脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

temporary patoriot

2015-02-06 | Weblog

最近ハーフタレントと言うのが目立ってきている。ハーフはバイレイシャルであるが私の中でのバイレイシャルの定義は2つ以上の国籍をもっている、あるいはもっていた。そして2つ以上の言葉を話す人たちがバイレイシャルだと思っている。だいぶ前に東京のアムネスティホールでhafuと言う映画が上映されていた。これはTEDでもコメンテーターがその主張をしていたのだが日本人は多様性を認めることに疎いから自分たちのアイデンティティが受け入れられにくいと言うことだったが、たぶんこのことは一般の日本人には何を言っているんかと言うことが理解できないできないからその自分たちの日常やちょっとした意見を映画にして伝えているのだと思う。

実は私はハーフタレントと言う存在をあまり肯定的には受け止めていない。正直うっとうしいと思っているぐらいである。なぜなら彼ら彼女らが勝手にバイレイシャルのイメージをつくっているからでテレビに出て華やかな世界でちやほやされているのがすべてのバイレイシャルの世界ではないからだ。その映画でバイレイシャルのイメージを歩いている人にインタヴューしているシーンがあった「かっこいい」とか「バイリンガルでうらやましい」と言う肯定的な言葉しか聞こえてこなかったが、しかし根本的なところでそれを受け入れているわけでもなく、彼ら彼女らはそういう複雑な文化があるということよりも何かハーフと言うグループのような存在をファッション的に受け入れているようにも聞こえる。バイレイシャルと言うのは内面で葛藤している。自分には二つのアイデンティティがあってそれが微妙に揺れ動いている。私はどちらかというと右寄りの考え方だ。日本国籍を持っていて日常は日本語を使う。そのこととアイデンティティを求めることがそうさせている部分もあるのだが、しかしこれがよその国の文化で生きてその国の言葉を話せばひょっとしたら自分はその国のパトリオットになっている可能性がなきにしもあらず、そういう二つの文化と言葉を同時に持っていてどっちつかずの状態でいるのがバイレイシャルである。ある方の著書であるがその方は現行の日本憲法は未熟だと理解しておられ、その憲法改正の全文の草案として日本国憲法(明治憲法)が参考として挙げられていた。私自身明治憲法と言うのはすぐれた憲法であると言うことは信じて疑わない、特に全文は天皇と言う専制君主的な存在を認めているにせよ、そこには平和と平等が歌われている。杉原千畝がユダヤ人にビザを発行した時に天皇のもとに人は平等だと言う思想があったと思うが、杉原がユダヤ人にビザを書いたのはそういう考えかたのもとであり本人もそういっているはずである。こんなことを言えば強い反対意見もあると思うのだが日本人と言うのはその天皇と言う名においては平和で平等である可能性がある民族だと言えると思っているが、それだけ天皇と言うのは日本人ときってもきりはなせない強い存在だ。それは当時キリスト教徒であった杉原がその思想に基づいてビザを発行したということからもよくわかると思う。しかし時代は変化しつつある。特に日本人の定義は今日ハーフと言う存在があるように今までの民族的なことだけでは決めつけることができるものでもなく、文化や民族の多様性を考えなくてはならない時代に来ている。これは私の意見であるが最近にわかにパトリオットが出てきてやたら日本人の誇りとか日本人としての何とかという言葉を聞くが、日本人、日本人と言う前にまず日本人とは何かということをこう言った問題をとらえつつ考えてもらいたいと思う。

 

 


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ここがヘンだよ イサンヘヨ

2015-02-06 | Weblog

今日はここがヘンだよ日本のボクシングと言うことで書きたい。

「自分のボクシングをしろ」

いつも思うことだが日本人はよくこの言葉をつかう。自分のボクシングって今やっているのが自分のボクシングだろ。じゃあ誰のボクシングなんだと突っ込みたくなるのだが、日本人はやたら基本いかえれとか自分の何々をしろと言えばみょうに納得をするが、しかしこういう言葉はかなり抽象的である。ここをこうしたらもっとアドバンテージがとれるとかリラックスしろとなぜそのようなかたちでは伝えないのか不思議である。ただだいぶ前にあるトレーナーが試合前の競技者にミットうちと同じようにうっていったらいいと言うアドバイスはナイスだと思ったのだが、しかし最近ではましになったのだろうが日本人は具体的に物事を伝えるのはへたくそであると思う。はっきり言ってこういう言葉が生まれてくるのは体育会的集団が上意下達の世界で考えることに疎い集団だからだ。よくコーチは考えろと言うがしかしどうやって考えるのかと言うメソッドは教えてくれない。最近気づくことだが最近ボクシングをはじめる人は我々の時代の人間よりもかたちがきれいでさまになっている。おそらく今の時代はyoutubeなどの動画などを簡単に見れるのでそういう視聴覚によるものだと思っているが、ボクシングと言うのは空手のように型がない、型がないから相手の動きを見てコピーして上手になっていくのがボクシングが上達するメソッドだ。私が担当している健康維持やダイエット目的の人たちには誰かがマスボクシングをやっている時にそれにあわせてシャドウをするように言っているが、こういうかたちでおぼえていくのが一番てっとりばやくボクシングの動きをおぼえることができると思っているからだ。ボクシングにおいてシャドウボクシングと言うのは重要なトレーニングだリングを使ってシャドウができればある程度ボクシングがマスターで来ていると思っている。しかし人にどうやったらシャドウボクシングがうまくできるのかというと明確な答えがかえってこない、実戦をイメージするとか自然におぼえたとかかなりあいまいな答えがかえってくるのだがボクシングは他のスポーツに比べてメソッドがない、それはどうやったらどうなるということを大げさかもしれないが科学的に考えないからだ。私はスポーツ全般において最初に重要なのはコピー力だと思うある程度人のまねができれば技術も上がるそしてそのコピーする能力は個人差があるがビギナーを上達させるためにはマスを観察させたりそれにあわせてシャドウさせたりとそういう環境をつくってやることも大事だと思っている。昔はボクシングはケンカだだからケンカと思って行けなどと言うようなことを言ってもそういう輩が来ていたので妙に納得する奴もいたものだが、しかしここMOBに至っては女性や普通のサラリーマンがほとんどである、だからそういう人間にケンカと思って行けないなどと言うのはナンセンスで21世紀は昔のような時代ではないのだからそういう荒々しさを削って、そういう一般の人たちが気安くトレーニングしやすい雰囲気と環境をつくることが大事なことで、そういう意味ではメソッドを持つと言うことは大事なことだと思う。

「相手もしんどい」

試合中によく言っているのを聞くがこんなこと言ってどうなるのだ。逆にそいつがしんどいのがばれてしまうのではないか。日本人は人に同意を求める民族であるがこういう時にでもあてに同意を求めるのかと驚いてしまうが、自分がしんどいからと言って相手もしんどいとは限らない私はこの言葉を聞くたびにそんなはずないだろと思ってしまうのだがもう少しましなことばはないのだろうか。

「Rush」

時々だが試合会場で聞いた。rushって突撃であるが軍隊でもあるまいし突撃って笑える。fightと叫ぶのもケンカだと言っているようなものであるがボクシングにはこういう英語の間違った使い方があるが本当にこの世界は語学に疎い世界である。たぶんかつてはボクシングは一番オリンピックで参加国が多かったと思う。他民族が集まるのだからせめて共通語は話せなくてはならないのだが、しかしこの世界は語学に疎い人間が多い。英語が話せないと国際社会ではなめられる。日本人の親玉が海外に行って猫の子のようにおとなしくなるのは英語が話せないのときちんとした議論ができないからだと思っている。特にこの英語が理解できない最低でも自分の意思を伝えるぐらいの語学力は必要であるがしかし自己紹介もできないような人間がほとんどである。これからの東京オリンピックに向けて特にそういうスタッフには語学研修が必要だ。この世界はよくわけのわからないオウンルールやへんな疑惑があるのは語学の疎さと関係していると思うのだが、最近ボクシングはアムネスティが問題視する国が台頭してきているのだからそういう国を相手にするためには語学を養うことは不可欠なことだと思う。


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