脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

日系人から教えられた日本

2018-06-25 | Weblog

ある日ジョージから今度の日曜日50ドルやるから仕事を手伝えと言われ手伝った。行くとそこは空き地のようなところ。何をするんだと聞いたら「簡単だとにかく3つあなを掘れ」と、まさか死体をうめるためじゃないだろうなと多少の躊躇はあったが、しかし50ドルは闇以外ではアルバイトできない私にとって大きい金額、言われる通りあな堀にせっせと勤しんだ。あなはさほど深く掘らなかったが(この地点で死体じゃないなと確信したのだが)、それでも3つ掘るのに時間がかかり、たぶん6時間ぐらいはかかったと思う。そして仕事をおえた私はジョージのおごりでジッピーズへ、この後あなは何につかわれたかはわからないが想像の範囲でおまかせする。ちなみに彼は不動産関係の仕事である。このジョージ、今は不動産関係の仕事をしているが、しかし昔はギャンブラーだと言っていた。彼の話によると結構それで稼いだそうだ。そして娘がいるのだがこの娘とはずいぶん長くあっていないといっていた。ジョージと私の出会いはカラカウアジム、そこはリングが2つある体育館のようなジムで、チームが自由にトレーニングできるボクシングのために開放された施設である。当時学生のチームの一員であった私はそこでトレーニングしていた。当時のアメリカはボクシングがすごく盛んでそこでやったスパーリングでまったく相手にならず、すごく悔しがってリングを見ていたら「強くなりたかったら明日またここに来い」と声をかけてくれたのが彼との出会いである。

カラテキットと言う映画がある。私が好きなのはパート3まである古いほうのやつ。この映画の主人公はダニエルラルーソ、転校してあることがきっかけで不良グループに目をつけられいじめられる。しかしそこでひとりの老人と出会い、空手を習いそしてそのことを通して成長していく物語である。この映画ではいずれもダニエルに立ちはだかる悪役が登場する。卑劣ともいえるやり方で彼を苦しめようとするのだが、その悪役に立ち向かう姿がすごく日本的で私はそこがこの映画の素晴らしさだと思っている。何が日本的かと言うとその解決が平和的で決して相手を徹底的にやっつけようとしないところだ。その不良グループにいじめられた時も決して強くなってやり返そうと言うのではなくトーナメントを通して正々堂々と戦おうとしたし、たとえ勝って自分が優位になっても徹底的にやらない。ロッキーとかでは勝利すると大歓声の中ヒーローになり負けた人間はみじめにさっていくのだが、この映画では勝負はもう終わったのだからと相手をゆるす。私は空手と言う日本の武道の精神がここに語られているんだと感動した。

スポーツをやっていて思ったことは日本人のコミュニティと西洋人のコミュニティは違うと言うことだ。まず西洋は競争第一、ゴールデングラブで優勝した奴がかっこをつけて明日からみんな俺の首を狙いに来るなんて歯の浮くのうなことを言ってやがったが、アメリカはよしもわるしも競争の原理で動いている。日本のように試合が終わってわざわざ相手のところに行ってありがとうございましたなんて言わないし、コミュニティでお互いがそこまで深く教えあったりはしない。競争社会では自分が習得したことをいともたやすくライバルに教えることなんてまずない。さらによくクラブなどで自分が休んだら人に迷惑がかかると言うが向こうでは休んだらライバルがひとりへるのでラッキーだ、そういう社会と比べたら私は日本人的なコミュニティのほうが人の心を成長させる上ではいいと思う。日本人は競争心がないと言うが、しかしともに支え合い助け合って生きると言う精神がある。

ジョージは日系人そしてカラテキットの老人も日系人だが、たぶん二人は同じ世代で日系人がすごく苦労させられた時代に生きた人たちだ。私はこの映画を見るたびに彼との出会いを思い出す。私は思う。人間は絶対に誰かがいないと成長しない。私が彼に声をかけられたように誰かがその人間を顧みて声をかけてくれなければそこからはいあがったり、さらに上の世界を目指すことはできないと思っているが、ジョージもカラテキットの老人も日本人が持っている助け合いの精神を持っていたその人たちで、私はそのことを日系人である彼らから学んだ。


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うちの集団のとらえかた

2018-06-25 | Weblog

よく群れる集団は嫌いだと言っているが、しかし私は何も人間の集団を否定しているわけではない。問題なのはそこにどういう人たちが集まるかと言うことで、私が言うところの正しい集団と言うのはコモンセンスや広い価値観を持って互いを受け入れる助け合うことができる集団、しかし一方私が嫌いな群れる集団と言うのは価値観がせまい、教養がとぼしい、仲間意識を助け合いだと勘違いしている集団のことである。

そういう考え方は友達と言う考え方に出てくる。友達とは何かと聞かれて、なんかあった時助けてくれるのが友達だと言うのだ。確かにそうかも知れないが、しかしこの言葉はそれを言う人間によって違和感を感じる。本来ならば何かあっても迷惑かけないようにするのが友達だ。我々はそういうことも含めて自立して生きているのであるから、あえてそのようには考えないだろう。しかし何かあった時になんて言う考え方は常に何かを期待している、自分たちには限界があるから仲間意識でかたまって生きる。それはわるい意味での弱者の生き方そのものではないかと思う。

群れを形成するにあたって大事なことは自立した人間が集まると言うことだ。自立した人間たちが集まる群れは機能している。若い人の手本になったり、お互いが刺激を受けることができるのは自立しているからで、そういう人間関係を通してお互いが刺激し合い成長する。私はそう言う群れが健全であると考えている。大きく夢を持てとか大会で優勝すると言う刺激で集まるのもいいが、しかしそういうでかいことを言っても中身がなければただの負け惜しみである。そういう集団に限って世の中ではたいしたことがないような人間がそれしかできないからとまけおしみで集まって武勇伝や自慢話をしあう、恰好や髪型で目立とうとするのはまさにそうだが、責任者の教養がとぼしいとそういう人間たちが集まる。私はそういう奴らを灰色の人間と呼んでいるが、基準も道徳も非常に曖昧で体育会のルールが世の中の常識みたいに思っている人間たちである。うちのクラブにはあいさつしろとかそういう小学生のようなルールは存在しない。それはみなさんがきちんとしたコモンセンスを持っているからで、威嚇したようなファッションで髪をど派手に染めて改造車にのっているアウトローくさい奴にろくな奴はいないと言って、みんながみんなそうじゃないなんて言わない、当たり前の感覚を持った自立した人たちが多く集まるのがうちのクラブである。何も考えていない集団が群れると言うのはサルの群れと同じで、言葉を言いかえればきちんとした哲学がその群れに存在するかどうかと言うことである。しかしそれは俺は俺はと言いたいことを言わせてもらえるから言うと言う哲学ではなく、きちんと学問的にも裏付けされた少々インテリが聞いても納得するようなものでなくては哲学とは言えない、そういう哲学的な考え方が群れに存在するとその群れは少々のことではずれることはない。そのためには責任者が教養をつむことが大事だ。


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俺はそんなむずかしいことはわからないという奴は人の話を聞いていない

2018-06-19 | Weblog

よく人からなぜあれだけ言葉が流暢にでてくるのだ、しかも外国語まで話せるしうらやましい、プレゼンさせたらすごそうと言われる。でもしかし私だって最初から言葉が流暢であったわけではない、どちらかと言えばあまり流暢ではなかったように思える。言葉が流暢に話せる秘訣は何か?日本語に関してであるが、ここでひとつ教えよう、それは私がやってきたことで、これを習慣的にやってきたからこそ言葉が流暢になったのだと思う。でそれは何かと言うと国語辞書をこまめに引くことだ。とにかくわからない言葉があったらそれを引く、国語辞書にはその言葉の意味は分かりやすく理解できるように書いてある。説明を読んでその言葉をきちんと理解することは逆的発想ではあるがその難しい言葉を簡単に説明する能力がつく。それをしっかりと理解することで、言葉の意味がわかり自分の言葉となる。私はこれを言葉の支配と言っているが、そういうことをひとつひとつやっていくと言葉が流暢になると思う。

少しcynicism的なバカとインテリの違いのジョーク。「バカは自分のことを賢いと思っている。しかしインテリは自分のことを賢いとは思っていない。むしろただ人のことをバカだと思っているだけだ。だから人を揶揄したりする」これは私の観察であるが、バカはべらべらと少ないボキャブラリーで自分は知っているということをやたら表現する。でも言っていることはただ自分が知っているということを言っているだけで、実は知らないことだらけ、聞いててはずかしくなってくる。だいぶ前にDQNが俺はどんな人間でも議論ではまけないと言っていた。たぶんたわいもないことを自分と同じようなたぐいの人間にべらべらと話すことが流ちょうに言葉をあやつることと勘違いしているのだろうが、こういう人間は一般的な常識やコモンセンスを無視して自分のいいたいことを言ってくるだけだ。私は知的レベルや言葉の質が違えば話し合いにはならないと思っているが、それは人間は言葉を持つ動物であるからだ。こういう輩は人の話を無視して自分のあほな道理を通そうとする。もともとボキャブラリーが少ないので人の話なんて聞いて理解できるはずはない。こういう奴がよく言うのは俺はそんなむずかしいことはわからないが、そしてそのあとすぐに自分の言いたいことを言ってくるからたちがわるい。人間のコミュニケーションと言うのは、その言葉をもってお互いを理解しあうこと、だから言葉や考え方の質が違えば話し合いにならない。そしてこの言葉の違いが人間やコミュニティの質の違いにつながると思う。

フランスにドゥルーズと言う哲学者がいる。彼は「千のプラトー」においてこれからの社会はツリー型の社会構造からリゾーム型の社会構造に移行することを提起している。ときどきドゥルーズとかわけのわからない横文字を使って恐縮であるが、ツリー型と言うのは縦社会、そしてリゾームと言うのはフラットな社会のことであるが、これからの社会は縦社会からフラットな社会に移行しなくてはいけないということだ。うちのクラブもひとつの社会であり、フラットな社会であるが、しかしフラットであることは難しいことで、その集まってくる人間の言葉の質がわるければ決してそれは実現できない。DQNとかやんちゃですを入会させないのは、そういう人間は往々にして目立ちたがり屋で自分は特別だと思われたい。その特別だと思われたいというのがそいつの格好にでているのだが、そういうやつはまさに私があげた言いたいことしか言えない自分勝手な奴で、そういうやつらが集まると特別感を出して自慢話をして目立とうとする。そういう奴ばかりが集まるとコミュニティの質がわるくなるからだ。俺はどんな人間も議論ではうちまかせると言っていた人間もこの部類の人間に属するのだが、彼ら彼女らのようにこういうくだらないことにこだわると上か下かで人を判断する体育会のコミュニティになってしまいがちである。しかしコミュニティをまとまるというのは体育会のように人を支配するのではなく、お互いが話を聞いて理解しあうということ、それがコミュニケーションである。そのコミュニティがフラットであるためには集まっている中心特に責任者の知的レベルが求められる。体育会のように縦社会で人を支配しなくてはそのコミュニティが機能しないのは、言葉の質がわるく責任者が知性にかけるからである。これは私の意見であるがスポーツ指導者にはある程度の知性が求められる。それがあるかないかでそのコミュニティの質に差が出てくると信じている。

卑近な例であるが議論していて、聞いていてよくこういうことを言うやつがいる。それは俺はそんなむずかしいことはわからないが、と言って自分の言いたいことを言う。こういうことを言うやつは間違いなく人の話を理解しようとしない。わからんかったら何も言うな。思慮深い人はどういうことかと聞いてくるものである。

 


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A picture is worth a thousand words(Seeing is Believeing)

2018-06-14 | Weblog

オリーヴには女性の入会者が多い。
うちはそう宣伝していないのに、場所柄なのかよく問い合わせがあるが、ある人が、ボクシングクラブで英会話や英語、そしてその他の言語に対応できるのは斬新でこれだけでも乱暴な人が集まっていないことがわかると言っていたが、やはりこういうことも入りやすさのひとつになっているのだと思う。うちの会員はおとなしく、真面目である。いわゆるケンカっぱやく血の気の多い人間はいないと言ってもいいと思うが、ジムではおとなしいがよそではけんかをするというような人間も含めて暴力的だと言えるような人間はいないと断言できる。
私はいじめや暴力は大きらいである。だいぶ前テレビでボクサーが自分の武勇伝を生き生きと話しているのを聞いて、こういうことを言うからイメージがわるくなると思ったが、クイズ番組やバラエティではおちょくられ、話すことと言えば武勇伝とかでは非常になさけなくなってくる。


もう少し前の話しだが、以前電話で相談されたことがある。話によるとその子供はその顧問の態度に対して非常に何か自尊心を傷つけられるいやなものを感じていて、おそらくまだ子供なので自分の言葉で説明できなかったのだが、聞いていくとそれは実際によく今日本で言われているパワハラ、西洋ではモラハラであるということがわかったのである。こういう狭い世界では陰湿なモラハラが起こりやすいと思っている。しかも相手は子供なのでうまく意地悪なことを言って自尊心を傷つけたり、のけものにしたりして相手を傷つけることはよくあることだ。自分ではうまく人を傷つけてやっつけたのだろうが、しかしそういうことはモラハラと言う定義でひとくぐりにすれば見えてくること、こういう陰湿な奴を相手にしていたら人生がもったいない、自分に原因があるのではなくむしろ相手に問題があるということがわかり、気分が晴れたと言っていたが、たぶんこういうことはよくあることだと思っている。

クラブなどでうけたそう言ったいじめや不公平、すべてが正しいとは言えないが、そういう問題に悩み傷ついている子供たちが実際にはいるのだが、学校はそういう事実を理解しているのだろうか???指導者の暴言やいじわる、無視など、中高生にはどう対処していいかわからないどころか、もしそいつがうまく人をいじめているのであれば、中高生ぐらいならば言葉にすることは難しいことで、結局言葉にできないから泣き寝入りと言うことは往々にしてあるのではないかと思っている。しかしもしそこで分析能力と説明能力を持った人間が、窓口に立ってあげれば多少はこういう問題がなくなり、人間関係が円滑になるのではないかと思っているのだが、日本もアメリカのようにクラブなどで、何か問題があれば話しを聞いてくれ、それを問題にしてくれるような窓口をつくればいいと思っているが、アメフトやレスリング問題をかわきりに、こういう狭い社会から生まれてくる暴力をみすごすのではなく、第三者委員会などと言うにわかにつくったような脆弱な委員会をつくるのではなくて、学生を管理し、保護する立場の期間を立ち上げる必要はあるだろうと思う。

正直日本のクラブは一方的すぎる。部員が集団でやめるという事件が時々あるそうだが、そういうことは現実的に考えておかしい、そういう大きいことがおこった地点で、学校や教育委員会がなぜそういう経緯に至ったかと言うことを詳しく調査し、その場において双方に問題はなかったのか、暴言や暴力はなかったのかということを調べるぐらいでなければ、体罰や暴言、セクハラなどの暴力はなくならないと思っている。

韓国語の歌の歌詞にこういうくだりがある。
ネガ パボ タガソ パラポルス ポッケマン(私がバカのようだから、(あなたを)見つめることしかできない)よく日本人も自分をひげするようなかたちで「俺はバカだ」というようなことを言うが、しかしここで言うパボ(バカ)だというのはそういう気持ちではなく、自分の感情を伝えたいけど伝えられないもどかしさ、向こうで言うところの恩からわきあがってくる感情を自分はバカだと言っているのだ。日本人も含め東洋人は自分を表現するのが苦手であると理解している。それでも韓国人のようにしかえしたらいいのだが、しかし日本人はまるくおさめるのと言葉を整理して伝えることができないので、何かあっても泣き寝入りするのだろうか?しかし西洋はすべてのことを言葉化する傾向があるが、私はどちらかというとそのタイプ、もし自分の子供やクラブの子供たちがそういう意地悪をされたら話を聞いてよく調査して、完璧にまとめてやるぐらいの自信はある。子供が言葉にできないことを表現して何がおかしいかということを言ってやるし、日本独特の仲良くやりましょうという考え方はないので、問題をうまくまるくおさめることはしないが、ひょっとしたら適任であるかもしれない。

いろいろ話を聞いたらたとえそれがコンタクトスポーツであっても顧問が練習に来ないネグレクトなんてまだましなほうだ、うちが体育会の風潮に対しては否定的であるのはいろいろと見たり聞いたりしているからである。


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sacrificeの正しいはらいかた

2018-06-14 | Weblog

最近のおっさんたちのグループが活発になってきた。土曜日に集まるおっさんグループと平日の8時を過ぎたころに集まってくる40を超えたおっさんたちであるが、このおっさんたちがマスや女王様をしているのだが、その様子が非常に楽しそうである。その様子はフェイスブックなどにもあげているらしく、最近では試合にも出たいと言う中年戦士もでてきて、トレーナーがいない時もマスの後お互いが教えあったりして研鑽の時を持っているが、こういったことはトレーナーの指導のおかげこの形をつくってくれたことは非常に評価できることである。私はトレーナーに絶対的な信頼を置いている。なぜならおおげさに聞こえるが彼らは多くの犠牲をはらって指導してくれているからだ。私は人間は多少の犠牲をはらわなければついてこないと思っている。時々人に犠牲をはらえと言っているが、犠牲sacrificeは人をまとめ成長させるだけではなく自分も成長するからだ。特にうちのクラブのようにしっかりした社会人が多いクラブは、口先だけでいいことを言っても見透かされる。会員も本当にこの人は自分たちのために何かをしてくれていると言う気持ちがなければついてこない。ここのトレーナーは実績はそう目立ったものではないが、しかしまわりから非常に感謝されていることがわかる。マイナースポーツのアホみたいな実績をかさに着ていばったり、特別感を出したり、威嚇にも近い雰囲気でまとめるのではなく、自分の存在を出さずに相手をどう楽しませてあげようか、どうしたらうまくなることを考えて相手をのばすと言うことを考えているのだが、そういう気持ちにまわりがついてきているのだと思う。マイナースポーツでのくだらない実績もどきがあるような奴やそれしかできないほかにとりえがないと言うような奴は自分が目立つことしか考えていない。犠牲と言うのは非常に崇高な考え方だ。本当に人間を動かすのはこのsacrifice犠牲であって、この相互関係が相手と自分を大きく成長させるものだと思っているのだが、まさにトレーナーが自分の時間をつくって来てくれて人を楽しませてくれたり、教えてくれたりするのはそういうことで、そういう中で築いていく関係と言うのは安っぽいものでもなく、そこには信頼関係が存在し群れの成長が見られる。ここの会員の人たち特におっさんたちは一生懸命トレーニングしているが、よく言うのがこんだけやってもらっているのでできなくては○○さんにわるいということであるが、まさにひとりびとりがはらったちょっとした犠牲が実になっている。そういう成長があるからこそここが癒しの場となり、成長できる場となりえるのだと思う。まあトレーナーたちは好きでやっている。そうでなければやらないと思うのだが、しかし彼らだけではなく上級者が試合の前だと言うのに女王様の相手をしてくれたり、自分の時間をとめて教えてくれるのもまさにそう、自然ではあるがそういうちょっとしたsacrificeであって、そういうがsacrificeこのクラブを支えていると思う。

 私は宗教学を勉強したので言うがマザーテレサの偉業と言うのはどこから出ているのかと言うと、それは神秘的な力やキリスト教の教えからではない。彼女がそこまでして自分を人々に捧げることができたのはイエスの犠牲、この犠牲によって自分は救われたのだと言う信心からである。私がsacrificeは最も崇高だと言うのはマザーテレサによるものだ。ギリシャ哲学では愛すると言う言葉が3種類ある。ελοs Φιλια αγαpηの3つで最後のαγαpηが一方的に与えると言う意味の愛で最も崇高なものと考えられているが、まさにsacrificeと言うのはそれで、そのことは人間の行動を突き動かすものであり、群れを豊かにするものだと信じている。


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ハワイの英語

2018-06-12 | Weblog

「Da kine」は、英語であって英語ではない、おそらくHIのローカルしか分からない英語である。
意味はうーんたぶん「あれ、あれ、ほらあれだよ」みたいな感じだが、ローカルの人間はよく使う言葉である。Hiの英語はビジンイングリッシュと言って独特の英語である。日本で言うと間違いなく、なまりのの強い言葉で、さらに彼ら彼女らは独自の文法を持つがこうだ。
「I wen go to school」
「I like go Surfing」
「I no can speak japanease」
彼ら彼女らは基本的に「Do」や「Does」は使わない、軽い疑問文で聞く時は、平常文を気持ちを込めて疑問形にするのだが、ローカルがよくつかうYhaという語尾に使う言葉はまさにそのニュアンスを伝える時に生きてくる言葉だが、それはある意味文法を無視したユニークな英語である。
「I wen go to school」というのは「I went to school」で「Wen」は過去を意味する言葉で、過去を表したい時は動詞の前に「Wen」をつける。一見変だがしかし慣れてくると過去にしたい時は、全部「Wen」をつければいいので楽である。さらに何々したいは「like」すなわち「I want to go」の「want to」が「like」であるが、否定型には動詞や助動詞の前に「no」をつけるなど何ともへんてこなEnglishで、ローカルの人間がメインランドに行って思わずビジンイングリッシュを使ってしまうと「Speak english」と言われるそうだが、このほかにもたくさんの独特の単語や表現が存在する。このように英語はビジンイングリッシュだけではなく、その土地やその国によって表現や言葉の違いがある。そう考えるとEnglishはもはやEnglisiesなのではないかと思う。

 



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Eastern philosophyかな

2018-06-11 | Weblog

キリスト教と仏教の根本的な違いは「知」に関する考え方である。仏教の経典にこういう話がある。子供をなくした親が釈迦に子供をよみがえらせてほしいと懇願した。釈迦はもしあなたがたが家を一軒一軒まわって死人がよみがえった家があればその子は甦るという。しかし家を何軒まわっても死人がよみがえった家なんてない。そしてその親はあることに気づくそれは人間は決してよみがえらないんだ。だからその死をうけいれるしかないんだと。このたとえ話はまさに仏教の知を表現している。仏教における知とは摂理を知り受け入れること、すなわちさとることである。それに対してキリスト教の知は神を知ること、オムニポテンツと言うラテン語の言葉があるが、それは全知全能と訳しているが、しかしどちらかというと支配者と言うほうが概念的な意味では近いと思っているが、そのすべてを支配している神を知ることが西洋哲学の根本であるのだが、キリスト教哲学は難しいと感じ、仏教哲学は深いと感じるが、それはその違いを理解しているからだろう。

ハーバードの人生が変わる東洋哲学と言う本がある。東洋哲学の本を英語に訳すのは難しい。「気」とか「魂」のような概念的な言葉をひとことでは伝わらないし「義」や「仁」とと言う言葉なんかも英語には訳しにくい。この本の中で西洋哲学は封建主義が解体した後に自己実現に目標を置いた。今までの自分たちのアイデンティティが宗教や君主などのどこにつながっているかということであったが、その制度が解体してそこから解放されて今度は自分は何者なのかどういう存在なのかと言うことを自分で考え自分の未来を自己実現できる。と言っていたがこれは封建主義の解体後、実存主義の台頭のことを言っているのだろう。実存主義は世界とか人とのかかわりよりも自己の考察に目を向けることで自己実現する哲学であるが、その考え方は特にゼーレンキルケゴールなどの思想に見られると思う。しかしこれはごく狭い自己を基盤に未来を築いてしまうおそれがある。しかしそれに対して、東洋哲学はいかなる人間もたえず変化する存在でひとりびとりは様々な感情に対して変化する、東洋哲学は自然や人とのかかわりの中に自分を見出す哲学であると言っているのだが、この考え方は西洋と東洋の違いを表す意味では的を射ている。

私は根性論は好きではないがよく我々の世代は根性見せろと言う言葉を使う。今こんなことを言ったらなんて言うことを言うんだと言われるだろうが、しかし東洋人の言う「根性見せて見せてみい」と言うのはただの要求ではなく人と人とのつながりがある。どういうつながりかと言うのはいささか抽象的で、それはケースバイケースであるが、そう言う時俺が見ていてやるぞ俺たちは気持ちでつながっているんだというような共感、いわゆる人間関係をつなげるニュアンスのようなものがそこには存在すると思う。ただそれが上下関係という封建的な考え方の中で、間違った方向にいっているのだが、基本的に東洋人は心と心のつながりを求める民族ではないかと思っている。我々東洋人は人と人とのつながりを大事にする民族である。だから試合の時に誰かが応援してくれると力がわいてくるし、それに応えようとする。言葉を言いかえれば我々はそういう中で相手の気持ちや気を感じ受け取ることができる。そういうスピリチュアルな民族である。犬がケンカをした時飼い主が見ていてくれた方が勝つとらしいが、東洋人にとって応援と言うのは一つの戦術である。まわりのみんなが自分のことを応援してくれて、その気を感じ受け取り強くなっていく、そういう精神構造が東洋人の中には存在すると思う。応援団というのは品がないので好きではないが、しかしこういう存在は東洋文化であるから存在する理にかなった存在である。

日韓共催のワールドカップがあったが、この時韓国がえげつない応援をしたということが問題になった。しかし多少やりすぎのように見えてもあれは我々の精神的文化で、東洋人は気を伝えて応援するのがが文化だと言えばいいだろう。まあ少々乱暴な言い方であるが東京オリンピックでも一致団結して応援したらいい、大韓民国ぐらい相手が恐怖を感じるぐらいに叫び倒せと思う。所詮西洋はフーリガンとか言って個人的に暴れる程度だ、たぶんこういう一致団結して心をひとつにして人の応援をするなんていうことはできない。しかし我々はそういう精神的文化がある。そのアドバンテージを利用して右から左からとこれもひとつの戦術であると思う。西洋はロジカルに物事を考えるのに対して我々は気持ちで伝える。欧米がロジカルに自分たちが都合いいようにルールをかえて行っているのだからそういうやりかたもありだ。

個人的には私は欧米的だ。なぜならおおぜいで応援されたらうざいと思ってしまう。


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Judesから学ぶこと ジムとか近くの道端で寝転ぶな

2018-06-08 | Weblog

聖書にJudgesという記事がある。ここにGideonという戦士が出てくるのだが、彼がまだイスラエルが国ではなく部族だったころに神からその部族のリーダーに選ばれた人物である。なぜ彼がその部族のリーダーに選ばれたかと言うと、その選ばれた理由というのが、戦いの後にほかの兵士がへとへとになって犬のようにへたばって水を飲んでいたのにたいして、彼だけが膝をついて毅然とした態度で水を飲んでいたからである。これは私の監督の話であるが、彼は日ごろからリングをおりたらジェントルマンであれとか学生は知性をみがけというようなことを言っていて、彼はヨーロッパ系なので騎士道的な考えもあって、彼自身がその作法というものをしっかりと持っていたと思う。彼がよく言っていたのはトレーニングの後にへとへとになってバタンとたおれるのがいるが、練習でもいくらしんどかってもへとへとになってへたれこんだり、倒れたりするのはすごくみっともないということである。どんなにしんどかってもそういう態度を見せたりしないのが成熟した大人であって、特にリーダーはそういう態度を見せるべきではないと言うようなことをこの記事を引用して言っていた。

私がジムで寝転んだりへたれこむなと言うのはもちろん、そこまで追い込んでもらってはまわりに迷惑がかかるということだが、それと競技者の目で見たら、競技者はそういうみっともないことをするなということである。礼儀とかスポーツマンシップというのはただ挨拶ができて、愛想がよくて人と仲良くなることではない。私はそれなりの作法を貫くことが大事であり、その作法をしっかりと通すことができるから相手から尊敬されるのだと思う。私はそういう監督からボクシングをならったので、いくらボクシングができてもがさつな奴は絶対に尊敬できない。どこでも裸になったり、服をぬぎちらかしたり、すごい勢いで追い込んでどこでもおかまいなしに寝そべる、私自身はリーダーと言うこともあってどんなにしんどかってもへたれこむ態度を見せなかったし、飲み物を飲むときも我さきへと行かずに一番最後に飲んでいたが、そういう態度はその群れの士気を高めるだけではなくて、その群れの質をよくすると思う。

私個人の意見としては汗だくになって寝転ばれたらまわりの迷惑になるし、いくら外であろうがへたれこんでたおれられたら近所迷惑である。ここは大人のクラブ、子供の運動クラブではない、トレーニングする時も節度を守ってトレーニングしていただきたいと思う

 

 

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Heal The World

2018-06-06 | Weblog

何も持たず手ぶらでぶらぶらしている。普通女の人が荷物を持ったら持ってあげるのは当たり前だ、しかし特におっさんぐらいになるとそれをしない。若い時はかっこうをつけるためあるいは女をものにするために進んで荷物を持つのだが、しかし結婚したとたん全くそれをしなくなる。私が子供に言っているたぶん他の家庭とは違うことが二つある。一つは人種差別をするなマイノリティーを差別するなということ、そして母親の荷物を持てと言うことだ。特に母親の荷物を持てと言うのは女性に対して尊敬の気持ちを持てと言うことで、私はそういう気持ちを大事にするために母親の荷物を持てと言い、そしてそれが女性を尊重する気持ちにつながり、自分の伴侶を大事にするようになると思っている。

自分で言うのも何だが私自身知能が高いのである程度のことはできる人間だと思っている。たぶん総合的に見たら家族などのことを含めても、ここでは余裕のある生活ができていると思う。しかし私には大きな限界がある。それは今まで憎しみや怒りを原動にして生きてきたことだ。もっと偉くなろうと思えばできていたのだろうが、しかしある程度自分が満たされることで野心がなくなった。怒りや憎しみなんて言うのは個人の利益しか生まない。そこからこえていくことはできない。ニーチェが言うルサンチマンと言うのはまさにこのことだが、そういうことをばねにして生きてきても人間は本当の意味で成長しないし、幸せにはなれない。格闘技のクラブなんかでよく俺は逆境をばねにしてここまでやったとか言う奴がいるが、しかしそんなことは教育上よくない話だ、そういうことを言う奴に限って教育レベルがひくくて実際はたいしたことなどやっていない、ただ能力がないからそういう話をして認められようとしているだけである。確かに人によっては今ある境遇からぬけだすために怒りや憎しみをバネにすることも必要であろう、しかしそれよりももっと大事なことは自分が人の役に立つこと、そしてどれだけ人のために何かができるかということで、そういうそういうエネルギーを使う方が自分の成長になるし、幸せになれる。おそらくそれは人類を進歩させてきたエネルギーであるといっても過言ではない。人のために何かができるかと言うことは私の考え方のモットーで、こういう気持ちを根底に考えることで、譲り合いや思いやりそして人権を大事にするコミュニティが生まれるのだと思う。ここではクリスマスに団体を通して募金をしたり、ブログでしばしばマイノリティのことをとりあげるのは自分たちが中心ではない、人間は支え合って生きることが大事だと言う私なりのメッセージだ。

 


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Mr 自己主張

2018-06-04 | Weblog

こんなことを書くのもなんだが、私はIQ が平均よりも高いようだ、ようだというのは児相で調べたときにわかったそうだから言うのだが、そんな私が指導していてわかるのは、自分を基準に考えて、吸収させる人間と教える人間の二つのタイプがあるということである。吸収させる人間とはおそらく私よりもIQの高いのではないかと言う子である。この手のタイプは教えようなんて言うスタンスでは限界がある。教えてやると言うよりも、むしろこの本を読んでみろとか、まず興味を持たせることからはじめる。そうすることで次第に相手はどんどん私から与えられた知識を吸収して成長していく、いわゆる先天的に自分よりも知的能力が高い人間には教えるというスタンスよりも興味をもたせて、自分から何かを吸収させる。いわゆる自分がその子の養分となって成長させるほうが賢明であると思っている。

何とか軍団の監督の考え方が違うだろと思うのは、すべての人間を自分の配下におきたがって、教えてやるというスタンスで見ているところだ。おしめをかえてもらったわけでもないのに親でも言わないことを偉そうに言う。いつまでたってもひよっこあつかいする。下級生が監督のお世話をすべてするようなところもあって、私はそれを奴隷制度とよんでいるが、おそらく子供によっては、そういう支配の中では人から何かを学ぶということには適してはいない。上下関係が厳しくて支配関係で成り立っている組織においてはあほなことを押し付けられるだけで、そういう環境では自分が成長できる場としては考えにくいだろう。日本にスポーツバカが多いのは組織自体がくだらないからだ。監督がお父さんでコーチはおじさんそして上級生はあにきとかいうそういう稚拙な集団は、どう考えても人間を成長させる場としては十分ではない、窮屈さを感じる。

私の主観かもしれないが、汗をまきちらしてへとへとになって道端でもどこでも平気で寝転がったり、怒号をひびかせたりしてトレーニングするのは体育会に多い。そして話す内容なんかも違うので、うちのような女性が多くて文科系タイプが多いクラブでは、女性や中年、運動できない人、激しいことが苦手な人たちの立場に立って、多少の思いやりや気づかいを持たないと一緒にやっていくことは難しい。前にエチケットという言葉を出したがエチケットとは思いやりとか気づかいであって、特にそれはマイノリティや弱者にむけられるもので、仲間意思とは違う。仲間は大事にできても公共の場で求められるエチケットがかけると迷惑になる。すごい勢いで汗をまきちらして、暑くなったら裸でトレーニングする.そう言ったことはそういう世界では当たり前なのだろうが、うちのクラブでは非常にわるいマナーである。

 

 

 


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