脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

日本語は世界一難しい 高知のボクシングジムMTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

2022-07-31 | Weblog
あるユーチューバーが人と会話するのは小学5年ぐらいのボキャブラリーで会話したほうが相手に言いたいことを明確に伝えれる、だからその程度で十分だというようなことをいっていた。金を追うだけの仕事ならともかく、人を扱う仕事は言葉は大事だ。そもそも小学5年レベルの人間が集まったところでどうなるのかはわからないが、言葉は単なるツールではない。それは人格やコミュニティそして社会を形成するものである。玉村文郎 の「講座 日本語と日本語教育(6)日本語の語彙・意味(上)」によれば 「英語とフランス語とスペイン語では最頻5,000語を覚えると、それぞれ文章の93.5%、96%、92.5%を理解できるのに対し、日本語の場合は最頻5,000語をおさえても理解できるのが81.7%に留まる。」らしい。他言語を話せる準日本人の立場から言わせてもらうが、日本語のようにこれだけ奥深くて表現力のある言葉は他に類を見ないと思っているが、それはやはりボキャブラリーの多さにあると思う。
正直難しい言葉で会話できるのはその人の品格、ある意味ステータスをあらわすと言ってもいいだろう。言葉はその人の教養や知的レベルに比例する話し合いでもボキャブラリーが少ないと話についていけないし、時々的がはずれたようなことを言う人がいるが、正直ボキャブラリーに差があると話し合いの場ではかなり差がでてくるが、それは建設的に共通理解を求める上ではなおさらのことである。
簡単に要領だけを伝えるには5年生ぐらいのボキャブラリーでいいと言うことであるが(もちろん国語を学ぶ必要はないと言うことではないと思うが)私は未だにやっている作業がある。それは国語辞書をひくということである。国語辞書を引くことによってボキャブラリーが増えることはもちろんのこと、わからない言葉をひいて調べることで、自ずと難しい言葉を簡単に説明できる整理力が身につくのだが、事実人から自分の言いたいことや何かを説明する能力が高いと言われるのは国語辞書による訓練の賜物だと思っている。何かを簡単に説明したり伝えたりするのももともと難しい言葉を簡単に説明する要領で伝えるのと、もともと持っている少ないボキャブラリーで伝えるのとは大違いである。さっきも言ったがただ金を追うだけの仕事ならまだしも成長したければ状況に応じてあえて難しい言葉を使うのもありだと思う。

参考文献
以前は参考程度なので出版名をあえてあげていなかったが、今回は正式に。形式は文系なのでAPAスタイルで。
玉村文郎 『講座 日本語と日本語教育(6)日本語の語彙・意味(上)』明治書院 1989年 155p

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Opposition to patriarchal system  高知のボクシングジムMTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

2022-07-28 | Weblog
家父長制は今の時代は何のメリットもないだろう。イスラム原理主義やタリバンなんかは徹底した家父長主義であるが、昔みたいにまだ民主主義的国家が確立していない戦争が頻繁にあったような時代であれば、夫をなくした女性を保護すると言う点では多少の合理性があるのだろうが、しかし今の時代にはナンセンスである。私は徹底した家父長制は不平等で時には弊害を生み出すと思っている。うちのクラブでは毎年年間10万円ぐらいの予算でドネイションしているが、そのドネイションしているひとつの団体が、女性だから教育をまともに受けられない、受けられないから人身売買の犠牲になっている子供たちに教育を受けさせるために援助しているI am a girlと言う団体であるが、やはりそう言った背景には家父長制がある。家父長制のシステムではかならずその犠牲者となるのが女性や子供である。うちでは責任者がお父さんで競技者がその子供たちと言った関係は築かない、所謂あの子扱いはしない。それはジムにその家父長制のシステムを導入しないためである。前回も言ったが私が下品でそういう理不尽な男の世界の象徴であると思っているのが、飲み会の席、会社などでも飲み会で女性に酒をつがせたり、男性の隣に女性をすすめたり、女性のとなりに男性をすすめる人間はわかっていないのだろうが、女性をそういう対象でしかみていないのに等しいと思う。なんでもそうだが、その群れで動物のように力関係を重視して強い弱いと言う物差しで見ると当然男が目立つ、おそらく前回言った飲み会などで男性のとなりに女性をあてがう女性も自然とそういう中では、そうすることが気が利いた行動だと錯覚しているのだろう。しかしそう言った行為は男性中心の世界で女の立場を決めつけて、人にそうすることを押し付けている。それらのメンタリティは古代社会と変わらない。しかしそれらは公平に考えたらハラスメントだ、そういう色恋を求めているのならばどうかわからないが、しかし社会では違う。おそらくそういうことができるのは狭い世界で生きて来たからだ。

英語を読めたり話せたり、海外に行ってみればわかるのだが、今こういうことにたいしてかなりストリクトになっている。私はある意味やりすぎだと思う部分もあるが、しかしこれからのスポーツ指導者はこれらのことも含めて勉強しなければ世の中の動きにはついていけない。何年か前外国暮らしが長い人間とある悪人の話をしていて、その時私が「そういう奴はイ〇に爆弾をくわえさせてつっこませればいい」と冗談で言ったところ、彼は笑いながらであるが「それ絶対動物愛護団体が聞いたら思い切り抗議されますよ」と言っていた。私はすかさず「出典はyoutubeじゃ」と言ったのだが、彼のように外国暮らしが長くなればこういうことに対して敏感になる。事実私も英語で記事を書くときかなり考えて書いているが、その感覚は今の時代には必要なことで、そういう感覚を養い、理解するためには外の世界にふれたり、哲学や心理学や社会学を学ぶ必要がある。だから英語は不可欠である。
私はフェミニズムを支持するわけではないが、しかし日本のスポーツ界は未だに家父長制のシステムが色濃くのこる。最近でもいくつか監督が暴力をふるったなどと記事が出ていたが、しかし昔だったらこれらもお父さんがその息子娘たちのために思ってやったことだから愛のムチで通るわけだが、日本は未だこういうメンタリティが染みついているのだろう。大事なのはいまこういうことにうるさいからしない、気をつけるのではなく、そういうことは暴力だとかハラスメントだと言うことを理解する。そしてまわりがそういうことをしてはいけないと言う認識を確かに持つこと、だからスポーツだけではなく勉強もしっかりとさせる必要はあると思っている。

よく外国人が何を考えているかということを知るには宗教を知ることは大事だと言っているが井筒 俊彦 さんと言う有名なイスラムの研究者が書いた「イスラーム文化-その根柢にあるもの」と言う本がある、岩波文庫から出ているので、多少文体がかたく読みにくいが、イスラム教とは何かそしてそれが及ぼしてきた文化についてはおよそわかるのでおすすめである。

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スポーツ指導者はオリンピズムを知らないとはずかしい 高知のボクシングジムMTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

2022-07-22 | Weblog
私はよくRadio Free Asiaと言うアメリカの congressが発表しているアジアの情報があつまったホームページを見ているが、これはアジア研究などを専攻している人たちにとって必須のホームページである。
今そこがリークした画像と動画が問題になっている。それはミャンマーの村人が入手した国軍兵士の携帯電話に残っていた動画や写真であるが、動画には民間人を虐殺したことを自慢げに告白する会話の他に、殺害した民間人とともに写る兵士の写真も残されているそうである。 動画は英語の字幕付きであるが、そこには「俺は何人殺した」とか、「子供のころから人を殺すのが好きだ」とか、反吐の出るような殺し自慢が語られる。おそらく生きていく上でそうなってしまったのだと思うが、しかし人を殺すことを自慢するというのはありえない、人権団体などは軍による人権侵害の新たな証拠であるとしてミャンマーの軍事政権を厳しく糾弾しているそうである。

オリンピズムの根本原則 2にはこう記されている。「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。」すなわちスポーツの目的は平和をもたらすためのものであり、オリンピックが平和の祭典といわれる所以である。アマチュアの最高峰がオリンピックであるならば、それが根差している世界はオリンピズムの世界である。指導者はスポーツの本来の目的そしてそれがどこに根差しているかということをよく理解する必要がある。日本の運動クラブの体罰や不条理は勝利至上主義の原理がもたらすものだ。スポーツは争いごとではない、争いごととしてスポーツをとらえると心に余裕がなくなり、そのスポーツそのものを本来の意味で楽しめなくなる。さらに争いごとを優先させると、力関係が生まれやすい。競技自慢ややんちゃ自慢、けがをしたとかさせたとか、集団になって武勇伝や強さ自慢をする輩は、まさしく人を何人殺したなどと自慢する兵士とメンタル的には同じで、こういう暴力をあつかうスポーツは、いくらアホでもそういうことを言う奴が目立つからやっかいで、当然そういうと目立つマウントが取れると思って言う人間もいるだろう。
私は平和なジムを築きたいと願っているが、そのためにはスポーツは争うよりもリスペクトすることの方が大事だと言うことを理解してもらう必要があると思っている。最初の兵士の話ではないが争いごとが優先すると必ずそこには弱者が生れ迫害されたり、みじめな思いをする。うちのクラブには女性や中年の人が多いがその人たちが親しくなって教えてくれることは、「最初若い人や上手な人に交じってトレーニングするのは自分が足をひっぱるのではないかと言う思いがあって申し訳ない気持ちがあった。」ということである。特に中年の人はこういう思いを持って意を決してジムに来てくれるのだが、多くの中年層の人はこういう若い人が集まるような集団でかなり遠慮していることがわかる。ジムでは中年層や女性を適当にあつかってはならない。その不安や心配を理解し、目的をリスペクトする。ジムでは誰が一番弱い立場かと言うことを考えて、自然とそういう人たちが平等にすべてのことに参加できて楽しめる環境をつくることは大事なことで、そのことがジムを健全なかたちで運営していくことであろう。

参考 
"they are going to kill us"

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I like dogは食用の犬が好き

2022-07-20 | Weblog
最近自習室と称してレンタルルームをはじめているビジネスが増えて来ているらしい。どこかのビルに自習できる環境とスペースを提供しているそうだが、そこには国家試験やその他の割と難解な試験勉強をするための利用者が増えているそうである。ここ最近私が思うことは若い人たちがキャリアアップのためか勉強熱心になってきたことである。ジムでも実際、語学や難解な試験を目指している人もいるし、海外の大学や大学院を目指している人もいる。私も実際彼ら彼女らが英語で論文を読むための指導をしているが、人によってはレベルが高く、社会人になってもキャリアアップのために一生懸命する彼ら彼女らには心から尊敬している。

話しは英語の話になるが「I like dog」は私は食用の肉が好きになることを知っているだろうか?英語で犬が好きと言う時「I like dogs」が正解であるが「I like dog」がなぜ食用の犬が好きになるのかというのは、犬を加算か不可算でとらえることの違いで、犬を不可算でとらえると食用の犬になる。これをもうすこし詳しく説明すると「I like dog」の「dog」には冠詞がついていないので「dog」は不可算である。私は加算か不可算を教えるときに加算はかたちをうしなえばそれがそれだと言えないもの、そして不可算名詞は切ったり、かたちをうしなってもそれがそれだと言えるものだと説明している。すなわち水や紙は切り取っても水あるいは紙と言うことができるが、チョークが不可算なのはまさにこのことから言えることだ、不可算は切ってもかたちをうしなってもそれがそれだと言えるのだから、もし犬が切ってもかたちをうしなっても犬だと言えるとしたらこまぎれとか手羽先のように食用となる。よって「I like dog」は食用の犬が好きとなる。
しかしそもそも犬を食べると言うのは日本人や欧米の文化からしたらとんでもないことである。この犬は韓国語ではケッと言うがこのケッは侮辱的な言葉だ。韓国語にはケッセ○キとかケッをつかった罵り言葉がかなりたくさんあるのだが、韓国人は犬に対してあまりいい印象を持ってはいない。ソウルオリンピックの時に韓国人は犬を食べるということがヨーロッパ社会で大きな問題になってソウルオリンピックが開催された時そういう店が表からきえたとか言う話を聞いたが、犬を食べるというのは愛犬家の多い欧米にとってはもはや文化の違いではすまされない問題である。最近ではドッグラバーの間では犬をケッではなくカンアジと言う言葉を使って表現しているのだが、犬はペットとしての権利をかくとくしつつあり、その食文化はなくなりつつあるようだ。
犬はヨーロッパ系の人間にとってはパートナーであって家畜ではない。だから犬を食べるなと言うのは国際的な主張として正しいであろう。しかし同時に日本人はそう言いながらも馬を食べるのだから不思議である。





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和製英語注意

2022-07-16 | Weblog
パワハラと言う言葉が前から巷では横行しているようだ。しかしパワハラと言う言葉は英語にはない。正直この言葉は現代の日本人らしい言葉であると私は思っているが、もともとパワハラにあたる言葉はモラルハラスメントと言ってイルゴイエンヌと言うフランスの心理学者が提唱した言葉で、これはおもにDVなどの言葉を含めた暴力に対して表現された言葉である。そして英語圏ではセクハラとかパワハラと言う言葉をHrassmentと言う言葉でひとくくりにしていると思われる。ハラスメントとは属性や人格に関する言動などによって相手に不快感や不利益を与え、尊厳を傷つけることだが、これは何も上司や学校側と言った一般的に権力があるとみられる側だけの問題ではなく、すべての人間に当てはまる行為である。常識はずれで、不真面目の部下の行動や言動に悩まされているとしたらこれはハラスメントと言ってもいい。日本はまだまだ縦社会なので縦の軸でしか人間関係を見れないが、しかし西洋は縦軸に神様がいて人間はその神様のもと平等とされるのでフラットな関係で人間関係を見れるのだ。同じ人間と言うことを考えたら、アカハラとかパワハラと言う言葉自体が平等性をあらわす言葉ではない、逆にその属性の職業や立場の人を限定して攻撃しようとしているのだから、かなり不平等な言葉だ。少し話は極端になるかもしれないが、昨今学校ではどんどんとこどもや親の権利が強くなって、教師の権威がうしなわれつつある。それは大学にも浸透してきてアカハラなる言葉がまさにそうだ。金髪で教師を教師とも思わない態度で授業をうける、いやになれば授業をさぼったり、勝手に帰るような態度の子供がいたら、それをうけいれなくてはならないのだろうか、そして理不尽な親に対しても我慢して自分を犠牲にして、相手を納得させるまで頑張らなくてはならないのだろうか。もしそうだとしたら教師に人権はない、最初にハラスメントとは属性や人格に関する言動などによって相手に不快感や不利益を与え、尊厳を傷つける行為だと言ったが、この子供の行為はまさにそう、それを容認する親も同じ、そういうことに対して何もできないと言うのは人権を無視されてるのと同じことだと思う。日本人はフラットな関係を理解できないから、西洋から入ってきた人権の意味がよくわからない、よくわからないしうまく解決できなから、どこに責任を押し付けるか、所謂誰をスケープゴートにするかということで、そのためにでてきたのがパワハラとかアカハラのたぐいの言葉であると思っている。



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エスノメソドロジー(会話分析)

2022-07-11 | Weblog
どういう人たちがMTオリーブフィットネスボクシングクラブに集まるかと言うのはコミュニティの課題と言ってもいいだろう。なぜならそのコミュニティの秩序や道徳、倫理はその集まった人たちの感覚によって決定されるからで、平等、平和で安心できるコミュニティはそこに集まっている集合体によってもたらされるからである。社会学の用語にエスノメソドロジーと言う言葉がある。英語で表記すると”hethnomethodology”であるが、”ethno”は一般の人びとや民衆を意味する言葉、そして”methodology”は方法論を意味する言葉で、エスノメソドロジーは民衆を知るための方法論と解釈してもいいと思う。医者にとって何々とは教師にとって何々とはと言う、その何々を人々の会話やその営みを調査し理解することで彼ら彼女らの社会の本質が見えると言うことだが、それはそれぞれの社会はそれぞれが持つ共通認識によって成り立っているともいえる。うちのクラブの人たちが考えている倫理とは何か、それは特に定義しなくてもひとりびとりの行動や会話から見えてくる。私が思うクズ行為はくわえたばこをして平気で歩く奴、うちのクラブの人たちはそういうことをしないが、時々ジムの前を煙を吐きながら歩いているやつがいるが、火のついたものを持ってぶらぶら歩くことでこどもにあたったらいけないと考えるのが普通の感覚である。しかしDQNはこんなことをしたら人に迷惑がかかると言う考え方が希薄なのだろう。私はコミュニティを管理することで問題にしているのは、あいさつができるとか、人にあわせて話ができるとか、そういうことではない。その生活様式から出てくる言葉や行動である。力を込めた時に出てくる多少乱暴な言葉はありがちであろうが、しかしその人そのものの性格や品性下劣さをあらわすような乱暴で下品な言葉、例えばケガをさせたりしたりするのは当たり前でそれがむしろ特別なことをやっているかのごとく自慢する。武勇伝なんかまさにそうだが、人間は考えていることは必ず言葉と行動に出る。こういう人間に実戦練習をさせると、カーッと来て敵意むき出しでなぐりかかって行ったり、実力差があるのにここぞとばかりに容赦なくなぐる、おらかかってこい的な実戦練習もそうだが、根本的に生きる世界がずれているやつは人に迷惑や危害をくわえる、実戦練習をさせたら相手に不快なけがを負わせることは目に見えている。その人間がどういう世界につながり、生きているかと言うのはその人の行動や言葉を聞いていたら理解できる。そういうところから人間の本質を見て判断しているのが私の管理法である。ジムでは絶対に暴力的なことや反社会的なことがおこってはいけない、おこらないようにつとめているが、それは一般の社会人がここに来たらそういう奴らに遠慮したり警戒することなく、堂々と自由にトレーニングしてもらえるためである。うちの会員の人たちはよき社会人であり、家族を大事にするよき父親や母親たちで、まじめに生きている人たちである。私はこういう人たちをなるべく大事にしたい、そのためにはズレた人間を排除することも時には必要なことであり、たかだかボクシングができるぐらいで大きな顔をさせないと言うのが私のポリシーである。手前味噌だが、うちのクラブは本当に平和である。おそらくそれは会員の人たちのおかげであり、彼ら彼女らの行動によって、ジムが平和でかつ健全に保たれているのだと思う。現に私はそのいい影響でずっと無事故無違反、極力社会の役に立つ行動を意識するようになったのは確かである。

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参考文献
前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編 「エスノメソドロジー人々の実践から学ぶ」

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Structuralismから学ぶスポーツのコミュニティ

2022-07-06 | Weblog
構造主義と言うワードが哲学にあるのだが、簡単に言うと「人間は、自分の意志で考えて行動しているように見えて、周囲の環境や役割や立場によって、無意識にその考えや行動が決定づけられている」と言うことで、これはスタンフォードの監獄実験の例を挙げてみるとよく理解できることである。
うちでは時々いじめられているから強くなるためにボクシングを習わせるという親が来る。でもちょっと考えてほしいのは、それはその子が本当に願っていることなのかどうかということだ?本能的に人をなぐったり、傷つけたりできない優しい子供は存在する。そういう子供に無理やり格闘技を押し付けることはもはやその子にとって苦痛でしかない。そういう子に無理に格闘技をさせることは、セカンドいじめであることに気づいていないのだ。いじめは大人が関われば他にも解決法がある。格闘技を押し付ける人間は、よわいからいじめられるんだと、無意識のうちにそういう構図を認めているのかもしれない。いじめの構造については後日語りたいが、うちのクラブは暴力はほぼないと言える。暴力というのはマスボクシングで力のあるものが一方的に相手を痛めつけるのもそうだが、かかってこい的なマスボクシング、一発当たってカーッきてなぐりかかっていくのもそうだが、女性がいるのに裸でトレーニングしたり、特定の集団が優先的にトレーニングすると言うのも力の行使、ある意味暴力である。いじめにしろ暴力にしろそれをそうたらしめる構造が存在する。特に運動部の暴力は家父長制がその元凶となっていると私は見ているが、家父長制は勝利至上主義の原理において言うことを聞かせるには都合のいいシステムだ。こういう世界では強くなるためとか、お父さんである監督がお前のためだと言うことで大義となり、少々の暴力や暴言も容認されるが、それはそれを取り巻く人間も加担していることが多い村社会、そういうシステムが不平等や差別を生み出すと思っている。私はこういうシステムを容認しない。アホなヒエラルキーを徹底排除している。だからジムでは暴力的なことがおこらず、平等であると自負している。私がボクシングと言うスポーツに魅力を感じたのは、ボクシングはマイノリティが生き生きと何の差別や偏見もなく競技できる平等なスポーツだと感じたからだ。ボクシングと言うスポーツにおいて我々は完全に平等である。親玉や先輩後輩、上の人、偉い人は存在しないし、ジムに一番偉い奴をつくった地点で力のバランスがくずれて、アホなヒエラルキーができて不平等が生じる。競技者やその取り巻きたちが自分たちは楽しくやっている。ジムは平等だと言う一方で、リングをつかうのは取り巻き競技者優先、競技者のいない時間にいかなくてはまともに教えてもらえない、ミットすらもってもらえないと言う人たちが存在したら、それは間違いなく不公平だ。私が思うにスポーツのシステムに親玉をおくと、力の関係が生れ、それは意識しようがしまいがサルのようなヒエラルキーができる。私が目指しているのがジムのメンバーが何人かいて見学の人が入って来て、ぱっとまわりを見わたして、誰がこのジムの責任者かわからないと言うぐらい存在感のない人間になることである。うちのクラブの人間はほとんど私を名前で呼んでくれるが、正直よくボクシングで使う会長とか言う言葉、非常に下品で偉そうであると私は思っている。

参考文献
飲茶「正義の教室」

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Soumissionと言う小説

2022-07-05 | Weblog
ある実業家がイスラム教は我々の理解をこえて異質であると言うような発言をしていた。彼は宗教学を学んだわけではないので、あまり言いすぎると問題になるが、しかし彼の言うことはわからんでもない。
9.11以来少しイスラム教に対して風当たりが強くなりつつアメリカで、あるイスラム教徒がインタビューで、自分は何回も職務質問されたと言っていた。どうやらテロ=イスラム教徒結びつけられているようだが、トランプの発言もそうだが欧米では、それ以来いささかイスラム教徒に対しての風当たりが強いようである。私はイスラム教をわるい宗教だとは思ってはいないし、差別する気はない。ただその性質がテロに利用されやすい宗教でそこに大きな問題があるだから警戒もされやすいのだろう。キリスト教特にプロテスタントが個人の信仰によるものだとするとイスラム教やユダヤ教と言うのは共同体の宗教である。もちろん信じるのは個人であるがしかしその信仰は親などによって継承されそれが共同体によって守られていく宗教でそれゆえに強固なものとなるのである。キリスト教などの個人宗教は戒律など存在しないが。イスラム教には戒律が存在し、その戒律が社会全体によって守られていくことはよく知られていることで、日本人がよく理解できないのが、日に何度かメッカにむかってひれ伏せることさらに食事などの戒律であるが、これらのことはそのイスラム社会の中では義務であり、社会や国によって守られていることは確かである。イスラム教と言うのはキリスト教や仏教などとの個人の信仰とは違う。イスラム教を信じると言うことは彼ら彼女らの社会やすべての常識を受け入れると言うことだ。そういう性質であるからはっきり言ってテロに利用されやすい。だから警戒されても仕方がないであろう。少し前韓国で話題になったフランスの小説がある。それは「soumission(日本語では服従)」と言うミシェルウエルベックの小説である。内容は2022年の大統領選挙に極右民族主義政党と新生ムスリムがのこった結果極右をおそれた国民がイスラム政党を選択して、その結果国がイスラムに支配されると言う小説である。もともとミシェルウエルベックの小説は過激すぎるのとあまり日本人にはうけそうにないので日本語訳にはなりにくいが、しかし彼の小説はヨーロッパ特にムスリムが多いとされるフランス政府の問題を浮き彫りにした小説であると思う。これ以上このことについて言及することはさけたいが、イスラム教と言うのは共同体の宗教だ、少数派であっても右を向けと言えば全員が右を向くそういう性質がテロに利用されやすいということを宗教的立場から言えると思う。

reference 
Michel Houellebecq "Soumission"

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ボクシングクラブ、スポーツにおける礼儀とは

2022-07-03 | Weblog
私の持論では礼儀はあいさつできるとか目上の人間に服従の姿勢を示すことではない。そんなことはヤクザや半グレでもできるし、むしろ彼らの方が徹底している。私の持論では礼儀は余裕と教養だと思う。余裕は人に何かを譲る気持ちであるが、礼儀については、まず礼儀とか言っている人間は正しい日本語を話さないとだめだ。私は日本語をきちんと話せるようになるために2台電子辞書のキーをプレスしすぎてこわしてしまったが、2台つぶしても私の日本語力はこの程度、日本語は本当に難しいと思う。私が思うに礼儀正しい人とは日本語がきちんと話せて、ある程度教養のある人だ。何となく正しいと思う日本語やあいまいな敬語を少ないボキャブラリーと共に使うことは、話す相手や内容によってはぶしつけともとられるし、非常にみっともない。礼儀正しい人とは正しい日本語を話せる、教養を持った人であろう。
運動系の人間はとにかくでかい声であいさつしたり、返事したりすることがいいことだと勘違いしているが、それは非常に下品だと思う。
正しい日本語を使って誰とでも対話できる能力をある程度持った人は、あいさつを声の大きさでいいか悪いかと言う間違った判断はしないし、でかい声でちわーっすとあいさつはしないと思うが、あいさつはパフォーマンスではない。でかい声を出せばいいと言う考えはナンセンスだ。日本語を正しく使うとあいさつにおいても節度をもった表現ができる、そこに品格があらわれると思う。私の持論はジムで大人がどういう日本語を使うかが問題、ある程度教養があって、正しい日本語をつかえばそこに来ている子供や若い人たちも影響をうけて礼儀正しくなると言うのが私の考えである。礼儀とかでかいことを言うならば、やくざや半グレの集団でも徹底できるようなことではなく、むしろ品性を養うことができるような環境づくりや影響を与える方が正しいことではないかと考えている。

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なぜMTオリーブボクシングクラブはDQNに対して厳しいのか 

2022-07-02 | Weblog
うちのクラブは基本的にコミュニタリアニズムの立場に立っている。コミュニタリアニズムと言うのは基本的にジムのメンバーたちにとって何が正しいかと言うことはみんなで決めて行こうと言う立場で、みなさん共通して何が正しいかというコモンセンスは共通して持っているひとりびとりの感覚、コモンセンスでジムの秩序を守っていくと言う立場である。改造車にのって、けんか話や武勇伝を自慢げに話す人間にろくな奴はいないと言うとみんながみんなそうじゃないではなく、きちんとこういうことをしたらだめだと言う社会的基準をもっていて判断し、行動できる、いわゆるアンガージュマン的な考え方ができる人たちが集まっているのがうちのクラブであるが、やはりこういう思考ができる人は自立してるし、知的レベルが高いと思う。いつも言うことだが、ボクシングと言うスポーツは暴力を扱うスポーツである。だからそのボクシングジムにどういう人たちが集まっているかと言うことは重要な問題であると思う。



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