脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私の好きな言葉

2021-05-31 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。
ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してくださいますようにお願いします。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださるようお願いします。

今日は私の好きな英語と韓国語の言葉をあげたい。

「God doesn’t require us to succeed, he only requires that you try. (神様は私たちに成功してほしいなんて思っていない。ただ挑戦することを望んでいる。)」
これはマザーテレサの言葉だが私はこの言葉には救われた。私自身メダルをとったと言ってもそれは小さな島での出来事で、人と比較しても自分は努力したと言えるような実績ではないだろう。でもしかしこれだけは言えるが、その私の競技人生はすごく楽しく充実していたと思う。久しぶりにハワイに行った時にアレンの家で試合の動画を見せてもらったのだが、その時リングから降りて来てジウンに話しかける私の顔は本当にいい顔をしていた。あの顔はあの時しかできない、まさにそこで私が自分の人生の一番輝ける時を謳歌したあかしである。挑戦は誰でもできる、それは年をとってからでもだ。うちのジムは平等、そしてここではひとりびとりが主役である。目的はどうであっても何かに挑戦し、挑み続けることはその人を生かし成長させるものである。挑戦することをやめてしまっては人生を謳歌することはできないだろう。いくつになってもそれがちょっとした目的であっても、それに挑み続けることは尊いことである、MOBには中年層以上の人たちが多いが、そのひとりびとりのその目的や目標をリスペクトし、サポートして行きたいと思う。

「나 자신을 좋은 사람으로 바꾸려고 노력 하니 좋은 사람이 오더라(私自身を良い人間に変えようと努力したら、いい人たちが集まってきた。)」
韓国の俳優だったか著名人が確かこういうことを言っていた。
類は友を呼ぶと言う言葉があるが、その人間のまわりにどういう人間が集まっているか見たら、その人間がどういう人間かということがわかる。ジムの雰囲気をつくるのはもちろん人である、だからジムにどういう人たちが集まっているかということはその雰囲気をつくる上では大事なことだ。
あいさつやルールをつくっても、そこにいる人間がDQNだとその群れは力が支配する。よい人間になるということは難しいことだ、私は自分がよい人間になると言うことではなく、ジムでは正しい行動を行うようにしている。正しい行動とは道徳的なことはもちろんジムでは何が公平で、どのようにふるまうことが公平な扱いなのかと言うことを常に考えている。正義論は正義=公平であると理解しているが、ジムでの正義もいかに公平さをもって管理していくかと言うことを常に考えて行動する必要があると思っている。
余談であるが、私はしがらみをもたない人間だ、先輩後輩の関係、お世話になった恩師とか、私のとりまく環境にはそういうしがらみはなく、ジムでもそういう奴らが入って来て我が物顔でふるまったり、こちらがそういう人間たちに気をつかって、さらにまわりに気をつかわせると言うこともない、ここは俺のジムではない、会員の人たちそしてトレーナーたちみなさんののジム、私の存在は黒子であり、私は彼、彼女らにここで楽しく生き生きと活動してもらいたいと願っている。


「There is always light behind the clouds. 雲の向こうにはいつも光(青空)がある。」
「若草物語」で有名なルイーザ. メイ. オルコットの言葉、先の見えない戦いに心がおれそうな我々に響く言葉である。何かにぶち当たって失望しどうしていいのかわからない時、希望を持てとか、希望を捨てるなと言われてもむずかしい、でもその希望はその先にあるのだと考えたら楽だし、受け入れやすい。
いまの苦難はその先の未来のためにあるものだと考えて行動することで人間は成長できる。もしそうでなければそれはただ自分を苦しめるだけのものである。しかし苦難の後には必ず光がある、そしてその場に立ち止まって嘆くのではなく、前を向いて行動することが大事なことで、前を向いて行動するから振り返った時に成長している自分に気づくのだ。今与えられた試練は自分を苦しめるものではない、それは自分を成長させるものだ、そしてその先にはかならず青空が広がっていることを信じたい。




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마음 써 주셔서 감사합니다 お気づかいありがとうございます

2021-05-28 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

うちのボクシングクラブは平和だ、平和であるのはトレーナーと会員のみなさんの協力があるからで、うちのように誰が来ても自由でのびのびとトレーニングできる場は他にないと自負している。
コミュニティを運営するにあたって、大事なことは譲り合いができるかということだ、前回競争の原理で動く、力関係を意識する群れは、力のあるものが多くのものを得れるサルの群れと同じだと言ったと思う。練習生とか言うのが幅を利かせてミットや実戦練習を優先にする、みんな同じ条件で来ているのに、トレーナーもそういう類の人間いかかりきりで、一般のおっさんや女性はたまにしかミットをもってもらえないというのは不公平である。それでも練習生とか言う奴らは自由で楽しくやってますと言えるのだろうが、しかしそういう奴らが幅を利かせて、会費もきちんと納めて、ルールを守って来てくれている大人が遠慮してトレーニングしなくてはならないと言うのはバカげている、はっきり言って不公平である。

人間の群れとサルの群れの大きな違いは譲り合いができるかと言うことだろう。うちのクラブは正義論の第一原理に立ったクラブだと言っている。無知のベールを私なりに解釈してその考えを適応させると、弱者の立場に立って自分の利益ばかり考えないで、まず相手の利益を考えて、そこから自分たちにとって何が一番得なのかと言うことを考えていきましょうということだと言ったが、譲り合いはただこっちに余裕があるからと言うことだけではなく、相手のことを多少なりとも考えて、行動できる道徳的行為だと思う。

ちょっとした譲り合いがあるだけでも違う、うちのクラブの人はなわとびを跳ぼうとする人によく、リングで跳んだ方が跳びやすいですよと、もともと自分が動いていたリングをおりてゆずってくれる光景をしばしばみるが、こういう譲り合いが当たり前のようにできるだけでもボクシングではマイノリティ的な存在であるダイエット目的の女性や中年のおっさんなどは安心できる場になりうるのだ。しかし私はこのことに関しては何も言っていないし、うちのクラブにはほとんどルールなど存在しない、会員の皆さんのレベルが高くて、大人だから自然とそういう配慮をしてくれて気軽に楽しくトレーニングできる場として協力してくれていることには心から感謝している。
마음 써 주셔서 감사합니다.




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トンボ

2021-05-26 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。
ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してくださいますようにお願いします。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださるようお願いします。

経済学の用語にpent up demandと言う言葉がある、卑近な例で言うと現在コロナで自粛しているが、もともと使う必要があったお金が自粛で使えなくてサスペンディングしている需要のことである。
私がこの言葉を意識したのは見学や入会希望の人たちを通してである、現在コロナは第4波の真っただ中であるが、その間見学や入会希望の人が来る周期がある。コロナが落ち着けば、メールや電話などで問い合わせがどっと来る、たぶんそれはpent up demand効果であると思われるが、しかしさあ見学に行こうか、入会しようかと言う段階になったら再びコロナが拡大、そして入会や見学を見送くることを余儀なくされる人が多く出てくるのだが、ここ最近はそういうことの繰り返しである。
たぶんこういうこともうちのジムのように余裕があれば、さほど問題なく運営していけるのだろうが、しかしこういうことが繰り返されると稼働率がさがると経営状態もわるくなるようなところだと精神的にもかなりきついものがあると思う。実際にコロナ禍で自殺者の数が増えているが、おそらく先の見えないこの状況に疲労困憊し、絶望して自らの命をたつのだろう。昔有名ミュージシャンがうたったトンボと言う歌があった。歌詞の中ではトンボは幸せの象徴で、そのトンボをおいかけてもおいかけても逃げていくと言うような歌詞だったと思うが、トンボはつかめそうでつかめない、そーっと近づいて行ってつかめると思ってつかもうとするとスーッと逃げていく、まさにそれはコロナ禍の経済状況のようなものである、コロナがひと段落落ち着いて、さあこれからと多くの希望を抱いた時にまたコロナが拡大して自粛を余儀なくされる、そしてそういうことが繰り返される、店を閉めることで多大な利益を被っているところもあると聞くが、しかし大半はそうではない一日一日を精一杯生きていると言うのが現実で、そういう人たちはこの現状にへきへきし、疲労困憊しているのではないかと思う。

これはあくまで私の意見である。コロナウイルスは日本においてはさほど危険なウイルスではない、少なくとも日本国民をおびやかすパンディミックではない、理由はウイルスが検知されただけで無症状が多い、子供の死亡者がいない、死亡例は疾患を持った人や高齢者に多いということからだ。
しかしマスコミではコロナは危険だと騒ぎ立てる、そしてPCR検査を受けろとしきりに促すが、ほとんど無症状の陽性者をあぶりだして意味があるのだろうか。大胆な発言だが、無症状の人間をあぶりだして隔離させるよりも、今必要なことは経済活動がとまって窮地に追い込まれている人たちを何とかすることがなことではないだろうか。統計上では失業率が上がると自殺者が増える、このまま経済活動を止めてしまったら自殺者の数が増えていくことになるだろうし、それを何とか食い止める必要はあるだろう。
コロナウイルスが蔓延してもう1年以上がたつが、冷静に考えてみたら、コロナは少なくとも医療制度がしっかりと整った日本をおびやかすものではないだろう。確かに流行性のことだけとってみたらパンディミックだと言えるのだろうが、しかし致死率もそう高くはないしほとんどが無症状だ、マスクを着用、そしてうがい手洗いをしっかりする、お年寄りのいる家庭では気をつけて行動する、そして実際に熱などの症状が出たら治療にあたることで、十分ではないかと言うのが個人的な考え方で、今は経済をなんとかさせることがプライオリティである。

そして事実私がおそれているのはマスコミや人の目、私は今後の対策のために掲示板を見ているが、コロナが拡大したらヒステリックに書き立てる人たちの意見は誰かがかかってしまったらどうなってしまうのかという不安を書き立てるのは十分である。本当はスポーツをするのに誰もマスクなんてして競技したくないはずだ、その気持ちは十分理解できる、しかしかかってしまうと世間一般の厳しい目にさらされる、そういうことが会員の人たちに及ばないようにすることが今私にできることである。



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아니야

2021-05-23 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。
ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してくださいますようにお願いします。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださるようお願いします。

前のブログで仲良くしましょうと言う言葉が理解できないと言った、仲良くしましょうは対立をおこさないということが前提にある少数のアジア人が理解できる独特の表現である。
高知は大学に進学したら、東京や大阪、そして他県の大学に進学することが多く、そこで自分はうまくやっていけるだろうか、人と仲良くやっていけるだろうかと少し不安な気持ちになる。現にそういうことを言っていた学生がいたが、でもどうやったら仲良くできるかなんて考えることは消極的だ、仲良くする=対立をおこさないということだが、日本人は対立をおそれて人に気をつかいすぎだ、対立をおそれるから自分の言いたいことが言えない、特に若い人は人に遠慮しているように見えるが、若いうちは失敗がゆるさせるし、エネルギーがあるのだから、時には間違ってもいい、対立を恐れずもっと自己主張すべきだと思っている。

これは私の学生時代の体験談である。私が学生時代に出会った強烈で最も影響をうけた人物は、アメリカ系韓国人のジウンだ。彼女はセカンドジェネレーションなので考え方が韓国より、一方私は捨てられたと言う気持ちがあるので、韓国人に対しては強い憎しみを持っていた。普通のことは普通に議論できたが、しかし日韓問題については別、激しい激論になり、けんかになることもしばしばあって、もうこれで関係がおわるんじゃねえかという激しい議論もしたものだ。時には傷つけ傷つけられることもあったが、でもどんなに激しくいがみ合っても、次会った時は普通に話してくれるジウンに私は次第に心を開いて言ったことは確かなことであった。ドイツの社会学者ジンメルは「若者の言っていることは間違っている。でも主張することは正しいことだ」と言っているが、若い時は失敗できるし、たとえ傷ついてもその傷はすぐに癒える。だから思い切って自分を表現することは自分を成長させるためには大事なことで、それは若さゆえの大いなる特権だと思っている。

その後何年かたって彼女から手紙が来た。なんでもソウルに住んでいる彼女のおばさんのところに行くと言うので、一度また会って話がしたいねということであった。そして実際にソウルで会うことになったが、久しぶりの再会に私は最初何を話そうかと迷っていた。でも空港から出るとジウンが待っていて「やあ久しぶり、元気にしてた」と、そしてここは韓国だから韓国語で話すかと言うので、いや俺たちは外国人だから英語だろ、結局日本語での会話となったが、久しぶりに会ってもまた昨日あったような感覚で話すことができた。
友達は何年ぶりにいつ会っても昨日あったように話ができる、そういう存在を私はチングと呼んでいる。彼女とは日韓のことでたくさん議論をした、時には傷つけ傷つけられることもたくさんあったが、でもそれらは時がたつとすべていい思い出である。真の友達はいつあっても変わらない、友達ってそういう存在であり、それはお互いをリスペクトできるからこそ、そういう存在であり続けるのだろう。




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あいさつはさせるものではない、こちらからしてあげるものだ

2021-05-20 | Weblog
うちでは運動クラブにありがちな「あいさつしろ」とか「挨拶は基本だ」なんて言うことは言わない、うちではそれが必要だと思ったらまずこちらからしたらいいと言う考えで、実際そういうことは人から押し付けられてするものではないと思っている。おそらく運動クラブなどで義務付けているあいさつは目上の者にたいするあいさつである。だから現に監督が同じようなあいさつをすることはないし、されても「うん」とか「おう」ぐらいの感じで、明らかにそれは上下関係を意識させるためのもので、半ば服従させられるようなものである。子供はわからないからこちらから教えてやらなくてはいけないとか言うけれども、しかしもしそのことが本当に必要なことでひとつの教育的配慮と言うのであるならば、まずこちからかして態度で示す必要がある、人に何かをさせるのだったら、こちらが譲歩しないと相手は動かない、それだけ大事なことを教えている、あいさつは基本だと言うのであるならば、こちらから大きい声で相手の目を見て、普段から自分が相手に押し付けていることと同じことができるはずである。
はっきり言って人が成長していくために大事なことと、その小さな世界で順応してうまくやっていくこととは違う、私はそういう世界にどっぷりつかると上下関係を意識して、人の顔色を見る人間になると思っているが、近年スポーツ選手のDVの話をよく聞くが、DVは自分よりも下に見た相手を暴力をつかって服従させる卑劣な手段である。じつはこのDVも構造的には封建的な世界や上下関係の強い縦社会が関係しているようである。
私は基本的にあいさつは強制させるものではなく、もしそう教えたければこちらからしてあげればいいと思っている。うちではそのように無理にさせないがこちらからしてあげると時間はかかるが気持ちいいあいさつを返してくれるようになる。何かひとつのこと、そしてそれが本当に大事なことであるほど伝えていくには時間がかかる。
おいこらあいさつしろと半ば力ずくでさせるのはサルにしつけをすることに等しいこと、一般の社会人が集まるコミュニティにおいては不必要なことだ。

参考文献
「なぜ男は暴力を選ぶのか―ドメスティック・バイオレンス理解の初歩」


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サル化するジム

2021-05-18 | Weblog
最近サルの動画を見て行動学的なことを研究している。おおまかにいってサルの群れと人間の群れのひとつの大きな違いは譲り合いができるかどうかだ。
山極寿一氏は「サル化する人間社会」の中で次のようなことを言っている。
「ヒトは本来家族集団に所属しながら、コミュニティ集団(平等や互酬性を基本とする)に所属している。家族集団は食を分け合うことを基本にしており、お互いに関係性を作り、煩わしくもある反面、そこへ所属していることは喜びや満足に繋がっている。しかし一方コミュニティ集団(サル的)は競争的な社会で集団に安定性はない。人間の社会性とは、奉仕の精神、互酬性(コミュニティ的)、そして帰属意識であるということである。」
確かにサルにはボスを中心とした秩序はあるが、しかしそれは力関係によるものだ。現に餌をくばると奪い合う、もちろんそこでは力の強いサルが多くのものを得れるわけだが、人間の群れでも力関係がその群れでの優位性を決めるのはサルの群れに近い、所謂その著者によれば自分の利益ばかりを求める競争的な社会はサルの社会に近いと言うことである。
サンドバッグやミットうちが、そこで幅を利かせている人間が優先されて、健康維持やダイエットは隅においやられて、同じような権利をもってトレーニングができないというのは、はっきり言って不公平だ。いい大人が若い競技者にしかも世の中でははるかに自分よりも格下の人間に遠慮するのは社会ではメチャクチャな話、トレーニングの優先性も競技者や若くて血気盛んな人間が優先で、そいつが余裕ができた時にゆずってもらって、ありがとうございましたなんて言うのもばかげた話だ、日本人は人がいいからそれでもそうしてもらうと「彼はやんちゃそうだけどねはいい人間だ」なんて言う人もいるだろうが、しかしうちのジムでは決して大人がみじめになるようなことはさせない。こういうことを言うと自分たちは平等だと思う人もいるだろうが、そこにどういう人たちが来ているか、そしてしっかりと管理しないと、自ずとその群れはサル山のようになると言ってきたことである。
うちのクラブではミットうちで多数の人がいる時には、トレーナーやベテランの人は「誰が一番最初に来ましたか」と聞いてくれる、私が指示したわけでもないのだが、みなさん平等性を考えて来た人から順番にミットを持ってくれる。個人の利益と効率を優先する社会はサル化していると山極氏の言うように、自分ファーストでしか物事を考えることができない人間は群れの中では害になる、そういう類の人間を私はDQNと呼んでいる。
自分で言うのもなんだが私には大きなアドバンテージがある。それは自分の思っていることをきちんと言葉化できること、そして人間の行動や心理をよく理解してその群れを管理していることであり、それらは管理者にとって必要不可欠なことだと思う。

参考文献
山極寿一「サル化する人間社会」



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私が格闘技をやっていてモラハラと思う言動

2021-05-15 | Weblog
MOBはモラハラと暴力をゆるさないクラブだ。パワハラは日本語で、一般的にモラルハラスメントのカテゴリーに入ると思われるが、モラハラとは一般的に人が不快だと感じる行為で、おそらくそれはTPOによって変わるものでもあると思う。

暴力に対しての定義はよく説明している。直接的な暴力や暴言はもちろんのこと、さらにそれにあたる行為、例えばマスで一発当たるとカーッとなって敵意むき出しでなぐりかかっていく、実力差のある相手に対していいところを見せようとボコボコにしたり、オラオラかかってこい的な行為はうちでは暴力とみなしている。などである。

モラハラは人が不快になったり、こわがったりするような言動であるがジムではどういうことがモラハラか、格闘技ではありがちな卑近な例をあげたい。

「やんちゃ話や武勇伝など自慢するようにベラベラとでかい声で話す」
正直聞いても「So What! 今君何ができるの」と言った感じだが、武勇伝を自慢する人間はアドバンテージをとっているつもりだろうが、しかし正直みっともない。基本的に同じような人間ばかりでかたまっているから、一般の人たちの常識や目線がわからない、ものさしや感覚がずれているのだろうが、うちのクラブに集まるような一般の人たちはそういうことにかかわって生きているわけではない。俺はお前らとは違うんだぞと認めさせようとして、時には立場を利用してベラベラと武勇伝をアドバンテージをとるためにはなすことは、一般の人からしたら聞くに堪えないことだし、聞いてて不快である。そういうことしか自慢できない人間が集まるといびつな力関係がうまれて、一般の人がそこでトレーニングしにくくなる。
さらにつっこんで言うと食事に行ってボクシングの話をこれみよがしにまわりに聞こえるように大声で話すあほ行為もモラハラにあたるのだろう、世の中では認められない、たいしたこともないのに俺は特別だ目立ちたいと思っている人間は、時にはこういう少し稚拙なやりかたで自分の存在を示そうとする。しかしそれは非常にみっともないし、みじめだからやめたほうがいいと思う。

「ジムで裸でシャドウする」
格闘技系のクラブは暑くなると服を脱ぎだす人間がいると聞く。しかしそれはうちのように女性が多いジムでは不快であるし、それに威圧感を感じる人もいる、汗が飛び散って迷惑だ。おそらくそういう裸になるような奴に限って気合を入れて時には叫んでトレーニングするのだろうが、しかしうちのように女性が多く、DQN撲滅のジムではまわりのペースを乱すので迷惑だ、DQNばかりだと違和感はないのだろうが、ジムは公共の場、一般の人が集まっているのだから、こういう公共の場を無視した行動はさせない方がいい。

「私がきらいな人間であげた、言っていることが結果的にうそかでたらめ、人をまるめこむような話をする人間」

そういう人間の行為もモラハラの定義にあたるようだ。こういう話しをする人間は自分の話を一方的に聞かそうと自分のペースに巻き込もうとするから厄介で聞いてて不快になる、そういうでたらめしかいえない人間はまともな人間関係を築くことができない、その友人関係を見たらわかるのだろうが、そういうゆがんだ承認欲求の強い人間はジムでも目立ちたがるので、経験を積んで人とかかわると何かトラブルをおこしたり、害になるので、まじめに生きている人たちの迷惑になる、警戒したほうがいいだろう。



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モ・クシュラ

2021-05-12 | Weblog
コロナウイルスが拡散していますが、はっきりいって安全な場所などありません、どこで何をするにも注意が必要です。ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください、ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださるようお願いします。

ALS嘱託殺人ALS嘱託殺人事件と言う事件があった。これは未だ余罪などもあって、ニュースにもなっているが、発端は2019年ALSにかかった患者が生きることに絶望し、SNSを通じて医師に安楽死を依頼した、そして依頼されて薬物を投与し殺害したことによる。このことは後に安楽死について考えるひとつの問題的にもなったようだが、しかしそのいきさつはいささか短絡的であったように思える。
記事を読んでいて時々引っかかる言葉がある、それは主治医ではなかったと記載されていることである。おそらく殺人幇助ではなく、殺人となっているのはそういう観点からであると思われるが、主治医ではないことで何が問題なのかと言うと、今回の医師がとった行為は致死薬を点滴に注入して患者を死に至らせたわけだが、今の日本の法律では、医師が致死薬を患者に注射して死なせる「積極的安楽死」や、医師が致死薬を処方し、患者がそれを飲んで自殺をする「医師ほう助自殺」は認められていないそうだ。しかし司法判断では、ある一定の要件を満たせば、医師が致死薬を患者に注射しても違法にならない場合があるらしく、例えば「その人の苦痛から解放するために他の手段がない」いわゆる緩和ケアでなされているような苦痛を取るための医療処置、そういうことを全てやった上で、それでも苦痛が取り除けないということが条件にそういうトリートメントが主治医の元、あくまで患者との関係性があれば認められるケースもあるようだが、主治医ではないということはそういう判断がゆだねられることはない、それが殺人行為にもあたると言う判断であろう。

だから患者の治療はもちろん、病状の診断すらしていない人を死なせるための知識や技術を持っている医師がSNSで知り合った人間に依頼されて薬物投与をして死に至らしめるのは安楽死以前の問題であると言う意見もある。
確かに法律的に基づいたらそういう考え方もあるだろうし、司法の判断では殺人となるであろう。しかしその考え方は医療や司法を中心とした見方で、個人の立場から人間の尊厳については語られることはない。いきさつは短絡的ではあったが、しかしそこはもっとその人が現実的に戦ってきて安楽死を望んだいきさつや意見がある。そこには本人の闘病生活、そして生きる目的や価値って一体何なんだろうと悩み葛藤し、望んで選んだ決断であるのに、司法で殺人として裁かれたならばそれこそその人はうかばれない、そこに尊厳はあるのだろうか。確かに死ぬ権利なんて言うことを議論することはバカらしいことかもしれない、しかし人間が人間らしく尊厳を持って死を選ぶことも場合によっては尊重されなくてはいけないことも、今われわれをどうとでも生かせる医療が進んだ時代だからこそ見えてくる課題ではないかと思う。

しかし勘違いしないでほしいのは五体不満足ではダメだ、絶望的だと言うことでは決してない、実際にそういう状態であっても星野さんと言う絵描きの人は口で絵をかくことで、人を励まし、生きる証をきざんでいるし、そのことはその人にしかできない貴重なことである。私が言いたいのは人間が尊厳を持って生きるとはどういうことかということで、究極的に言うならば、その命は最終的には私なのか、そして医師などの医療機関で働く人たちにゆだねられるということかと言うことであり、これらはかなりデリケートでコントロバーシャルな問題と思う。

最後に、昔見た映画でヒラリースワンク主演のミリオンダラー・ベイビーと言う映画がある。これはアカデミー賞受賞した映画であるが、物語は一人の女性ボクサーと年老いたトレーナーの物語、トレーラーハウスに住む貧しく、誰からも相手にされない女性が、そのトレーナーと出会いボクシングをはじめる、そしてそこで才能が開花されて、勝ち続けていくのだが、しかし世界戦でラウンド終了後に相手選手が放った反則パンチからコーナーにあった椅子に首を打ちつけ骨折し、全身不随となる。そしてボクシングができなくなり、完治の見込みがないマギーは家族に見放された事から人生に絶望しトレーナーに自殺幇助を懇願するが断られる。私はえげつないと思ったのはそれができないと自分で舌を噛み切り自殺を図ろうとしたことで、ボクシングができない目的をうしなった死のうとする彼女に、その時人間が尊厳を持って生きるとはどういうことかと思わされたことは確かである。
結局フランキーは苦しみ続ける実娘のようなマギーへの同情と、宗教的なタブーとのはざまで苦悩したものの、最後はガウンに綴られたモ.クシュラ(My darling, my blood )に込めた気持ちを伝え、人工呼吸器を止めマギーにアドレナリンを過剰投与し姿を消すのだが、正直私はこの映画を見て人間はただ生きているだけではないのだと言うことを実感させられたことは確かである。

安楽死は英語ではEuthanasia、ドイツ語ではeuをオイと発音するのでそのまま読むとオイタナジイヤである。

Reference
Million Dollar Baby




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きれいごとではなく実際にそうしている

2021-05-10 | Weblog
コロナウイルスが拡散していますが、はっきりいって安全な場所などありません、どこで何をするにも注意が必要です。ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください、ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださるようお願いします。

ジムの管理者は教育レベルが求められると言うのは私の意見だ。人と話す国語力、そしてある程度英語で会話できる能力は今のこの時代に求められることではないかと思う。人間には共通認識がある、英語ではcommon understandingとかcommon standardと言う言葉に訳されるが、この共通認識は互いの教育レベルや知的レベルに関係するもので、私はレベルがひくければひくいほどその群れは暴力的で排他的になると思っている。競技者が中心で、それ以外は認められず、どちらかというとそういう競技者とか言われるDQNやトレーナーたちに遠慮してトレーニングしている、試合に出ないとミットをあまりもってもらえない、ヒエラルキーがあってトレーナーが偉そうだ、そういったことがおこるのはその群れが動物のような力関係が働いているからであり、管理者の知的レベルがひくいとその群れは自ずとサル山のようなヒエラルキーになるのは自然の流れだ。

確かに上手な競技者を出すのも目的であるかもしれないが、しかしその行動が俺たちは強いんだと言う力による威嚇で、きちんと人間的な意味での秩序が整っていないと、力の強いものが暴走して、サル山のようなヒエラルキーができるし、当然そういう人間が群れの中心になると一般雄人たちが隅に追いやられてしまう。そういう奴らを相手にして機嫌をとらないといけないから一般の人たちがおろそかになって、ミットうちなどたまにしかやらないということになる、そうならないためにもいろいろなことを考えて、排除すべきものは排除し、一般の人たちが来やすいようにかつ平等で平和なクラブを目指しているのがMOBである。

ジムを平等にしたければまずそのコミュニティでは誰がマイノリティかということを考えてそういう人たちを大事にすることで平等の原理が生れると信じている。前にうちのクラブは正義論の第一原理に立つと言った。その著書であるロールズの「正義論」に出てくる言葉が「無知のベール」である。無知のベール」って一体どういうことと思うだろうが、特に第一原理について特筆すると、簡単に言えば人間は何もない状態ならば、自分が必ずしも恵まれた状態であるとは考えない、むしろそうではないと考えるのではないかということから、格差の被害者になった場合を考えて社会秩序を選ぶと言うことだが、さらに私流に解釈して、弱者の立場に立って自分の利益ばかり考えないで、まず相手の利益を考えて、そこから自分たちにとって何が一番得なのかと言うことを考えていきましょうと言うことだ。 
そして弱者と言う言葉をマイノリティと言う言葉にかえて、誰が格闘技では一番マイノリティかと言うことを考えると、格闘技ではダイエット目的で来る女性やおっさんたち、そういう人たちを大事にすることでこの群れでの平等性が見えてくると言う立場に立つのがMOBの哲学である。

そういう目標を掲げていたらその群れは自ずとそのようになって、ジムの雰囲気がよくなっていく、あいさつしろとか、中高生のようなしきたりやよくわからない陳腐な成功哲学みたいなものをかかげて、管理し、それをおさめていくのではなく、みなさんが今生活している家族や職場などを見据えて、言葉や態度によって健全なクラブへと導かれるように管理していくことが大事で、実際に会員の人たちのおかげでそういう方向に向かっていることは感謝すべきことである。

うちのクラブは「勝つ」ことよりも「できるようになる」ことにフォーカスして教えるボクシングクラブといってもいいだろう。現に中年の女性やビギナーの人がまわりの人たちはよく教えてくれると言っているが、実際にここに来たら平均的に技術が身についていくのも強さよりもできることを目的とし、それをまわりがサポートしてくれるからだと思う。

考えると言うことだが、考えさせないと考えることができない、考えることができないと人の顔色を見る。クラブだったら監督や先輩がおこるかどうかが正しいかだだしくないかの判断基準と言うことにもなりうる。うちでは子供にあいさつしろとはいわないが、こちらからするとするようになるし、今度は逆に自分そうなって、あいさつしない子にもあいさつするようになる。教育は根気と時間がかかる、なぜなら知性も共に育てていかなくてはならないからだ。

Reference 
John Bordley Rawls  A Theory of Justice
ジョン ロールズ 「正義論」


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学校はインパーソンでなきゃ

2021-05-10 | Weblog
コロナウイルスが拡散していますが、はっきりいって安全な場所などありません、どこで何をするにも注意が必要です。ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください、ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださるようお願いします。

Wellnessと言う言葉がある。これはもともとは世界保健機関 (WHO) が国際的に提示した健康の定義である。米国ウエルネス機構によるとWellnessは精神、身体、社会性、知性、感情、職業などを含め人間が総合的に良い状態で充足していることである。

スタンフォード大学のオンラインハイスクールが全米トップになったと話題になっている。ここでは哲学が必須で、哲学を中学3年と高校1年の間に統計と生物学を並行して学びながら科学の方法論について学ぶらしい。どういうことをするのかと言うのは実際にどういう課題をあげて勉強しているかということを挙げると「古代ギリシャから地球がまるいことは実証されていた。どのような観測、理論、議論から地球がまるいと立証されていたのか」「万有引力の法則F=GMm/r²はどのように導き出されたのか。ニュートンは木からリンゴをおちるリンゴよりも星空を見ていた。科学データの誤差、近似、モデリングはどのようになされるのか」さらに高校2年からはホッブスやロック、ルソー、バーク、トクヴィル、デューイ、ロールズ、サンデルなどの著書にふれ、そして最終学年の3年になると哲学の問題に直接ふれるカリキュラムにおいて学ぶことでこの世の中を生き抜いていく知恵と力が養われて、そのウイルネスの因果関係にある重要な事柄をオンラインで学び、もちろんWellnessであることの課題にも取り組んでいる、人間が教育を通してWellnessであることを目指していると言ってもいいと思う。
しかしはっきり言ってやっている内容がチンプンカンプンだ。かなりレベルが高く、基礎知識がなければついていくことは難しいことだ。オンラインは個人のレベルにあわせて授業できるので学力をのばすにはある意味適しているし、優秀な人たちを集めやすいであろう。しかしそういう実績だけを見て、安易な考え方でオンラインは素晴らしい、これからはオンラインの時代だとインパーソン(直接)で教える学校を軽んじることは危険であって、個人的な意見では学校のオンライン化が進むと学力の格差が広がって、それこそそれは人間の生活にも影響されるのではないかと言う危惧はある。

コロナが蔓延し、個人化の傾向にある、確かに今この時期オンラインで授業を受けたり、外食せずにケータリングに頼るのも今を生き抜く選択であろう。
しかし人から受ける刺激は大きいし、はかりしれないエネルギーを生み出すこともある。学校でもおちこぼれそうになったらこりゃあかんと勉強するのもまわりとのかかわりがあるからで、オンラインだったらまあいいかっていうことにもなりかねない、そういう感覚がひょっとしたら格差を生み出すこともあるだろう。うちのクラブはコロナ禍においても結構見学者や入門者の方が来てくれる、来てくれるからこそジムではマスク着用そして道具をつかったら消毒ということを徹底しているが、こういう時期でも来てくれているのは、スポーツもそうだが、何かを学ぶと言うことは人間関係を通して学ぶ方が健康的でメンタル的にも健全であることを理解しているからだろう。
この時期少ない選択肢の中からジムを選んできてくれると言うことはすごく光栄なことだ、せっかく来てくれているのだからここでしか体験できないような経験をしてもらって、会員の人には常に肉体的にも精神的にも健康であることを願っている。

参考文献
「スタンフォードが中高生に教えていること」


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