最近ハーフタレントと言うのが目立ってきている。ハーフはバイレイシャルであるが私の中でのバイレイシャルの定義は2つ以上の国籍をもっている、あるいはもっていた。そして2つ以上の言葉を話す人たちがバイレイシャルだと思っている。だいぶ前に東京のアムネスティホールでhafuと言う映画が上映されていた。これはTEDでもコメンテーターがその主張をしていたのだが日本人は多様性を認めることに疎いから自分たちのアイデンティティが受け入れられにくいと言うことだったが、たぶんこのことは一般の日本人には何を言っているんかと言うことが理解できないできないからその自分たちの日常やちょっとした意見を映画にして伝えているのだと思う。
実は私はハーフタレントと言う存在をあまり肯定的には受け止めていない。正直うっとうしいと思っているぐらいである。なぜなら彼ら彼女らが勝手にバイレイシャルのイメージをつくっているからでテレビに出て華やかな世界でちやほやされているのがすべてのバイレイシャルの世界ではないからだ。その映画でバイレイシャルのイメージを歩いている人にインタヴューしているシーンがあった「かっこいい」とか「バイリンガルでうらやましい」と言う肯定的な言葉しか聞こえてこなかったが、しかし根本的なところでそれを受け入れているわけでもなく、彼ら彼女らはそういう複雑な文化があるということよりも何かハーフと言うグループのような存在をファッション的に受け入れているようにも聞こえる。バイレイシャルと言うのは内面で葛藤している。自分には二つのアイデンティティがあってそれが微妙に揺れ動いている。私はどちらかというと右寄りの考え方だ。日本国籍を持っていて日常は日本語を使う。そのこととアイデンティティを求めることがそうさせている部分もあるのだが、しかしこれがよその国の文化で生きてその国の言葉を話せばひょっとしたら自分はその国のパトリオットになっている可能性がなきにしもあらず、そういう二つの文化と言葉を同時に持っていてどっちつかずの状態でいるのがバイレイシャルである。ある方の著書であるがその方は現行の日本憲法は未熟だと理解しておられ、その憲法改正の全文の草案として日本国憲法(明治憲法)が参考として挙げられていた。私自身明治憲法と言うのはすぐれた憲法であると言うことは信じて疑わない、特に全文は天皇と言う専制君主的な存在を認めているにせよ、そこには平和と平等が歌われている。杉原千畝がユダヤ人にビザを発行した時に天皇のもとに人は平等だと言う思想があったと思うが、杉原がユダヤ人にビザを書いたのはそういう考えかたのもとであり本人もそういっているはずである。こんなことを言えば強い反対意見もあると思うのだが日本人と言うのはその天皇と言う名においては平和で平等である可能性がある民族だと言えると思っているが、それだけ天皇と言うのは日本人ときってもきりはなせない強い存在だ。それは当時キリスト教徒であった杉原がその思想に基づいてビザを発行したということからもよくわかると思う。しかし時代は変化しつつある。特に日本人の定義は今日ハーフと言う存在があるように今までの民族的なことだけでは決めつけることができるものでもなく、文化や民族の多様性を考えなくてはならない時代に来ている。これは私の意見であるが最近にわかにパトリオットが出てきてやたら日本人の誇りとか日本人としての何とかという言葉を聞くが、日本人、日本人と言う前にまず日本人とは何かということをこう言った問題をとらえつつ考えてもらいたいと思う。