脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

うちのジム

2021-10-28 | Weblog
うちのジムは格闘技でもユニークなジムだ。女性が半数いるし、女性のほうが実績がある。会員もおたくっぽい人やけんかはからっきしだめというのがほとんどで、ここにきたら本当に強くなるのかとさえ疑問さえ抱かせる場所である。しかしここにもそれなりのメリットはある。それはそれだけへたれが多いぶん、めちゃめちゃ強い選手やこわいDQNに気をつかわなくてもいい。へたれでも堂々と自由に練習できるのである。プロのジムで会員がプロに気を遣い、サンドバックをたたく時もプロや強い奴が優先とかありがちな話であるが、そりゃ競争の原理が働けば当たり前のことである。しかしここには小競り合いはあっても、競争の原理などないに等しい、だからへたでもへたれでも堂々と練習ができるのだ。実際そういう奴らに気をつかうことなく、まわりが親切に教えてくれるし、堂々とトレーニングできるので全体的にレベルが上がることは確かなことで、それは女性も同じことである。
私はここに来てくれる人たちにはボクシングをすることをひとつの楽しみにしてほしい、そしてそれを生きる活力としてほしいと思っている。うちのジムは究極の強さを求めるには物足りないジムかもしれない、けれどもここに来てトレーニングする人たちの顔はすごく楽しそうで、本当にそこは助け合い支えあうコミュニティだ。そういう面では私はどこよりもすぐれたボクシングクラブであると思っている。

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Aut viam inveniam aut faciam. 道を見つけるか、さもなければ道を作るであろう

2021-10-23 | Weblog
これはひとりごとでももしこのひとりごとが誰かに響いてくれたらいいと思って書く。それとこれはあくまで昔の話し、今の私はそういうはちゃめちゃな人間ではないと言うことを理解して読んでもらいたい。
ボクシング漫画と言えばあしたのジョーが有名だが、私はあしたのジョーは否定的に見てる、このブログのタイトルも脱あしたのジョーである。
がしかし自由人で一匹狼、反社会的なジョーがボクシングと言うキャンバスの中で謳歌できた気持ちはわからんでもない。ボクシングと言うスポーツは平等である。マイノリティであってもpovertyであっても孤独で人と強調できない人間であっても平等に自分のすべてをぶつけていける場所である。私は基本的に競技者はにとってのキャンバスは集団でなくてもいい、誰とつながっていようが関係ないひとりで存在できる場であると理解しているが、私がボクシングに魅了されたのはただそれだけのこと、キャンバスが平等でごちゃごちゃしたしがらみがないひとりで存在できる場所だったからだ。
自慢できることではないが私は協調性のなかった人間である。だから日本のボクシングの試合に出させてもらっていますと言うような雰囲気はまったくあわない。競技者も口では大きなことを言っていても首には大きな首輪がついている。私から見たらそういう風にしか見えないのだが、人をなぐり倒すスポーツに審判の印象など必要なのか?審判に印象をわるくしたらいけないと言うが、そこがまったくわからない。たぶんこういうところが協調性がないあまのじゃくな人間だとうけとられるのだろうが、こういう人間が思いっきり自由に競技できたのが外国のキャンバスである。そこはくだらないしきたりや暗黙のルールがあったりしない、協調性や仲間意識など求められることもないし、マイノリティや社会的にハンデをもったものもたくさん存在する。そういう人間たちが平等にそこでそれぞれの気持ちをぶつけあって勝つものが勝つと言う世界は我々のような人間にとって非常に充実した世界であったと思う。だからこそ引退して今、そういう中で自分の存在感を示し生きてきた人間が現実社会で生きていくことは非常にしんどいことである。ジョーのように真っ白な灰になればいいのだろうが、年をとるとそういう生き方はできない夏の時代から冬の時代に突入するそういう時代の中で寂しさを感じて生きていかなければならない。けれどもその冬の時代には冬の時代にしかないよさがある。そのよさは見方をかえて見なくては見えてこないよさであって、そのよさに気づく時また再び今までとは違った充実感を見出すことができると思う。
あしたのジョーはマンガの世界だ、頭の毛は真っ白になってもジョーのように真っ白な灰にはなれない、現実を受けとめて生きていかなくてはならないのだ。年をとれば肉体はおとろえよわくなる一方だ。その時そのよわさを認めて生きることが人間には求められるのだが、その弱さを認めることでまた違った自分のアドバンテージが見えてくる。

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パンチをおそれろ 

2021-10-18 | Weblog
基本的に人間は弱くて愚かである。ジムのコミュニティを管理していく上でもその考え方をベースにしているが、人間は基本的には弱い、その弱さを認めようとしない人間は未熟だと思っている。
フェイスブックでうちのクラブは思いきり打ち合うスパーリングは極力させないということを説明した。マスボクシングもルールがあって、カーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていく、実力差があるのにボコボコにすると言ったことはすべて暴力であるし、うちでは極力ケガにつながるような実戦練習はしていない。試合が近づくと出場する人たちが試合に向けた実戦練習をする程度で、基本的にはジムではけがをしないさせないというのはうちのモットーである。
パンチは危険だ、それは実戦経験を何度も何度も経験してきたからこそわかることだが、うちでは相手を倒すことよりもまず自分を守る、守るためにディフェンスをおぼえてほしいと思っている。相手を倒してやるとか、負けん気がどうとかそういう気持ちで勝つと言うような根性論ではなく、まずうたれないように冷静になってディフェンスを練習することが大事である。今はディフェンスの技術が我々の時に比べて格段とあがっているので、それをしっかりと身に着けることでけがをしないし、やはり上達するためにはディフェンスの技術は欠かせないものだと思っている。私自身も今振り返ってもう少しディフェンス力をあげていたらハワイ州どころかもっとレベルの高い大会でメダルをとれてたかもしれないと思うが、それは今ボクシングを引退したからこそわかることである。
パンチは怖がるなではなく、パンチは危険であぶない、そのことをよく理解することが大事なことである。私はディフェンスをおぼえさせる時はバックステップから教えるのだが、それはさがってよけると言う行為が本能的に恐怖感が少なく、そうやってパンチになれさせることで、他のディフェンスになれ、それをおぼえやすくするためである。
日本は漫画の影響が大きいのか、はたしてそこに集まる人間の質が悪いのか、実戦練習にしても、むかっていけとか、ビビるなと煽るような輩が多い。ボクシングは最初はボコボコにされて当たり前だと言う感覚なのか、中には俺らはもっとボコボコにされたとか意味不明な自慢をするような輩もいるが、そういう能書きをたれるよりも、まず教える側はパンチの危険性を十分に理解し、それを回避するためにディフェンスの重要性を教えることが大事なことであろう。




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Soli membra 会員が中心

2021-10-15 | Weblog
あいさつしろ、人の話を聞け、返事をしろとはよく運動系のクラブでは言われることだ。でも言葉にして並べたらすべて命令形、それらは主従関係で語られる言葉だ。これはよく目にする光景だが「おい何々」と言って人を呼びつける監督がいる。「はい」っと言って参上するが、これって非常に失礼だ。こういう光景を見たらあほか偉そうにと不快感をおぼえるが、その人の人格を尊重していないと思う。おいと人を呼びつけたり、手でクイクイと合図をしてこっちにこいと呼びつけるのは、場合によるのだろうが、犬や奴隷でもあるまいし、その人の人格を否定しているのと同じ、相手と同じ目線に立っていないから人をえらそうに呼びつけることができるのだ。最初にもあげたあいさつしろ、人の話を聞け、返事をしろとはよく言われることであるが、しかしこれらはすべて命令、こういう一方的な関係を強いられることで、自主性など育つはずはない。私は運動系の人間は基本的に人の顔色を見ると思っている。しかし一方自分よりも立場が弱かったり、利害関係のない人間にはすごく勇ましい態度をとるが、そういう彼ら彼女らの礼儀は形式的で思いやりやエチケットなどは感じられない。そういう中でうまれてくる礼儀や敬語もどきの言葉や行為は、上のものに服従をしめしたパフォーマンスだと感じているが、それはその集団が人格を尊重していない、競技以外で人を成長させることに無関心、その本質は主従関係にあるからだと思っている。

私はどんな子供でも用があるときはその人をこちらに呼びつけると言うことはしない。用があるときは、ほぼ私の方から彼、彼女のところに行って話しかけるようにしているが、それはひとつのエチケットのようなもので、子供であっても彼ら彼女らの人格を尊重しているからだ。よく自信をもてとか言うけれども人間が自信をもつためにはまず人格そのものが肯定されなければ自信なんか持てない。逆に言えば人格を肯定させて自信をもたせるためにはその人を生かす言葉や行為が大事なのだ。人間が成長するためには相手を認めることが大事だ。ほめてのばすとよく言うが、主従関係の中でしらじらしくほめるのではなくて、相手の人格そのものをリスペクトすること、そのことが本当に相手を認めてつきあうことだと私は思っている。人の人格を尊重するためには指導者もきちんとエチケットを考えて行動することだ。
おい何々と言って人をよびつけたり、おいそこと人をものあつかいするような行為は人格否定、これはあきらかにモラハラだ、これからはこういう主従関係をあらわすような行為をモラハラだと認定する必要もあるだろう。



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Omnes viae roman ducunt(すべての道はローマに通じる)

2021-10-14 | Weblog
私が見ておもしろかった映画に、テルエロマエと言う映画がある。テルエロマエはイタリア語ではない、ラテン語でローマの大衆浴場と言う意味でローマと日本の共通の風呂文化を題材にして書かれた物語で非常にコミカルで興味深い物語だ。おもしろいと思ったのはラテン語がそのままつかわれていたことだ。映画で漫画家を目指す女性がラテン語を徹夜で勉強して話せるようになったと言う設定であったが、しかしラテン語はそんなに甘くはない。ドイツ語なんかよりもさらに各支配などの法則が細部にわたってあるので、それだけでもおぼえるのはたいへん、したがって一日で徹夜したからと言って話せるようになると言うのはかなり強引であると思うのだが、それは一度でもラテン語の勉強をしたらわかることだろう。しかしところどころではあるがラテン語を使って当時の生活をそのまま表現したことは貴重である。おそらく作者はイタリア史に詳しい人物だと思う。そしてこの映画のラストで現在に戻ろうとする漫画家の女性が別れ際に「また会える」と言う、その時主人公が言った言葉が「Omnes viae roman ducunt(すべての道はローマに通じる)」であるが、非常に粋なセリフだ。この言葉はラテン語の中でも有名な言葉である。すべての道はローマに通じるというのは当時のローマ支配はヨーロッパをこえて、彼らはそこで内乱が起こった時いわゆる有事に備えて道路を設備したのだが、その道路があらゆるところ全世界に通じていたのでこの言葉が生まれた。
当時は帝国であったローマであったが、のちに分裂そしてローマ帝国は崩壊する。このローマの崩壊はローマ人のおごりとそして国民の堕落によると指摘する人たちもいるのだが、事実この時代のローマ人はパンとサーカスと言う言葉があるように娯楽に興じるばかりで、肝心な政治などは人任せであった、そういう隙がローマを崩壊にいたらせたらしい。そしてこの時代はコロッセウムと言う闘技場があって、その闘技場でプジョリストたちの戦いにかなり盛り上がったと言う記述が確かギボンの”The history of the dicline and fall of the roman empire(ローマ帝国衰亡史)”にあったと思う。ここ何年か前から格闘技がおおみそかに放映するテレビ局がでてきた。それはそれでいいのだろうが、しかし私は思いっきりしらけている。ローマ人もそうだったが当時はPax romana(ローマの平和)と言って平和でたいくつな時代が続いたので国民は刺激を求めて当時殺し合いだった格闘技に夢中になった。平和ボケになると刺激を求める、年末にこういう刺激を求める平和ボケした日本人はまさにそれであると思う。

Reference  "The history of the dicline and fall of the roman empire"

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MOBにおける共同体感覚

2021-10-06 | Weblog
よく親や学校の教師は子供に夢を持てとかやりたいことを見つけろとかしきりに言うが、しかしそういうことを言われても自分では何をしていいのかわからない、経験値も浅いし能力なんて知れている、そういう人間にやりたいことを見つけろとか、夢を持てとか言うのは少し無責任だ。

少し前中二ぐらいまであいさつしなかった大学生をネタにした。今ではジムでまわりのことを考えて行動できる立派な大学生になっている。私が君はまちがった方向に行くことなく、必要なことをやって、そして今こうして大学にまで進学して将来を見据えているから立派じゃないのかと言ったら、そう言ってくれるのは自分が正しい環境の中にいたからだ、ジムに集まってくる人たちは信用できる大人たちで、自分にいい影響を与えてくれたと言っていた。私はいつも言っていることだが共同体にどういう人間が集まっているかは重要な課題だ。そこで多くの尊敬できる人たちと出会って刺激を受ける、そういうことを経験することで自分はこうなりたいとか、こうありたいというビジョンが描ける。大学生がジムでインテリ系の人たちに混ざって話していた時に、普段聞けないような知的な話を聞いて、このままだったらだめだ、もっと多くのことを経験して、もっともっと言葉をおぼえて勉強しないといけないと思ったそうであるが、まわりの話や雰囲気に押されてこのままじゃあいかんと思うのも成長を促すひとつの刺激であると思う。管理者のレベルがひくいと当たり前だがそこに集まってくるのはそれと同じかそれ以下の人間だ。目立ちたがり屋で負けたくないとか、くだらないことにこだわって意地になるような輩。そういう人間たちは一般的にまともな経歴を語れないので、話すことと言えばやんちゃ自慢や競技自慢、ふたを開けたらたいしたこともないようなことを針小棒大に語ってアドバンテージをとろうとする。基本的にある特定のレベルの人間にしか通用しないような話しかできない人間は目立ちすぎると害になる、むしろ進学校レベルの人間が聞いてもバカだと思われたり、ひかれたりするような話はしない方がいいと思っているが、俺は強い、俺はお前らと違うと言うことを負け惜しみともいえるような方法で示してもみじめなだけ。格闘技はそういう人間を集めやすく、こういう輩が来ると雰囲気がわるくなる、さらにこういうレベルの輩はかたまるので警戒して、なるべくそういう人間を入会させないように注意している。

アドラーにおける共同体感覚は一言で言うと自己への執着(self interest)を、他者への関心(social interest)に切り替えていくことである。 格闘技には俺はすごい俺は強い認められたい承認要求の強い奴がいる。若いうちはまだましだが、中にはいい年をしたおっさんが俺は強い俺はすごいと自慢話、自慢話と言っても何々で論文を書いたとか、英検一級だとかならいいのだが、やんちゃ自慢や小さい競技自慢、なかには俺はこんなすごいことをやってきたんだと聞いてもないのにボクシングや格闘技の話をベラベラと語って、特別感を出そうとする。非常にみっともない。俺は、俺はと承認要求の強い輩が集まると共同体感覚は生まれない。私が求めている共同体はお互いを尊重し、刺激し合う群れである。誰が目立つか誰が強いか、そういうサル山のような群れはうちのクラブには必要ない。大事なのは自分自分ではなくて、他者を理解し、尊重する気持ちだ。他者を理解し尊重することは自分を成長させるためには必要なことである。最初の話にもどるが私はまず何がしたいかということを考えるよりもどういう人間になりたいかというところから考えていく、我々は多くの人から刺激や影響をうけている。そのため積極的に人に関心を持つことは大事なことだ、そういう意味ではうちのジムには多くのロールモデルになる人がいるので、その人たちからたくさんの刺激を受けてほしいと思っている。

参考文献「嫌われる勇気」岸見 一郎/古賀 史健 

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