脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

責任者の言葉がつたないとその群れの質はわるくなる

2021-03-30 | Weblog
ボクシングは暴力を扱うスポーツだ、男性中心になると力社会になって不平等が生じることは歴史的に力の原理を考えたら理解できることである。
うちのクラブは暴力や不平等ががおこらないようなシステムにしている。
暴力と言うのはもちろん人をたたいたりして傷つけることだが、さらにここではマスボクシングでカーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていったり、生意気だからとスパーリングで制裁する、武勇伝ややんちゃ話を自慢げにベラベラと話すことも暴力のひとつだし、裸でトレーニングするのも一種のモラハラである。そして不平等とは試合に出るものだけを優先的におしえたり、競技者や取り巻きたちがリングを牛耳って大きい顔をして我が物顔でふるまう、そういうことがないようにそうならないためのシステムをつくるのが私の仕事である。
しかしシステムと言っても体育会系のようなアホなヒエラルキーをつくってそこでやくざごっこをすることではない、自ずとそうなっていくようにしむけるということである。
私が一番気をつけていること、それは言葉だ。日本語をまともに話し、人のレベルに合わせて話す、口汚くののしったり、暴力的な言葉はつかわない、さらにどう考えても漫画の影響だろと言うような薄っぺらくて刺激的な言葉をつかわない、そうこころがけることでここに集まってくる人たちの質は大きく違ってくる。教養のレベルがひくくて、日本語もまともに話せないとそこに集まってくる人間のレベルはそれと同じかそれ以下である、責任者の言葉遣いがわるかったり、教養のレベルがひくいとDQNややんちゃですが集まってきやすくなるのだろうが、そういう人間が集まってスポーツをしたら、一通りの秩序はあるのだろうが、しかし基本的には誰が一番偉いかの世界になる。威嚇していかに自分が優位に立つか、そして見栄の張り合い、そんな人間が集まったら必ずサル山のような世界ができて、群れが暴力的になったり、不平等になったりする。We can communicate in English、そしてなるべく正しい日本語を使うように努めるのが私のひとつのモットーでもある。
会員の人たちの中には家族の協力あるからこそ趣味でボクシングを続けることができると言う人がいるが、私はそういう人たちがここにきてよかったと思えるぐらいの環境を整えたいと思ってる。そのためには暴力や不平等がおこらないシステムをつくる、そのためには言葉が大事だ、差し詰めうちのクラブに集まってくる人たちはおとなしい人たちが多いが、しかし社会では活躍している、そういうまじめな人たちが集まってコモンセンスを重んじる健全なボクシングクラブだと思っている。


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발 없는 말이 천리 간다(足のない言葉は千里を行く)

2021-03-26 | Weblog
だいぶ前確かジャーナルのことで仲のいいDrと話をしていて、文系にとって論文の良しあしはどういうことを基準にするのかと聞かれた時に、私はそれはテーマによるが参考文献をどれだけあげれるかじゃないと答えたことがある。
今はインターネットの普及によって確かに情報を集めやすく、世界が広がってきていると思うが、しかしその一方安易に情報を集めることができるゆえの危険さもあると思っている。
我々の時代はインターネットがないような時代であるので、何か論文を書いたり授業などで発表したりするときは、そのテーマについて教授などに参考文献を聞いて、図書館などでそれをかりて、いろいろとそのことについて調べたものである。最近はインターネットが普及したので、そういう作業は格段と便利になってきているが、しかし知識が浅かったりするとそれを誤用したり、自分の都合のいいように解釈してそれが恰も正しいことや真実だと表現するのはいささか軽卒であろう。
インターネットで自分の都合のいい言葉を入れて検索したらザーッと都合のいい項目があがってくるが、そういう情報の集め方には偏りがある。
本来何かを批判したり、そのことについて論文を書いたり意見を述べる時は自分に都合のいいことをパッチワークのようにならべていくのではなくて、自分の考えていることが本当に正しいかどうかということをいろいろな書物を読んで熟考し、そしてそれを見比べて結論を導き出すのが最も賢明な方法だと思う。自分にとってすっと入ってくる都合がよかったり耳障りのいい情報だけを集めても言葉や意見にならない、安易な情報の集め方をするのではなくて、まず本を読む、前にも言ったが本と対話することで客観的な考察が養われて、また違った見方が見えてくるし、何よりも物事を深く考える力が養われる。一時期大学の卒論の参考文献にウキペディアをあげる大学生が多いことが問題になっていたが、正直知識と言うのは安易に手に入れれるものではない、本を読んで熟考して学ぶから得られるものだと信じている。




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For the Future

2021-03-22 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

もうすぐ新学期がはじまる。この時期になると春から新社会人になる人たちや東京などに進学する人たちがあいさつに来てくれるのだが、それこそ1年や2年前に英語を教えていた人たちが、こうしておぼえて来てくれることはうれしいことである。先日その中でも親しいが学生が卒業式が終わって、すぐに訪ねて来てくれた。光陰矢の如しと言うが人間の成長ははやいもので「お前ここに来た時はホント子供やったよなあっ」と言って笑ったが、そう思っていた人間が、今年からDrとして現場に立つことは感動ものだ。たぶんこのことは人生で感動したことベスト5に入るだろう。これからも人間関係は続くけれども、彼女そして他県に出て行って久しぶりにここに戻ってきた人たちがここに来た時、いつまで立ってもかわらない安心できる場として迎えたいと思っている。

よく大人はやりたいことを見つけろと言うが彼女のように子供のころから夢を描いて自分のやりたいことを見つけてそれができるのは一握りである。進路の話になるとやたら自分のやりたいことを見つけろと言うが、しかしそんなことを言われても、まだまだ経験値がひくいのだから、何をしていいのかわからない、だからおそらくそう言われてもどうしていいのかわからない、困ってしまうのではないかと思う。
中学生ぐらいのまだ社会を経験していない子供にやりたいことを見つけろと言うのはいささか乱暴すぎる、やりたいことを見つけろと言うよりも人生の選択肢を広げろと言う方が懸命だと思っている。私はよく高校生や中学生にこういう勉強が面白いよと言うようなアドバイスをすることがあるが、本をすすめるのは本を読むことで興味が広がるからだ。
お前は何をやりたいんだと親に言われても、しかしそんなこと今決めれるはずはないし、そこから自分の生き方を決めていくのは消去法的でつまらない、そうなると成績が優秀だから医者や弁護士、官僚と言う選択肢になるが、しかし自分の生き方はそのような消去法で決めるのではなくて、今ある可能性や興味をひろげて行って決めていく方がいい、だからいろいろと経験することは大事なことだと思う。
うちのクラブに来たらいろいろなタイプの人がいることがわかる。職業も違うし、学んできたことも違う、そういう違ったフィールドで活躍する人たちの話は面白くて刺激になる、そういう人たちと出会い会話することで自分の興味が広げられて人生の選択肢が広がっていくのだろう。
高校生や大学生は少し背伸びするぐらいでいい、とにかく自分よりもハイスペックで学のある人、興味のある人と会話して刺激をうけることは大事なことだと思っているが、若いから失敗や失言もゆるされる、そうやって人と人の中に飛び込んで行って自分を磨くことは成長するためにはかかせないことだし、これからあるべき未来を見つめて選択していくためには不可欠なことだろう。





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人間はチンパンジーにまける、そしてチンパンジーはゴリラにまける

2021-03-21 | Weblog
ボクシングはおもしろい。私がおもに経験したのは外国でのボクシングであるが、むこうにはくだらないヒエラルキーもメンツもなくそれなりに楽しかった、がしかし強豪と言われる人間が多く、今日はその私が経験した中でもいたかった試合やスパーを3つ紹介したい。

「スイッチしてくるヒスパニック系(試合場で)」
メキシカンスタイルなのか、変則型というのだろうかわからないが、スイッチしてくる奴がいた。いかにも映画に出てくるわるいメキシコ人のような風貌、しかしこいつが意外に強いと言うかパンチ力はかなり強かった。
今ではもうスイッチしてくる人間なんてたくさんいるのだが、しかし当時の日本ではあまりそういう選手はいなくて、ここに来てはじめて体験したのであるが、かなり手こずった。一般的にスイッチは、フックやアッパーなどのパンチはストレートと違って、反対のかまえでも強く打てるので、接近戦に持ち込む時に使うそうだが、その選手のスイッチする時に同時にうってくるフックがえげつなかった。タイミングがいいんだろうか、もともともっているばねが違うのだろうか、その出会いがしらにくるフックは強烈でおまけに死角から入ってくるのでよけにくく、そのあとたたみかけるようにフックアッパーと連続でくるのだが、あの連続技はかなり厳しく痛かった。
幸い相手がアホだったので同じ攻撃の繰り返し、2ラウンドから巻き返して、判定勝ちであったが、終わったらかなり腫れあがり別人のようになっていた。
その次の日はラジオ局に出演したのだが、そのラジオ局でまわりからじろじろみられてかなりはずかしかった。

「ゴールデングラブベスト4だか8」
彼はすごすぎた。はじめてこりゃああかんわと思ってしまった。
ブザーが開始と同時に、ピシ、バン、ドスンで一瞬目の前が暗くなった。
むこうのスパーは本気でうちあわず、あえてたたみかけないのが普通なのだが、しかし80パーセントぐらいの力でこれだけ歴然とした差を見せつけられたらたまったもんじゃない。
特にすごかったのは左のジャブ、彼のジャブははやくて一瞬であるが相手の動きをとめる力がある。時々アメリカの選手で得意技はジャブと書いている選手がいるが、彼らはスナップも東洋人に比べて強く、かなり強いジャブをうてるので、もらいすぎると致命的である。実際彼のジャブを主体にしたコンビネーションは完璧で、スパーリングの時何度もそれを見事にいただいたのだが、そのスパーはいいとこなしのみじめな結果でおわった。
ロッキーのあるシーンで、彼がロシアのボクサーから強烈なパンチをもらった時に「奴が3人に見える」といい、セコンドの人間が「真ん中をねらえ」と言っていたが、冗談ではなくリアルである。

「DQNの世界ランカー」
こいつは別格番外編と言ってもいい。
その前にスパーの手合わせをした奴が「いやあ彼はすごい、軽くアッパーをいれられたけどあごが燃えそうだったよっ」なんて言っていたので、それを聞いた私は「何をおおげさな、俺がたたきのめしてやるわい」と意気込んで、自分のレベルを考えずスパーを志願したのだが、しかしこれがとんでもない間違いであった。
あまりにレヴェルが違いすぎるので、相手は左だけと言うことになったのだが、その左のイーッイーッとショッカーのようにうってくるパンチがえげつなく、近くから石をおとされているような感じで、あたるたびに軽い脳しんとうをおこした。ラウンドが終わって千鳥足でふらふらとコーナーにかえって来た時に、ジョージが大丈夫かと言っていたが、大丈夫じゃない。見てわかるやろ。しかし自分で志願したのでギブアップできず、結局2ラウンドやるはめに、正直左だけであれだけえげつないパンチをもらったのは初めてで、こういうのをもらうとやはりボクシングは危険であると言うことを考えざるは得ない。

私はボクシングは基本的に頭を使うスポーツではないと思っている。
ボクシングは才能と本能の世界だ、野球やサッカーのようにチームスポーツではないのでいくら頭を使っても限界がある、
人間がチンパンジーには勝てないし、チンパンジーがゴリラに勝てない、強いとか弱いと言う格闘技の世界は所詮そんなもんだろう。しかし人間はその状況においてスポーツを楽しむことができる、強いとか弱いとかそういうことがプライオリティではない、負け惜しみともいわれてかまわないが、我々は強さよりも楽しさを追求するそれがMOBのボクシングだ。

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反省会は必要ない

2021-03-16 | Weblog
学生の頃チームメイトたちとクラブに踊りにつれていかれたことがある。そこはローカルが集まるところで、特にサタデーナイトは賑やかである。面白いのは10ドルだったかそれを払うと手にスタンプを押してくれそれが入場チケットになる、そしてそれを一度手に押してもらえば出て行ってもそれを見せれば再び戻ってきて入場できるというシステムである。
私たちは男女合わせて10人ぐらいそこでサタデーナイトをエンジョイした。そしてその中にひとり白人の娘がいたのだが、小柄で金髪、東洋人受けしそうなかわいいタイプの女性で、最初見た時「あっかわいい」と見とれてしまった。しかしそれもつかの間、彼女のダンスにひきました。彼女のダンスが変、どう変かと言うのはアメリカに犯罪者を捕まえるために電気銃でうって相手をしびれさせるというのがあるそうだが、急に伸びあがって体を揺らす彼女の動きはまさにそれ、その電気銃で撃たれたようなアクションを見て、お前何回うたれとんねんと突っ込みをいれたくなるほど、それは個性的なダンスで日本でこういうダンスをしたら間違いなく妖怪か何かのたぐいに間違えられるであろう。

この前日本の競技者はみんな同じように見えると言ったことがある、私から見たら個性ががない。本当にその競技を自分たち主体で本当に楽しんでいるのだろうか。私が不思議に思っていることは日本の競技者は靴とかユニフォームとか備品にやたらこだわる人が多いことだ。おそらく人と差をつけようとしているのだと思うのだが、しかしそういうことにこだわるのは自分に個性がない、個性を出せないからせめてこういうところで差をつけようとするのだろう。
彼女のダンスではないが向こうの人は人からどう思われようが気にせず思い切り楽しんでいる。ボクシングでもゴキブリのような動きをする人間もいたし、なんとも言えない奇妙な動きをする者もいた、もちろん手本になるような完璧なボクシングをする人間もいたが、自分たちは日本のように教えられたことをきっちりやって動くのではなく、自分なりに考えて表現していたと思う。
人から教えたもらったことを完璧にこなすだけでは、その先を積み重ねていくことはできない、所謂限界があるし、競技していて面白くもなんともないだろう。自分なりに試行錯誤して、自分のボクシングを確立させて自分で責任をとって試合に出ればその競技が面白くなる。こう言うと自分たちは自由にやっていると言う人間もいるだろうが、しかしそういうことを言う人はいろいろな人種や言葉をいくつも話し、考え方も違う人間が集まる世界があるということを経験していない、経験していないからそう言えるのだ思う。試合がおわって反省会みたいなことをやるが、あんなこと本当に必要があるのだろうか、結局は監督や権威のある人間の意見を押し付けられるだけではないのか。必要なことであれば試合後にそっと言ってあげればいいことである、それを人前で堂々とできるのは自分が教えたと言う自負があるからだ、しかしその人がやってきたボクシングはその人が自分で一生懸命考えてトレーニングしてやってきたことだ、ダメだと思うことは本人が一番わかっているし、もっとさらに上手になりたかったら自分で考えればいいことだ、それをあえて時間をとって人の批判ともとりかねないことを大勢の前でする必要があるのか不思議である。

私が競技したところは様々な人種が混在していた。体型やそれぞれのアドバンテージが違う、文化も違うし、3つぐらい言葉を話す人間も珍しくはない、これから広がっていく日本の中で今までのような保守的な考え方は通用しなくなるだろう。



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チンキーアイ

2021-03-13 | Weblog
今から10年ぐらい前の話であるがスターバックスでの出来事、海外のスターバックスでは、注文を受けた 飲み物を間違って提供しないよう、レジで名前を聞いてカップに記入するらしいが、韓国人の人のカップには名前は書かれていなくてあろうことかかわりにつり目の落書きがされていたそうである。これに対して韓国人の人は不快に思ってスターバックスに抗議したそうであるが、しかし商品券を差し上げますと言うだけで謝罪の言葉もなく、納得いかなかった韓国人の人はスターバックスを訴えたようである。私はこの記事を見て人種差別だと感じたのだが、しかし驚いたのは当時の日本人のコメント、そのコメントのほとんどがざまあみろと言うような感じで書かれていたのだが、しかしつり目は韓国人だけのことではない、日本人や中国人そして韓国人のことを示しているのだが、このようなコメントをした人たちはチンキーアイと言う言葉を知っているのだろうか。
ハワイは東洋人が多いのでそういう差別は少ないが、しかしメインランドは自分たちの領土だと言う自負があってほかの人種が大きな顔をすることをよしとしない雰囲気がある。日本人はどちらかというと思い切りなめられているそうであるが、よくやられるのが目じりをあげてからかうしぐさ、東洋人は目が小さくてつり目だと言うことを揶揄しているのだが、おいチョップスティックと呼ばれるのも結構あるようである。私の感想ではそういうことをする輩ははっきりと言わなくてわからない、特に日本人はなめられているのではっきりとそれは人種差別じゃあねえのかと伝えなくてはダメだと思う。

これは私が感じたことでありあくまで私の感想であるが、うちのチームにアメフトの元コーチが1か月間特別に教えに来てくれたことがある。その時の話なんだが、当時アメフトは国技のようなもので多少しごきみたいなものもあったようである。うちのチームはほぼ東洋人とハワイアンの集まり、彼はメインランドから来た人なので我々のような東洋人の集まりに違和感を感じたのだろうが、すごく高圧的で、我々に命令するように伝えてくるようであった。
ある時瞬発力を養うためだろうかシャトルランをすることになった。そのコーチ曰く俺が走れと言ったら走れよし行けみたいな感じで走らされたのだが、それがずっと続くのだ。我々はその時陸上選手かと言うぐらい延々と走らされてもうすでに限界が来ていたが、正直ここまできたらいじめである。そしてそれでもニヤッと笑って「もう一度」と言うコーチに、私はブチ切れて「F〇ck you!」と言ってしまったのだ。するとまわりにいたチームメイトは大笑い、その笑いに耐え切れなくなったのかそのコーチはその時おこって帰って行ったと言う話である。
日本は人種差別を別の次元で考えているところがあるが、私の意見では日本人のような東洋人は向こうでは超マイノリティだ、もし自分がアメリカの南部のような保守的なところにいったらどうなるかということを考えたら、スターバックスでつり目のサインを書かれて、のんきなことなど言ってられないと思う。おそらくこういう差別問題は自分たちもそうなるのだという感覚がないと理解できないことかも知れない、日本人は差別されないと言うのは間違った考え方だろう。グレムリンと言う映画を知っているだろうか?体が小さくてチンキーアイで口が裂けていて、わけのわからない言葉をくちゃくちゃと話す、そのモデルが東洋人だと言うのだが、我々はそっち系の人種から見てそう見えるらしいのだから。



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Donationのすすめ

2021-03-09 | Weblog
遊技場とかに置かれている募金箱、中には自分たちは何もしないただおいているだけというのもあるが、この光景は日本人が持つ寄付に対する考え方が出ていると思う。欧米人と日本人の年間のひとりあたりの寄付の額が圧倒的に欧米人の方が多いらしい。特にアメリカ人の年間の一人の寄付額は日本人の5倍であると言われているが、私が思うにはアメリカ人が日本人よりも寄付の額が多いのは寄付をする人たちは日本のようにあまったらやるのではなく、何かそこに問題意識を持っていて社会を変革しようと言う気持ちを持っている。それはやはり多くの民族が生活している国であるからそういう問題意識を持つのだろうが、大学の授業でも日本のようにただ授業に出て単位をとると言うことではなく、積極性が求められので実際に自分で問題問題意識を持って考えなくては答えられないし、そこで様々な人とディスカッションしたり交流を持つことで問題意識を持つことも多い、こういう土壌があるのでアメリカ人は自分たちで何かを変えていこうと言う意識があって、それが寄付と言うかたちにつながっているのだと思う。

しかし寄付と言ってもただすればいいということではなくて、きちんと目的をもって、そしてそのする団体がどういう団体かと言うことをしっかりと調べる必要はある。我々が寄付する相手はNGOであるが、単純に言えばNGOは寄付をする側とされる側の仲介業者みたいなものだから、そこにつけこんでビジネスにする人間も少なくはない。2016年に日本で上映されたポバティインクはまさにその貧困産業と政府の癒着を描いた作品であるが、NGOとは言えどそこには働く人たちもいて、中には月収300万円とかえげつない報酬をもらっている役員もいるそうだが、そういうでたらめな団体には協力したくない、うちでは寄付する時にそのホームページをよく読んでなるべく透明性があって、目的がしっかりしている団体を選んでいる。

さらに寄付の額であるが、私は寄付は痛みを伴うものだと理解している、痛みを伴うと言うのは何もすべてを犠牲にするというおおげさなことではない、これをしたら何かを我慢しなくてはいけない、それがスターバックスコーヒーの数杯分でもいい、そういうちょっとした痛みともなうことが大事なことで、そういう痛みが集まるとそれはやがて社会を変革できる大きな力になると信じている。
日本は本当に島国だ、もっと見聞を広げたら日本は本当に豊かで自分たちがどれだけ恵まれているかということがわかるし、世界には助けを必要としている人たちがたくさんいる。そういう人たちの現状をもっと知ること、実際に遠い国だと思っていても、我々とは密接にかかわっている、そういう現実を知って痛みを共有することは今我々が置かれている立場において大事なことだと思う。




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ボクシングは暴力を扱うスポーツだ

2021-03-04 | Weblog
ハーレントは著書"Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil"でごく平凡な人間が邪悪な罪をおかしてしまう人間の愚かさに関して、無知は罪になりうると言っている。どんな平凡な人間であってもそのおかれた状況よっては悪を行ってしまう弱さと愚かさ、それがアイヒマンの裁判を通して見えてきたことであると思う。

だいぶ昔の話である。あるアスリートの女性が見学に来たのだが、やる気満々、試合に出てもいいと言うぐらいの気持ちがあふれいていた。正直ここはそういうところではないし、あまり暴走されても困るので一応雰囲気を伝えつつ、その話の流れで、男性が裸でトレーニングするのは女性がこわがるので禁止していると言うことを言ったのだが、それに対してそんなことどうだっていい私は全然問題ないと言っていた。態度から察するにいちいちそんなことを問題にするなということであろう、しかしそうではなくていかつい男性が裸でトレーニングすることに威圧感を感じたり、不快感を感じる人もいる、そういう立場を理解した上で裸でトレーニングを禁止している、ジムにはいろいろな人たちがトレーニングしているのだからその感覚を理解してほしいと言う意味で言ったと思う。管理者がバカだとあたりまえだがその集団の質がわるくなる、人がけがをするぐらいのけんかごしのスパーリング、私が競技したところではスパーリングで思い切りうちあうことがないのでけがをすることはあまりなかったが、日本の格闘技クラブは暴力的だ、生意気な人間をスパーリングで制裁したり、カーッと来て思い切りなぐり合ったり、実力差があるのに相手をボコボコにする、それらはスポーツの域をこえてもはやそれらはリンチとよべるが、話を聞くと実際にこういうことがまかり通っているようである。さらに指導者の暴言、尻をけったり、こついたりするのも暴力であるが、おそらくこういうことをやってはいけないことだとわかっていないのはある世代から上、横文字に疎い世代であると思っているが、この世代は横文字だけではなく人権に疎く、口が悪い人(我々のようなアイロニーではなく暴言)が多いのも特徴的である。
スポーツの集団は狭い世界だ、その管理者がアホだと広く物事を考えることができない、そこでのアホな小さな常識がそこでの常識になり世界となる。無駄なヒエラルキーがある日本の運動クラブのシステムは私にしてみれば陳腐な思想統一である。アーレントは無知は罪になりうる、さらに考えることで人間が強くなる。危機的状態にあっても、破滅に至らぬように考えぬけと言っているが、それがたとえスポーツクラブと言う競技目的の場所であっても暴力を容認したり人権を軽んじられるようなことがあってはいけない、スポーツと言う場はヒエラルキーがあって、考え方をひとつにしてまとまる場所ではない。性格や年齢、職業がことなった、さらにLGBTの人や外国人の人たちも含めて、そういう人たちがそこで認められて生き生きと楽しくそのスポーツをすることができる場、そういう場を私は提供したいと思っているが、そのためには多くのことを知って思考する能力が必要だと思っている。
そしてこういういろいろな人たちが集まる場において大事なことは威嚇したり、自分を大きく見せたり、人格者のふりをすることではない、えっそこまで考えてるのと、まわりが見えていない、小さいことかもしれないが大事なこと、常に弱者の立場に立って、そういうところを見て配慮することだと思っている。




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