脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

性格がパンチドランカー

2019-04-29 | Weblog
今日ハワイアントーナメントのファイナルの組み合わせがファイスブックの記事に。そういえばここに出てたんだよなとノスタルジアにふける。小さな島なので大したことではないが、しかしこんな才能がないケグジェンイな人間を二人三脚で導いてくれたジョージとアレンには感謝している。

ジョージの正式名はジョージタナベ、日系人だ。ジョージとの出会いはカラカウアジム、ヒスパニックの人間とスパーをした時全然相手にならなくて、悔しくて悔しくてなぜかリングを見ていたら声をかけてきてくれたのがジョージであった。ジョージは謎多き人物だ。まわりの聞く話によると彼はボクサー時代は才能があってオリンピック候補にもあがるほどのボクサーであったらしい。でも素行が悪いのか何か事件をおこしたのかはわからないがはずされたと言っていた。その後はギャンブラーとなってハチャメチャな生き方をしてきたジョージ、私と同じぐらいの年の娘がいると言っていたが、しかしその娘とは合わせてもらえないそうである。私はなぜかジョージとはウマが合った。彼が私を気に入ったのは私がやんちゃ坊主だからと言っていたが、ジョージ曰く「ボクシングはホク(当時のキャプテン)のような人間はだめだ。お前のように少々やんちゃ坊主でないと強くなれない」そうである。韓国ではやんちゃ坊主をケグジェンイと言うが、これは実際にジウンによく言われた言葉である。しかしやんちゃと言っても威嚇するためにド派手なファッションに身をつつんだり、髪を染めたり、けんかをしたりしていきがるようなやんちゃさではなく(DQNのやんちゃは犯罪)、私の場合は自己主張がすぎるということだ。言わなくていいことを言ったり主張する。まわりのことを少しは見ろよと思うのだが、ベトナムの帰還兵をおこらせたり、元チャンピオンをブチ切れさせたり、挙句のはてにはクラブの連中の前で、まけたらお前らの視界から消えてやると優勝宣言をする。本当に今考えたら病気だったと認める。でもこんな人間だったから彼とはウマが合ったのだと思うのだが、そのおかげて私はジョージのボクシングを理解できて才能はまったくなかったが、それでも十分すぎるぐらいの実力は発揮できたと、今考えたらそう思える。私のボクシング人生はすごく楽しかった。失敗もしたし、くやしい思いもした、そして最後にはまけてしまったが、しかしジョージと歩んだその競技人生は自分にとってドラマのようであったし、充実していたと思う。

当時のハワイのトレーナーは競技者のことをボーイと呼んでいた。ボーイと言うのは私の息子と言うことだ。でもボーイと言っても日本の監督のように競技者をひょっこあつかいするのではなく、リスペクトをこめて対等にあつかってくれるそういう関係である。競技は思い切りしかったり、しらじらしくほめれば上達するが、人間の心や人格というのはリスペクトされなくては育たないし、競技そのものが本当の意味で充実したものにならないだろう。その競技をやってよかったと思うのはそこにお互いをリスペクトする気持ちがあるからだ。おそらく私が人として成長できたのはこのリスペクトがあったからだ、だから私は彼が私にそうしてきたようにここに来ている人たちを子供から大人まで心からリスペクトしたいと思っているが、それが私の方針である。

笑い話でいいことだと思ってはいないが、私もジョージもまっすぐには走れない、人とは違った方向に走るハチャメチャな人間、いわゆる病気である。私たちはまっすぐ走れないやつらのコンビだったと思う。


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착한 사마리아인 되기  Be the good samarian!

2019-04-26 | Weblog
私が学生のころ宗教学の研究発表があった。自分たちが決められた国の宗教や民族、そしてそこにどういう土着の宗教が根強くのこっているかということを調べて発表するのだが、私に与えられた課題は「アフガニスタン」であった。このアフガニスタンは今も民族の争いがたえず内戦などがおこる国であるが、この国を調べている時、私はあることが気になった。それは「The average life span(平均寿命)」という欄であるが、見て見るとアフガンの人たちは確か、50歳以下が平均寿命で、日本人の約半分しか生きられないと言うのである。これは衝撃的であった。原因として内戦などがあげられるが、しかしもっと深刻な原因は生まれて来て栄養失調ですぐになくなってしまう子供たちの存在で、そういう子供たちが平均寿命をさげているのだが、私はこの現実を見て、生きたくても生きることができない命があると深く思わされたのだが、そういう国はアフガンだけではなく数多くある。今世界が近くなった今、我々の取り巻く環境がかわり、スポーツももっとまわりのことを考えて行動しなければならない時代だ。そのため我々は人権や人間の権利、そしてそれだけではなくジェンダーあるいはバイオエシックスや環境問題などいろいろな立場から物事を見ていかなくてはならないと思っている。スポーツは思想であり、哲学的であると理解している。オリンピズムの精神はお互いの国のことを知りそして理解しリスペクトすることだ。だからスポーツ責任者はその世の中に現実に向き合い考え、行動しなくてはならない。もし何も考えず、刺激だけでスポーツをとらえるだけでは、スポーツの存在価値は、ローマ時代のパンとサーカスのサーカスにすぎず、そこからはスパルタカスは生まれても、プラトンやアリストテレスは生まれないだろう。

うちのクラブはわずかではあるが、ボランティアのひとつとしていくつかの団体に不定期ではあるが、ドネイションしている。そしてそのドネイションをする対象は一番弱いと思われる存在、そういう人たちに役に立ってもらいたいと毎月うちのクラブの名前でドネイションをさせてもらっているが、でもこの行為は本質的には自分の信念と言った立派なものではない、私の同情心ひょっとしたらそれは偽善的なものであるかもしれない。

the good samarianと言う物語がある。これは強盗にあって半殺しにされて道端に置き去りにされた男をまわりがかかわりたくないという中、一人の混血の男、しかも他民族で差別の対象であった人間がその男を救うという物語である。そしてその男が助けた理由としてあわれに思ったからと記されている。この哀れに思ったは原書ではσπλαγχνίζομαι(スプランクニゾマイ)と言って、それは内臓を表す言葉である。わかりやすく言うと日本語でも断腸の思いでと言う言葉があるが、男はそのたおれて傷ついている人間を見て、いたたまれなくなって、あるいはその姿を見て自分の心が傷ついたのかも知れないが、彼は心が動かされて同情して相手を助けたのである。コナンで自分を殺そうとした人間がビルの非常用階段からおちるところを助けようとした時、その男になぜ助けるのかと聞かれて「人を助けるのに理由はない」と言ったが、人を助けたり、支えたりするということはその人の信念の問題でもなければ善悪の問題でもない。この物語にあるように内臓が動かされたから、感情がいたたまれなくなった気持ちがそうさせたのである。マザーテレサが献身的に病気の人を癒そうとする理由を「私はその倒れている人の中にキリストを見るからだ」と言っていたが、人間が人を支えたり、助けようとすることができるのは、人に同情できるから、さらに自分が弱いと言うことを知っているからだろう。私自身も偉そうなことは言ってはいるが、しかしそういう気持ちにさせられるのは、自分が波乱万丈な生き方をしてきて、ひょっとしたら自分もそうなっていたかもしれないと言う同情や自分の弱さからである。

格闘技をやっている人間は強いということを誇張したがるがあほかと思う。ちょっとしたことができたぐらいで自分の運命を切り開いてきたみたいに言うような人間もいるが、しかし人間は自分ではどうすることもできない運命に翻弄される弱い生き物だ。だからこそ支えあって生きなくてはいけないのだ。若いうちはいろいろなことに逆らって生きるということもひとつの選択だと思う。でも広い世界に出て行っていろいろなことを経験して、感情性を養えばたくさんのことが見えてくる。私などは世界では幸せなことよりも不幸せとまわりから見て思うようなことのほうが多いのではないかと思っているのだが、スポーツをする人間はもっとまわりのことをよく知るために言葉をおぼえたり、勉強したりすることは必要なことだ。そしてそこで本当に自分の弱さを知って少しでも何かできたら自分は救われると言うのが私の考え方で、そういう弱い人間が集まるからこそその群れが豊かになるという逆説的な考え方もまた私の考え方だ。


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いささか横柄ではあるがブレない

2019-04-23 | Weblog
かなり前の話だが、某大手企業を退職して起業する人間からホームページの案内の文を書いたので見てほしいと言われ見た。起業する会社が教育関係だったので一言、経済ばかりで教育のことはド素人まるだしの文章、センスがない。生徒や子供や親を顧客と考えているのだったら別だが、しかしもっと本当に人を育てたり、かかわったりするのならばもっと広く学んで考え方を改めなくてはならない。自分が考えている理想や理念をしっかりとそこで表現できないとだめだ。親や子供が顧客だとやっていることは企業と同じ、誰もがここに来たら安心できると言うコミュニティや組織を作り上げるためにはしっかりと考え方を養うことは大事なことだ。母校でもいいからそういう関係の勉強を大学などで聴講したほうがいいとアドバイスした。

私がこのクラブを運営している目的は安心した、そしてここに来たら元気になれる健全なコミュニティをつくることだ。よく親しい会員がこうしたらもっと人は集まると言うと「俺は人集めをしてるんじゃない。コミュニティをつくってるんじゃ」と言っているが、特に社会でストレスをかかえ重荷をおう社会人、そして子供の受験などのろいろな悩みからここにきたら少しでも解放したいと思っている。そしてそのためにまず第一に考えるべきことは一番弱い部分をどう顧みるかと言うことだ。うちでの優先順位は女、子供、男と自然とそうなっているように思えるが、格闘技の世界ではマイノリティである女性やおっさんたち、ボクシングができなくても、試合に出なくてもお互いの個性を認め、人格を尊重できるコミュニティ、それはある意味少し高いレベルではあるけれども、少なくともここに来たら安心して、平和な気持ちになってもらえることを願っている。

ただこういうことは言うだけでは誰でも言える。言うからにはそれなりの努力と注意を怠ってはいけない。だから考え方をしっかりさせないといけないのはもちろんのこと、注意をはらったり配慮しなくてはならないこともある。その配慮の具体的な仕方として、受験生などの相談や話し相手になるように、英語の勉強なども教えている。英語は休日の朝から見ているが、習っている子供は結構できるが私も結構成績を伸ばしたと思う。事実トップクラスの子供の成績をのばしてきたがそののばしたことで信用されて、いろいろと受験や学校のことなども聞けるようになったと思うが、こういう進路を決めたり、生き方に影響を与えるようなことは、ただいいたいことを言うことではなく中身がなければ相手には伝わらない。勉強不足だと信用されないということである。前に知的な安心感はそのコミュニティのハーモニーを生み出すと言ったが、私が特に若くて向学心のある人間に興味がありそうな本をすすめるのは、そのことが少しでも彼彼女らの役にたてばいいと思っているからで、そのことが知的な安心感を与えると信じているからだ。コミュニティに知性がかけると、うさんくさいアウトローが集まってくる。なぜこんな人間ばかり集まるのかと言う集団は私の見解では知的レベルの問題、そのコミュニティを平和で健全にしたかったら、ボクシング以外にもっといろいろなことを勉強すると言うのが私の考え方、自分勝手でバカばかりが集まるとコミュニティがおかしくなるし自分自身がつかれる、子供のころから勉強しろというのはまさにこういうことであると思う。

윤하と言う歌手がいる。彼女は3か国語を話すらしいが、윤하のローマ字表記はYounhaであるが、日本人はこれを当たり前にユンハと呼ぶ。でも実はユナ、ハングルはリエゾンがあってすべてではないが子音の後に無音やヒウㅎきたらリエゾンする。ㄴ(ん)の音の後にㅎが来てアの音が来るのでユナとなる。


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実戦は大事だよ

2019-04-20 | Weblog
新撰組に斎藤一という男がいた。彼は三番他隊長で相当剣術の使い手で会ったそうで(一説では沖田よりも実力があると言われているが新撰組の解散後警官になり、後に師範学校で剣術を教えていたそうだが、その師範学校でこういう逸話が残されている。それは斎藤が剣術の時間、ある剣術の優れた生徒にカンか何かを持ってきて「君はこのカンを木刀でひとつきできるかね」とたずねたそうだ。しかし学生はそのカンをひとつきしようと試みるが、何度やっても木刀でそれをつくことができない。彼はできませんというと、斎藤はその木刀をとってひとつき、すると見事にカンは穴をあいて木刀にささったのだ。斎藤はその様子を唖然として見ていた学生達にこういう「これが実戦を経験したものとしていないものの違いだ」

ボクシングにおいても実戦つまり試合経験と言うのは重要だ(これは成年期においてのみ、子供は医学的にも脳などの影響から禁止すべき)、これはある意味練習では十分鍛えることのできない本能的な動きや勘、そして技術面においても今まで自分のやってきたことが通用するかしないかと言うことが試される機会であり、このことを通してボクシング面において大きく成長すると信じている。現にここでは一度試合経験をしただけであんなにかわるものなのかと感心するのだが、やはり実戦という場は我々を成長させる意味では大きな課題であることは間違いない。

私自身実際外国でボクシングを経験したが、そのことは非常によかったと思っている。外国に行って格闘技を経験すると言うことは、ある意味たいへん勇気がいることだ。私なんかは根性がなかったので対戦する相手すべてが強く見えて、トーナメントで勝って次の相手を見ても、次あいつだったら絶対けがをするなあなんてびびったものである。しかしおおがさだがそういうある種の極限では、自分の今までやってきたことを生かそうとする力がでてくる。たぶん意識的には無意識的にかわからないが、そういう力を発揮しようという力が働くのだろう、だから実戦というのは技術において一番成長できる場であると考えている。

私のクラスはヒスパニック系が多かったのだが、我々はヒスパニック系の人間に比べてパワーがないし、バランスも悪い。現に私の友人の台湾人がコーナーに吹っ飛ばされるのを見ているし、見ていて分かるが筋力が違うのだが、こういう人間を相手に競技すると言うことは事実自分の実力以上のものを引き出さなくては勝てない。しかししばらくして気づいたことだが、その筋力の違いはおもに練習法にあることにわかった。日本人は試合できつい減量をさせるがあれは間違いだ、ひどい話しになると成長期に10キロ以上の減量を強いるのだが、正直アマチュアで成長期にそういうことをさせるというのは狂気じみてるし、間違っている。日本人は何をするにもマイナス的なことからとらえるのだが、これに対して米国ではまずパワーをつけてくる。筋トレをしたりして体をつくってそしてパワーをつけてから、自分にあった階級を選ぶと言うようなやり方で、非常に合理的であるように思える。正直小学生でもこんなことぐらいわかると思うが、向こうがどんどんパワーをつけてくるのに対して、階級のことばかり気にして、体重をへらすことばかり考えるのでは差が出てくる。東洋人は他の人種に比べて筋肉量が少ないと言われているが、ヘビー級や大きいクラスではない限り体重は同じなのだから、パワーアップしていく選択肢もあると思うが、こういうことも私が海外と言う実戦という場を通して見聞広げたから考えさせられたことで、おそらく実戦は技術だけではなく、戦略や戦術なども考えさせられるいい機会であり、それはその競技をコーチしていく人間にも言えることだと思っている。

私はアジア人の友達とつるんでいたのだが、自分たちが冗談で言っていた言葉がある。
それは「See you later Humberger(試合が終わったらハンバーガーを食べよう)」であるが、私は試合を見に来てくれた友人たちと試合のたびにマクドナルドやバーガーキングに行っていたが、緊張がとけた試合後のハンバーガーとコークは格別であったことを思い出す。



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그 거리 Keep on asking, and you will receive what you ask for.

2019-04-17 | Weblog
私の仕事はこのクラブに来ている人たちをボクシングで遊ばせること。決して気合をいれてボクシングをさせることではない。ここに来たら思い切り楽しんでもらって日々のストレスを解消し、元気になって帰っていってくれたらと思っている。基本的にうちのクラブは社会人や女性のためのクラブで健康維持やダイエットが中心であるが、しかしとは言っても私はスポーツをすることの厳しさを知らないわけでもない。私も一応競技者であったので多少の厳しさはわかっているつもりである。
しかしそうであってもここではどっぷりとつかりたくない。それはこういう世界には余裕がなく、意地で生きている人間が多くてうざい、そういう人間たちにかかわって、クラブがそういう人間のたまり場になったら本当にボクシングをこれからはじめようとする社会人や女性が来にくくなるからだ。だからあえてボクシング色を出さないようにしている。私が一番嫌いなのは自慢話をする人間だ。自分はいかに努力したかということを大したこともないのに針小棒大に語り、それがさもすごいサクセスストーリーで自分はいかに特別かと言うことを厚顔無恥にも聞いてくれる人の前でべらべらとしゃべる、それがいかにみっともなく作法にかけているかわかっていないのだが、私は元競技者としてこういう類の人間は絶対に信用できない。コジョ!(消えろ)と思う。努力なんて言うのはいくらやっても足りないものだ、私なんかは才能がなかったのでいくらやってもこれじゃああかんわと思ってトレーニングしていたが、あくまで競争の世界でやっていくのだったら、努力したなんていうことを公言することはちゃんちゃらおかしいことだ。保育園のお遊戯でもあるまいし、自分はやりましたなどと言うことを誰に認めてもらうのかわからないが、本当に一生懸命やってきたならば、自分の努力が足りない思うのが自然のことだと思っている。そしてもしそこで勝てたとしても、さらに世界をひろげて行ったらその自分の実績がどんどん小さくなっていき、またさらに努力を続ける。でもいくら努力を重ねてもこの世界では到達できない次元がある。所詮スポーツなんて言うのは結局はそこにたどりつく、しかしそこにたどりつけるからこそ新しい可能性を見出すことができると思っている。何も持っていない意地だけで生きている人間はそういう小さな実績にしがみついていきるけれども、しかし人間は特に青年期に自分がやってきたスポーツなどの実績を一度すてて、また新しい歩みをはじめなくてはいけないことがある。その時何も持っていなければその小さな世界の実績にしがみつくしかない。私は競技者はスポーツ以外にも他のことをしろ勉強しろと言うのは自分の体験もあって、むしろ社会を生きていくならばここからが本当のはじまりであって、その時一歩踏み出す時に当たり前のことをやっているかいないかでは、これからの歩みをはじめるにあたって大きいことだと思っている。そしてさらに年をとって自分の生き方を振り返った時にああこういうこともあってあの時はすごく楽しかったなあと思える日が来る。そういうひとつひとつの経験が人生の年輪をつくる。年をとってからの魅力にもなるのだと思っている。私がボクシングの話をほとんどしないのは、こういう話をしだすと自慢話大会になるからだ。誰が一番すごいかなんて、でも俺はそういう自慢話をするためにボクシングをやってきたのではない。私にとって学生時代競技してきたボクシングの思い出はすごく貴重な思い出だ。日本では体験できないことをたくさん経験したし、この競技によって私は育てられたと思っている。

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減量に関しての一考察

2019-04-15 | Weblog
日本のアマチュアボクサーは減量のしすぎである。自分から言わせれば日本のボクシングはあしたのジョーの影響が大きく、おそらくこの減量と言うのもその影響があるのだろう、ただひたすらジョーと戦うため減量する力石の姿に感動し、これが男の生き方だと影響を受けた人間は少なくないと思う。
しかしあれはマンガの話である、そういうマンガの影響がもろに出てるのは日本のボクシングぐらいだと思っているが、いくらアニメ大国であってもあまりにも漫画の影響を受けすぎている。もう少し学習してせめて簡単な哲学書ぐらいの本を読んで考察する力を養う必要があると思っているが、一方アメリカでは減量をどちらかというとマイナス的に考える傾向が強い。日本ではよく来ているサウナスーツのような減量着がある。試合前になるとこういう姿の人間をよく見るのだが、しかしむこうでは減量着を着てトレーニングをする人間はいなかった、私がそういうトレーニングウエアを着てトレーニングしていたら、お前暑くてトレーニングにならないだろう。だからそれをぬいだらどうだと言われたぐらいである。ボクシングの本場であるアメリカ人は、減量をマイナス的に考えていると思う。よくそのクラスでチャンピオンになった人間がどんどん階級を上げていくが、これは大きいものに向かっていくほうが勇敢であるという考えがそこにあり、彼ら自身も体を小さくしていくよりも筋肉をつくって大きくしていくことにやりがいを感じるからで、逆に減量して小さい階級にこだわりすぎるとチキンと思われる。聖書にダビデとゴリアテと言う有名な物語がある。これはゴリアテと言う大きな兵士を当時まだ子供であったダビデがやっつけるという物語であるが、この物語は大きいものに向かって行ってそれをやっつけるという一種のサクセスストーリーのようなもので、日本人のチャレンジ精神が修行的な我慢に対して西洋人はこの大きなものにむかっていくことではないかと理解している。

日本のアマチュアボクサーは減量のさせすぎである。特に高校生や成長期にある人間に無理な減量をさせているのであるから、めちゃめちゃな話である。孫子は「兵法」で戦いにあたって食糧庫を確保する重要性を述べている。当たり前のことであるが人間腹がへっては戦ができぬという言葉があるように、食糧不足を欠いては戦いができないからである。自分は減量もこれと同じようにとらえている。腹がへっては練習に力が入らないし、練習のモチベーションもさがるであろう。それを精神力がどうのこうのいっても人間の力には限界がある。そこまで減量に力を入れるのであれば、減量で使うエネルギーをもっと練習に集中できるようにしたほうが合理的ではないだろうか。減量をすればするほど有利であると誰が言っているのかわからないが、減量すればするほど有利であることを科学的に証明できるだろうか。

屁理屈かもしれないが減量することは、肉体的にも精神的にも生物学上はマイナス的なことである。減量を失敗してまけたはなしはよく聞くはなしだ。一方自分は階級をあげて成功した例を知っている(自分もそのうちの一人である)。減量に関しても精神論的に考えを推し進めていくのではなく、もっと合理的に物事を考えていく必要もあるのではないだろうか。横文字が苦手だと理解できないこと多いし、何かを解釈することに関してセンスがないので物のとらえ方がいいかげんで時代錯誤だ。「男とは」とか「完全燃焼」という非グローバルな考え方は、もう通用しない、日本の減量と言う考えもこれに近いものがあり、もう少し冷静に考え直す必要があると思う。

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サンドバッグは担ぐものだ

2019-04-11 | Weblog
この前が外国の大学に留学していた会員と和製英語について話していた。スポーツには結構まちがってつかっている英語がある。ラスト30なんて言うのは典型的であるが、ジムで使っている「サンドバッグ」これはどういう起源でそうなったのかはわからないが、このままつかうと工事現場で使う「土袋」みたいな感じで、ボクシングの練習の道具ではない。もうサンドバッグ自体が言葉になっているので使っているが、正確には「パンチングバッグ」英語ではサンドバッグはたたくものではなく担ぐものである。

前に試合で審判の印象をよくしろと言うのは馬鹿げていると言った。誰のためにやっているのかわからないが、そういうことを強調する人間は国際社会でも通用すると思っているのだろうか?しかし審判の印象をよくしろと言っても、国際社会では英語が話せないと審判の印象などよくならない。日本人は自分たちの国の人間には偉そうにできても、よその国の人間には何も言うことができないから笑える。国際舞台では偉そうにできないから、反則をしないとか正々堂々と戦うと言ってみたとしても、なめられるだけだ。これからは子供にボクシングをさせるさせないということもあって、アメリカや、ヨーロッパのアマチュアボクシングは衰退していくであろう。そんな中ボクシングがさかんになってきている国は、中国をはじめ、死刑制度を認めていて、人権でしばしばたたかれる国である。ボクシングなどもともと荒いスポーツであるのだから、そんなところでおとなしくなって優等生ぶっても意味がない。とにかく自分たちの有利なように、あらゆる手をつかって勝つと言うことが求められるように思えて仕方がないのだが、こういう場で求められるのは日本人の持つ独りよがりの価値観ではない。言葉をおぼえて主張することではないだろうか?

言葉と言うのは生きている。私はそのことを実感しているが、コミュニティに何でこんなやつらがが集めってくるんだというようなところは、その責任者の言葉のレベルがひくい。きちんと正しい適切な日本語を話せばおのずとそのコミュニティはととのえられてよくなっていくと言うのが私の考え方であるが、コミュニティを平和で平等で誰が来ても安心できるコミュニティにしたかったら、語彙をふやし、さらに外国語をおぼえることだ。今どき、多少なりとも英語が話せないとみじめな思いをするし、国際社会では通用しない、単一民族でひとつの言葉しか話せないというのはその小さい世界にいたらそれがどれだけディスアドバンテージになるかということがわかっていない。語学が苦手、たいして本も読まない、言葉も稚拙、そういう人間がいくら何とか道とか薄っぺらい哲学もどきのことを話しても、一般化された常識とグローバルな視点んで見たらおかしいことはたくさんある。今日本はそういう膿がでかかっているのだろうが、これは西側諸国でスポーツをやっていた会員が言っていたが、特に日本の格闘技は向こうでやったら問題になるようなことをやっている。たぶんそういうことを理解していないと言っていた。少し前までテレビでスポーツ指導者が強くするには体罰は必要だとか言っていたが、相手を強くするためにたたくというのは個人の問題ではない。DVがやられる側が納得しているからいいという理論は通らない。それができないからどなったりなぐったりすると言うのは人権の問題、本人が納得しているからというのは無責任すぎる。どういうかたちであれ暴力は容認してはいけない、それはまわりの人間もほおっておいてはいけないことだろう。最近偉そうにテレビで強くするためには体罰は必要だと言っていた人間は世の中がそうではないという傾向になってきたので、そういうことを言わなくなった。あれだけ勇ましく堂々と言っていたが、形勢が不利になると言葉をひかえる何もいわなくなる身代わりのはやさ、やはりスポーツをやってきた人は違うと思うのだが、体罰と言うのは人権や子供が自殺した問題を考えても勉強不足で無責任な意見、それに対して自分は間違っていたなどとはいわない。私はこういう人たちがいくら熱血指導者であっても信用はしないであろう。おそらく縦社会中心の集団は自由とか平等、そして権利と言うものを考えない世界だ。そういう難しい問題は勉強しているかしていないかの問題で、これからのスポーツ指導者は私もそうだが、そう言ったことをよく理解するために勉強しなくてはいけないと思っている。







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安全で平和なクラブ

2019-04-08 | Weblog
英語の問題集でその文章の中から主張を選ぶ単語をひとつ選べと言うのがあった。こういう問題はすごく抽象的だ。たぶん分の構造を理解させるために練習問題として出しているのだろうが、こういう問題は主観もあるのでとらわれていたら前に進まない。答えを見てああそうかと言うぐらいでさらっと流したほうがよいだろう。これは私の主観であるが語学と言うのは日本語などの他の言語がからむと少しややこしくやることもある。韓国語の問題集もえっこんなこと普通言わないよと言うような表現や例文などもある。語学と言うのは感覚的なものでもあるから、理解できないことやわからないことはさらっと流すことも必要だ。私が思うできる人間とできない人間の違いは、できる人間は切ったり、すてたりできる人間だ。できない人間はひとつのことにこだわってそれができないと不安で前に進まない、進もうとしない。でもあるものを一度切ったり、すてたりすることで見えてくるものもある。私は宗教学と哲学を勉強してきたが、本を買う時はパッと見てこれはいいと思ったら買うことに決めている。でも買った本はすべて読むかというとそうではない。面白くないと思ったらそれをいちどすてて、また新しい本を買って読む。これを繰り返すことで自分にあったと言うか興味がある本と出会うのだが、そういう本を読むとすごく吸収する。私は参考書や専門書選びにおいても同じようなことをしているが、本というのは不思議なもので、自分にあった本や参考書が見つかると今度はそのすてた本が役に立つ、所謂興味がない、わからないと思ったら、それにとらわれずリセットして新しいものにとりかかるということ。そうすることで今まで見えなかったものが見える。読書と言うのは小説などを読んでその世界にひたって感性をみがいたり、表現力をやしなったりするのもそうであるが、本から知識を得ると言う意味では、ひとつのことに拘泥しないで、まず興味の対象となる本を見つけて、知識を広げていくと言うものひとつの読書の方法だと思っている。

少し話はかわるが、前にできないだめな指導者は組織やコミュニティで仲間を集めると言った。私はそのコミュニティや組織と言うのは、体育会のような稚拙なものではなくきちんと一般化されたルールと哲学を持って、時にはそのコミュニティにふさわしくないものをバッサリ切り捨てると言うことも組織やコミュニティのためには大事なことだと思っている。あほな上下関係や情でつながる仲間関係なんて言うのははっきり言って人間関係がごちゃごちゃ、あほなヒエラルキーの中でしか人間関係をとらえることができない、おまけに学習しないので、物事を一般化して何が正しいかということを理解できない。何々するなと言うルール=親玉や先輩の顔色をうかがう、こういう人間関係において問題なのは何が正しいかと言うことではなく、そこではいいやつになることである。私はスポーツクラブにそういう人間が集まってくると言うのは問題であり、はっきり言って集まってくるのはそのコミュニティの質がわるいから、きちんと一般化されたルールと哲学に基づいて運営されていないからだと思っている。スポーツクラブはいろいろな人が集まる公の場である。そのスポーツクラブが中高生の運動クラブの延長のような考え方で運営させていると言うのは非常に情けない話であるし、そのレベルだとやはり暴力的であったり、問題ある人間が居場所をもとめてくるだろう。うちのクラブには当たり前だがコモンセンスはしっかりしているし、そういう人たちが集まっているので、安心してトレーニングできるであろう。アウトローとかやんちゃですがいくらここに来ていいやつぶっても、大多数がそういうたぐいの人間ではないのでかなり浮くし、居場所がなくなる。ここでは暴力や暴言はもちろんのこと、マスなどでかーっときて敵意むき出しでなぐりかかっていくのは暴力、これ見よがしに武勇伝をほざいたり、はだかでトレーニングしたりする人間などいない。それはまわりがそんなことはまわりが楽しくトレーニングするためにはしてはいけないことと認識しているからであり、そしてみなさんがゆずりあってトレーニングしてくれるのは、このコミュニティを大事に、安全にそして平和で楽しくトレーニングできたらいいと考えてくれているからである。

最初にコミュニティはそれにふさわしくない者は拒んだり、切ったりすることは大事だと言った。きつい言い方だがうちにははっきりとした基準がある。そしてその基準はここに来てくれているまじめでおとなしい会員の人たちに楽しく、安全で平和にトレーニングしてもらいたいためのものであり、それはある程度の基準に立っていると思っている。私は人に好かれたいとはまず思わない。ただこの場が平和であることを第一に考えて、コミュニティは認める、育てる、そして時には切ると言う選択も必要だと思う。






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スポーツとボランティア

2019-04-05 | Weblog
うちのクラブはスポーツをかけもちでやっている中高生も少なくはない。今日その中学生にある質問をした。それはクーベルタンって聞いたことがるかと言う質問だ。でもその子は知らないですと言うので、スポーツをやっていたらそれぐらいは知っとかなくてはだめだ、ピエールドクーベルタンはオリンピックの創設者、オリンピズムと言う考え方があるけど、オリンピックは競技者の単なる自己満足の祭典ではない、いろいろ国が集まってその国のことを知って相手のことをリスペクトしてひとつになると言う目的がある。と言うことを説明、そういう意味ではスポーツすると言うことは広い視野をもつこと、世界の現状をよく見るためにはスポーツだけではなく勉強もして、視野を広げることも大事なことだと言った。

実際私も海外に出るまでは本当に自分だけの小さい価値観で生きてきたと思う。うちでは特に人身売買などで犠牲になっている子供に少額ではあるが、そのことをおぼえて支援している。そしてそれは微力であるが、そういう働きを多少することで少しでも関心をもってもらいたいと言う思いがあるが、そういうところに目を開かせてくれたのは韓国人の友人で、私は彼女から韓国の養子問題の話を聞いていたたまれなくなり、そういう問題に目を向けるようになった。韓国人の養子問題は深刻だ。当時の韓国社会では女性は社会で蔑視されているので、子供を産んでも男がにげたり未婚であると仕事ができず、断腸の思いで子供を養子に出さなくてはいけないということが実際にある。最近韓国の芸能人が発足した、ミルクのひげプロジェクトと言うプロジェクトがある。ミルクのひげとは赤ちゃんがミルクをたくさん飲んだ時に口から出てきてたれる様子を表現したものだが、韓国では養子に出されるために待機している赤ちゃんのミルクが不足している。その待機している赤ちゃんのためにグッズを売って寄付しようと言う働きである。世界には我々では想像でしか知りえない現実がたくさんある。スポーツを競技すると言うことは決して自分の記録だけを伸ばして、自己満足するのもではないだろう、やはりいろいろな人たちと交流してそこでたくさんのことをわかちあえば助け合いが見えてくるのではないだろうか。私が一番残念だと思うのは、それしかできない、外の世界に出たことがない人間が世界を目指せとか全国制覇しろなんてでかいことを言うことだ。そういう発想は侵略戦争的な発想、外の世界を知らない、それしかできないと言う人間が言うと、発想が下品で心が豊かではない、少なくとも教育的ではないと思っている。それしかできない、単一民族、一つの言葉しか理解できない、外の世界に出て行ったことがない人間の発想なんてたかだか知れている。これは個人的な意見であるがそういう人間には人の痛みを理解できる力がとぼしいと感じるからで、痛みと言うのは感情ではなく、頭でも理解しなければ伴えない痛みがある。頭で理解しなくてはないと言うのは、少し例がわるいが、例えば幼児婚と言う風習がある。そういう風習は本人たちはわるいとは思っていないし、それで貧困からすくわれるなどとうそぶくこともできるのだろうが、こういうことは世界を広げて人権と言う枠を考えたら明らかにそれは非人道的なこと、しかしそういう世界でしか生きていないとそれがどれだけ非人道的化と言うことがわからない、おそらく一夫多妻制も女性蔑視になるのだろうが、そういう自分たちのことも含めて視野を広げて考えることも大事なことで、それができないとそういう風習をなくすことはできない。そして体育会にかけているのは実にこのこと、もう少し、言葉を覚えて勉強しろというのは、自分たちの組織自体を村社会から脱却させなくてはいけない、ただ何々するなと言うルールでは根本的にはかわらない、もっと学習して視野を広げて脱村社会しなくてはだめだと思っている。私自身もまだまだ知らん無くてはいけないことがあるが、痛みを伴い、助け合うと言うことはスポーツの精神において大事なことだ。そういう痛みを知って伴う気持ちや覚悟があるからこそいろいろな民族や国の枠をこえて助け合いの精神が生れるのだと思っている。

うちで募金するプライオリティは一番弱い存在をおぼえると言うことである。震災の時は一番弱い幼児をおぼえておむつをおくった。そして今は人身売買で売られていく子供、そしてミルクのひげプロジェクトの幼児たちもそうである。実はミルクのひげプロジェクトに協力しようと思った。でも哺乳瓶などのグッズが売り切れでできなかったが、これだけグッズが売れていると言うのもやはりそういうことに関心を持っている人が増えて来たと言ううことで、ある意味世界が広がってきていることだと思う。口で言ったり、募金箱を置くということも大事なことであろうが、しかし実際に少しでも痛みを伴うために募金をしたり、ボランティアをすると言った精神は大いに重要なことだと思っているし、私自身弱い人間であるが、しかしこれらの気持ちを大事にしたい。







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ポミワッソ 

2019-04-03 | Weblog
英語が苦手な人の特徴は話を簡潔にまとめることができない、所謂話が長い人だと思っている。日本語の表現は英語に比べてまどろっこしい。例えば悪代官が会社の語学研修でフィリピンに行くらしいが、それを日本語で言えば私はフィリピンに語学研修に行くであるが、英語では簡単にI will study in philipines.で十分通用すると思う。訳本でもそうだが、英語から日本語に訳すとページ数が倍以上になり、逆だと半分、自分の言いたいことや伝えたいことを簡潔に伝えるのが英語の基本であると思う。そして特に簡潔に伝えているのが自己啓発本である。ある脳科学者の本はどちらかと言えばそれに近いのだが、自己啓発本はフレーズをそのまま相手にインプットさせるために、非常に簡潔で日本語で言うところのSVO SVC SVOOなどの文法が明確で日本人には読みやすく、最近Medical studentの学生にすすめた脳科学の公演の本はわかりやすいのだが、私は人に英語でどういう本を読んだらいいかと聞かれたらそういう類の本を紹介している。

これは個人的な意見だが、英語で一番難しいのはおそらくジョークであろう。私が最近面白いと思ったのはTEDと言うプレゼンで講師が語るジョークである。プレゼンの中には40パーセントぐらいがジョークで語られているのもあるが、その内容を聞きとれたらたいしたものである。この前もフィッシング詐欺に注意と言うことで講演をしていたが、実際にその講師がひっかかったふりをしてメールをおくるのだが、その切り返しが非常におもしろくて笑ってしまったのだが、そういう場で使われるジョークはウイットに富んでいる、何か一本とられたと言うような満足感のある笑いである。

これに対して私はお笑いは大嫌いで絶対に見ない。理由はやっていることがいじめに近い、私が特に不快に感じるのはお笑いで人の頭をたたくこと。これって暴力ではないのか、少なくとも人の頭をたたくと言うことはその人の人権を軽んじているということになるのではないか。人によっては自虐的なネタで人からさげずまれたりバカにされたりすることをあえて選ぶ人間もいるが、こういう人をさげずむようなやりかたは倫理的には灰色で教育上よくないと思うからだ。まあうちの子供もよく見ていたが、しかし最近本を読むようになってみる番組が少しかわってきたのだが、笑いは人を豊かにするものだ、しかしそういった類の笑いは人の刺激を満足させるだけで、刺激だけを求めていたらいつの間にか度をこえてしまうだろう。

これはよくあげている聞いた話だが、それは施設にあずけられて、そこで育てられた人の話、彼女には親からつけられた名前がわからない、だから名前がないと思っていた。そして彼女が大学に進学し、そこで年下の男性と知り合い、お互い結婚を意識する。そこで彼女はその男性に自分がコンプレックスになっていることをうちあけたそうだ、自分は施設にあずけられてそこで名前があたえられた、そのことがコンプレックスになっていると。しかしそれを聞いたその男性はこうう言ったらしい「神様にも名前はないんだよ」十戒と言う戒めの中には「神の名を勝手に使うな」と言う厳しい戒めがあって、彼ら彼女らの神には名前がない、この戒めを彼はジョークにしたのだ。それを聞いた彼女は大いに笑ったらしいが、その女性はその男性のジョークによって、笑いでコンプレックスを乗り越えた、そしてその後二人はゴールインしたとかしないとか、なんともできすぎた話であるが、これは笑いの豊かさを伝えた二人の実話?物語であるが笑いは基本的に人を豊かにするものだと思う。






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