であることは確かなことである。これがきっちりできないと子供や女性が安心してあつまるジムにはならないと思っている。
自分は信心とかそういうものを抜きにして、こういうダイレクトにうったえかける物語をピックアップして小学生に学ばせることは、感受性を豊かにするために必要ではないか思っている。
今子供の心が鈍くなっている。人の痛みに対して鈍感であると言われているが、カラオケや携帯やゲームにへばりついて生きるようでは、そういった人を思いやる気持ちなど育たないのではないかと思う。
しかしバイブルやその他の古典と言われるものは、いろいろな苦難や悩み葛藤の中から生まれ答えてきた書物である。
ルネッサンスではないが、これらのものを今もう少し掘り起こしてみる必要もあるのではないだろうか。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Dont eat

2008-11-27 | Weblog
この前マクドナルドで昼食を食べていると隣にお母さんと小さい子供がすわった。
聞き耳をたてていたわけではないが、何やら様子がおかしい、おかしいと思って聞いていると、そのお母さんは子供に英語を覚えさせたいせいか、英語で話しかけている。
これは笑い話であるがまだ子供が小さい時、自分はある保育園の先生から日系人と思われていたことがある。どこでどう間違ったのかわからないが、自分は生活習慣も顔も性格もばりばり日本人である。しかし思い込みとはおそろしいものだ、その先生は子供が言うことを聞かないとき、日本語だからニュアンスがわからないのだと思い、時々子供席を立ってすわらない時「Sit down」といってすわらせていたそうだ。
話はこの親子にもどるが、しかしこのお母さん英語を覚えさせたいのはわかるが少しおかしい、子供がポテトをおとして、それを食べようとした時「Dont eat」と言っていたが犬でもあるまいし、ネイティブやったらそんなこといわんやろ。
自分もそうわかったわけではないが、おそらく子供がそれをおとして食べようとしたら、自分だったら「We shouldnt do that」あるいは「Throw it away」というであろう。
なぜ「Dont eat」はへんなのか。完全なる命令形だからである。子供も3歳4歳ぐらいになればそれぞれ思考と言うのも育ってくるだろう。だからそれに対して食べるなという強い命令形で語るのは、感情にうったえるようなものであり、そこで食べないのは単なる子供の反応であるから、こういう表現ばかりだと子供の知育にはよくないと思うがどうだろうか。
おそらくそのお母さんは英語の能力が長けていなかったので、そういう単純表現になったと思われるが、子供に考えさせることは大事なことである。
なぜこういうことを書いたかというと、体育会系の監督やコーチと選手の関係もこれに近いところがあるからである。
確かに物事をつたえたりするには命令形がわかりやすく的確に伝わるであろう、しかしこういう命令形ばかりで物事を伝えようとしたならば、相手に考えさせることができない。
「Dont Eat」も 「We shouldnt do that」も食べさせなければ目的は同じである。しかし決定的に違うことは、前者が命令形でこの食べるなと言う問いに対して答えはないということである。しかし自分たちはそんなことはしないよという言い回しは相手に考えさせることができる。わずかではあるがこの考えさせることが大きな差ではないかと思う。
日本人のボクシングは個性がない、特に高校などのボクシングをみていたらみんな同じように見えるが、それは単なる自分の思い込みだろうか。おそらくこれらは監督やコーチの意見を考えることなく、垂直にうけいれているからではないかと思われるが、よく監督が選手を囲んでミーティングをしている時、でかい声で「はい、はい」と気持ちいい答えがかえってくる光景を目にするが、しかしみんな本当にわかって納得しているのか不思議である。また監督やコーチが言ったことに誰も手をあげて意見や異をとなえたりするものがいないのも驚きである。
確かにこれらは実績のあるクラブに多くみられるので、勝つためには必要であることかもしれない。しかし高校生や青年に必要な肝心のインテリジェンスが養われるかどうかは疑問である。
「ガードをしろ」「左をもっとつかえ」などは命令形で伝達したほうがいいだろう。しかし技術的なことはこの命令形で言うよりも失敗を経験させたり、問いかけたり、逆に質問をぶつけたりすることも大事ではないだろうか。
MOBでは入って3ヶ月ぐらいしたら、ほかの練習生に自分の知っていることをアドヴァイスすることを進めている。このアドヴァイスすることでいろんな議論がうまれ、教えてて行き当たった時に、誰かに聞くという好奇心も芽生えるからである。
だからここにはこうだという考えはない、だいたい俺はこうしてるという意見が多く、それらを比較し取り入れて自分のボクシングにしていくのである。
これじゃあ勝てないというボクシング関係者もいる。でもしかしMOBの連中はボクシングをエンジョイしているし、強くなるとかよりも自分の身になるようなボクシングをしている点ではレベルが高いと言えるだろう。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

減量についての一考察

2008-11-26 | Weblog
日本のアマチュアボクサーは減量のしすぎである。自分から言わせれば日本のボクシングはあしたのジョーの影響が大きく、おそらくこの減量と言うのもその影響があるのだろう、ただひたすらジョーと戦うため減量する力石の姿に感動し、これが男の生き方だと影響を受けた人間は少なくないと思う。
しかしあれはマンガの話である、そういうマンガの影響がもろに出てるのは日本のボクシングぐらいだと思っているが、アメリカでは減量をどちらかというとマイナス的に考える傾向が強い。
むこうに行った時驚いたことは、日本ではみんなあたりまえのように着ている減量着をきていなかったことだ。
ボクシングの本場であるアメリカ人は、減量をマイナス的に考えている。よくそのクラスでチャンピオンになった人間がどんどん階級を上げていくが、これは大きいものに向かっていくほうが勇敢であるという考えがそこにあり、彼ら自身も体を小さくしていくよりも筋肉をつくって大きくしていくことにやりがいを感じるからで、逆に減量して小さい階級にこだわりすぎるとチキンと思われるだろう。
日本のアマチュアボクサーは減量のさせすぎである。特に高校生や成長期にある人間に無理な減量をさせているのであるから、めちゃめちゃな話である。
孫子は「兵法」で戦いにあたって食糧庫を確保する重要性を述べている。当たり前のことであるが人間腹がへっては戦ができぬという言葉があるように、食糧不足を欠いては戦いができないからである。
自分は減量もこれと同じようにとらえている。腹がへっては練習に力が入らないし、練習のモチベーションもさがるであろう。それを精神力がどうのこうのいっても人間の力には限界がある。そこまで減量に力を入れるのであれば、減量で使うエネルギーをもっと練習に集中できるようにしたほうが合理的ではないだろうか。
減量をすればするほど有利であると誰が言っているのだろうか。減量すればするほど有利であることを科学的に証明できるだろうか。
屁理屈かもしれないが減量することは、肉体的にも精神的にも生物学上はマイナス的なことである。自分は階級をあげて成功した例を知っているが(自分もそのうちの一人である)減量に関しても精神論的に考えを推し進めていくのではなく、もっと合理的に物事を考えていく必要もあるのではないだろうか。
「男とは」とか「完全燃焼」という非グローバルな考え方は、もう通用しない、日本の減量と言う考えもこれに近いものがあり、もう少し冷静に考え直す必要があると思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

IN MY OPINION

2008-11-25 | Weblog
時々TVで教育論などを論じ合う番組があるが、いつも思うことはもし教師がこういう番組を観ていたらどういう気持ちで、観ているかということである。確かにコメンテーターやゲストは一般受けをする言葉を選び発言している。
たとえば教師は生徒にもっと愛情を注げであるとか、もっとやる気のおこる授業をしろとか、手厳しいというか、時には相手の人格を無視したような意見をぶつける。
ここだけではない、よく昔の先生の逸話などを挙げ、教師に対して愛情を持てと言うような意見を聞く。しかし人に愛情を注げであるとかということは、第三者から言われることではないし、強制されてすることではない、言われたほうは苦痛である。人間であるならば誰にだって好き嫌いはある。教師とて人間である。
だから当然害のある、いやなことをする生徒に対しては嫌悪感を持つだろう。
平等にあつかえというのならそれは言われたほうも納得がいくだろう。
しかし自分の子供でもない人間を、やれきれいごとを並び立て自分の子供のように愛せと半ば押し付けのように言うのであるから、それは無理な話であり、愛情を注げとか感情のことを他人から言われるのは、人の権利を無視した発言であると思う。
自分はそういうことを公の場で言ってのけるのは、日本ぐらいではないかと思っているが、今どうも教師の人権が無視されつつあるように思える。
以前ブログでフリーダムライダーズという映画を紹介した。
これは教育の力、学ぶことの大切さを伝えた映画である。
日本は一世代前から、こういう学園ものというか学校を話題にした映画やドラマが多いが、この映画が決定的にほかと違うところは、教師にスポットをあてたのではなく、教育にスポットをあてたところである。
小学校レベルの学力しか持たない高校生に、一冊の日記をつけさすことから学ぶことに大切さを教え、そこから人間として大切なものを発見させていくという物語であるが、いい映画かどうかは別として、まさにこの映画は、教育そのものが力であることをわれわれに伝えている。
日本の教育は馴れ合いが強いような気がする。70年代ごろから学園ものが出てきたが、時には教師と生徒の関係を問題にし、それを熱血教師が親身になって、その生徒にかかわり問題を解決すると言うまさに忠臣蔵のような物語を崇拝しているが、彼ら彼女らにとって重要なことは、どれだけ自分の子供に親身になってかかわってくれるかと言うことである。
またある先生が言っていた。「ここでいい先生とはどれだけ付き合いがいいかということである」と。
だから父兄の飲み会が節目節目にある。教師は出席しなければ白い目で見られるらしいが、なぜ父兄のと教師が共に集ってのみにいかなくてはならないのか不思議である。親がアルコール中毒で暴力を受けている子供もそう少なくはないだろう、ひどいのになると、その飲み会は夜中まで続くらしいが、なにを期待して節目節目に飲み会をするのか理解に苦しむが、やはりこれらもそういう馴れ合いからくる現象である。
教育は英語で「education」である。これは宗教改革以降にできた言葉らしく、ラテン語の「引き出す」と言う言葉から来ているが、教育とは人間関係の馴れ合いではない、その人のもっている知識や知性を引き出すところにある。
自分は教師の役割と言うのは、まさにこれを引き出すこと、その力が要求されるのではないかと思う。確かに子供との関係を築き、その子に深い愛情を注ぐことも大事であるが、しかしそれは一義的なことではないし、ああだこうだと人から言われることではない。
大事なのは人間がもっている最大の知的好奇心を引き出し、考えさせる力を養うこと、自分はそれがEDUCATIONであり、そのことをひたすら学問を教えることによって伝え、啓蒙していくことそれが大事であり、それに専念できる環境をつくってやることでははないだろうかと思う。
最後に自分的解釈ではあるが、あの映画は人間が素晴らしいと言っているのではない、学問の力が素晴らしいと言っているのである。教師はただひたすら教えることに専念することにより、ひとりひとりの知的好奇心を触発し人間として成長させることができたのである。
だからここで言われているのは教師の力ではない、われわれが学ぶことの力であり、その力を信じることが必要なことかもしれない。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

His blind spot 死角をつけ

2008-11-22 | Weblog
コンピネーションを考えるとき何を基準に考えているであろうか。
たいていは自分にとってうちやすいとか、それがしっくりくるという理由で組み立てていっていると思うが、しかし自分の場合はまず死角というものを第一に考えて組み立てていった。
たとえば簡単な例ではフックと言うのはダウン率が高いと言われている。それはきき目の反対がわからくるパンチだからであり、特にワンツーフックのフックは死角になる。
そしてその時ワンツーをどういうふうにしてうてば、さらにそれが完璧な死角となりうるかということを考えながらコンビネーション作りをしていた。
時々岡崎のパンチは見えないと言われていたが、それは見えないんじゃなくてみえないところからはいってくるからである。
日本のような横並びの世界ではどうかわからないが、向こうでは才能のある人間は山ほどいる。だから日本で少々スピードがあるとかいっても、まったくここでは通用せず、その人が本物になるかならないかはその人の工夫次第である。
自分の場合は本物ではなかったが、このまま同じことをやっていたら強くなれないなと思っていた。
だからこそ相手の死角をつくようなコンビネーションを考えたのだ。
死角といっても相手の特徴、体格、それがサウスポーか否かによってことなる。
いろんなことをconsiderし、それに対応したパンチを組み立てていく、これが自分のボクシングである。
余談ではあるが、当時自分は自分のボクシングについて「俺はこうした」などコーチ以外誰にも語っていない。なぜなら真珠湾と言う背景があるので、やっぱりジャパニーズは卑怯な奴やと思われたくないからである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャブの有効性

2008-11-21 | Weblog
ラッキーのYさんがブログで、ジャブとストレートをしっかりうつことを練習生に促していた。確かにそうである。アマチュアの場合はどちらかというと短期間勝負なので左ジャブとストレートを明確にわけることはないが、しかし左ジャブと左ストレートは役割がちがう。この左ジャブとストレートをしっかりとうちわけている練習生はそれほど多くはないと思う。
左ジャブと左ストレートの違いは何か、
「coaching olympic style」にはジャブについて以下のことが書かれてあった。
それは「the wrist snaps downward with the knuckles up and palm down. 」であるが、ジャブとはまさに猫パンチのように手首をピシッとしならせてうつパンチのことである。
このことからもわかるようにジャブとは明らかにスピードを要するパンチであり、相手のリズムを崩したり、フェイントをかけたりするいわば先制攻撃的な役割を担っている。
よく練習生に攻撃の仕方がいまいちわからんというのがいる。攻撃の仕方がわからんのはこの先制攻撃の要であるジャブがしっかりうてていないからである。
日本のクラブは、ミットでジャブをたたく時も左というが、自分がいたアメリカのクラブは左からうつときは必ずジャブと言い、コンビネーションもジャブジャブワンツーと言うようなジャブを主体にしたのが多かったと思うが、自分が思うにアメリカ人の基本と言うのは実にここにあるのではないかと思っている。
以前アメリカ人は基本をもたない、重視しないと言った。その理由は日本人のようにスタンスがどうのこうのという考えが希薄であるからである。
しかしこのパンチの打ち方やリズムに関しては実践的ではあるが、基本と言うものを踏まえているし、この攻撃の突破口であるジャブをうたせること、理解させることによって基本的な攻撃のリズムが理解できるのではないかと思っている。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教学的視点でクリスマスを語る。

2008-11-20 | Weblog
来週からアドヴェントに入るらしい。今日配られていたビラにはそうかかれてあったが、もうすぐクリスマスである。
毎年クリスマスの時期になるとあの名曲である「Ave Maria」をよく耳にするのであるが、今日もタワーレコードでその曲がかかっていた。
誰もが耳にしたことにある名曲「Ave maria」。
「Ave」とはラテン語で祝福されたという意味で、この歌は神の子を宿すお告げをうけたマリアの喜びの歌として世間にひろくいきわたっている。
しかしこれはマリアの祝福を歌ったではあるが、一方ではこの祝福にたいしてマリアの大きな苦悩と葛藤がそこにあったことを知っているだろうか。
この歌は「BIBLE」の出来事を記した歌だ、この歌詞は「BIBLE」からとられたものであるが、その福音書に天使がマリアに現れて、あなたは神の子を宿す特別な存在なんだと告げるのであるが、それに対してマリアは喜ぶどころか大きなとまどいを見せているのである。
それは「BIBLE」のルカによる福音書というところに一行だけ記されているのだが、英訳では「Mary was greatly troubled at his words」となっていて「trouble」というたいへん強い言葉が使われていることからもわかるように、そこにはマリアの心を騒がせた様子が記されている。
時に自分たちはこの歌を聞いて、清楚で美しく神に選ばれた女性マリアの姿を想像し、そのマリアをたたえた歌であると思っている。
清楚で美しく信仰深い女が神によって選ばれる。あたかもひとりの女性がミスユニバースにでも選ばれるように選ばれ、祝福されたとわれわれは考えるが、しかし彼女がその知らせを聞いて、恐れ戸惑ったことを忘れてはならない。
日本人のクリスマスにはおごそかさがない。もともと企業がこの行事に乗じてお菓子やおもちゃをうることに躍起になっているのであるから、そんなもののかけらも見られないが、日本人の巷のクリスマスの迎えかたは、そういうことを信心している人、特に外国の人から見れば冒涜に値するんじゃないかと思う。
マリアの戸惑いは神への畏れである。こんな小さい存在である自分を選んでくれたんだという神に対する畏敬の念がそこにある。
「AVE MARIA」はクリスマスの歌である。
西洋であればその物語の背景が浮かんでくるので、おごそかさというものをいささか理解していると思われる。
しかしそれを日本人は理解できないが、その点がそれらを無視し、企業戦略だけにまきこまれ、娯楽で楽しいだけのクリスマスを迎える日本人が、批判されるべき点である。
自分自身は日本でクリスマス自体祝うこと自体おかしいと思っている。
宗教が違うのにどうしてそこまで祝わなくてはならないのか不思議なことである。
クリスマスには本来祝われるべくして祝われる形がある。
自分は留学先でそういう家に招かれて食事をともにしたことがあって、そのクリスマスは、教会にいってかえって食事をするというおごそかではあったが、非常に心あたたまるものであったことを覚えているが、そういう純粋な祝われ方がそこには存在しているのである。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少年のように

2008-11-19 | Weblog
もうすぐゴールデングラブが開催される。うちからは今回5名の出場となる。試合というのは不安である。ボクシングの場合は相手が殴ってくるのであるから、けんかは小学校以来やってはやったことがないという、うちのメンバーにとってはおおきな試練であろう。
しかし試合にはそれなりの楽しさというか喜びがある。
自分事で恐縮ではあるが、自分ははじめてアメリカのリングに立った時はなんともいえない「興奮」と「喜び」があったし、自分はここに立てるんだという「感動」がそこにあったことは事実である。
今回5人ともそれなりに練習をやってきたと思う。5人ともそれぞれ仕事があるし、どこかの学生みたいにそれだけをやっていればいいということはないので、厳しい人から見れば十分かどうかはわからないが、しかし5人とも仕事をいいわけにしていたわけではなく十分な練習を重ねてきたことは確かなことである。
「sibi imperare est imperarum maximum.」 自分を支配することは、支配のうちで最大のものである。ここにラテン語のことわざがある。
自分いわく自分を支配することができる条件は「喜び」である。経験上自分を支配し試合を有利にすすめるかは、どれだけ試合を楽しめるかということが大きくかかっているように思う。
自分ごとではあるが、自分はここ(アメリカのリング)に立てたという「喜び」があったからこそ十分に力が発揮できたし、逆に言えばその気持ちが試合の「不安」や「恐れ」に勝ったからこそ実力が発揮できたといえるだろう。
自分は彼らに言う「仕事やりながらこのトシになってボクシングの試合にでれるということは光栄なことやぞ、そういう機会はめったにないぞ、出るだけでも誇れることやぞ、だから試合や思わんとピクニックに行くような気分できたらええ。」と。
そうはいってもやはり試合は不安である。
しかし自分は当日の朝、いかめしい顔をせんと夏休み少年がカブトムシをつかまえにいくような顔をして来いと言うつもりである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MOBでの社会人の役割

2008-11-18 | Weblog
昨日高校生が練習後やや冗談ぽく「ここって文科系のクラブみたいですね。」と言ってきた。
彼はここでは一番の進学校に通う1年生。彼は以前違うところでやっていたが会わなくてここに来た。
以前のところはたいへん厳しかったらしい。彼は自分に「ここでは最低どれぐらい練習しなくてはならないのか」とか「練習生はラスト30という声をかけなくてはならないのか」「毎日来なくてはだめなのか」と聞いてきた。
しかしそれに対して自分の答えは自由。ただひとつ守ってほしいことそれは「コモンセンス」これだけはきちんとやってくれ、あと勉強がわからんかったらもってこいいろんな人が教えてくれるから、それと何でも人の意見に対して何でもはいはいと賛同するな。高校生ならば間違った日本語はつかったらあかんぞと言った。
ここは社会人中心のボクシングクラブ何度も言うが部活のクラブとは違う。
だから厳しい規律もない。また特別ボクシングが強いからといって大きい顔をするわけでもない。しかし社会人が担ってほしい役割がある。
それはここに来ている子供とか青年に刺激を与えてほしいということである。
抽象的な意見だと思うが、今目標をもっていない子供たちが多いとよく大人たちは言う。そしてことあるごとに夢を持てであるとか目標をもって生きろという。しかし現実問題として夢をもてと言われてもそれはあまりにもばくぜんとしているし、この不安な時代の中でそういうことを言われても現実味をおびてこない。
以前自分は夢は持つものではない与えるものだといった。あたえられなくては夢なんてもてない。その刺激を与える役割をこのボクシングを通して担ってほしい、それが自分が社会人に対する願いである。
おおげさかもしれないが、同じ趣味をもちがんばっている人たちから意外と影響を受けることが多い。それが高校生、大学生であるならばなおさらのことだ。時々なにかものすごい大きなことを思い浮かべ、大きなことをやりとげるのが尊いことだと勘違いしているのがいるが、そういうことだけを子供や青年に促すだけならば、それはマンガの見すぎである、こういうのはボクシング的人生論を熱く語るやつに多いがおそまつである。
大事なのはこの自分というのを通してどれだけ刺激をあたえれるかということである。ボクシングをやっていく中で自然とその人に興味がわいてくるであろうし、その人のことを知りたくなる。そしてその人が持っている仕事の話を聞いたりした時に、あっ自分もこういう仕事をしてみたいなという刺激をうけるのである。
よく人にここは結構しっかりした人が多いですねと言われるが、自分は高校生をはじめそういった人たちから影響を受けることを期待している。
仕事のことだけではない、知的好奇心、この前大学生が英文学のことを聞いてきたので、英文学やるんやったらせめてOXFORDの辞書はもっとけよと言ったら買ったそうだが、そういったさまざまな刺激をうけて、将来を選びとり、社会に巣立っていってほしいと願っている。
MTオリーブはある意味文科系クラブである。ボクシングをあつく語るだけでは尊敬されない。大人が大人としての役割をきちんと担った人、そういう人がここでは重要であり、ある意味トレーナーである。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うったえてやる

2008-11-17 | Weblog
昔NBという選手がいた。ゴールデングラブにも出場したたぶん元フライ級の全米のトップランカーだと思うが、あるちょっとしたきっかけで彼と彼のコーチと自分と自分のコーチと共に食事をしたことがある。
あれは確かDENNYSでチキンステーキを食べながらの会話であった。最初は日本のことやジムの選手の話だったのであるが、それが試合の話になると突然NBが待ち構えていたように次のトーナメントに関する提案をしてきたのだが、彼の希望は自分に階級をひとつ変えてバンタムで出場してほしいということであった。
何でもあの東洋人は結構やるといううわさがひろまっていて、そんなに強いやつならば俺がしめてやると思ったかどうかは知らないが、とにかくそのトーナメントは彼の提案どおりバンタムで出場することにした。
そして試合の当日自分は119パウンドぎりぎりで軽量をパス。そしてそこで配られるトーナメント表を見る。
NBとはどれぐらいであたるんやろとトーナメント表を見たが、しかしなななんとそこには彼の名前がない。あいつ裏切りやがってとあたりをきょろみまわしたが、あたりをみまわしてもNBの姿はなく、トーナメントのフライ級の表にも彼の名前はない。結局その大会は優勝をのがし、準優勝になってしまったが、そのご自分はそこにいる間彼の姿を見ることはなかった。
自分はあえてそうしてくれといったのに出場しなかったのが不思議で、なぜ出場できなかったのかたいへん気になっていた。しかしそれから10年後、再びHIを訪れた時、あの時自分のかかわった選手の話を聞いていた時、彼のことを聞くとピーターはこういうことをいっていた。
「NBって知ってるやろ」
「ああそれがどうした」
「実はあいつ強盗ではいっとったらしいぞ」
「えっ」
そしてさらにそのことを詳しく聞くと、どうやら彼が強盗をおこした時期が自分と約束していたトーナメントにあたる時期で、たぶんひょっとして彼が出場しなかったのはそれである。
いったいバンタムまで体重をかえて出た俺の努力はなんやったんだろう。訴えたろか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする