「Will」と「Be going to」という言葉がある。
これは日本語で言うと、単に何々するだろうという、これからおこる未来に対して使われる言葉であるが、しかし英語では少しニュアンスが違うそうだ。
私自身そこまで感覚的に英語をとらえているわけではないので、以前はWillとGoing toの違いを、単に形式的か形式的でないかと言うように間違ったとらえ方をしていただけだが、しかしこの二つの言葉は、単にこれからおこることを伝えるのではなく、この二つははっきりとした意図があって使われるそうである。
まず「Be going to」というのは、過去にある決まっていたことに対して、それを受けてこれからそうするという行為を表すときに使う表現だそうで、しかし一方「Will」というのは、予定とか決まったこととはは関係なく、これからおこる行動に対して使われる助動詞である。
たとえばパーティの案内があって、これからパーティーに行くんだという時はIm going to attend the party.というように「Be going to」を使い、いきなり今日パーティがあるんだけど来ないかと誘われて出席する時には、それが過去に決まっていたことではないのでI will attend the party.というように「Will」がつかわるらしい。
だいぶ昔ジムにこういう落書きがあった「I gonna win」である。
Gonnaはアメリカ英語でBe going toの略であるが、この落書きがジムのロッカー屋のかべのところに書かれてあった。
今考えればこのGonnaという言葉からも分かるように、もうおれは勝つことになっているんだと言う、自信のような意気込みがここに感じられるのであるが、しかしこれから何かを伝えようとする言葉にたいして、それが過去に決まっていたかいなかったかなんていうことを、いちいち気にはしてられないというのが日本人の本音ではないだろうか。
時々欧米人は日本人を何を考えているのかわからないというが、日本人の考えていることがよくわからないよいうのは、こういった言葉の使い方、考え方に何か関係しているのではないだろうか。
友人でどこか忘れたが欧米に出張である商品を買いに行ったそうである。
彼は英語があまり話せないので通訳をつけて行ったそうであるが、彼がこういうことをいっていた。
「欧米人はわかりやすい。普通言葉が分からなかったら相手が何を考えているかわからなくて不安になるけど、こと彼らに関しては何とかそれを必死で伝えようとするので、英語がわからなかっても、何となく表情や表現の仕方で、だいたいこういうことを望んでいるのかということがわかる」と。
これは自分だけの考えかもしれないが、欧米人はある事柄を必死で伝えようとする傾向がある。
日本人だと何か伝えようとして、相手がわからないようだったら、あっもうこれ以上言っても伝わらないと見切りをつけてくるのだが、しかし欧米人はそれでも身振り手振りで必死で伝えようとする。
時にはそれがおしつけじゃないのかと思うことさえあるが、それでも何かある事柄を伝えようとしていくのが彼ら彼女らのコミュニケーション文化かもしれない。
現に英語と言う言葉がそういう性質の言葉である。
日本人は何かを伝える時、このことを言えば相手はどううけとるかということを考え、常に相手の側に立つ、しかし英語は単に自分を表現する言葉であり、この言葉を使ってどう伝えるかであるが、こういう言葉の文化の違いが日本語と英語にはある。
こういう点で考えれば、彼ら彼女らが自分の家族に「I love you」だとか「I respect you」などと日本人なら少し赤面してしまうような表現を、家族に使うことも納得できるが、すごいおやじになると、自分の子どもや妻にたいして、お前は世界で一番最高だなんて言う事をいうが理解できる。
このことに関して新渡戸が子どもや妻というのは、日本人からしたら、自分の体の一部同然だから、ここまでしてほめるということは、いささかこっけいだというようなことを言っていたが、たぶん新渡戸がこう考えるのは、彼が欧米人の文化に深くかかわってきてからだろう。
あの欧米人が自分の家族をほめる言葉はわれわれから見たら、かなり大きな違いがある。
最近欧米人のそういう姿を見習って、われわれも家族に「I love you」みたいなことを言おうなどというようなことを言い出してきたが、しかしこういう日本語が持つスタンスからして、そこで安易に欧米人が語るような言葉をつかって相手をほめることが、はたして本当に相手を尊重していることになるのだろうか。
日本語と英語はあきらかに性質が違う。
言葉と言うのは自分たちの持つアイデンティティーであり、文化と言うものはまさに言葉がつくっていくものであるから、何となくいいからと感覚的に付和雷同に欧米文化に習うようなことは疑問である。
これは日本語で言うと、単に何々するだろうという、これからおこる未来に対して使われる言葉であるが、しかし英語では少しニュアンスが違うそうだ。
私自身そこまで感覚的に英語をとらえているわけではないので、以前はWillとGoing toの違いを、単に形式的か形式的でないかと言うように間違ったとらえ方をしていただけだが、しかしこの二つの言葉は、単にこれからおこることを伝えるのではなく、この二つははっきりとした意図があって使われるそうである。
まず「Be going to」というのは、過去にある決まっていたことに対して、それを受けてこれからそうするという行為を表すときに使う表現だそうで、しかし一方「Will」というのは、予定とか決まったこととはは関係なく、これからおこる行動に対して使われる助動詞である。
たとえばパーティの案内があって、これからパーティーに行くんだという時はIm going to attend the party.というように「Be going to」を使い、いきなり今日パーティがあるんだけど来ないかと誘われて出席する時には、それが過去に決まっていたことではないのでI will attend the party.というように「Will」がつかわるらしい。
だいぶ昔ジムにこういう落書きがあった「I gonna win」である。
Gonnaはアメリカ英語でBe going toの略であるが、この落書きがジムのロッカー屋のかべのところに書かれてあった。
今考えればこのGonnaという言葉からも分かるように、もうおれは勝つことになっているんだと言う、自信のような意気込みがここに感じられるのであるが、しかしこれから何かを伝えようとする言葉にたいして、それが過去に決まっていたかいなかったかなんていうことを、いちいち気にはしてられないというのが日本人の本音ではないだろうか。
時々欧米人は日本人を何を考えているのかわからないというが、日本人の考えていることがよくわからないよいうのは、こういった言葉の使い方、考え方に何か関係しているのではないだろうか。
友人でどこか忘れたが欧米に出張である商品を買いに行ったそうである。
彼は英語があまり話せないので通訳をつけて行ったそうであるが、彼がこういうことをいっていた。
「欧米人はわかりやすい。普通言葉が分からなかったら相手が何を考えているかわからなくて不安になるけど、こと彼らに関しては何とかそれを必死で伝えようとするので、英語がわからなかっても、何となく表情や表現の仕方で、だいたいこういうことを望んでいるのかということがわかる」と。
これは自分だけの考えかもしれないが、欧米人はある事柄を必死で伝えようとする傾向がある。
日本人だと何か伝えようとして、相手がわからないようだったら、あっもうこれ以上言っても伝わらないと見切りをつけてくるのだが、しかし欧米人はそれでも身振り手振りで必死で伝えようとする。
時にはそれがおしつけじゃないのかと思うことさえあるが、それでも何かある事柄を伝えようとしていくのが彼ら彼女らのコミュニケーション文化かもしれない。
現に英語と言う言葉がそういう性質の言葉である。
日本人は何かを伝える時、このことを言えば相手はどううけとるかということを考え、常に相手の側に立つ、しかし英語は単に自分を表現する言葉であり、この言葉を使ってどう伝えるかであるが、こういう言葉の文化の違いが日本語と英語にはある。
こういう点で考えれば、彼ら彼女らが自分の家族に「I love you」だとか「I respect you」などと日本人なら少し赤面してしまうような表現を、家族に使うことも納得できるが、すごいおやじになると、自分の子どもや妻にたいして、お前は世界で一番最高だなんて言う事をいうが理解できる。
このことに関して新渡戸が子どもや妻というのは、日本人からしたら、自分の体の一部同然だから、ここまでしてほめるということは、いささかこっけいだというようなことを言っていたが、たぶん新渡戸がこう考えるのは、彼が欧米人の文化に深くかかわってきてからだろう。
あの欧米人が自分の家族をほめる言葉はわれわれから見たら、かなり大きな違いがある。
最近欧米人のそういう姿を見習って、われわれも家族に「I love you」みたいなことを言おうなどというようなことを言い出してきたが、しかしこういう日本語が持つスタンスからして、そこで安易に欧米人が語るような言葉をつかって相手をほめることが、はたして本当に相手を尊重していることになるのだろうか。
日本語と英語はあきらかに性質が違う。
言葉と言うのは自分たちの持つアイデンティティーであり、文化と言うものはまさに言葉がつくっていくものであるから、何となくいいからと感覚的に付和雷同に欧米文化に習うようなことは疑問である。