脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

自由はそこにではなく、その先にある

2018-08-31 | Weblog

フェイスブックでいくつかの思い出のジムをあげている。そしてその中でも思い出にのこっているのはジョージと出会ったKalakaua Boxing Clubである。もう何度も書いているのでわかっている人はわかっていると思うのだが、このジムはヒスパニック系の人間とスパーをしたけれど相手にならず、くやしくてくやしくてリングをずっと見ていたらジョージが強くなりたかったら明日また来いと話しかけてきた場所だ。ハワイと言えどアメリカ、そして当時のアメリカは本当に強かったと思う。当時はそこそこ実績ができたらメインランドに渡ってプロになると言うのも何人かいてその当時の代表格だったのがWBCの世界1位まで行った男で、その男は我々よりも頭3つぐらい出ているぐらいうまかった。私よりも1つ下の階級だった男もたいしたトレーニングしていないくせにやたら強かった。結局そいつは強盗でつかまったらしいが、当時強い人間はたくさんいたと思う。踏み込みのはやさがはんぱじゃないのでパンと入って来られて知らぬ間にパンチをたたきこまれる。こいつは手品師かと思ったが、そこには明らかに実力の違いがあった。たいした才能もない、たいした実力も実績もない私は本当にそこでくやしい思いをした。くやしくてくやしくてSon of a bitch的な言葉はおそらく誰よりも言ったであろう。でもその競技人生は楽しかったし本当に自由であった。よく人は俺は自由人だとか言うが、しかし自由と言うのは勝ちとらなくては価値がない。英語のlibertyとかfreedomと言うのは、何々から自由とか何々に対しての自由という対象があっての自由だ。自由であろうとすることは様々な弊害があるし、時には拘束しようとする力がはたらくこともあるであろう、でもしかしそういうことに屈せず自身をつらぬいていけるからこそ、そこに本当の自由があると思う。そしてそういう自由を獲得するにはある程度の実力がなければ、ただの井の中の蛙、スポーツを一生懸命やって大学の学位をとると言うように、自分に今できることを一生懸命して、そしてその先の自分を見据えて地道な努力をすることも必要である。そしてその地道な努力があるからこそ自分で好きな生き方を選び取って行くことができるし、生きることができると思っている。若い人に言うが自由は今そこにあるものではなく、その先にあるものだ。そして本当に自分のやりたいことをやりたければ、その将来を見据えて地道な努力をしなければ本当に自分のやりたいことができない。言葉をかえれば今何がしたいのかというよりも今自分には何ができるのかと言うことを問うことがプライオリティであり、その何ができるのかと言う選択肢や実力を広げていくことで好きな生き方ができる、人生の自由度が広がると思う。

私は本当に拘束されることがいやである。群れる奴はアホだと思っているし、仲間と言う言葉は씨빨だ。たぶんそれは朝鮮半島が長い間大国に支配され翻弄されたと言う歴史的なDNAがあるからだと思っている。


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Everybody can change

2018-08-30 | Weblog

私は昔すごくケグジェンイだった。でもそんな私がボクシングから学んだことは大きく、特に相手を尊重することを学ぶことができたと思っている。私自身仲間と言う言葉はFuck you!だ。DQNや運動部系の人間があわないのは仲間意識がつよくつるむ、思いやりや助け合いをその小さい群れの範囲でしか理解できないからだ。私は実際に海外で競技したわけであるが、日本と海外では環境は明らかに違う。試合にしてもそうだ、向こうもそう思っていると思うのだが、相手の肌の色も違うし、顔も言葉も違う。そういう人間と向き合うということは非常に違和感を感じることであり、場合によっては日本と韓国のように相手によって敵意が生まれることもある。でもそういった違いや敵意も共に正々堂々とリングで戦うことでその違いや敵意が尊敬にかわる。それが競技者としてリングに上がることで得られる貴重な経験であると思っている。

これは私の貴重な体験であるが、むこうで何戦か試合をしたころ、何か少しそこで違和感を感じてまわりに少し敵対心を持ったことがあった。それはそんな私が試合をした時の話、こちらは相手に対して敵対心を持っているので、当然向こうも敵対心をもって挑んでくる。その試合はお互いが敵対心むき出しで殴り合ったと思う。でもお互い一生懸命競技することで、何かが少し変わりはじめた。その時はお互い相手を倒してやろうと必死だったが、でも試合が終わってそれぞれがコーナーに帰って行った時何かすごく気持ちがよくて、リングの中央に立った時もう勝ち負けなんかどうでもよくて何か吹っ切れた様で「Thank you」と相手に言ったらにっこりと返してくれたことを思い出す。そしてその時から私の中で彼はもはや敵ではなく、尊敬すべき相手となった。

ロッキー4は有名な映画だ。そのストーリーはロッキーが敵対するロシアに単独で乗り込んでいってそこで試合をする。けれども当時ロシア(旧ソビエト)はアメリカと仲がわるくて、ロッキーは完全にアウエイで試合は当然、彼をひとりも応援するものはなく、その状況で試合が行われた。しかし試合が始めるにつれロッキーを応援するものが次々とあらわれ、ラストはみんながその彼をたたえてスタンディングオベーションとなるアメリカ映画のお決まりのパターンであるが、ラストにロッキーが言ったインタビュー言葉が印象的であった。それはお互いが敵対する中でお互い少しづつかわりだして、そして最後には自分がかわることができたし、相手もかわることができた、そしてみんながかわることができた。と言う言葉であるが、この言葉がアメリカとロシアの関係で語られたことは大きな意味がある。英語で言えばI can change you can cheng everybody can changeだが、この物語はものすごく単純であるがスポーツのすばらしさを我々に伝えている。スポーツと言うのは力と力のぶつかり合いであるが、この力のぶつかり合いはロッキーのように健全で正しいものを生み出し、そして人に感動と勇気と希望を与えるものだ。けれどもそれとは逆に戦争の力と力のぶつかり合いは悲惨や不幸を生み出す。同じ力をつかうものでもスポーツとは対極にある。オリンピックが素晴らしいと言えるのはまさにその力と力のぶつかりあいがいい意味での生産性を生み出すからである。そしてそのスポーツを健全でよくしていくのは、われわれひとりびとりの力で、その力が大きくかわるとき本当にすべてをかえて世界が平和になることを信じたいと思う。

今日あげた歌はカントリーロードと言う有名な歌。当時留学生たちでそれぞれの国のことを話し合ったことを思い出す。誰にでも故郷がある。世界にはロヒンギャ族のように故郷をうしなった民族がたくさん存在するが、彼ら彼女らの多くは政治的な争いごとの犠牲者、いわゆる戦争の犠牲者だ。私はそういう現実にあっていろいろな国が集まるオリンピックなどのスポーツはひとつの希望だと思う。メダルを取ることも大事なことだろうが、しかし今一度こんな時代だからこそクーベルタンの言うオリンピズムの精神に立ち返ることが必要だと思う。

 


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ノージック的に言えば

2018-08-26 | Weblog

ロールズの「A Theory of Justice」は私が影響を受けた書物であるが、ノージックは彼が言う公平なしくみと分配に対して異をとなえた人物である。彼は特にロールズの分配のしくみにたいして分配的不正と言う言葉をもって批判しているが、とどのつまりロールズの分配はあくまで分配される側の権利を主張しているだけであって、その分配される富や財産は所有者のものだ、ロールズの分配はその財やしくみを努力してつくってきた所有者を無視するもので、それは必ずしも公平と言えないというのがノージックの考え方である。

少し見方はかわるが、私がここではたかだかボクシングができるぐらいで偉そうにはさせないというのは、一生懸命コツコツと働いてきた社会人を無視したくないためだ。中には一生懸命勉強して働いて地位を気づいてきた人もいる。それをたかだかボクシングを一生懸命やっているというだけで、そういう社会的な能力もないのに、ただ目立つような人間たち中心の集まりにしてしまったら、一生懸命まじめにやってきた社会人たちを無視していることになるからだ。前にも言ったが人間を見る時私が見ているのがそいつがあいさつができるかとか、受け答えがきちんとしているかということではない。そういうことは世間ずれしていたら誰でもできる。そういうことは夜の街に出入りしていたら誰でもできること、むしろそういう人間のほうがしたたかだ。肝心なことはその人間の受けてきた教育であったり、人間関係、そして家族関係、そういう部分をよく見てコミュニティを形成しなくてはどこかでそのコミュニティはずれてくる。うちのクラブの雰囲気がいいのは私が人間のこの部分をよく見て社会人を尊重しているからだ。うちのクラブはまじめにコツコツと生きてきた人たちで、みなさん家族や人間関係も健全である。

ボクシングしかできないような人間が集まって、ボクシングができるということだけで偉そうにしたり、ちょっと特別感を出すような人間を改めさせたり排除できないコミュニティは未熟だと思う。個性とかこれが俺のやり方だとか、自由とか平等とか与えられる権利ばかりを主張して、それを与える学校の教師やその他の人の権利を考えたり思いやることはない。こういう奴に限って目立つ格好をしたり、髪をド派手に染めることが個性だとか言うけれども、人間の個性は知性だ。パスカル的に言えば人間と他の生物の違いは人間には思考能力があるが、動物にはない。その思考することが人間の個性だ。思考できない人間に限ってド派手な格好をしたがるというのが私の意見であるが、これは裏をかえせば個性がない、個性がないからこういう悪趣味な恰好や髪型にこだわるのだろう。そういう人間がいくらド派手に赤とか、金とかド派手な色で髪を染めてもそんなものは個性ではなく、動物で言うところの種類であって、わたしから見たらそのほとんどがサルかチンパンジーそして大きい奴はゴリラだ。今までの哲学は弱者に重きを置いてきたが、しかしそこにあぐらをかいてしまって今度はあしき平等、そしてそれがねじまげられてしまって社会通念的に自分勝手な考え方ができるようになったが、まさにDQNの言う個性はそれ、学校にド派手な髪型で行ってこれが俺の個性だというのは、自分の権利しか考えていない、いわゆる与えられるだけで与える人のことを考えていない一方的で恣意的な考え方だ。これから大事なことは責任である。その責任は隣人や地域社会だけではなく、もっと広い意味での責任であるが、それは与えられるのではなくて与える側としてひとりびとりをとらえていくことで見えてくる責任、そういう責任をひとりびとりが考えておう必要がある。

 

 


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ガバナンスとか言うな

2018-08-24 | Weblog

私は時々試合会場などで、いやな経験をする時がある。それはどういう時かと言うと、自分ところのアスリートが、あまり知らないよその監督や役員などに「おいお前」とか「おいそこ」というような感じで言われ、雑にあつかわれる時だ。そういう時、往々にしてそれはリングサイドからとか人前で偉そうに大きい声で言われるのだが、そういう奴を見ると、外国で外国人に英語で同じことをやってみろ内弁慶がと思う。偉そうか偉そうでないかは、主観の問題かもしれないが、面識もない、しかもよその選手に対して「お前」とか「そこ」とか言うのは、自分の中に上下関係が存在しているからであろうが、しかし聞いていてあまりいい気分ではない。「お前」とか「そこ」というのは人格を軽視した言い方である。ある程度知った中ではそれがゆるされるであろう。しかし知らない人間に対しては、つかわれるべき言葉ではない。監督のような立場にある人は、競技者に対してある程度敬意をはらうべきである。競技者に敬意を払うことで、競技者が気持ちよく競技できベストをつくせる環境を生み出すと私は信じている。

そういう意味では私が競技したところはこういう内弁慶でみっともない監督のようなたぐいの人間はいない、競技者に敬意を払ってくれていたように思える。向こうで試合をした時に、審判が終わって自分のところに握手を求めてきたことがあった。自分はその時、まだここで10勝もしておらず、試合数が多いアメリカでは名もなき弱い存在である。その弱い存在に君はベストをつくしたと握手を求めてきたのだが、この行為は競技者をおおいに勇気付けたのだが、この体験があって私はむこうで、誰に気兼ねすることなく、気持ちよく、積極的にボクシングができたことは確かであり、こういう環境であったからこそ、非凡な私が十分すぎるぐらい、実力を発揮できたと思っている。

日本の試合会場は重苦しい、余計な奴らが威張りすぎ。何か独特の上下関係があって「気をつかう側」と「気をつかわれる側」が存在している。外国ではおとなしいくせに自分を鼓舞するのに躍起になっている指導者、親でも言えないようなことを体育会のシステムのおかげで競技者に偉そうにひよっこ扱いして言う。会場などを出ていく時、でかい声で入ったり出たりするときにあいさつしている光景を見るが。一体誰に言っているのかわからないが、自分たちはここまで教育しているというパフォーマンス以外のなにものでもなく、たいした理由もないのだが、そんなことをさせられるのは屈辱に近い。大きい声で、たいしたことでもないのに「おいそこ」と注意されるが、ものでもあるまいし非常に失礼、こういうことは向こうではなかったことである。

ガバナンスがどうとか言っているが、競技者を本当に大事にし尊重しなければ組織自体はよくならない。私の競技したところではまず競技者ありきだが、日本はその逆監督ありきである。もしその組織をよくし、健全に機能させたかったらまずそこで適切な言葉をつかい、競技者を心から平等に尊重することだ。そのことができたら自ずとその組織はしっかりと健全に機能する。前にも言ったが言葉のみだれは組織のみだれ、指導者はもっと日本語、そしてついでに言えば共通語をしっかりと勉強すべき、しっかりと学んで自分の言葉を持てば、もっと人を尊重し励ます言葉が生まれると信じているが、おおげさかもしれないが、ボクシングと言うのは殴り合いであるから、時には人をけがさせることだってあるし、ひょっとしたら命だって落としかねないスポーツである。だからこそ、そういう人間を尊重する気持ちを持たなくてはならないし、そういうスポーツを通して、人を尊重する気持ちを養わなければならないだろう。


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I'm in HNL City of mind

2018-08-22 | Weblog

夏のこの季節は少し強い風をうけるとハワイのジムを思い出す。学生時代に自分の軌跡をのこすことができた場所、その頃の楽しかった時代を思い出す。ハワイのジムは本当によかった、自分が本当に自分でいられる場所であったからだ。キャンバスで動いている時は何もかもをわすれることができたし、何よりもあの場所は平等であったと思う。事実私はアメリカではマイノリティが生き生きと競技しているのを見て救われたことも事実であるが、キャンバスは社会的にハンデをもった人間、孤独で人と強調できない不器用な人間が思いっきり自分を表現できる場だ。人によっては社会ではいろいろなハンデがあって平等とは言えない扱いを受けるだろうが、しかしハワイのキャンバスは自分のすべてをぶつけていける場であったと思う。マイノリティであろうがpovertyであろうが関係なくそこは平等である。何とか軍団とか権威主義のじいさんがいばっているわけでもなく、べらべらと仲間意識を強調するかのようなおしゃべりなどなかったが、私はそこで生まれてはじめて拘束されない自由と言うものを感じて心から楽しかったことは確かである。徹底して協調性のない人間が外国に行くのだから、当然そこには軋轢がある。当時はこいつだけはと言うのが何人かいて一応顔見知りなので試合で会うとすれ違いざまに顔を合わせて「うんっ」いうようなしぐさを見せるが、しかし内面は絶対こいつだけはぶちのめしてやるなどと思っていたし、向こうも思っていただろう。はたから見たら一体何なんだとさえ思うだろうが、しかし本当にすごくおもしろかったし充実していた。今までの最高の思い出であったと思う。自分は本当に群れるのがいや、数で行く奴は本当に卑怯だと思うし、仲間なんて言う言葉はfuck youだ。でもたぶんいごこちがよかったのはそこがひとりでいい場所だったからだと思う。


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隣を見るな前を見ろ。

2018-08-19 | Weblog

ラッキースターと交流戦があった。佐藤代表からメッセージをいただいたが、今回うちの選手が最優秀、佐藤代表も取るべき人物がとってよかったと言っていた。実は私は彼は上手になると確信していた。私が上手になると言う根拠はまず楽しんでそれをやっているかと言うことそして土踏まずがあがっていることだ。土踏まずが上がっているというのはフットワークに非常に有利で踏み込みが早いということでもある。最初マスをした時に何か足がバタバタしていてリングのサイドにあるものを次々とけり散らしていたが、この時思ったのはまだ彼は自分のフットワークを制御できていないからで、リズムができたらうまくなると思っていた。そして同時に体感を鍛えていたので、このことによってだいぶその動きが制御できるようになったのだと思う。私はあまり彼について面倒をみるわけでもないし、アドバイスもしない。むしろこういうできる競技者よりも女性やビギナーのおっさんの指導のほうが大事だと思っている。でも私の持論ではうまくなる人間はほおっておいてもうまくなる。彼は自分が現役だったら少々やっかいだなあと思える競技者であることは間違いない。そういうこともひっくるめて上手になる言っているのだ。ちなみに私は自慢ではないが全盛期と言われている時代にその国で競技してきた人間、そこで何十戦もしているのだから本能的にこいつはうまいかどうかということはわかる。その私が言っているのだから自信をもってこれからも楽しんでボクシングを続けてほしいと心から思うし、その気であれば本気で協力したいと思っている。

ただボクシングと言うのは簡単にタイトル見たいなものがとれるスポーツでもある。一回勝ったら優勝とか、負けても準優勝とか、私はそういうことにあぐらをかいて自慢する人間はダメだと思うし、こういう奴はあまり相手にしたくない。何よりもボクシングは上を目指せば目指すほど自分の実績が相対化されて小さくなっていく、そういう中で常にチャレンジ精神を持ち続けるのが競技者ではないかと思う。以下の文章は私がハワイで経験したことをつづつたブログであるがこのブログの抜粋で締めくくりたいと思う。

でもこてんぱんにやられたからこそ見えてくるものもある。偉そうに言わせてもらうが、誰も自分のことを知らない国で一生懸命思い切りやって限界を知る。その限界を知ることで見えてくるものも大きい。私はクンナッソ(終わった)と天を見上げたが、しかしそれはこれでよかったということで、やり遂げたという気持ちである。最初ここにきてパンチがあたらなかったので、悔しくて悔しくてずっとリングを見ていたら。ジョージが声をかけてきてくれたことではじまった彼と二人三脚で歩んだボクシング、そこそこ強豪のアメリカ人と対戦して勝った時は、単純だが、東洋人も彼ら彼女らと対等にやれると思ったし、メダルも取れた。そういった経験が私の中で自信になっていったことは確かである。けれども自分の実力なんて相対化されればされるほど小さくなっていく。そして一生懸命やればやるほど、自分の限界や現実を受けとめなくてはならない時があるのだ。人間は前に進むためには、時には大切なものを捨てなくてはいけない時もある。でもしかしその捨てたものが正しければ年とともに思い出となり、その人の年輪となる。それは決して今しがみつくものではないが、それが年をとって思い出となって自分の軌跡を振り返った時に、自分の生きてきたことはよかったんだと振り返ることができる。それが年を取ってからの人間の幅や自信になると思う。私は本当に向こうでは小さい存在であったと思う。そしていくら頑張っても認められることはなかった。そういう平凡なちっぽけな存在である。けれども一生懸命挑戦することで自分の軌跡をのこすことができた。そしてそのことを今振り返って後悔はない、それは私を語る上での本当の年輪になっていると思う。

 

 


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Boxing Creed

2018-08-15 | Weblog

私が信用できない人間は仲間をつくろうとする人間。そういう人間がたちが取り仕切っている組織は問題だと思っている。私の考えでは正しいリーダーはその組織が機能するために、正しいルールや規則をつくって環境をととのえる。しかしダメなリーダーは仲間集めに躍起になる。人によって意見は様々であるが、今のボクシング連盟はどう見ても後者にしか見えないのだが、報道を見る限りでは自分たちは被害者で前会長が悪だという風にしか見えない。奈良判定なんて言うのも特定の地域を出して、奈良判定と言う言葉をつくってマスコミに流布したのも問題だと思うし、細かいことを言うが会長にもてなしたぜいたく品はどこからでているのか。自費でやっていれば問題ないが、しかしそうでなければ予算から不適切な支出をしたということではないのか。もしそうだとしたら助成金問題も金額は違うが50歩100歩ではないか。本気で改革するのならば、あとからこういう意見がボロボロと出てこないとおかしい。特にその予算が何に使われたのかと言うのは重要なチェック事項だ。そこを徹底してやることで全体の引き締めになると思うが、本当に組織を刷新したかったら一度バラバラにしないとできない。その能力と覚悟があるかどうかはわからないが、本当にボクシングをよくしたかったらむしろ嫌われる覚悟で徹底した改革を行う必要があるのではないだろうか。

私は宗教学を勉強したのでその視点から話をすると、キャソリックが腐敗して、プロテスタントが台頭した時代があった。その時代にできた教会のグループがReformed Church所謂ジャンカルバン派と呼ばれる人たちだが、その彼ら彼女らの特徴は信条や宣言を持つということである。見えないものを信じる人間が自分たちの言葉によって何を信じるかということを告白、あるいは宣言することによってその信じていることを確かにする。テレビで池上氏がマックスウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と精神」の解釈の中でプロテスタントが発展してきたのは、予定説からくる選民思想が勤勉さにつながって経済が発展したと言っていたが、まさにその彼ら彼女らの信仰を確かにしてきたのが、その信条であったり宣言である。私がインタビューやコメントを聞いて感じたのは、言葉が適切ではない、言葉のつたなさである。言葉の乱れは組織に悪影響をおよぼす。正しい言葉を持つというのはその群れを引きしめることであり、正しい方向へと導くことだと信じている。ここらで日本ボクシング連盟宣言なるものを草案してみてはどうだろうか。


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사랑 사랑 하다

2018-08-14 | Weblog

少し前の記事で恐縮だが評判がよかったのであげたい。私はめったに泣かない男だ、でも学生の時一度ハワイで慟哭したことがある。それは自分ではどうすることもできない不条理に対して流した悔しいとも悲しいともいえる涙であったが、でもその泣く姿を見られるのがいやでその時ジウンにくるりと背をむけて帰って行ったことをおぼえている。彼女は私が男は涙をそう簡単に見せるものではないと言うプライドがあるので、そのことについては何もふれることはなかったが、それからしばらくして、あるスポーツ店で働く韓国人女性の話になったのだが、彼女はいわゆるわけがあってここに来ている女性であった。当時韓国人の子供が養子に出されたり、女性がDVにあって離婚したりしたら、本国で生きることができないので、外国で水商売をすることが当たり前のようにあった時代、実際ここにはそういう養子に出された子供やDVからのがれてきた女性たちがいたが彼女もその一人である。たぶん前にに泣いたところを見られたことがはずかしかったのもあって、私が「俺はそういう人たちに比べたらまだ幸せなほうだ。もうたいしたことでは泣けない」と言ったら。彼女はこういった。「人間が悲しいと感じる時泣くことは大事なことだ、よく怒りを力に変えるとかいうけれども、人のために涙を流すことは人のために何かをしたいと言う気持ちが生まれてくる。そういう力が世の中をかえることもある。私は人のために泣けない人は信用しない。だから傷ついた時は泣いてもいいと思う」たぶん彼女はこういうことで私もあなたと同じ考えを持っていると、私の悲しんだ気持ちを肯定してくれたのだと思っているが、その時私は笑ったり泣いたりすることは人間の特別に与えられた感情なんだと思った。そしてそれらの感情はもちろん相手はあってのことであるが、人間の傷ついた感情は泣いて表現できるから伝わるし、その伝わった感情にまた同情して泣く、人間はこの特別な感情を大事にして生きていかなくては人生が無味乾燥なものになってしまう。そして人間は自ら傷つくからこそ相手の気持ちがわかり、人間特有の助け合いの気持ちが生まれるのだ。それが泣くものとともに泣き笑うものとともに笑うというキリスト教徒である彼女が言うLoveである。私は笑ったり泣いたりするのはまさに人間の気持ちや感情を豊かにし、その人間の幅をつくるものだと思っている。人間は助け合うことが大事だ。でもその助け合う前に自らも傷つき涙を流すことも大事なことである。韓国語で涙はヌンムル(目の水)というが、しかし涙は単なる水ではない、感情や心がこもっているからこそ出てくるものである。

 


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Pax Japan

2018-08-11 | Weblog

2年後に東京オリンピックが開催される。ボクシングは参加できるかどうかと言うことが問題になっているが、私が毎回オリンピックが開催されるたびに思うことは日本は競技者が高年齢化していることである。テレビなどでも40にも近いおっさんやおばさんたちがそれに打ち込んでオリンピックに出ている姿をよく見るのだが、飽きたということを通りこしてみっともない。まあ人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、2回も3回もオリンピックに出てくる人間を見たらもういいだろう他の人間にゆずってやれよとさえ思う。日本は平和で好きなことができるのだから本当に幸せだ。しかしそれは自分たちがたまたま日本人に生まれてきたからで、オリンピック出場国には余裕がない貧困にあえいでいる国は少なくはない。何が言いたいかと言うとオリンピックと言うのは世界各国からいろいろな国が集まってくるのだから、もう少し全体から個というものをとらえてまわりのことも考える必要はあるということだ。記録がどうとか経済効果がどうとかいうのも大事であるが、しかしその多くの国が集まるからこそ自分たちを他者とのかかわりの中で考えるべきことがあると思っている。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」というオリンピズムは、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿である。競技者はただ好きなことだけをやっていたらいいというわけではない。今やコスモポリタンで人とのつながりを考えなくてはいけない時代だ。特に自分たちよりもめぐまれない国や人身売買などのえげつないことが起こっている現実に目をむけて思いやりを示す必要がある。スポーツは国境をこえるというがまさに競技者は代表であってそういう義務をおっていると思う。しかし日本の競技者は社会や世界の問題などに関心がない。テレビに出てきてバカ話をうれしそうに話すアスリート、そういう人間が物事の善悪をしっかりとらえて正しい倫理的基準に従って生きているなんて思えない。よく何とか部の顧問とかスポーツ指導者は日本一になれとか世界を目指せと言うが、しかし教育がかけた記録さえのばせばいいという考え方は思いっきり間違っている。今自分が競技している国がどこにあるのさえもわからない人間、テレビに出てきても部室で話す程度のことしか話せないような人間がはたして本当に代表としてふさわしいのだろうか。最近ましになってきたと言うが、しかしまだまだアスリートの教育レベルがひくい。朝練とかトレーニングの拘束時間が長いのだから勉強できるはずはない。まずはきちんと勉強する時間を与えて知識を与えて「知る」と言うことを教える必要があるだろう。そしてもし可能ならば海外遠征の時にそこの国でおこっている現実をきちんと学習させたらいいだろう。私の考え方ではまともに物を考える人間の育成ができなければ、組織論と言う言葉など存在しない。組織とと言うのは上があってということではない。日本人はよく上が上がと組織の上層部のことを言うが、しかし組織と言うのはみんなでつくっていくもの、それは民主主義が成立していった歴史を見ればわかること。だから教育が必要だ。

 


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マスコミの力 

2018-08-07 | Weblog

最近奈良判定などという言葉が出てきているが、その言葉自体にに私は問題を感じている。マスコミなのか連盟なのかはわからないが、こういう言葉をつくってマスコミにたれ流すと一般的に流布しやすい。マスコミでこういう言葉をたれ流しにされることによって、奈良の人たちの精神的なダメージは大きく、不利益も生じるであろう。奈良が結託していたら別であるが、ただひいきされていただけだろう。にもかかわらずマスコミにこういう言葉を流布することで被害をこうむる奈良の人たちに対してどう責任をとるのだろうか。

正直な感想としては世の中は会長をやっつけることに躍起になっている。だから発言も無責任になってくる。連日芸能人がこの問題に対して意見を言っているが、野球やサッカーだったらまだしもそもそもアマチュアボクシングなんて見たことがあるのだろうか。判定だってそうだ。初めから見たわけでもなくひとつのシーンが映し出されただけだし、そんな奈良判定があるのだったら奈良はしょっちゅう優勝しているはずだ。何も私はそのひいき目の判定があることを否定しているのではない。しかしアマチュアボクシングのルールも知らない、採点法も知らない人間がこの件に関して口をはさみすぎるのは無責任だと思う。奈良判定とは言うけれども審判に印象をよくしろとか、あの選手は名前で勝ったなどというのは昔からよく聞いたし、海外だってあれっと思った試合もある。もしこれを問題にするのならば、基準の問題で判定の曖昧さによるアマチュアボクシングの問題、限りなく黒に近い灰色でも100パーセントおかしいという証拠がないのに特定の地域の名をあげてましてや奈良判定などと言う特別な言葉を使って外部に聞いてもらって白黒をつける問題でもないだろうということだ。

怒りでただ会長をやっつけることに躍起になって、そのことが別の弱者を生み出しているその配慮のなさに不信感を募らせている。奈良判定などという言葉をつくってマスコミに出すことはある種のレッテルをはることだ。今ボクシング連盟はガバナンスが問われているが、組織自体が非常に脆弱だ。これからは俺についてこいの時代ではない。きちんとルールや規則をつくってそのことをもって人を管理していく能力が求められる。私がインテリが組織に必要だというのは、これからはまさにルールや規則をつくって管理していく能力が求められるからで、スポーツにおいてはそういう管理力が問われるだろう。危機管理と言う言葉があるが、これからはそれしかやったことがない人間だけではなく、物事を多面的に見れて言葉をきちんと選んで話すことができるいい意味での官僚的な人間やスポークスマンがその組織には必要だと思う。私がコミュニティを運営するにあたってべたべたした仲間意識など必要ないと思っている。重要なのは基準やルールをよく理解して行動しているかということであり、その基準やルールをよく理解できない奴がその群れのトレーナーやスタッフになるとその群れはずれてくるというのが私の考え方だ。

 


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