昨日名探偵コナンを観ていたらこういうせりふがあった。
自分を殺そうとした人間が階段から落ちそうになったところを、助けた時にその殺人をおかそうとした人間が、なぜ助けるのかという問いに対して語られた言葉であるが「人を助けるのに理由があるのか」という言葉である。
昔ある日系人に頼まれて劇にでたことがある。
それはむこうでは有名な物語で「Good samarian」という聖書劇で、傷ついた人間を誰が助けたかという有名な物語である。
物語は現代風にアレンジするが、一人のサラリーマンが強盗になって半殺しの目にあい道端に倒れていた。まず最初に通りかかったのが弁護士、しかし彼はかかわっては面倒だとその場を素通りしていった。さらにそこを通りかかったのが学校の先生だ、しかし彼も関わっては面倒だとその彼を見捨てるのである。
しかし最後に一人の男が登場する。それは一見パンク(ちんぴら)風の男であるが、実はこの男が倒れていた彼を介抱し、助けてやるのだ。
この劇は日系人の前でパフォーマンスされる劇だったので、日本語で演じられたが、何をかくそう自分が演じたのは主役ともいえる。最後のパンク風の男であった。
なぜそうなったのかというと、理由は簡単である。
何でもチンピラ風の男を演じるのなら大阪人がいいというのがいて、それならあいつが最適だということで自分に白羽の矢がささったのだ。
中には生の大阪弁を聞いてみたいと言うのもいた。
宗教としては話は別だが、自分はバイブルから大きな影響を受けたことは事実である。読んでファンダメンタルに理解する必要はないが、西洋の精神世界を知る上では重要である。多くの日本の文学者も呼んで影響を受けているらしいが、文学や哲学を専攻するものには不可欠である。
話はこの物語に戻るが、この男が人を助けたのには理由はない。ただそこには「He took pity on him」と書かれているだけで、まさに一人の人間が当たり前のこととして人に哀れみをかけ、その人を助けた。ただそれだけである。しかしそのことがダイレクトに伝わってくる。さすが何千前に書かれ読み継がれている書物である。
特にこれらはAdulteryの罪について、しばしば言及しているが、それは現代社会においても重要なことであり、こういうことがきっちり守れるか守れないかがその人の信用の問題であることは確かなことである。これがきっちりできないと子供や女性が安心してあつまるジムにはならないと思っている。
自分は信心とかそういうものを抜きにして、こういうダイレクトにうったえかける物語をピックアップして小学生に学ばせることは、感受性を豊かにするために必要ではないか思っている。
今子供の心が鈍くなっている。人の痛みに対して鈍感であると言われているが、カラオケや携帯やゲームにへばりついて生きるようでは、そういった人を思いやる気持ちなど育たないのではないかと思う。
しかしバイブルやその他の古典と言われるものは、いろいろな苦難や悩み葛藤の中から生まれ答えてきた書物である。
ルネッサンスではないが、これらのものを今もう少し掘り起こしてみる必要もあるのではないだろうか。
自分を殺そうとした人間が階段から落ちそうになったところを、助けた時にその殺人をおかそうとした人間が、なぜ助けるのかという問いに対して語られた言葉であるが「人を助けるのに理由があるのか」という言葉である。
昔ある日系人に頼まれて劇にでたことがある。
それはむこうでは有名な物語で「Good samarian」という聖書劇で、傷ついた人間を誰が助けたかという有名な物語である。
物語は現代風にアレンジするが、一人のサラリーマンが強盗になって半殺しの目にあい道端に倒れていた。まず最初に通りかかったのが弁護士、しかし彼はかかわっては面倒だとその場を素通りしていった。さらにそこを通りかかったのが学校の先生だ、しかし彼も関わっては面倒だとその彼を見捨てるのである。
しかし最後に一人の男が登場する。それは一見パンク(ちんぴら)風の男であるが、実はこの男が倒れていた彼を介抱し、助けてやるのだ。
この劇は日系人の前でパフォーマンスされる劇だったので、日本語で演じられたが、何をかくそう自分が演じたのは主役ともいえる。最後のパンク風の男であった。
なぜそうなったのかというと、理由は簡単である。
何でもチンピラ風の男を演じるのなら大阪人がいいというのがいて、それならあいつが最適だということで自分に白羽の矢がささったのだ。
中には生の大阪弁を聞いてみたいと言うのもいた。
宗教としては話は別だが、自分はバイブルから大きな影響を受けたことは事実である。読んでファンダメンタルに理解する必要はないが、西洋の精神世界を知る上では重要である。多くの日本の文学者も呼んで影響を受けているらしいが、文学や哲学を専攻するものには不可欠である。
話はこの物語に戻るが、この男が人を助けたのには理由はない。ただそこには「He took pity on him」と書かれているだけで、まさに一人の人間が当たり前のこととして人に哀れみをかけ、その人を助けた。ただそれだけである。しかしそのことがダイレクトに伝わってくる。さすが何千前に書かれ読み継がれている書物である。
特にこれらはAdulteryの罪について、しばしば言及しているが、それは現代社会においても重要なことであり、こういうことがきっちり守れるか守れないかがその人の信用の問題であることは確かなことである。これがきっちりできないと子供や女性が安心してあつまるジムにはならないと思っている。
自分は信心とかそういうものを抜きにして、こういうダイレクトにうったえかける物語をピックアップして小学生に学ばせることは、感受性を豊かにするために必要ではないか思っている。
今子供の心が鈍くなっている。人の痛みに対して鈍感であると言われているが、カラオケや携帯やゲームにへばりついて生きるようでは、そういった人を思いやる気持ちなど育たないのではないかと思う。
しかしバイブルやその他の古典と言われるものは、いろいろな苦難や悩み葛藤の中から生まれ答えてきた書物である。
ルネッサンスではないが、これらのものを今もう少し掘り起こしてみる必要もあるのではないだろうか。